帰りし袖に 旅は残り
変わりし世に 鐘は響く
52.古巣の遠鐘
湯を飲むと、身体の奥まで温まった。
虚圏で寒さに困ったわけではない。それでも、椀を両手で包んでいると、もう少しこうしていたくなる。厳十斎は棚から芋を出し、俺の膝の前へ置いた。
「話しながらで構わん。先に火へ入れておけ。腹が減ったと言うたのは、お前じゃろう」
「覚えてるよ。爺さんの分まで焦がしたら、帰ってきて早々追い出されそうだ」
「焦げた方をお前が食えばよい」
芋を灰の中へ埋め、薪の位置を直した。火が大きくなりすぎないところへ落ち着けてから、俺は椀を置いた。
厳十斎が向かいへ座る。俺がここに住んでいた頃と同じ場所だった。火の向こうに膝があり、袖から出した手を温めている。
「それで。何に喰われかけた」
「ゼルキオン・アーヴェルって奴だよ。虚圏にいた。仮面を自分で剥いで、刀まで持ってた」
「虚が刀をか。珍しいものに会うたの」
「珍しいどころじゃなかった。あいつより大きな霊圧は、今まで感じたことがない。爺さんと斬り合った時も、先生とやった時も含めてな」
厳十斎の手が止まった。
火へ向けていた顔が、こちらを向く。俺の腰に傷がないことなど、家へ入る前から分かっていただろう。それでも、話を聞く目が少し変わった。
「それほどか」
「ああ。解放しただけで、周りにいた虚が消えていった。俺も、あいつがもう一度姿を変えるまでは、何とか戦えてたんだけどな。そこから先は、ひどいもんだったよ」
腹へ拳を入れられたこと。黒棺さえ形にならなかったこと。ゆめに叶えてもらった夢が、次々に使えなくなったこと。
話しているうちに、あの黒い空が浮かんだ。身体の外へ繋いでいた霊子の流れも断たれ、刀を握る手だけが残っていた。
「腕も折られた。傷を戻す力まで使えなくなって、最後には立てなかったよ。あんなに打たれたのは、何百年ぶりだろうな」
「そこで、まだ刀を持っておったか」
「持ってた。ゆめが手を添えてくれてたからな。離したら、あいつの手まで離してしまう気がした」
俺は傍へ置いた刀を見た。
鞘に収まっている。柄へ触れなくても、ゆめが聞いていることは分かった。厳十斎も刀へ目を向け、それから俺の顔へ戻した。
「お前が探しておった先へ、その時に届いたのか」
「ああ。ようやくな。身体を鍛えて、霊子を巡らせて、もう上がらないところまで来ても、それだけじゃ届かなかった。最後は、ゆめと一緒になったんだ」
言ってから、少し笑った。
ここを出る時には、卍解の先があると信じていただけだった。どうすれば辿り着くのかも、自分に何が足りないのかも、分からないことばかりだった。
七百年経って、ようやく爺さんへ答えを持って帰れた。
「刀がなくなってさ。声まで二人分になった。ゆめの見ているものが分かって、俺が何かしようと思えば、もうあいつも同じことを考えてる。……説明すると、妙な話になるな」
「今は、こうして刀へ戻っておるのじゃろう。別れても、そいつはお前の傍におる」
「ああ。前より、ずっと近くに感じるよ」
厳十斎が頷いた。
驚いてはいたが、疑っている様子はなかった。俺は火へ目を戻し、灰から覗いている芋の端を少し押し込んだ。
「爺さんは、どんな姿になったか聞かないのか」
「話したい顔をしておるから、放っておけば話すじゃろう」
「……そういうところ、変わらないな」
「お前もな。帰ってきたばかりで、よう喋る」
笑いながら、髪も服も白銀になったことを話した。金の柄は残り、刀を握っていた身体は、ゆめと重なって女の姿になった。
厳十斎はそこで、俺の顔をもう一度見た。
「そちらの姿で帰ってこなんだのは、儂が追い返すと思うたか」
「最初に誰だって聞かれたら、そこから説明しないといけないだろ。こっちの方が話は早いよ」
「声を聞けば分かりそうなものじゃが」
「その声も変わるんだって。ゆめの喋り方になるしな」
刀の方から、笑う気配がした。
『お前様は、ようお話しになっておいででありんしたよ。あのお方のお髪を傷めるおつもりも、ござりんせんでしたし』
「俺の髪だろ。あいつが後ろから殴ってくるから、先に寄せただけだよ」
厳十斎が眉を上げた。
「儂には聞こえん相手と、何を揉めておる」
「姿の話だよ。爺さんに見せるなら、家の外へ出てからにする。この中で解放したら、ここら一帯更地になってしまうよ」
「それは困る。寝るところが無くなるわ」
俺は芋を灰から出した。
皮を押すと、内側が柔らかく沈む。熱いところを持ち替えて二つに割り、大きい方を厳十斎へ渡した。爺さんは両手で受け取り、しばらく湯気を眺めていた。
「そいつは、どうなった」
「ゼルキオンか。最後まで俺を喰うつもりだったよ。持っていた力を全部出して、それでも届かなかった」
あいつの笑った顔を思い出した。
膝をついても、俺を見ていた。飢えを止めることはできると答えた時には、まだそれを望まなかった。
「最後には、眠らせてくれって言った。今度は起こすなって」
「そうか」
厳十斎が芋の皮を剥いた。
俺も一口食べた。舌へ熱さが残る。飲み込んでから、あいつが何も喰わなくていいと知った時のことを話した。
「ずっと腹が減ってたらしい。強くなれば、もっと喰わないといけなくなった。あそこまで強くなっても、それだけは変わらなかったんだってさ」
「長く生きた奴じゃったのか」
「多分、俺なんかより遥かにな。初めに何を喰ったかも、もう覚えてなかった。ただ、腹が減ってたことだけは覚えてたよ」
厳十斎は、すぐには何も言わなかった。
芋を食べ、椀の中へ湯を足した。それから俺の椀にも注ぎ、火の傍へ戻した。
「よく、帰ってきたの」
俺は椀へ手を伸ばした。
「ああ。途中で、帰れないかもしれないと思ったよ」
「ならば、今日は腹を満たして寝ろ。残りは明日でも聞ける。七百年分を、一晩で済ませようとせんでよい」
「芋を食べたら、余計に腹が減ってきたんだけど」
「棚にまだある。儂の分も、もう一つ焼いておけ」
俺は立ち上がり、棚へ向かった。
背後で薪が鳴った。ゆめも、今度は何も言わなかった。
*
三日、家に泊まった。
畑へ出て、伸びた草を抜いた。水場へ降りる道の枝を払い、薪も割った。夜には現世で見た海や、凍りついた大地の話をした。厳十斎は、白い砂ばかりの虚圏より、魚のいる海に興味があるらしかった。
俺の話を聞き終えるたびに、そんな場所へ住めば魚が食えるのかと聞く。死神の身体では現世の人間と飯を食うのにも苦労したと答えると、爺さんは露骨に残念そうな顔をした。
四日目の朝、俺は刀を腰へ差した。
「もう行くか。今度は、どこへ足を向ける」
「先生のところだよ。爺さんだけに帰った報告をして、あっちへ行かないわけにもいかないだろ」
「お前が出て行った時のまま、待っておるとは限らんぞ」
「分かってる。ここの道もなくなってたしな。元字塾の場所が変わってたら、人に聞いて探すよ」
厳十斎が戸口まで出てきた。
畑には朝の光が当たっていた。俺が抜き残した草を見つけたらしく、爺さんの目がそちらへ向いた。
「次は、あまり長う待たせるな。戻ってくるたびに道を探しておっては、途中で芋が冷める」
「今度は、もう少し早く来るよ。先生にも、山で世話になった人がいるって話しておく」
「儂は、この山から動く気はないぞ」
「連れていく話じゃないよ。爺さんまで来たら、先生と俺の昔の話を始めそうだしな」
厳十斎が笑った。
俺は草履を直し、坂へ足を向けた。前に住んでいた頃より木は増えている。それでも、来た時に一度通った道なら迷わずに下りられた。
畑が見えなくなるところで、振り返った。
厳十斎はもう鍬を持っていた。俺が見ていることに気づくと、片手を上げ、それから土へ向き直った。
俺も手を上げた。
*
麓には、知らない道があった。
川沿いへ人が通り、草が踏み倒されている。その先へ木の橋が架かっていた。以前は浅いところを選んで渡っていたはずだが、今は荷を背負った者が、足を濡らさず向こう岸へ渡っていく。
橋を越えると、家が見えた。
数軒ではない。道の両側へ屋根が続き、その間で人が物を並べていた。籠へ入った野菜、古い草履、布の切れ端。店先の男が客を呼び、隣では二人の女が値を言い合っている。
「こんなところに、町ができてたのか」
山へ入った頃には、家を探してもなかなか見つからなかった。見つけたところで、旅人へ戸を開ける者は少ない。夜までに寝る場所を決め、食うものを買えなければ、そのまま次の土地へ歩いていた。
今は俺の傍を、子供が走っていった。
手に握った紐の先で、木の車が跳ねている。道端の男に叱られると、子供は車を抱え、家の間へ逃げ込んだ。
『随分と賑やかでありんすな。お前様が初めてこの山へおいでになった頃には、このような道もござりんせんでした』
「ああ。爺さんの家にいると、七百年も経った気がしなかったんだけどな」
川の向こうにも、新しい屋根があった。
全部が穏やかな町とは限らない。道の端へ座った男は、通る者の懐を見ていた。俺の刀へ目を向けた時には、すぐに顔を逸らした。
それでも、人がここへ集まり、暮らしている。
俺は布を売る店の前へ立った。店番の男が顔を上げ、こちらの腰を見てから、広げていた布を寄せた。
「何をお探しで」
「道を聞きたいんだ。
「この道を行けば、大きな街道へ出ます。そこからは人も多いから、聞きながら行けるでしょうよ。ただ、刀を持っておいでなら、向こうで呼び止められるかもしれません」
男が道の先へ目を向けた。
黒い着物を着た二人が歩いてきた。どちらも腰に刀を差している。店先へ出ていた荷を避けながら進み、片方が橋の方を確かめていた。
「……あの人たちにか」
「ええ。護廷十三隊の方です。こっちの道まで回るようになったのは、最近ですがね」
男はそう言って、布を広げ直した。
俺は、その名を胸の内で繰り返した。
護廷十三隊。
黒い着物の二人が近づいてくる。刀を持つ俺を見つけると、店から少し離れたところで足を止めた。
「そこの男。どこから来た」
「上の山から。知り合いの家へ寄ってたんだ。これから瀞霊廷へ行こうと思って、道を聞いてた」
「何の用で向かう。門まで行けば通されるという場所でもないぞ」
「昔、世話になった人に会いたくてな。まだあそこにいるなら、なんだけど」
相手は俺の顔を見た。
もう一人が少し横へ回る。刀へ手を掛けてはいなかったが、俺が抜けば、すぐに動ける立ち位置だった。
俺は腰から手を離したまま、二人を見た。
「さっき、店の人に聞いたんだけど。あんたたち、護廷十三隊なんだって?」
「そうだ。それがどうした」
「長いこと、ここを離れてたからな。できたことも知らなかったよ」
相手の眉が寄った。
俺は二人の着物と、その腰にある刀を見た。先生の下にいた頃にも、刀を差した者は幾らでもいた。けれど、こうして同じ名を背負い、町の道を見回ってはいなかった。
俺が山を歩き、海を渡り、白い砂の上で夜を連れていた間に、先生は何をしていたのだろう。
「会いたいという相手の名は」
「山本重國。今も、そう名乗ってると思うんだけど」
二人の顔が変わった。
横へ回っていた男が、俺の正面にいる男を見た。そいつは俺から目を離さず、声を落とした。
「……総隊長に、何の用だ」
俺は思わず笑った。
先生が、総隊長。
前世で知っていた肩書が、ようやく今のあの人へ繋がった。もっと先のことだと思っていた。帰ってから聞けばいいと考えながら、いつの間にか、その時代まで歩いてきていた。
「帰ったって、伝えたいんだ。長く留守にしてた弟子がな」
川の向こうで、鐘が鳴った。
俺はその音を聞きながら、瀞霊廷へ続く道へ目を向けた。