喰らいし命に 夜は満ち
閉じゆく瞳に 星は宿る
ゼルキオンの左手が、砂へ沈んでいた。
身体を支えるたびに指が埋まり、その上へ血が落ちる。胸から脇腹へ開いた傷は深かった。呼吸に合わせて背が上下しているが、垂れた翼にはもう力が通っていない。
俺は袖を重ねたまま、あいつを見ていた。胸の孔から生まれる飢えは残っている。けれど、腕へ送るだけの力が続かず、孔の縁で薄く揺れるばかりだった。
「……そんなところに、星があったか」
ゼルキオンが顔を上げた。
俺へ向けていた目が、その頭上へ移っている。欠けた角の間から夜空を見上げ、しばらく口を開かなかった。白銀の光が最後の幾つかを残して昇り、その向こうで星が瞬いていた。
「『お前さんが塗り潰す前にも、出ておりんしたよ。随分と賑やかにしてくださんしたから、ご覧になる暇もなかったのでござりんしょう』」
「そうだったな。お前の刀と、俺の腕が届くところばかり見ていた」
声が掠れていた。それでも、俺まで届く大きさで話している。ゼルキオンは左腕へ力を込め、少しだけ上体を起こした。
「お前が出したのか。この空も」
「『ええ。わっちらの夜でありんす』」
「この世界の果てまでか」
俺は遠くへ意識を向けた。
崩れた尾根の向こうにも、砂に埋もれた林の上にも、同じ夜が広がっていた。地下で身を縮めている虚もいる。漆黒に追われて逃げ続けたものが足を止め、暗がりから空を窺っているのも分かった。
その遥か上に、星がある。
「『果てまで、でござりんすな。お前さんも、好きなところをご覧なんし』」
ゼルキオンは首を動かした。俺の背後から、左右へ続く砂原まで目を向ける。長い溝も、抉れた岩場も、星明かりの下へ露わになっていた。
「俺が壊したところも、よく見える」
「『よう暴れてくださんしたもの。わっちも随分、転がされんした』」
「途中までは、喰えると思っていた。お前が立ち上がった時にも、まだな」
胸が動き、口元へ血が溢れた。ゼルキオンは顔を伏せて吐き、それからまた俺を見た。その目には、まだ俺を捉えようとする強さがあった。
「お前は、その力で何をする」
俺は袖の内で指を開いた。
何をするか。ゆめと共に、この先も生きたいと願ったばかりだった。その先へ持っていけるものが、今は身体の内にも、目の前の世界にもある。
「『まずは、帰りんす』」
「どこへ」
「『顔を見せたいお方がおりんす。長う留守にしんしたから、叱られるかもしれんせんけど』」
「お前を叱るのか。その姿を見ても」
「『見たら、なおのことでござりんしょうな。刀はどうした、何をしてきたと、聞きたいことが増えるばかりでありんす』」
先生の顔が浮かんだ。
俺が女の姿で帰ったら、まず何と言うだろう。爺さんなら、茶を飲みながら眺めてくるかもしれない。どちらにしても、説明は長くなる。その話をするために、俺は生きて帰らなければならなかった。
ゼルキオンが、僅かに笑った。
「帰って、それからは」
「『また、歩きんすよ。現世にも、こちらにも、見ておらぬところがまだありんす。途中で湯でも見つければ、長居するかもしれんせんな』」
「この力を手にして、また歩くのか。欲しいものがあるなら、呼び寄せればいいだろう」
「『山の向こうを見に行くのに、山をこちらへ寄せては、歩くところがなくなってしまいんす』」
あいつは俺の足元を見た。一歩も動かなかった裾の先から、砂原へ目を移す。そのまま、遠くに残っている岩山を眺めた。
「俺は、喰えるものしか探していなかったな」
左手の指が、砂を掴んだ。
「山の向こうに何かいれば、そこへ行った。いなければ、別の方へ向かった。海も、森も、腹の足しにならなければ通り過ぎた。……いつからか、覚えている場所も減った」
俺は、その声を聞いていた。
俺にも、名前の分からない土地が幾つもある。道へ迷ったところも、腹を空かせたまま抜けた山もあった。それでも思い出す時には、あの頃の景色が浮かぶ。雪の積もった縁側には、爺さんが座っている。
ゼルキオンの目は、砂原の向こうへ向いたままだった。
「お前には、待っているものがいるのか」
「『お待ちかどうかは、帰ってみんと分かりんせん。勝手に出てきんしたから。けれど、会いたいとは思っておりんすよ』」
「そうか。お前から会いに行くのか」
あいつは息を吐いた。
左肘が曲がり、身体が傾く。俺は砂を寄せ、膝の下へ浅い支えを作った。崩れかけた上体がそこで留まると、ゼルキオンは足元へ目を落とした。
「まだ座らせておくつもりか」
「『お話の途中で、砂へお顔を埋められても困りんす』」
「長くは話せんぞ」
「『ええ。聞いておりんす』」
胸の内で、力が細くなっていた。
傷を負ったところを越えて、霊力を巡らせられない。左腕も限界に近かった。あいつはそれを知った上で、顔を上げている。
「お前の名を、もう一度聞かせろ」
俺は目を合わせた。
「『烏有玄十郎。それから、ゆめでありんす』」
ゼルキオンの視線が、俺の顔へ留まった。口元を見てから、白銀の髪へ目を向ける。
「二人で、そこにいるのか」
「『ええ。ようやく、同じところへ来られんした』」
「ならば、どちらにも届いたな。俺の腕も、この声も」
「『届きんしたよ。もう、忘れようもござりんせん』」
折れた肘も、焼けた肩も、今は跡さえない。けれど、あいつに打ち倒されたところから、俺たちはここへ来た。刀を握ったまま願ったことも、重なったゆめの手も覚えている。
ゼルキオンが口を開いた。
「ゼルキオン・アーヴェルだ。……そちらも、忘れるな」
俺は頷いた。
あいつはそれを見届け、左手から力を抜いた。砂の支えへ身体を預け、翼を引き寄せようとしたが、片方は僅かに動いただけだった。残った先が砂を擦り、血に濡れた背へ寄る。
「お前の刀は、触れたものを眠らせていたな」
「『ええ』」
「今もできるのか。その刀がなくても」
俺は袖から右手を出した。
白銀の指が、星の下へ現れた。あいつの胸へ流れる力も、傷口から零れる血も分かる。眠らせるために、近づく必要はなかった。
「『お望みならば』」
ゼルキオンは、その手を見た。
「眠ったことはある。喰った後に、何度かな。だが、目を開けばまた腹が減っていた。どれだけ長く眠っても、それだけは変わらなかった」
胸の孔に、黒が浮いた。
薄い縁が揺れ、すぐに内側へ戻る。ゼルキオンはそこへ目を落とさなかった。俺の指を見たまま、口を動かした。
「今度は、起こすな」
俺の内で、ゆめがその声を受けた。
共に返事をしようとして、同じ唇が開く。目の前にいる男へ、俺たちの声が重なった。
「『ええ。今宵のお床に、目覚めはござりんせん』」
右手を持ち上げた。
ゼルキオンは逃げなかった。砂へ預けた身体を動かさず、その顔だけを上へ向ける。角の間に星明かりが落ち、血のついた頬を照らした。
俺はまず、胸の孔から続く飢えを眠らせた。
黒い縁が止まった。外へ広がろうとしていた力も、何かを取り込もうとする働きも、そこで静かになる。ゼルキオンの目が僅かに開いた。
「……腹が」
言いかけた口が、閉じた。
あいつは自分の胸を見ようとした。首を下げる途中で止まり、ゆっくりと目を閉じる。もう一度開いた時には、俺へ視線を戻していた。
「こういうものだったか。何も、喰わなくていいのは」
俺は手を上げたまま、頷いた。
ゼルキオンは、しばらく黙っていた。腕を伸ばすことも、翼を開くこともしなかった。砂へ落ちた右手の指が、少しずつ緩んでいく。
「もっと早く、会いたかったな」
その声に、笑いが混じっていた。
「『早う会うていたら、わっちらが喰われておりんしたよ』」
「そうだろうな。……今で、よかったか」
あいつは空を見た。
満天の星が、その目へ映った。長い間何かを探し続けていた視線が、そこで留まっている。俺はその先を遮らぬよう、袖を静かに下げた。
「『おやすみなんし、ゼルキオン』」
指先を下ろした。
あいつの身体を構成する霊子へ、永遠の眠りが届いた。
砂へ置かれた右手が消え、垂れていた翼もなくなる。胸の傷から流れていた血は途中で途切れた。ゼルキオンは顔を上げたまま、最後まで夜空を見ていた。
口元が、僅かに緩んだ。
角の先が消え、その下にあった顔も、星明かりの中から失われた。支えていた砂が崩れ、あいつのいたところへ静かに落ちる。
俺は右手を袖へ戻した。
誰もいない砂原に、血が残っていた。遠くへ落ちた翼の先も眠らせると、そこにあった黒が消える。胸の孔から生まれ続けていた飢えは、もうどこにもなかった。
風が、溝の底を抜けていった。
俺はゆめと共に、その音を聞いていた。あいつが見ていた方へ顔を上げる。虚圏の果てまで広げた夜空には、今も星が瞬いている。
ゼルキオン・アーヴェル。
その名を、胸の内で呼んだ。
返る声はなく、白い砂が、あいつのつけた膝の跡へ流れ込んだ。