隔てし刃に 別れを告げ
閉ざせし世に 星は満ちる
白い光が、柄へ重なった指を包んでいた。
ゆめの額が俺へ触れる。黒い髪が頬へ掛かり、簪の先にある小さな飾りが揺れた。その音を聞きながら、俺は刀を胸の前へ寄せた。
先生が、少し離れた。
長次郎も続いたが、和尚は動かなかった。俺とゆめの手を見ている。こちらを見る目から、先ほどまでの笑みは消えていた。
「重國。今度は、よう見ておけ」
和尚の声がした。
俺は、ゆめと共に顔を上げた。
〈九つの夜を渡り、名を呼ぶ声のもとへ。
醒めれば隔たる夢ならば、目覚めを此処に葬ろう。
現よ、帳を下ろせ。夢よ、その奥より出でよ。
刃を隔てて向かい合う、最後の夜は明けた。
お前の見る夢を、俺の生きる世に。
俺の生きる世を、お前の帰る場所に。
もう、独りで醒めるな。
この先は⸺二人で現と成ろう〉
ゆめの手が、俺の内へ溶けていった。
指へ触れていた温もりが腕を通り、胸へ届く。隣に立っていた身体が光へ変わり、俺を包んだ。刀を握っていた掌には、もう柄の重さがなかった。
〈
白銀の霊圧が、柱となって立ち上がった。
先生たちの姿が光の向こうへ隠れる。足元に残っていた黒い眠りの夜も白銀へ染まり、裾の外から遥か遠くへ広がっていった。
焼けた床を構成する霊子が、分かった。
無間の暗がりへ漂うものも、三人の身体も、その腰にある刀も。同じように手が届く。俺は立っている場所を変えず、もっと遠くへ意識を向けた。
来る時に通った扉があった。
階段があり、その上に廊下が続いている。更に上には、瀞霊廷の屋根があった。道を歩く者の足元にも、塀の向こうで揺れる木の枝にも、霊子がある。
その先にも、町が続いていた。
山を下りてきた時に渡った橋も、先生に会いに来るまで歩いた街道も感じられる。もっと遠くへ辿れば、山の岩も、川を流れる水もあった。
身体の外へ流れを繋ごうとする必要は、もうなかった。
どれも、ここにある。
俺はそのすべてへ手を伸ばせた。ゆめも同じものを見ている。胸の内へ満ちた喜びを分け合いながら、力を静かに収めた。
光の柱が、薄れていった。
白銀の髪が、胸元へ落ちる。黒も金も朱も残っていない。長い髪を肩の前へ寄せると、同じ色に染まった袖が手首から下りた。
着物の上には、金の文様があった。
細くなった指を帯の前へ揃える。胸元も腰も、ゆめと重なった身体の形へ変わっていた。刀を握っていた右手を開き、そのまま袖の内へ収めた。
三人が、俺を見ていた。
長次郎の視線が髪から顔へ移り、空になった手元で止まる。先生は身体の周りにある白銀の霊圧を見ていた。その向こうで、和尚が顔を上げた。
無間の頭上には、満天の星があった。
さっきよりも遥かに遠くまで続いている。柱の光が消えた後も、星明かりが白銀の袖を照らしていた。
「……刀が、なくなったか」
先生が言った。
俺は少しだけ首を傾けた。髪が肩を滑り、その先が胸元の金へ触れる。
「『ここにおりんす。もう、離して持つこともござりんせん』」
長次郎が、息を止めた。
二つの声が、同じ口から出ていた。俺もゆめも先生を見ている。返そうと思った言葉まで重なり、唇から自然に零れた。
先生は、しばらく俺の顔を眺めていた。
「その声で、儂を先生と呼ぶのか」
「『お嫌でござりんすか。随分と長うお世話になりんしたものを、今更ほかの呼び方も浮かびんせん』」
「好きに呼べ。姿が変わったからといって、今まで斬った分を返すつもりはない」
先生の口元が上がった。
俺も笑った。ゆめも、同じことを面白がっていた。
和尚は笑っていなかった。
頭上から俺へ視線を戻し、ゆっくりと口を開く。
「おんし。どこまで届いておる」
「『この無間の外にも。地の上にある町も、山も、川も。尸魂界にある霊子ならば、どれへでも』」
和尚の目が、僅かに細くなった。
「虚圏でも、同じことができたか」
「『ええ。あちらにおりんした時は、砂も岩も、虚の身体も。すべてに触れられんした』」
「今も、わしらへ触れられるということじゃな」
「『触れられんすよ。ただ、何をするかは、わっちらが選びんす』」
俺は先生の胸へ目を向けた。
着物が切れ、その下から血が流れている。肩にも背にも、俺が入れた傷があった。身体を支える力は残っていたが、このまま歩いて帰らせる気にはなれなかった。
「『先生。そのお傷、塞いでもようござりんすか』」
「何をするつもりじゃ」
「『斬れたところを繋ぎんす。今つけた傷まで残して帰っては、長次郎にも叱られてしまいんしょう』」
先生が、長次郎を見た。
長次郎は何も言わなかった。けれど、先生の胸へ向けた目が答えていた。
「やれい。お前がつけた傷じゃ」
俺は右の袖を持ち上げた。
指を一本、先生へ向ける。胸の切れ目へ続く霊子を選び、その両側を繋いだ。肩も、腕も、背も同じように直していく。
血が、止まった。
先生が胸へ左手を当てた。傷のあったところを撫で、それから肩を動かす。焼けていた左腕にも、裂けた右脇にも、もう切れ目はなかった。
着物は、破れたままだった。
「……回道を掛けたか」
「『いえ。傷へ手を当てる必要も、ござりんせんでした』」
俺は指を戻した。
先生は腕を確かめ、それから刀を持ち上げた。焼け焦げた刃へ、再び力が集まっていく。
「ならば、こちらも確かめさせてもらうぞ。今のお前へ、儂の刃が届くか」
「『ええ。どうぞお試しなんし。ただ、先ほどのようには、参りんせんよ』」
和尚が長次郎へ手を向けた。
二人が離れる。先生は俺の首を見たまま、刀を身体の脇へ下ろした。
俺は袖を重ねた。
足を動かすつもりはなかった。
先生が、消えた。
背後へ回っている。床を蹴った足も、刀を握る腕も、その内を流れる霊力も分かった。俺は顔を向けず、袖の中で指を僅かに曲げた。
残火の太刀が、止まった。
首のすぐ後ろにある。切っ先へ込められた力が膨れたが、それも刀の内へ留めた。先生の腕には触れていない。焼けた刃を構成する霊子だけを、その場所へ置いていた。
先生が、柄を引いた。
動かなかった。
俺は白銀の髪を、肩の前へ寄せた。
「『お髪を傷められては、帰る前に整え直さねばなりんせん。先に寄せておけば、ようござりんしたな』」
先生の左手が、俺の背へ伸びた。
その指が届く前に、身体の周囲へ漂う霊子を集めた。薄い白銀の面が生まれ、掌を受ける。先生は押し込もうとしたが、その面は揺れなかった。
俺は指を開いた。
留めていた刀が動く。先生はすぐに退き、正面へ回った。焼けた刃を確かめ、それから俺の足元を見た。
裾は、同じ場所にあった。
「刀だけを、止めたか」
「『ええ。先生のお腕まで止めては、お試しになれんでしょう』」
先生が、刀を振った。
爆炎が広がった。
俺は袖の端を、二本の指で持ち上げた。炎を構成する霊子へ触れ、熱を生む結びつきを外していく。こちらへ押し寄せる力も収めると、朱は細かな白銀の光へ変わった。
光が、裾の周りを流れた。
その一つを指先へ寄せる。小さく瞬いていたものを、先生へ見せた。
「『少し、明かりをお借りいたしんした』」
指を返す。
光が頭上へ昇った。後から続いていた炎も同じようにほどけ、星の下へ散っていく。先生の刀から生まれる先を辿れば、その力を出すところで留めることもできた。
俺は、そうしなかった。
先生が何を放っても、もうここへ届かないことは分かっていた。
残火の太刀が、下りた。
先生は俺を見ていた。刀へ込めていた霊力が緩み、その身体から押し寄せていた熱も薄れていく。
「……その場から、動くまでもないか」
俺は袖を下ろした。
「『ええ。ようやく、ここまで来られんした』」
先生は何も言わなかった。
長く俺を眺め、それから刀を収めた。長次郎が近づいてくる。先生の傷が塞がっていることをもう一度確かめ、今度は俺へ目を向けた。
「玄十郎殿。その力は、相手の刀にも、身体にも届くのですね」
「『届きんすよ。先ほど先生のお傷を塞いだ時も、身体を構成する霊子へ触れておりんした』」
長次郎の目が先生へ戻る、それ以上は聞かなかった。
和尚が、俺の前へ立った。
大きな数珠が、胸元で揺れている。こちらを見る顔には、もう豪快に笑っていた時の柔らかさがなかった。
「おんしの夜は、ここだけに出ておるのではないな」
俺は頷いた。
瀞霊廷の頭上にも、星があった。俺たちが来た時にはなかった夜が、町の上へ広がっている。人々は空を見上げていた。何が起きたのか分からず、道へ立ち止まった者もいる。
「『地の上にも、夜が下りておりんす』」
「無間へ連れてきたのは、上を気にせず力を見るためじゃった。じゃが、おんしの手は、その上にも届いておる」
和尚が、俺の袖へ目を向けた。
「今、そこに収めた手で、町一つをなくせるか」
俺はすぐには答えなかった。
家を形作る霊子が分かる。道も、塀も、そこに立つ者の身体も。手を動かす必要さえない。何を変えるか、俺とゆめが同じように思えば、それで届く。
「『……できんす』」
和尚が頷いた。
「ならば、ここで伝えておく。烏有玄十郎。おんしの卍解と、その先の解放を、わしの許しなく使うことは禁ずる」
星明かりの下で、俺はその顔を見た。
先生も、長次郎も口を挟まなかった。
「『今まで、わっちらが何をしてきたかも、ご覧になっておいでで?』」
「虚圏で、夜が塗り替わった。おんしが帰ってきてからは、話も聞いた。今日、ようやくその手で何ができるか見せてもらった」
和尚の視線は、俺から逸れなかった。
「おんしが誰を斬るかという話だけでは済まん。解放すれば、戦う相手のおらんところにも手が届く。その力を使ってよいか、わしが見定める」
俺は袖の内へ指を収めた。
ゆめも、その言葉を聞いていた。腹を立ててはいない。ただ、ようやく辿り着いたところから、今度はどこへ歩くのか考えていた。
「『急に敵へ襲われた時まで、許しを待てと仰りんすか』」
「命を捨てろとは言うとらん。じゃが、出さずに済むなら出すな。解放せねばならん時には、その理由をわしへ聞かせてもらう」
和尚が、少しだけ顎を引いた。
「好きに試すための夜は、ここまでじゃ」
俺は、先生を見た。
先生は腕を組んでいた。裂けた着物の下には、俺が繋ぎ直した肌がある。俺の視線に気づくと、いつものように眉を寄せた。
「何じゃ。儂に止めてほしいのか」
「『少しくらい、惜しんでくださってもようござりんしょう』」
「惜しむとも。ようやく戻った弟子と斬り合うたら、次からは許しが要ると言われたのじゃからな」
和尚が、先生を見た。
先生は気にした様子もなく続けた。
「じゃが、お前は儂の火を消し、刀を止めた。上へ届く力も、その程度に扱えるということじゃ。聞いた以上、知らぬ顔では済ません」
俺は息を吐いた。
それから、和尚へ向き直った。
「『承りんした。少なくとも、町の傍で試すようなことは、もういたしんせん』」
「遠くへ行けばよいという話でもないぞ」
「『分かっておりんす。お許しを頂く時は、ちゃんとお話しいたしんしょう』」
和尚は、しばらく俺を見ていた。
やがて頷き、頭上の星へ目を向ける。
「では、今は収めてくれるか。上で空を眺めておる者たちも、そろそろ仕事へ戻らせてやらねばならん」
俺は胸の内へ意識を戻した。
ゆめの喜びも、少し名残惜しいという思いも分かった。俺も同じだった。けれど、ここを出てからまで、この姿でいるつもりはなかった。
袖へ重ねた手を、静かに開く。
白銀の霊圧が、収まった。
手元へ刀の重さが戻る。長い髪に黒が広がり、金も白も朱もなくなった。胸元と腰の感触が元へ戻り、普通の着物の袖が腕へ掛かった。
頭上の星が、消えた。
無間の暗がりに、三人の姿が残っている。俺は刀を鞘へ収め、懐から髪を括る紐を出した。
「……これでいいか」
「ああ。上も元へ戻ったようじゃな」
和尚の顔へ、僅かに笑みが戻った。
俺は髪を背へ寄せて括った。結び目を確かめてから、破れた先生の羽織へ目を向ける。
「服も直しとけばよかったな」
「次に使う口実へ、儂の羽織を持ち出すでない」
「そんなつもりじゃないよ。自分の着物だけ戻ってると、ちょっと気になるだろ」
先生が鼻を鳴らした。
和尚が笑った。
「そういうところは、戻っても変わらんようじゃのう。さて、もう一つ話がある」
俺は和尚を見た。
「まだあるのか。刀を収めたばっかりなんだけど」
「今度は、刀を抜く話ではない」
和尚が、俺の肩へ大きな掌を置いた。
「烏有玄十郎。おんし、零番隊へ上がらんか」
俺は、結んだ髪から手を離した。
その名を、胸の内で繰り返す。どこか遠いところにあった呼び名だった。前世の記憶を探すより先に、目の前の和尚が続きを告げた。
「死神として、初めて卍解の先へ辿り着いた。その功を認め、おんしを迎えたい」
先生が、こちらを見ていた。
長次郎も同じだった。俺は二人を見て、それから腰の刀へ目を落とした。
ゆめが、笑う気配がした。
『随分と高いところから、お迎えが来んしたな』
「高いところなら、もう何度も登ったよ」
声に出してしまってから、和尚へ顔を戻した。
「悪い。ゆめと話してた」
「構わん。そちらにも、よう考えてもらわねばならんからの」
和尚は、俺の肩から手を離した。
俺は鞘へ指を添えた。山を歩いたことを思い出す。海の上を渡り、凍った大地を巡り、白い砂の上で何十年も座っていた。
帰ってみれば、爺さんの山には道がなくなっていた。
先生の塾も変わり、町には護廷十三隊を名乗る者たちがいた。知らないものは、帰ってきた場所にさえ増えている。
「……せっかくだけど、断るよ」
長次郎が、顔を上げた。
先生は何も言わなかった。和尚だけが、こちらを見たまま問い返す。
「訳を聞いてもよいか」
「まだ歩きたいんだ。見てないところも、やりたいこともある。爺さんのところへも、今度は早く帰るって言ったばかりだしな」
俺は少し笑った。
「上がるのがどれほど名誉なことか、全部分かってるわけじゃないよ。でも、そのために旅をしたんじゃない。ゆめと一緒に、自分で行き先を決めていたいんだ」
和尚は、すぐには返事をしなかった。
俺の顔を眺め、腰の刀へも目を向ける。それから先生を見た。
「重國。おんしの弟子は、戻ってもまだ歩き足りんようじゃ」
「昔から、そうじゃ。儂の下におった時も、次に何をするか考えておった」
先生が、俺へ目を戻した。
「ただし、帰ると言うたなら帰れ。次も何百年と留守にするつもりなら、出る前にそう言うておけ」
「分かったよ。今度は、帰り道まで忘れないうちに戻る」
和尚が笑った。
大きな腹が揺れ、数珠が鳴る。肩へ置かれていた時よりも軽い調子で、その掌が俺の背を叩いた。
「よかろう。迎える話は、わしの方からしたものじゃ。断る理由も聞いた。じゃが、先ほど伝えた禁は忘れるなよ」
「ああ。そっちは覚えてる」
俺は腰の刀を直した。
長次郎が、帰る方へ足を向ける。先生も続いたが、何歩か進んだところで振り返った。
「玄十郎。上へ戻ったら、まだ話を聞くぞ」
「もう、刀は抜かないだろうな」
「飯を食う前に、また斬り合いたいのか」
「それなら、先に飯がいいよ。帰ってから、何も食ってないんだ」
先生は、今度こそ前へ向き直った。
俺もその背を追った。
腰の刀から、ゆめの声がした。
『次の行き先は、お決まりになりんしたか』
「とりあえず、飯を食えるところだな。先生の話も、まだ聞いてないし」
暗がりの先で、長次郎が扉を開いた。
細い光が、足元へ伸びてきた。