燃え尽きぬ火に 夜は降り
明けぬ夢に 星は
宿る
柄へ重なった手を、握り直した。
先生は刀を上げたまま待っていた。刃へ寄せた炎が揺れ、その向こうにある顔を赤く照らしている。俺は黒い袖を寄せ、ゆめと共に息を吸った。
〈現は一夜、夢は九重。醒めて帰るな、果てて帰れ〉
刃の縁から、黒が零れた。
「卍解⸺
霊圧が噴き上がった。
先生の炎が、遠くへ押し退けられる。床を這っていた火も俺の足元から消え、黒い裾が静かに下りた。髪の中にある金、白、赤の房が肩の前へ流れる。その間を、星の光が照らした。
頭上に、夜空があった。
壁も天井も見えなかった暗がりへ、幾千もの星が現れている。細い光の帯が遠くまで続き、その下で先生の炎だけが朱に燃えていた。
長次郎が、顔を上げた。
和尚も上を見ていた。笑っていた口が僅かに開き、それから俺へ目を戻す。
「……閉じた無間に、これほどの夜を連れてくるか」
先生は、頭上を一度だけ見た。
すぐに刀へ目を戻し、刃の傍へ炎を集め直す。その肩へ掛かった羽織が後ろへ流れた。俺の霊圧を正面から受けても、先生は足を引かなかった。
「随分と大きな夜になったの。昔は、儂を見ながら次に何を願うか考えておったが」
「今も考えてるよ。ただ、先生に追い立てられる前に、少しくらいは決められるようになった」
「ならば、その分だけ早う出せるな」
先生の刃が、横へ動いた。
炎が広がる。頭より高く噴き上がった火が左右から回り込み、俺の立つところへ押し寄せた。切っ先を下げたまま、その先端を眺める。
俺へ届く前に、炎が消えた。
右から来たものも、足元へ回ったものも同じだった。燃えていた朱が途中で途切れ、その内側には何も残らない。熱い風だけが髪へ触れ、それもすぐに止んだ。
先生が刀を振り直した。
今度は狭く、長い火だった。俺の胸へ向けて放たれ、さっき消えたところまで伸びてくる。そこを越えた分からなくなり、後から続いた炎も同じところで消えていった。
「刀を返すまでもないか」
「ああ。ここへ入ってきたものは、そのまま眠る。先生の火でも、鬼道でもな」
「儂まで近づけば、消えるということか」
「先生は眠らせてないよ。長次郎も、和尚も。そこまでやったら、帰った報告どころじゃなくなるだろ」
先生の目が細くなった。
「そうか。ならば、儂が行けばよい」
炎の向こうから、その姿が消えた。
俺は刀を立て、左へ身体を向けた。首へ迫った刃を受ける。火花が散り、先生の刀から噴いた炎が二人の間で消えた。
刀も、腕も残っていた。
俺が眠りから外していることを、先生はもう確かめていた。刃を押しつけながら左手を伸ばし、俺の襟を掴もうとする。肩を引いて避け、空いた脇腹へ膝を向けた。
先生が身を捻った。
膝が羽織を掠める。その下から拳が来た。俺は左手で受け、握った手首を外へ引いた。先生の胸元が近づき、合わせていた刀の根元が軋む。
昔なら、押し切られていた。
今は先生の足が床を擦った。俺はその腕を放し、刀を押し返す。離れた身体へ切っ先を向けたが、先生は横へ抜けていた。
背後へ振った刃を、振り返りながら受けた。
先生の顔が近い。額の傷も、こちらの喉へ向けられた目も見える。俺は刃を滑らせ、先生の刀を肩の外へ流した。
左の袖が、裂けた。
拳を避けるために引いた腕へ、返ってきた切っ先が届いていた。浅く血が流れる。俺は先生の肩へ刀を振り、退いたところへ追いついた。
白い羽織が、星の下を走った。
俺も瞬歩を踏む。炎の出る先を避ける必要はなかった。真っ直ぐ間を詰め、胸へ向けて刃を振った。
先生が受けた。
腕が沈み、草履が後ろへ滑る。俺はそのまま踏み込み、次を肩へ向けた。先生の刀が上がる前に、白い布へ細い傷が入った。
血が滲んだ。
先生は退きながら、俺の顔を見ていた。
「力も、よう育ててきた」
「身体を作り直すつもりで鍛えたからな。もう少し褒めてくれてもいいんだよ」
「褒めておる間に、儂の首まで取りに来るつもりであろう」
「先生が先に、俺の首を狙ってたんだろ」
先生が笑った。
刃の傍へ、また炎が生まれた。さっきよりも濃い。広げずに刀へ留め、俺の胸へ切っ先を向けている。
ゆめの指が、柄へ添えられた。
『今宵は、何をお望みでござりんすか』
「まずは、あの人に届く刀が欲しいな。離れたところにいても、俺が振った刃で斬れるように」
先生が、こちらへ踏み込んだ。
俺は刀を横へ振った。
『一夜。隔てる夜路に、刃を渡しましょう』
先生の羽織が裂けた。
まだ、刀の届く間ではなかった。胸の前へ長い切れ目が走り、その下から血が滲む。先生は足を止めず、俺へ向けて刀を振り下ろした。
頭上で受けた。
刃が合い、両腕へ重さが掛かる。俺は右へ抜けながら刀を引き、その脇腹へ返した。先生が刃を下げて防ぐ。
その背後に、切れ目が走った。
床が裂け、遠くの暗がりまで細い溝が伸びていった。先生は横へ退き、胸の傷へ目を落とす。それから俺の刀と、振り抜いた先を見た。
「伸びた刃を持たぬまま、斬撃だけを届かせるか」
「昔は、届くところまで走るので精いっぱいだったからな。今度は先生の方が、避ける先を考えてくれよ」
「よう言う」
先生が床を蹴った。
右へ移った姿へ刀を振る。先生は身を沈め、刃の通る下を抜けた。遠くで床が裂ける音がした時には、もう俺の足元まで来ていた。
膝へ、切っ先が迫る。
足を引き、刀の腹で弾いた。先生は低いところから刃を上げてくる。俺も刀を返し、顎へ届く前に受けた。
先生の左手が、俺の柄へ掛かった。
下へ引かれる。右手で握り直し、その腕へ左の掌を当てた。押し退けるより早く、先生の額が迫った。
頭を横へ逃がした。
頬へ額が掠め、先生の肩が胸へぶつかった。身体が後ろへ押される。俺は足を置き直し、肩の上から刀を振った。
先生が離れた。
振った先へ続く刃が、その足元を斬る。床が割れ、蹴り上げられた欠片が俺へ飛んできた。黒い袖の手前で、それも眠りについた。
欠片の消えた向こうへ、先生の刃が入った。
俺は刀を合わせた。
眠らせるものと、残しているもの。その両方を使い、先生は間を詰めてくる。火を消したからといって、この人が刀を下ろすはずもなかった。
俺は受けた刃を押し返し、左へ踏み込んだ。
先生の右腕へ刀を返す。避けた肩を追うように刃を上げ、その先へ伸びた斬撃で、羽織の背を裂いた。
先生が、少し遠くへ退いた。
背から新しい血が落ちた。俺も頬を拭う。指の先へ赤いものがついたが、先生から目は離さなかった。
「ゆめ。もう一つ頼む」
『ええ。お聞かせなんし』
「この夜空から、好きなところへ雷を落としたい。あの人が走るより早く、俺が狙ったところへ」
星の間が、白く光った。
『二夜。星を結ぶ糸に、天の鳴る音を』
先生の頭上へ、雷が落ちた。
白い光が床を叩く。先生は右へ抜けていた。その足を置く先へ、次を落とす。雷が二本、三本と続き、先生の羽織を照らした。
刀が、光を払った。
雷の一本が裂け、左右へ散る。その間を先生が抜けてきた。俺は正面へ刀を振り、同時にその肩へ雷を落とした。
先生が刃を上げた。
斬撃を受け、身を捻る。肩のすぐ傍を白い光が抜け、羽織の端が焼けた。俺は雷を次へ繋ぎ、先生が刀を戻すところへ踏み込んだ。
刃が合った。
先生の足元へ雷を落とす。床が弾け、その身体が浮いた。俺は刀を押し上げ、空いた腹へ切っ先を向けた。
先生が、左手で刀の峰を押した。
突きが脇を抜けた。その手を引く間に、雷が左腕へ走る。先生の指が僅かに開き、焼けた皮膚から血が流れた。
俺は刀を返した。
先生が退く。その胸を浅く斬り、次の雷を頭上へ置いた。
先生の霊圧が、噴き上がった。
雷が弾かれた。俺は顔を上げ、散った白い光の向こうにある星を見る。次を落とそうとしたところで、先生が刀を床へ向けた。
火が、広がった。
足元から四方へ伸び、遠くまで朱の線を走らせる。俺の傍へ来た分は消えたが、その外側で炎が高く立ち上がった。
長次郎の前へ、和尚が出ていた。
広がる火を見ながら、こちらへ顔を向ける。
「重國。その辺りにしておかんか。帰ったばかりの弟子に、今の自分も見せとうなったか」
先生は、俺を見ていた。
刀を握る右手へ、左手が添えられる。その腕には血があり、胸の着物も切れていた。けれど、呼吸は少しも乱れていない。
「こやつが何を持ち帰ったか、まだ見終えておらん」
「見せるつもりだよ。先生も、まだ出してないものがあるだろ」
俺は刀を持ち直した。
昔の先生の卍解を思い出す。あの刀を前にした時は、願いを口にする間さえ惜しかった。今はゆめの手を感じながら、先生が次に何をするのか待てる。
それでも、指へ力が入った。
先生が刀を上げた。
「九つの夢があるのであったな。まだ二つしか使うておらんのに、儂がここで止めては、残りを持て余すであろう」
「無理に使い切らせようとしなくてもいいんだけどな。帰ってから、ゆっくり考える分くらい残してくれよ」
「そのようなものは、儂を倒してから考えい」
周囲へ広げていた炎が、揺れた。
一斉に、先生の刀へ戻っていく。高く立っていた火も、床を走った朱の線も消え、焼けた羽織を星明かりが照らした。
先生の顔から、笑みが消えた。
俺は左手も柄へ添えた。ゆめの指が、その上へ重なる。頭上に置いた雷を留め、夜の奥から押し寄せる霊圧を受けた。
刀へ集まった火が、小さくなっていた。
なくなったわけではない。
切っ先へ寄せられたものを感じ、俺は足を開いた。頬を伝っていた血が乾き、喉の奥まで熱くなる。
先生は、俺の首を見ていた。
「今度は、儂の番じゃな」
星の下で、焼けた刃が持ち上がった。