帰りし影に 旧火は燃え
届きし夢に 深き戸は開く
「俺の名前も伝えてくれ。烏有玄十郎。それなら、先生も分かると思う」
二人は顔を見合わせた。正面にいた男がもう一度俺の名を確かめ、街道の方へ走っていく。残った一人は、俺から少し離れたところに立った。
抜こうとすれば間に合う距離だった。俺は店先を塞がないように脇へ寄り、荷車が通るのを待った。布を売っていた男は、こちらを見ないふりをしながら、同じ布を三度も畳み直している。
「待ってる間、座っててもいいか。山から歩いてきたばっかりなんだ」
「……そこなら構わん。刀は抜くな」
「抜かないよ。先生に会いに来て、手前で騒ぎを起こしたら、会った途端に叱られる」
道端の石へ腰を下ろした。男は立ったままだったが、俺が膝へ手を置くと、刀の柄から少し指を離した。
『帰ってきたばかりで、お叱りを受けるおつもりでありんすか』
「できれば、飯を食わせてもらう方がいいな」
「何だ」
「いや。こっちの話」
男の目が、また俺へ戻った。
俺は口を閉じた。先生に会う前に、話の通じない弟子だと思われるのも困る。
川を渡る風が、店先の布を揺らしていた。帰ってきた男が道の向こうに見えるまで、俺はその端が捲れるのを眺めていた。
「総隊長がお会いになる。ついてこい」
立ち上がりながら、俺は男の顔を見た。来た時より、随分と姿勢がよかった。
「先生、何か言ってた?」
「……遅い、と仰っていた」
「そりゃ、そうだろうな」
俺は草履についた土を払い、二人の後へ続いた。
*
廊下の先から、先生の声が聞こえた。
「残った者は」
「二名です。頭目を追っておりますが、戻った者に傷があり、後詰めを求めております」
「送れ。追っておる二人には、逃すなと伝えよ。刀を振れる腕が残っておるうちに仕留めさせい」
俺を案内してきた男が、戸の前で足を止めた。中の者が出てくるまで脇へ控え、それから俺の到着を告げる。
返事を待つ間に、開いた戸の向こうが見えた。
先生が座っていた。袖のない白い羽織から、太い腕が出ている。腰には刀があり、額には古い傷があった。顔へ刻まれた皺は増えていたが、こちらへ向いた目は覚えている。
その傍に、もう一人いた。
坊主頭の、大きな男だった。黒い髭が胸の辺りまで下り、膝へ置いた掌も大きい。俺を見ると、髭の上で口元が緩んだ。
どこかで、見たことがあるような顔だった。
あれほど大きな男に会っていれば、覚えていそうなものだ。けれど、旅の途中で会った誰を思い返しても、この顔には繋がらない。俺がその髭を見ていると、先生が口を開いた。
「いつまで戸口に立っておる。帰ったのなら、入れ」
「ただいま、先生。元字塾を探すつもりだったんだけど、随分と立派なところにいるんだな」
中へ入り、腰の刀を外して座った。案内してきた男が一礼し、戸を閉める。
先生は俺の顔から肩へ、肩から膝へと目を移した。旅の汚れは爺さんのところで落としてきたが、着物まで新しくしたわけではない。裾には繕った跡が残っていた。
「生きて戻ったか」
「ああ。長くなったけどな。先生も、相変わらず元気そうでよかった」
「儂が死んでおるとでも思うたか」
「思ってないよ。ただ、帰ってみたら町も道も変わっててさ。先生まで、知らないところへ移ってたら困ると思ったんだ」
先生の目が、俺の傍に置いた刀へ向いた。
昔なら、帰った挨拶が済む頃には庭へ出されていた。今日は客がいる。俺は黒い髭の男へ向き直り、頭を下げた。
「話の途中だったなら、後で出直すよ。帰ったことだけ、先に伝えておきたかったんだ」
「いやいや。わしも、おんしを待っておったんじゃ。ちょうどよいところへ帰ってきた」
男が笑った。声が大きく、閉めたばかりの戸まで響きそうだった。
「わしは、
まなこ和尚。
その呼び名に、古い覚えがあった。前世で読んでいた漫画の、随分と後の方に出てきた男だった気がする。顔を見ても思い出せなかったのに、名前を聞くと、紙の上にあった黒い髭がぼんやり浮かんだ。
ただ、何を話し、どんな力を使っていたのかまでは出てこない。先生の下で暮らした百年の方が、今はよほど細かく思い出せた。
「烏有玄十郎です。……待ってたって、俺を?」
「そうじゃ。虚圏で、随分と派手にやったようじゃのう。あれほどの騒ぎを起こした者が帰ってくるというのに、知らぬ顔もできまい」
俺は先生を見た。
先生は驚いていなかった。俺がここへ来る前に、和尚から聞いていたのだろう。畳へ置いていた手を膝へ戻すと、和尚が俺の刀へ目を向けた。
「黒い霊圧が広がった後に、白い霊圧が立ち上がった。虚圏の空に、見慣れぬ星まで現れた。おんしが帰ってきたと聞いて、まずは話を聞かせてもらおうと思うてな」
「それなら、俺だよ。黒い方は、戦ってた相手のものだけど」
ゼルキオンの名を告げた。
仮面を自分で剥いだ虚で、刀を持っていたことも話す。先生の眉が僅かに動いた。和尚は髭を撫でながら聞いていたが、相手がもう一度姿を変えたところで、手を止めた。
「二度、力を解き放ったか」
「ああ。初めの解放までは戦えてた。けど、その次は何も通らなかったよ。火も雷も、斬ったところへ届く前に喰われた。身体の外から取り込んでた霊子まで使えなくなって、ひどく打たれた」
先生が俺の左腕を見た。
折られたところに跡はない。俺は袖を少し寄せ、肘を曲げて見せた。
「ここも折られた。刀を握ってた右手だけは、どうにか残ったけどな」
「傷を戻す力も持っておったはずじゃ」
「それも使えなくなった。ゆめに叶えてもらった八つの夢が、全部止められたんだ」
あの時の痛みを、まだ覚えていた。立とうとして左腕をつき、折れた肘へ身体の重さが掛かった。次に何を願えばいいのか分からないまま、刀だけは離さなかった。
俺は鞘へ目を落とした。
「最後の一つで、ゆめと一緒になった。俺が探してた先へ届いたのは、その時だよ」
先生の指が、膝の上で止まった。
和尚も、口を挟まなかった。俺は二人へ顔を上げ、先生の目を見た。
「卍解の先へ、辿り着いた」
口にしてから、息を吐いた。
この人の下を離れる時、いつか答えを持って帰ろうと思った。現世の山を歩いていた時も、虚圏で何十年も座り続けていた時も、先生へ話すところを考えたことがある。
ようやく、本人へ言えた。
「……そうか」
先生は俺の刀を見ていた。俺も、その視線の先へ手を伸ばした。柄へ触れると、ゆめが静かに寄り添う気配があった。
「刀がなくなるんだ。身体も、声も変わる。俺とゆめが別々に見てたものが、一緒に分かるようになる。その世界にある霊子なら、遠くのものでも、自分の指みたいに動かせる」
「敵の身体もか」
「ああ。あいつが力を集めるところも、腕を動かすところも分かった。最後には、あれだけ喰われてた力を、こちらで動かせたよ」
先生が立ち上がった。
俺は途中まで伸ばしていた手を止め、その顔を見上げた。白い羽織の裾が畳を離れ、腰の刀が僅かに揺れた。
「刀を持て」
「……今から?」
「お前は、見せに戻ったのじゃろう。話だけ聞いて、よくやったとでも言うてほしいか」
思わず笑った。
帰ってきたばかりだというのに、この人はもう俺を斬るつもりでいる。けれど、膝へ置かれた手も、刀へ向いた目も、話をしていた間とは変わっていた。
「見せたいよ。先生には、最初にそう言ってもらいたかったくらいだ」
刀を取り、腰へ差した。
立ち上がろうとしたところで、和尚が大きな掌を向けた。
「待て待て。重國、おんしはどこでやるつもりじゃ」
「庭では狭い。外へ出る」
「外ならよいという話でもあるまい。虚圏の空を変えた力を、ここで解き放たせるつもりか。おんしの火まで加われば、帰ってきた弟子に、焼けた町を見せることになるぞ」
先生は和尚へ顔を向けた。
俺は半分上げた腰を、そのまま畳へ戻した。和尚は笑っていたが、先生が戸へ足を向けるまで、掌を下ろさなかった。
「わしも、その先とやらを見てみたい。じゃが、場所は選ばんとな」
「では、どこへ連れていく」
「無間じゃ。そこまで下りよう。わしもついていく」
無間という名にも、聞き覚えがあった。
地の底にある、暗い場所だった気がする。誰がいたのか、そこで何が起きたのかを思い出す前に、先生が戸の方へ声を掛けた。
「長次郎」
廊下から返事があった。
戸が開き、一人の男が入ってくる。俺へ目を向けた時、その足が僅かに止まった。こちらを見てから先生へ一礼し、戸の傍へ控えた。
「無間へ下りる。お前も来い」
「承知いたしました。こちらの方も、ご一緒に?」
「儂の弟子じゃ。長く留守にしておったが、ようやく帰ってきた」
長次郎が、俺へ向き直った。
その顔を見ているうちに、元字塾にいた頃の覚えが浮かんだ。先生の傍へ来ていた男だ。あの頃も、先生が刀を持って動けば、その後にいた。
「
「烏有玄十郎。覚えてるよ。先生のところにいた頃、何度か会っただろ。俺は随分と、騒がしくしてたと思うけど」
「ええ。お二人が庭へ出られる時は、先に人を遠ざけておりました」
俺は先生を見た。
「そんなことまでしてもらってたのか。俺は、いつも庭が空いてて助かると思ってたよ」
「お前は儂を見ておればよかった。長次郎、支度をせい」
長次郎が一礼し、廊下へ出ていった。
和尚も立ち上がった。座っていた時から大きな男だったが、同じ高さへ顔を上げると、黒い髭の向こうにある首まで太い。
その掌が、俺の肩へ置かれた。
「さて。おんしがどんな道を歩いてきたか、わしにも見せてもらおうか」
「先生と斬り合うのを、見てるだけでいいのか?」
「まずはな。帰った弟子に刀を向けたくて仕方のない男を、あまり待たせても悪かろう」
先生は返事をしなかった。
戸口に立ち、俺が来るのを待っている。俺は肩から離れた和尚の手を見送り、腰の刀を直した。
『お前様。お帰りの挨拶で、ここまでなさるおつもりでありんしたか』
「飯を食ってからだと思ってたんだけどな。先にこっちになった」
『でしたら、ようお務めなんし。先生様も、お待ちでありんす』
俺は先生の傍へ歩いた。
近づくと、昔と同じ霊圧が分かった。収められていても、その奥にある熱は消えていない。俺が刀を抜けば、すぐにこちらへ向く。
「先生。手合わせでも、手は抜かないよ」
「抜けると思うておるなら、試してみい」
先生の口元が上がった。
俺も笑い、廊下へ足を出した。
帰ってきた報告に、刀を交えることになる。長く留守にした分まで斬られそうだったが、今日は俺からも見せられるものがあった。
階段へ続く廊下の先で、長次郎が待っていた。
俺たち四人の足音が、下へ向かって重なった。