灰となる世に 星は残り
燃え尽きぬ刃に 夢は寄る
「卍解⸺
先生の刀から、炎が消えた。
焼け焦げた刃が、星の下へ残っている。さっきまで朱に照らされていた顔も、羽織も暗くなった。それでも、頬へ当たる熱は増していた。
俺は刀を握り直した。
先生が、一歩踏み出した。
頭上へ雷を落とす。同時に胸へ刀を振った。白い光が先生へ届く前に弾け、こちらへ向いた焼けた刃が、俺の斬撃を打ち払った。
床が、爆ぜた。
先生の足元から、巨大な炎が立ち上がる。俺へ迫った分は眠りについたが、その向こうにあった床は跡形もなく焼けていた。欠片さえ飛んでこない。朱に染まった空間を、先生が真っ直ぐ抜けてきた。
刃を合わせた。
重い。
両腕を押され、足が後ろへ滑った。先生は刀を離さず、そのまま前へ出る。刀身に封じられた火が、合わせた刃のすぐ傍で膨れた。
俺は横へ抜けた。
振り下ろされた残火の太刀が、足のあったところへ入る。床が大きく抉れ、その奥から炎が噴き上がった。黒い袖の手前で消えても、先生の刀は止まらない。
左肩へ返ってきた刃を、下から受けた。
押し上げられなかった。
先生の切っ先が袖を裂き、肩へ入った。熱が走る。俺は歯を食いしばり、先生の胸へ左手を向けた。
「破道の九十⸺
黒い壁が、先生を囲んだ。
その内側が赤くなった。立ち上がる途中の壁を焼けた刃が割り、爆炎が噴き出す。棺が砕けた向こうで、先生は既に刀を振り上げていた。
俺は瞬歩で退いた。
胸の前を、切っ先が抜ける。襟が焼け、肌へ細い傷が入った。更に下がって刀を立てると、先生も足を止めた。
「儂の火を消せば、そのまま斬り込めると思うたか」
「そこまで楽をさせてくれるとは思ってないよ。ただ、もう少し上手くやれるつもりだった」
「ならば、やってみせい。その刀を出しておる間、儂は待ってやらんぞ」
先生が、こちらへ向き直った。
左肩から血が流れていた。胸の傷にも熱が残っている。俺は刀を下ろさず、柄へ重なる手を感じた。
「ゆめ。受けた傷を、元へ戻してくれ」
『三夜。焼けたお肌に、夜露を添えて』
肩の傷が閉じた。
胸へ残っていた痛みもなくなり、刀を握る腕へ力が戻る。先生はその様子を見ながら歩いてきた。俺が治りきるまで待つつもりは、やはりないらしかった。
俺は左手を向けた。
「次は、重さだ。先生の身体へ、俺が望むだけ掛けられるように」
『四夜。強いお方ほど、深う沈んでいただきましょう』
先生の足が、床へ沈んだ。
踏み込もうとした膝が曲がる。肩へ、腕へ、更に重さを掛けた。先生は刀を持ち上げたまま俺を見ていたが、その足元には幾つもの亀裂が走った。
俺は胸へ刀を振った。
先生の霊圧が、噴き上がる。
沈んでいた足が床を砕き、その身体が横へ抜けた。斬撃が羽織の端を裂く。先生は刀を下げ、俺の膝へ向けて踏み込んできた。
重さは、まだ掛かっていた。
それを背負ったまま、先生は来た。
俺は切っ先を下げて受けた。焼けた刃に押され、刀が膝へ近づく。先生の左手が俺の襟を掴んだ。
引かれた身体へ、額が迫る。
「ゆめ。俺が望んだところへ、すぐに移れるように」
『五夜。遠い夜道も、お前様には一跨ぎ』
先生の手から、襟が抜けた。
背後へ移った俺は、その肩へ刀を振った。先生が顔を向ける前に、刃が返ってくる。受けずに右へ移り、今度は脇腹を狙った。
白い羽織へ、血が散った。
先生が刀を振る。俺は更に遠くへ移り、その切っ先の届かないところから斬撃を放った。先生は胸の前で受けたが、足元へ落とした雷までは防げなかった。
白い光が、左脚を打った。
先生の身体が傾く。
俺はその頭上へ移り、刀を振り下ろした。焼けた刃が上がる。触れる前に横へ移り、空いた肩へ向けて刀を返した。
先生の右肩が、裂けた。
すぐに退く。
先生の刃が追ってきた。俺のいたところを抜け、遠くの床へ入る。爆炎が高く上がり、その光を受けて、先生の顔が見えた。
笑っていた。
「ようやく、儂が追う側になったの」
「先生に追われるのは、もう何百年も前に済ませたかったんだけどな」
「追いつかれんようになってから言えい」
先生が床を蹴った。
俺は左へ移った。
移った先へ、刀が来た。
胸の前で受ける。腕へ重さが掛かり、先生の顔がすぐ傍にあった。どこへ移るか決めた時、俺はそこへ目を向けていた。
それを見て、先に来たのだ。
俺は刀を外へ流し、今度は先生の背後へ移った。振り返ってきた刃を避け、その更に向こうへ出る。足を止めずに斬撃を放ち、頭上から雷を落とした。
先生が、二つを払った。
三つ目の雷が肩を打つ。その身体が沈んだところへ、俺は刀を振った。胸の前へ上げられた残火の太刀が受け止めたが、今度は先生の足が大きく滑った。
俺は押し切らず、離れた。
「ゆめ。俺の周りに、刃を並べてくれ。先生の刀を受けるものも、俺と一緒に振るうものも欲しい」
『六夜。独りで受けるには、少々荒いお相手でござりんすな』
黒い刃が、俺の左右へ浮かんだ。
頭上にも、背にもある。どれもゆめの刃と同じ反りを持ち、星明かりを銀の縁へ映していた。俺が刀を持ち上げると、その半分が先生へ向いた。
先生は、間を詰めてきた。
正面から来た刃を、焼けた刀で払う。爆炎が広がり、二本が砕けた。その隙間から俺の首へ突きが伸びる。
残していた刃が、受けた。
一本が折れ、次の一本が切っ先を外へ流す。俺はその間に左へ移り、先生の背へ刀を振った。浮かんでいた刃も同時に動き、肩と腰を挟むように迫った。
先生が、身を沈めた。
腰へ向けた一本を払う。肩へ来たものを半身で避け、そのまま俺へ振り返った。けれど、俺の刀はもう背へ届いていた。
羽織が裂け、血が流れた。
先生は足を止めなかった。
身体を回し、残火の太刀を横へ振る。浮かべた刃が三本、まとめて砕けた。その向こうから先生が踏み込んでくる。
俺は遠くへ移った。
先生の刀が空を斬る。その腕へ重さを掛け、膝へ雷を落とした。足が沈んだところを、左右に浮かべた刃が狙う。
先生の胸と、左腕へ傷が入った。
俺も刀を振った。
残火の太刀が受けた。だが、受けた腕は下がっていた。先生の身体が後ろへ滑り、床へ血が落ちる。
力は、まだ増していた。
傷を受けるたびに、この人の霊圧が高くなる。浮かべた刃を焼き砕き、雷を払い、重さを背負ったまま俺へ来る。
それでも、もうこちらが押されてはいなかった。
「ゆめ。あの人が力を動かすところを、もっとよく見たい。腕も刀も、その内を流れるものも」
『七夜。夜目の利かぬお方には、星を一つお貸ししましょう』
先生の身体の内が、分かった。
刀へ集まる霊力がある。足へ力を込め、床を蹴る。その流れを追えば、先生が踏み出す前から、どちらの足を使うのか見えた。
俺は右へ移った。
さっきまでいたところへ、残火の太刀が落ちる。爆炎が噴き上がる間に、俺は先生の背へ刃を向けた。
肩へ、霊力が集まった。
振り返るつもりだ。
俺は更に左へ移り、その腕を斬った。先生の刀が空を抜け、次に踏もうとしていた足へ雷が落ちる。重さを掛け直した身体が沈み、その胸へ浮かべた刃が迫った。
先生が受けた。
一本を砕き、次を払う。その間に俺が振った刀は、先生の右脇へ入った。
血が散った。
俺は刃を引き、少し離れたところへ立った。
先生が、片膝を曲げていた。倒れてはいない。刀を床へ突くこともなく、こちらを見る目には殺気が残っている。
長次郎が、刀へ手を掛けた。
「長次郎」
先生の声が、無間へ響いた。
「その手を下ろせ。儂は、まだ立っておる」
長次郎は動かなかった。
和尚が、その肩へ手を置いた。何か言ったようだったが、俺には聞こえない。先生の刀へ集まる力が、また増していた。
「……随分と、儂の内を見ておるな」
「ああ。先生が次にどこへ力を込めるのか、分かるようになった」
「見えれば、全て避けられると思うか」
「避けるだけで済ませる気はないよ」
俺は、先生へ刀を向けた。
「ゆめ。最後にもう一つ、戦う力を頼みたい」
『何をお望みで?』
「この刀へ、火を纏わせてくれ。先生の火にも負けないくらい、強いものを」
先生の口元が、僅かに上がった。
『八夜。夜を焦がす恋ならば、灰まで残さず燃やしましょう』
刃へ、朱の炎がともった。
切っ先から柄の近くまで広がり、その外へ白い光が走る。俺は刀を持ち上げた。黒い袖を照らしても、熱は感じなかった。
先生が、両手で刀を握った。
俺も左手を柄へ添える。
互いに、床を蹴った。
刀が合った。
先生の刃から、爆炎が噴き出した。俺の火もその内へ入り、二人の間が朱と白に染まる。床が割れ、足元が沈んだ。
俺は踏み直した。
先生の刀を押し上げ、その胸へ切っ先を向ける。先生が刃を戻した。もう一度、火がぶつかる。
焼けた刀が、外へ流れた。
先生の胸が空いた。
俺は斜めに振った。
白い羽織が、大きく裂けた。
胸から血が噴き、その身体が後ろへ飛ぶ。先生は床へ足をつき、滑りながら刀を上げた。俺はその頭上へ雷を落とし、退く先へ浮かべた刃を向けた。
先生が、刀を振った。
雷が裂ける。黒い刃が焼け、その向こうで爆炎が立ち上がった。俺は火の前へ移り、先生の首へ刀を向けた。
切っ先が、止まった。
先生の喉へ触れる手前だった。
向こうの残火の太刀も、俺の脇腹へ向いていた。だが、その刃は二本の黒い刀に挟まれている。押し込もうとする腕へ重さを掛け、俺は先生の顔を見た。
額から、汗が流れていた。
胸の傷からも、血が落ちる。先生は俺の切っ先へ目を向け、それから俺の顔へ戻した。
「止めたか」
「先生を殺しに帰ってきたわけじゃないからな」
「儂は、殺すつもりで振っておったぞ」
「知ってるよ。昔から、そうだっただろ」
先生は、しばらく俺を見ていた。
それから、刀を引いた。
俺も重さを外し、浮かべた刃を離す。首へ向けていた刀を下ろすと、先生は胸の傷へ左手を当てた。
「儂の前で、止めるところまで選べるようになったか」
その声を聞いて、ようやく息を吐いた。
先生が刀を下ろしたのを確かめ、雷を収める。浮かべていた刃もなくなり、俺の刀へ纏わせた炎だけが残った。
星の下に、二人で立っていた。
昔は、ここまで来る前に床へ転がされていた。起きようとしたところへ次の刀が来て、ゆめへ何を頼むかも、血を吐きながら考えた。
今日は、先生がこちらを見ている。
その目へ、俺も顔を上げていられた。
「先生。戻ってくるの、随分遅くなったけどさ」
刀の火を、収めた。
「このくらいには、強くなってきたよ」
先生が笑った。
胸から流れる血を拭いもせず、刀を肩へ上げる。
「見れば分かる。長う待たせた分だけ、儂にも傷が増えたわ」
和尚が、こちらへ歩いてきた。
長次郎も続いている。先生の傷へ目を向けたが、今度は刀へ手を掛けなかった。
「八つで、重國を止めたか。残り一つは、もう要らんようじゃのう」
和尚が俺の刀を見た。
俺は柄へ目を落とした。ゆめの手は、まだそこにある。先生も刀を収めず、俺が何を言うか待っていた。
「戦うためなら、今は要らないよ。でも、見せるって約束したものが、まだ残ってる」
指へ、ゆめの指が重なった。
「ゆめ。こっちへ来てくれ。最後の夢は、お前と一緒に叶えたい」
『九夜。お迎えの手を、今宵も離さずにいておくんなんし』
朱の灯が、ともった。
俺の隣へ裾が広がる。黒い髪に挿した簪が星を映し、白い手が柄へ重なった。
先生が、その顔を見た。
和尚も、ゆめへ目を向けていた。さっきまで笑っていた顔が、静かになる。
俺はゆめの手を握った。
「もう一度、付き合ってくれるか」
「何度でも。お前様がお呼びになるのでしたら、わっちは参りんす」
先生が、刀を持ち直した。
「それが、最後の夢か」
「ああ。でも、俺が持ち帰ったものは、この先にある」
ゆめが、俺の方へ身体を寄せた。
刀を挟んで、額が近づく。俺はその目を見た。もう、あの黒い砂原へ戻る必要はなかった。折れた腕も、血に濡れた手もなく、今日は自分の足で立っている。
それでも、握る手は同じだった。
俺はゆめと共に、先生へ顔を向けた。
「ここからだよ。先生」
柄へ重なった二人の手が、白く光った。