閉ざせし淵に 旧火は目覚め
帰りし刃に 千歳は宿る
扉が開いても、向こうには何も見えなかった。
長次郎が脇へ退き、先生が先に入っていく。白い羽織の背が暗がりへ沈み、その輪郭を追っているうちに、足元の床まで見えなくなった。俺は戸口を跨ぎ、草履の下に硬い感触があることを確かめた。
顔を上げても、天井がない。左右へ目を向けても、壁は見えなかった。近くにいる先生と、後から入ってきた二人の姿だけが、暗いところに浮かんでいる。
「ここが、
振り返ると、長次郎が扉を閉めていた。
細く残っていた光がなくなる。どちらから来たのかは覚えているが、そこに扉があると目で確かめることはできなかった。
「随分と広いんだな。先生が庭へ出る代わりに、毎回ここへ来てたら、塾の修繕も減ったんじゃないか」
「そのたびに、お前をここまで連れてくるつもりはない。長次郎、離れておれ」
長次郎が一礼し、後ろへ下がった。
和尚もその隣へ歩いていく。二人の気配が遠ざかってから、先生が俺へ向き直った。白い羽織の下で、刀を握る手が見えた。
「ここなら、あの先に家があるかと気にせずに済む。ただ、わしらまで巻き込まんようにな」
和尚が、笑いながら手を振った。
俺は刀を抜き、鞘を腰へ残した。切っ先を少し下げると、先生も抜いた刃を身体の脇へ置く。
昔は、その構えを見るだけで肩へ力が入った。どこから来るのか分からず、先に動けば追いつかれ、待てば頭の上から刀が落ちてきた。
今は、先生の足が見える。刀を握った指と、前へ出した肩も分かった。
「先生。俺がここを出る時より、強くなってるだろ」
「お前が戻るまで、座って待っておったと思うか」
「思わないよ。できれば、少しくらい休んでてほしかったけどな」
息を吐き、足を開いた。
収めていた霊圧を放つ。着物の裾が後ろへ流れ、括っていた髪が肩を叩いた。向こうで長次郎が片足を引き、和尚がその前へ掌を出した。
先生の羽織も、揺れていた。
こちらを見る目が細くなる。その身体から噴き上がった霊圧が、俺のものへぶつかった。腹の底まで熱くなる。刀を握る手へ力を込めると、先生が口元を上げた。
「ようやく、帰ってきた顔になったの」
その目が、俺の首へ向いた。
俺も先生の胸を見た。斬られるところを想像してから、左足へ重さを掛ける。先生の刀が動いた時には、俺も前へ踏み出していた。
頭上へ落ちてきた刃を、斜めに受けた。
火花が散った。刀を滑らせて右へ流し、空いた胸へ切っ先を向ける。先生は柄を引いて俺の突きを外し、その手を離さずに肘を出した。
顎へ届く前に、左手で押さえた。
先生の足が俺の膝へ入ってくる。踏んでいた足を引き、身体を半分回した。肘を放すと同時に刀を返し、先生の脇腹へ振るう。
刃が合った。
押し返してきた力を受けながら、俺は前へ出た。先生の草履が床を擦る。その身体が下がった分だけ詰め、肩へ向けて次を振った。
先生が身を沈めた。
刀が肩の上を通る。下から突き上げられた切っ先を、柄を下げて弾いた。そのまま左足を踏み込み、先生の胸元へ肩を寄せる。
白い羽織が目の前から消えた。
俺は振り返らず、左へ瞬歩を踏んだ。さっきまで首のあったところを刃が抜ける。移った先で足を止め、先生の背へ刀を向けた。
先生は、もうこちらを見ていた。
俺の刃を受け、横へ払う。手首が外へ流されたところへ、次の斬撃が来た。右足を退いて胸の前を空け、刀を引き戻す。
着物の襟が切れた。
胸へは届いていない。俺は先生の刀を下から打ち上げ、踏み直した足で床を蹴った。
刃が、先生の左肩へ届いた。
羽織の端が裂けた。先生が半身になり、俺の右手首へ柄を打ちつける。指を開かずに受け、俺は刀を引いた。
二人の間へ、白い布が落ちた。
先生は裂けたところを見なかった。俺の胸元へ目を向け、それから刀を持ち直した。
「避けた先で、ようやく儂を見る癖は直ったか」
「あれだけ斬られたからな。先生が後ろへ回ったら、先に逃げることにしてる」
「逃げる先まで覚えておったはずじゃが」
「そこまで同じにしてたら、帰ってきた意味がないだろ」
先生が笑った。
俺も刀を上げた。先生の右足が動く。こちらへ向いた切っ先に合わせて刀を置いたが、刃が触れる前に、その姿が消えた。
今度は右だった。
俺は身体を向け、肩へ迫った刀を受けた。先生の左手が柄から離れる。その掌を避けるために頭を引くと、下から膝が上がってきた。
左腕で受けた。
骨へ響く重さがあった。腕を押されながら刀を横へ滑らせ、先生の右手へ刃を返す。指を狙われた先生が柄を引いたところへ、俺は足を入れた。
先生の身体が、僅かに浮いた。
その胸へ左の掌を当てた。
「破道の三十一⸺
赤い火が、掌から噴いた。
先生が横へ抜けた。火が肩の脇を通り、その向こうの暗がりを照らす。俺は撃った腕を下ろさず、先生の足元へ向けた。
「縛道の六十一⸺
六枚の光が、先生の腰へ突き立った。
その身体が止まる。俺は瞬歩で間を詰め、肩から腰へ刀を振り下ろした。
光が砕けた。
先生の刀が、俺の刃を受けた。割れた光の欠片が二人の間へ散る。その向こうから左の拳が来た。
顔を傾けた。
頬を掠めた拳の手首を掴み、外へ引く。先生は腕を戻さず、そのまま前へ踏み込んだ。俺の刀を押さえていた刃が離れ、首へ返ってくる。
掴んだ腕を放した。
刀を胸の前へ戻し、斬撃を受ける。足が後ろへ滑った。そこへ先生が詰めてきたが、俺は右へ抜け、今度はその腰へ切っ先を向けた。
先生が刀を下げた。
俺の突きが、刃の腹へ当たる。弾かれた切っ先を戻す前に、先生の足が俺の腹へ迫った。左手で膝を押し、跳んで退く。
着地した時には、先生も足を止めていた。
俺は頬へ触れた。指へ血がついている。向こうの先生も、右手の甲に細い傷があった。
「その身体で戻った訳は、分かった」
先生が刀を立てた。
「儂の六杖光牢では、お前を止められんか」
「先生に教えてもらった術だよ。使う方も、抜ける方も、何度もやったからな」
「ならば、次はもう少し長く止めてみせい。斬る前に抜けられておっては、術を掛けた甲斐がない」
俺は血のついた指を払った。
懐かしい言い方だった。昔は言われたことを直すだけで精いっぱいだったが、今はその続きを聞きながら、次にどこを斬るか考えられる。
先生が、刃を横へ向けた。
霊圧が増した。足元から押し寄せ、俺の着物を前から煽る。その刀の縁が赤くなった時、俺もゆめの名を呼ぶために息を吸った。
〈万象一切灰燼と為せ⸺
炎が立ち上がった。
先生の姿が朱に照らされた。刀から噴いた火が肩を越え、その背後まで広がっていく。熱い風が顔へ当たり、切れた頬が痛んだ。
俺は刀を顔の前へ置いた。
〈現を離れ、夢路を辿れ。待つ夜に果てはなし、
霊圧が、火の照らすところまで広がった。
髪を括っていた紐が解けた。黒い髪が背へ落ち、その中で金、白、赤の房が揺れる。肩へ掛かっていた着物が黒地の袖へ変わり、白い襟の下から朱の裏地が覗いた。
刃が反った。
銀の刃文を確かめ、朱の柄を握り直す。欠けた輪の鍔が指の前にあり、その先から下がった紐が、熱い風へ流れていた。
先生は、俺の姿を上から下まで見た。
「その刀を見るのも、久しいの」
「俺は、随分と長く使ってたよ。先生にも、前より上手くなったところを見せたいな」
「見せてみい。眺めて待ってはやらんぞ」
先生が刀を振った。
炎が、正面を埋めた。
俺は切っ先を向け、迫る火の先端へ触れた。朱の舌が刃の傍で止まる。その奥へ続く炎も眠り、伸びきる前の形を残した。
刀を返した。
正面にあった火が消えた。
開いたところを、先生の刃が通った。俺は刀を合わせ、胸へ届く前に止める。今消した火の後ろで、新しい炎が噴き上がった。
頬へ熱が迫った。
俺は先生の刀を外へ流し、その脇を抜けた。背後へ回る間に、黒い袖の端が焦げる。右肩へ刀を振るうと、先生は顔を向ける前に刃を合わせた。
炎が、二人の間へ入った。
俺は刀を滑らせて火へ触れ、返す刃で消した。そのまま先生の左腕へ向ける。白い羽織の袖口を刃が掠めたところで、先生が退いた。
追おうとした足元から、火が立った。
膝を引き、空中へ抜ける。下から来た炎へ刀を振り、眠らせてから払い消した。火の消えた向こうに、先生がいた。
俺の胸へ、切っ先を向けている。
「縛道の八十一⸺
透明な壁を立てた。
先生の刃が、壁へ入った。亀裂が広がり、火がその内側を走る。俺は壁を残して上へ移り、先生の頭上から刀を振った。
黒い髪のすぐ上で、刃が合った。
先生が俺を見上げていた。その口元が、また上がる。
「火を消したところへ、儂がおる。よう覚えておったな」
「忘れられるわけないだろ。火がなくなって安心してたら、何度もその刀を貰ったんだから」
押し合っていた刀を引いた。
先生の斬撃が追ってくる。それを右へ流し、俺は左手を開いた。黒い霧が掌から広がり、先生の腕と、その外へ噴いていた炎を包んだ。
「
炎の動きが止まった。
先生は足を止めなかった。俺へ向けていた腕を引き、霧の外へ身体を抜く。俺はその刀へ触れようと刃を伸ばしたが、先生の左手が俺の手首へ届いた。
掴まれた。
腕を捻られる前に肩を寄せ、先生の胸へ左手を当てる。先生は俺の手首を放し、横へ退いた。掌から噴いた赤火砲が、その羽織の裾を焼いた。
俺は刀を返した。
霧に残っていた炎が消える。先生は燃えた裾を払いもせず、次の火を刃へ集めていた。
切れ目なく来る。
眠らせたところは消せる。けれど、先生が刀を振るたびに、新しい炎が生まれていた。火の向こうから刃が来て、刃を受けたところへ拳が入る。俺が退けば、その先へ火が回った。
昔は、逃げるばかりだった。
俺は先生へ向けて踏み込んだ。
刀へ迫る炎を眠らせ、返す刃で消す。その間に伸びてきた先生の切っ先を、柄の近くで受けた。左手で刀の峰を押さえ、刃を下へ流す。
先生の胸が、空いた。
俺は刀を引き、切っ先を上げた。
白い羽織へ、細い切れ目が入った。
先生が身を捻る。胸へ届く前に刃が抜け、その脇から拳が来た。俺は左手で受け、足を踏み直した。
先生の右手へ目を向ける。
振り上げられた刀を待たず、俺は肩へ刃を向けた。先生がその斬撃を受けたところで、身体を低くして左へ抜ける。
向こうの羽織が揺れた。
俺の刃が、その背を浅く斬った。
すぐに退いた。先生の刀が後ろへ振られ、炎が俺のいたところを薙ぐ。床へ足を戻し、袖を寄せると、黒地に朱の光が映った。
先生は、しばらく刀を下ろしていた。
その背から、血が一筋落ちた。浅い傷だ。身体を動かす邪魔にはならない。それでも、俺が昔届かなかったところへ、今日は刃が入った。
長次郎が一歩動いた。
先生が左手を上げた。長次郎はその場へ留まり、刀へ掛けようとしていた手を下ろした。
「重國。帰った弟子に、随分とよい挨拶を貰うたのう」
和尚の声がした。
先生は俺を見ていた。俺も刀を下ろさず、その顔を見た。
「先生。まだ、続けるだろ」
「当たり前じゃ」
刀を握る指が、締まった。
炎が、先生の周囲へ戻っていく。大きく広げていた火が刃へ寄り、その縁を濃い朱へ染めた。白い羽織の下から、また霊圧が噴き上がる。
「帰るのが遅うなった分は、確かに持ち帰ったようじゃな。じゃが、お前が見せたいものは、まだ腰の刀に残っておる」
俺は柄へ目を落とした。
ゆめが、そこで笑っていた。先生の炎は目の前にあり、こちらへ向けられた殺気も消えていない。
「ここまでやって、話の続きで済ませるつもりはないよ」
「ならば、出せい。昔のお前の卍解なら、儂も知っておる」
先生が刀を上げた。
「長く留守にした分、そちらも変わったのであろう。儂に見せてみい」
俺は黒い袖を寄せ、刃を立てた。
先生の炎が照らす無間で、ゆめの手が、俺の手へ重なった。