満たされぬ口に 星は零れ
帰らぬ王に 夜は更ける
ゼルキオンが、両腕を下ろした。
裾の外へ留めていた黒い波が引いていく。砂原に残った溝からも飢えが戻り、あいつの胸へ集まった。俺は袖を重ねたまま、その様子を眺めていた。
胸の孔を囲む霊子が、細かく動いている。
力が生まれ、腕へ流れ、翼へ渡る。その先から再び外へ広がろうとしていた。さっきまでは、触れる前にこちらの力を喰われた。今は、その内側まで分かった。
「お前が動かしているのか。俺の放ったものを」
「『ええ。お返ししようかとも思いんしたが、お腹を壊されても困りんすから』」
「俺が壊すのは、腹の外にあるものだ」
ゼルキオンの翼が開いた。
足元の砂が消えた。あいつの姿が正面からなくなり、背後へ回る。俺は顔を向けず、袖の下で指を一本伸ばした。
首へ迫った拳が止まった。
白い指の関節が、髪のすぐ後ろにある。その腕を包む黒い飢えも、そこから動かなかった。ゼルキオンが肩を押し出す。拳を進めようとする力が、腕の内側へ重なっていった。
俺は髪を肩の前へ寄せた。
「『お髪に触れるのでしたら、もう少し優しゅうお願いいたしんす』」
肘の内側へ、細い切れ目を入れた。
皮膚が開き、血が流れる。拳へ力を伝えていた筋が切れ、あいつの腕が僅かに下がった。俺はそのまま指を曲げ、留めていた霊子を放した。
ゼルキオンが退いた。
俺の左を回り、今度は低いところから蹴りを放つ。踵が裾へ届く前に止まった。踏み込んだ脚も、捻った腰も、その位置へ留める。
ゼルキオンが俺の顔を見た。
肩越しではなかった。白銀の袖のすぐ傍に、あいつの目がある。俺は顔を少し傾け、視線を合わせた。
「速さも、関係ないか」
「『よう見えておりんすよ。遠くにおいででも、こうしてお近くにおいででも』」
足首へ、切れ目が走った。
ゼルキオンが膝を引いた。脚を自由にすると、そのまま後ろへ跳ぶ。俺の前にあった顔が離れ、幾つも離れた岩山の上へ移った。
袖を払うほどの風も、ここへは来なかった。
俺は、爺さんとの手合わせを思い出していた。斬られた腕を戻し、胸を貫いた刀を折った話も覚えている。あの頃は、何が起きているのか知るために、同じ石を幾度も眠らせた。
今は、ゼルキオンの腕にある霊子を選べる。
切り離せば、腕が落ちる。繋げば、戻る。掌に集まる力も、胸から流れる霊力も、ひと続きに分かった。どこを変えれば何が起きるのか、指を動かすように知ることができた。
ゼルキオンが右腕を持ち上げた。
肘から血が落ちた。指はまだ開く。俺が切ったところを庇いながら、胸の孔へ左手を添えた。
黒いものが、掌の間へ集まっていく。
「その力を、いつから持っていた」
「『つい先ほどでござりんす。お前さんに散々打たれたお陰で、ようやく辿り着きんした』」
「ならば、俺もまだ変われるかもしれんな」
あいつは笑っていた。
更なる解放の名はなかった。胸に集めた飢えを、両腕へ流している。翼の先から放っていたものまで引き戻し、自分の身体の周りへ重ねていった。
黒い輪郭が、厚くなる。
右の肘から落ちていた血が見えなくなった。白い両腕も、胸も、顔まで飢えに覆われる。欠けた翼の縁から黒が溢れ、その向こうの岩が喰われた。
俺は袖の内で、両手を重ね直した。
「『まだ、お召し物を重ねるおつもりで?』」
「お前が俺の力を動かすなら、その力ごと喰う。俺の身体へ触れようとするものも、残さずにな」
「『それでは、お顔まで隠れてしまいんすな。折角、楽しそうに笑っておいででしたのに』」
黒い影が、こちらへ向いた。
岩山が崩れる。そこを蹴ったゼルキオンが、一直線に来た。飢えを纏った翼が後ろへ流れ、腕を振り上げる。その拳の前で、大気を構成する霊子が次々に失われていた。
俺は右の袖を、静かに開いた。
あいつの胸元を包む黒が割れた。
中央へ細い隙間を作る。その左右から飢えが押し寄せたが、俺が選んだ霊子は動かなかった。胸を覆うものが開き、孔の縁が見えた。
そこへ、指先を向けた。
ゼルキオンの右肩から、左脇腹までが裂けた。
血が噴いた。振り上げていた腕が落ち、身体が俺の脇を通り抜ける。翼を広げて止まろうとしたが、その片方にも切れ目が走った。大きな黒い翼の先が、砂原へ落ちた。
俺は袖を戻した。
ゼルキオンが、背後へ降りた。
片膝をついている。胸から流れた血が腹を伝い、足元の砂を濡らした。あいつは傷へ掌を当て、指についた血を見た。
「……斬ったのか」
「『ええ。今度は、よう届きんした』」
ゼルキオンが立ち上がった。
右腕は僅かに下がっていた。胸へ当てた左手を離すと、その下からまた血が流れる。傷は戻らない。あいつは残った翼を開き、俺の正面へ回った。
その時も、俺は動かなかった。
袖の前へ揃えた指を下ろす。血がついていないことを確かめ、白銀の着物へ重ねた。遠くへ落ちた翼の先は、黒い光を散らしながら砂へ沈んでいた。
ゼルキオンは、そこを見なかった。
「俺が初めに喰ったものを、覚えていると思うか」
俺はあいつの顔を見た。
黒いものが薄れ、目と口元が現れている。血に濡れた唇が動いた。
「『覚えておいでなのでござりんすか』」
「何も覚えていない。腹が減っていた。それだけだ。何を喰ったか、誰だったか、もう分からん」
胸の孔へ、黒いものが戻った。
あいつは腹の前へ掌を向けた。飢えが、その上で小さく丸まっていく。俺は手を動かさず、話の続きを聞いた。
「喰えば、少しは収まった。強いものを喰えば、長くもった。だから、もっと強いものを探した。やがて、探す方が難しくなった」
「『それで、こんなところに独りでおいでに?』」
「俺の傍へ来るものが減った。来ても逃げた。逃げずに残ったものは、喰った。そうしているうちに、また何もいなくなった」
掌の上の黒が、縮んだ。
大きさは拳ほどだった。だが、その内側へ幾重もの力が重なっている。俺の放った火や雷を呑もうとしていた時よりも、更に多くを詰め込んでいた。
「仮面を剥いでも、飢えは残った。力を解き放っても同じだった。強くなれば、前より多く必要になった」
「『それでも、強うなられた』」
「他に何ができる。喰わずに待てば、満たされるとでも思うか」
俺は、その孔を見た。
虚圏を巡る間、幾つもの虚を斬ってきた。群れを襲うものも、仲間を喰らうものもいた。倒した相手を取り込み、身体を変えていく姿も見た。
ゼルキオンは、その先を誰より長く歩いてきたのだろう。
今、目の前にある力には、俺が知らない時間が積み重なっている。それを掌へ収めたまま、あいつは俺を見ていた。
「お前なら、俺の飢えも動かせるのか」
俺は胸の内へ意識を向けた。
ゆめも、その問いを聞いていた。相手の身体へ繋がる霊子を辿れば、胸の孔も、そこから生まれる力も分かる。その働きを止めることはできる。
けれど、あいつが何を望んでいたのかは、聞かなければ分からなかった。
「『止めることは、できんすよ。お前さんは、それをお望みで?』」
「止められた俺に、何が残る」
ゼルキオンが、掌を持ち上げた。
黒い球を胸の前へ置く。その向こうで、口元が緩んだ。
「最後まで喰わせろ。今のお前を前にして、腹を空かせたまま引き下がる気にはなれん」
俺は、少しだけ目を伏せた。
ゆめと共に辿り着いたところで、初めて向き合う相手だった。ここまで打たれ、焼かれ、骨を折られたことも覚えている。あいつは今も、俺を喰うつもりで立っていた。
袖の端へ、指を添えた。
「『ようござりんす。お出しなんし。今宵の分は、残さず拝見いたしましょう』」
ゼルキオンが、両掌を開いた。
黒い球が膨らんだ。
胸の孔から力が流れ込み、残った翼からも漆黒が集まる。足元の砂が消え、岩の欠片が吸い込まれた。あいつの両腕が震え、開いていた胸の傷から血が噴いた。
それでも、掌は下がらなかった。
黒が、俺の正面を埋めた。
空へ伸び、左右へ広がり、砂原を呑みながら迫ってくる。その向こうにいるゼルキオンの身体からも、力が注がれていた。残していたものを、すべてここへ出している。
俺は右の袖を持ち上げた。
白銀の指を、一本だけ伸ばす。
黒い波の中央へ、星の光がともった。
小さな点だった。それが幾つも並び、奥へ続く。俺は飢えを構成する霊子を一つずつ選び、互いを結んでいた力を外していった。
黒が、細かな光へ変わった。
先端がほどけ、その後ろも崩れる。砂原を喰っていた縁が白銀へ染まり、波の内側に幾千もの光が浮かんだ。ゼルキオンから注がれる力も、その中へ入ったところから同じようにほどけていく。
あいつの顔が見えた。
目が開いていた。腕はまだこちらへ向いている。俺はその掌の中へ続く黒を、最後まで辿った。
白銀の光が、ゼルキオンの指の間から零れた。
掌にあった黒がなくなる。胸から流れていた飢えも、そこで止まった。あいつが力を込め直すより早く、俺は伸ばした指を静かに下ろした。
胸の傷が、深く開いた。
肩から脇腹へ走っていた切れ目が、その奥まで届く。ゼルキオンの上体が揺れ、両腕が落ちた。残った翼も力を失い、砂の上へ重く垂れた。
俺は、指を袖へ収めた。
白銀の光が、二人の間を昇っていた。さっきまで砂原を呑んでいたものが、星空の下へ静かに散っていく。ゼルキオンはその一つを目で追い、それから俺を見た。
「……喰えなかったな」
口から血が零れた。
膝が折れる。砂へ両膝をついた身体を、あいつは左手で支えた。右手は持ち上がらなかった。開いた胸の下へ、血が溜まっていく。
俺はその場に佇んだまま、袖を重ねた。
「『ええ。今宵ばかりは、お腹を空かせたままでござりんすな』」
ゼルキオンが、笑った。
もう、黒い波は来なかった。