卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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隔てし刃に 別れを告げ
閉ざせし世に 星は満ちる




57.明烏の天蓋

 

 

 白い光が、柄へ重なった指を包んでいた。

 

 ゆめの額が俺へ触れる。黒い髪が頬へ掛かり、簪の先にある小さな飾りが揺れた。その音を聞きながら、俺は刀を胸の前へ寄せた。

 

 先生が、少し離れた。

 

 長次郎も続いたが、和尚は動かなかった。俺とゆめの手を見ている。こちらを見る目から、先ほどまでの笑みは消えていた。

 

「重國。今度は、よう見ておけ」

 

 和尚の声がした。

 

 俺は、ゆめと共に顔を上げた。

 

〈九つの夜を渡り、名を呼ぶ声のもとへ。

 醒めれば隔たる夢ならば、目覚めを此処に葬ろう。

 現よ、帳を下ろせ。夢よ、その奥より出でよ。

 刃を隔てて向かい合う、最後の夜は明けた。

 お前の見る夢を、俺の生きる世に。

 俺の生きる世を、お前の帰る場所に。

 もう、独りで醒めるな。

 この先は⸺二人で現と成ろう〉

 

 ゆめの手が、俺の内へ溶けていった。

 

 指へ触れていた温もりが腕を通り、胸へ届く。隣に立っていた身体が光へ変わり、俺を包んだ。刀を握っていた掌には、もう柄の重さがなかった。

 

〈夢通路明烏添寝(ゆめのかよいじあけのからすよがたり)〉

 

 白銀の霊圧が、柱となって立ち上がった。

 

 先生たちの姿が光の向こうへ隠れる。足元に残っていた黒い眠りの夜も白銀へ染まり、裾の外から遥か遠くへ広がっていった。

 

 焼けた床を構成する霊子が、分かった。

 

 無間の暗がりへ漂うものも、三人の身体も、その腰にある刀も。同じように手が届く。俺は立っている場所を変えず、もっと遠くへ意識を向けた。

 

 来る時に通った扉があった。

 

 階段があり、その上に廊下が続いている。更に上には、瀞霊廷の屋根があった。道を歩く者の足元にも、塀の向こうで揺れる木の枝にも、霊子がある。

 

 その先にも、町が続いていた。

 

 山を下りてきた時に渡った橋も、先生に会いに来るまで歩いた街道も感じられる。もっと遠くへ辿れば、山の岩も、川を流れる水もあった。

 

 身体の外へ流れを繋ごうとする必要は、もうなかった。

 

 どれも、ここにある。

 

 俺はそのすべてへ手を伸ばせた。ゆめも同じものを見ている。胸の内へ満ちた喜びを分け合いながら、力を静かに収めた。

 

 光の柱が、薄れていった。

 

 白銀の髪が、胸元へ落ちる。黒も金も朱も残っていない。長い髪を肩の前へ寄せると、同じ色に染まった袖が手首から下りた。

 

 着物の上には、金の文様があった。

 

 細くなった指を帯の前へ揃える。胸元も腰も、ゆめと重なった身体の形へ変わっていた。刀を握っていた右手を開き、そのまま袖の内へ収めた。

 

 三人が、俺を見ていた。

 

 長次郎の視線が髪から顔へ移り、空になった手元で止まる。先生は身体の周りにある白銀の霊圧を見ていた。その向こうで、和尚が顔を上げた。

 

 無間の頭上には、満天の星があった。

 

 さっきよりも遥かに遠くまで続いている。柱の光が消えた後も、星明かりが白銀の袖を照らしていた。

 

「……刀が、なくなったか」

 

 先生が言った。

 

 俺は少しだけ首を傾けた。髪が肩を滑り、その先が胸元の金へ触れる。

 

「『ここにおりんす。もう、離して持つこともござりんせん』」

 

 長次郎が、息を止めた。

 

 二つの声が、同じ口から出ていた。俺もゆめも先生を見ている。返そうと思った言葉まで重なり、唇から自然に零れた。

 

 先生は、しばらく俺の顔を眺めていた。

 

「その声で、儂を先生と呼ぶのか」

「『お嫌でござりんすか。随分と長うお世話になりんしたものを、今更ほかの呼び方も浮かびんせん』」

「好きに呼べ。姿が変わったからといって、今まで斬った分を返すつもりはない」

 

 先生の口元が上がった。

 

 俺も笑った。ゆめも、同じことを面白がっていた。

 

 和尚は笑っていなかった。

 

 頭上から俺へ視線を戻し、ゆっくりと口を開く。

 

「おんし。どこまで届いておる」

「『この無間の外にも。地の上にある町も、山も、川も。尸魂界にある霊子ならば、どれへでも』」

 

 和尚の目が、僅かに細くなった。

 

「虚圏でも、同じことができたか」

「『ええ。あちらにおりんした時は、砂も岩も、虚の身体も。すべてに触れられんした』」

「今も、わしらへ触れられるということじゃな」

「『触れられんすよ。ただ、何をするかは、わっちらが選びんす』」

 

 俺は先生の胸へ目を向けた。

 

 着物が切れ、その下から血が流れている。肩にも背にも、俺が入れた傷があった。身体を支える力は残っていたが、このまま歩いて帰らせる気にはなれなかった。

 

「『先生。そのお傷、塞いでもようござりんすか』」

「何をするつもりじゃ」

「『斬れたところを繋ぎんす。今つけた傷まで残して帰っては、長次郎にも叱られてしまいんしょう』」

 

 先生が、長次郎を見た。

 

 長次郎は何も言わなかった。けれど、先生の胸へ向けた目が答えていた。

 

「やれい。お前がつけた傷じゃ」

 

 俺は右の袖を持ち上げた。

 

 指を一本、先生へ向ける。胸の切れ目へ続く霊子を選び、その両側を繋いだ。肩も、腕も、背も同じように直していく。

 

 血が、止まった。

 

 先生が胸へ左手を当てた。傷のあったところを撫で、それから肩を動かす。焼けていた左腕にも、裂けた右脇にも、もう切れ目はなかった。

 

 着物は、破れたままだった。

 

「……回道を掛けたか」

「『いえ。傷へ手を当てる必要も、ござりんせんでした』」

 

 俺は指を戻した。

 

 先生は腕を確かめ、それから刀を持ち上げた。焼け焦げた刃へ、再び力が集まっていく。

 

「ならば、こちらも確かめさせてもらうぞ。今のお前へ、儂の刃が届くか」

「『ええ。どうぞお試しなんし。ただ、先ほどのようには、参りんせんよ』」

 

 和尚が長次郎へ手を向けた。

 

 二人が離れる。先生は俺の首を見たまま、刀を身体の脇へ下ろした。

 

 俺は袖を重ねた。

 

 足を動かすつもりはなかった。

 

 先生が、消えた。

 

 背後へ回っている。床を蹴った足も、刀を握る腕も、その内を流れる霊力も分かった。俺は顔を向けず、袖の中で指を僅かに曲げた。

 

 残火の太刀が、止まった。

 

 首のすぐ後ろにある。切っ先へ込められた力が膨れたが、それも刀の内へ留めた。先生の腕には触れていない。焼けた刃を構成する霊子だけを、その場所へ置いていた。

 

 先生が、柄を引いた。

 

 動かなかった。

 

 俺は白銀の髪を、肩の前へ寄せた。

 

「『お髪を傷められては、帰る前に整え直さねばなりんせん。先に寄せておけば、ようござりんしたな』」

 

 先生の左手が、俺の背へ伸びた。

 

 その指が届く前に、身体の周囲へ漂う霊子を集めた。薄い白銀の面が生まれ、掌を受ける。先生は押し込もうとしたが、その面は揺れなかった。

 

 俺は指を開いた。

 

 留めていた刀が動く。先生はすぐに退き、正面へ回った。焼けた刃を確かめ、それから俺の足元を見た。

 

 裾は、同じ場所にあった。

 

「刀だけを、止めたか」

「『ええ。先生のお腕まで止めては、お試しになれんでしょう』」

 

 先生が、刀を振った。

 

 爆炎が広がった。

 

 俺は袖の端を、二本の指で持ち上げた。炎を構成する霊子へ触れ、熱を生む結びつきを外していく。こちらへ押し寄せる力も収めると、朱は細かな白銀の光へ変わった。

 

 光が、裾の周りを流れた。

 

 その一つを指先へ寄せる。小さく瞬いていたものを、先生へ見せた。

 

「『少し、明かりをお借りいたしんした』」

 

 指を返す。

 

 光が頭上へ昇った。後から続いていた炎も同じようにほどけ、星の下へ散っていく。先生の刀から生まれる先を辿れば、その力を出すところで留めることもできた。

 

 俺は、そうしなかった。

 

 先生が何を放っても、もうここへ届かないことは分かっていた。

 

 残火の太刀が、下りた。

 

 先生は俺を見ていた。刀へ込めていた霊力が緩み、その身体から押し寄せていた熱も薄れていく。

 

「……その場から、動くまでもないか」

 

 俺は袖を下ろした。

 

「『ええ。ようやく、ここまで来られんした』」

 

 先生は何も言わなかった。

 

 長く俺を眺め、それから刀を収めた。長次郎が近づいてくる。先生の傷が塞がっていることをもう一度確かめ、今度は俺へ目を向けた。

 

「玄十郎殿。その力は、相手の刀にも、身体にも届くのですね」

「『届きんすよ。先ほど先生のお傷を塞いだ時も、身体を構成する霊子へ触れておりんした』」

 

 長次郎の目が先生へ戻る、それ以上は聞かなかった。

 

 和尚が、俺の前へ立った。

 

 大きな数珠が、胸元で揺れている。こちらを見る顔には、もう豪快に笑っていた時の柔らかさがなかった。

 

「おんしの夜は、ここだけに出ておるのではないな」

 

 俺は頷いた。

 

 瀞霊廷の頭上にも、星があった。俺たちが来た時にはなかった夜が、町の上へ広がっている。人々は空を見上げていた。何が起きたのか分からず、道へ立ち止まった者もいる。

 

「『地の上にも、夜が下りておりんす』」

「無間へ連れてきたのは、上を気にせず力を見るためじゃった。じゃが、おんしの手は、その上にも届いておる」

 

 和尚が、俺の袖へ目を向けた。

 

「今、そこに収めた手で、町一つをなくせるか」

 

 俺はすぐには答えなかった。

 

 家を形作る霊子が分かる。道も、塀も、そこに立つ者の身体も。手を動かす必要さえない。何を変えるか、俺とゆめが同じように思えば、それで届く。

 

「『……できんす』」

 

 和尚が頷いた。

 

「ならば、ここで伝えておく。烏有玄十郎。おんしの卍解と、その先の解放を、わしの許しなく使うことは禁ずる」

 

 星明かりの下で、俺はその顔を見た。

 

 先生も、長次郎も口を挟まなかった。

 

「『今まで、わっちらが何をしてきたかも、ご覧になっておいでで?』」

「虚圏で、夜が塗り替わった。おんしが帰ってきてからは、話も聞いた。今日、ようやくその手で何ができるか見せてもらった」

 

 和尚の視線は、俺から逸れなかった。

 

「おんしが誰を斬るかという話だけでは済まん。解放すれば、戦う相手のおらんところにも手が届く。その力を使ってよいか、わしが見定める」

 

 俺は袖の内へ指を収めた。

 

 ゆめも、その言葉を聞いていた。腹を立ててはいない。ただ、ようやく辿り着いたところから、今度はどこへ歩くのか考えていた。

 

「『急に敵へ襲われた時まで、許しを待てと仰りんすか』」

「命を捨てろとは言うとらん。じゃが、出さずに済むなら出すな。解放せねばならん時には、その理由をわしへ聞かせてもらう」

 

 和尚が、少しだけ顎を引いた。

 

「好きに試すための夜は、ここまでじゃ」

 

 俺は、先生を見た。

 

 先生は腕を組んでいた。裂けた着物の下には、俺が繋ぎ直した肌がある。俺の視線に気づくと、いつものように眉を寄せた。

 

「何じゃ。儂に止めてほしいのか」

「『少しくらい、惜しんでくださってもようござりんしょう』」

「惜しむとも。ようやく戻った弟子と斬り合うたら、次からは許しが要ると言われたのじゃからな」

 

 和尚が、先生を見た。

 

 先生は気にした様子もなく続けた。

 

「じゃが、お前は儂の火を消し、刀を止めた。上へ届く力も、その程度に扱えるということじゃ。聞いた以上、知らぬ顔では済ません」

 

 俺は息を吐いた。

 

 それから、和尚へ向き直った。

 

「『承りんした。少なくとも、町の傍で試すようなことは、もういたしんせん』」

「遠くへ行けばよいという話でもないぞ」

「『分かっておりんす。お許しを頂く時は、ちゃんとお話しいたしんしょう』」

 

 和尚は、しばらく俺を見ていた。

 

 やがて頷き、頭上の星へ目を向ける。

 

「では、今は収めてくれるか。上で空を眺めておる者たちも、そろそろ仕事へ戻らせてやらねばならん」

 

 俺は胸の内へ意識を戻した。

 

 ゆめの喜びも、少し名残惜しいという思いも分かった。俺も同じだった。けれど、ここを出てからまで、この姿でいるつもりはなかった。

 

 袖へ重ねた手を、静かに開く。

 

 白銀の霊圧が、収まった。

 

 手元へ刀の重さが戻る。長い髪に黒が広がり、金も白も朱もなくなった。胸元と腰の感触が元へ戻り、普通の着物の袖が腕へ掛かった。

 

 頭上の星が、消えた。

 

 無間の暗がりに、三人の姿が残っている。俺は刀を鞘へ収め、懐から髪を括る紐を出した。

 

「……これでいいか」

「ああ。上も元へ戻ったようじゃな」

 

 和尚の顔へ、僅かに笑みが戻った。

 

 俺は髪を背へ寄せて括った。結び目を確かめてから、破れた先生の羽織へ目を向ける。

 

「服も直しとけばよかったな」

「次に使う口実へ、儂の羽織を持ち出すでない」

「そんなつもりじゃないよ。自分の着物だけ戻ってると、ちょっと気になるだろ」

 

 先生が鼻を鳴らした。

 

 和尚が笑った。

 

「そういうところは、戻っても変わらんようじゃのう。さて、もう一つ話がある」

 

 俺は和尚を見た。

 

「まだあるのか。刀を収めたばっかりなんだけど」

「今度は、刀を抜く話ではない」

 

 和尚が、俺の肩へ大きな掌を置いた。

 

「烏有玄十郎。おんし、零番隊へ上がらんか」

 

 俺は、結んだ髪から手を離した。

 

 その名を、胸の内で繰り返す。どこか遠いところにあった呼び名だった。前世の記憶を探すより先に、目の前の和尚が続きを告げた。

 

「死神として、初めて卍解の先へ辿り着いた。その功を認め、おんしを迎えたい」

 

 先生が、こちらを見ていた。

 

 長次郎も同じだった。俺は二人を見て、それから腰の刀へ目を落とした。

 

 ゆめが、笑う気配がした。

 

『随分と高いところから、お迎えが来んしたな』

「高いところなら、もう何度も登ったよ」

 

 声に出してしまってから、和尚へ顔を戻した。

 

「悪い。ゆめと話してた」

「構わん。そちらにも、よう考えてもらわねばならんからの」

 

 和尚は、俺の肩から手を離した。

 

 俺は鞘へ指を添えた。山を歩いたことを思い出す。海の上を渡り、凍った大地を巡り、白い砂の上で何十年も座っていた。

 

 帰ってみれば、爺さんの山には道がなくなっていた。

 

 先生の塾も変わり、町には護廷十三隊を名乗る者たちがいた。知らないものは、帰ってきた場所にさえ増えている。

 

「……せっかくだけど、断るよ」

 

 長次郎が、顔を上げた。

 

 先生は何も言わなかった。和尚だけが、こちらを見たまま問い返す。

 

「訳を聞いてもよいか」

「まだ歩きたいんだ。見てないところも、やりたいこともある。爺さんのところへも、今度は早く帰るって言ったばかりだしな」

 

 俺は少し笑った。

 

「上がるのがどれほど名誉なことか、全部分かってるわけじゃないよ。でも、そのために旅をしたんじゃない。ゆめと一緒に、自分で行き先を決めていたいんだ」

 

 和尚は、すぐには返事をしなかった。

 

 俺の顔を眺め、腰の刀へも目を向ける。それから先生を見た。

 

「重國。おんしの弟子は、戻ってもまだ歩き足りんようじゃ」

「昔から、そうじゃ。儂の下におった時も、次に何をするか考えておった」

 

 先生が、俺へ目を戻した。

 

「ただし、帰ると言うたなら帰れ。次も何百年と留守にするつもりなら、出る前にそう言うておけ」

「分かったよ。今度は、帰り道まで忘れないうちに戻る」

 

 和尚が笑った。

 

 大きな腹が揺れ、数珠が鳴る。肩へ置かれていた時よりも軽い調子で、その掌が俺の背を叩いた。

 

「よかろう。迎える話は、わしの方からしたものじゃ。断る理由も聞いた。じゃが、先ほど伝えた禁は忘れるなよ」

「ああ。そっちは覚えてる」

 

 俺は腰の刀を直した。

 

 長次郎が、帰る方へ足を向ける。先生も続いたが、何歩か進んだところで振り返った。

 

「玄十郎。上へ戻ったら、まだ話を聞くぞ」

「もう、刀は抜かないだろうな」

「飯を食う前に、また斬り合いたいのか」

「それなら、先に飯がいいよ。帰ってから、何も食ってないんだ」

 

 先生は、今度こそ前へ向き直った。

 

 俺もその背を追った。

 

 腰の刀から、ゆめの声がした。

 

『次の行き先は、お決まりになりんしたか』

「とりあえず、飯を食えるところだな。先生の話も、まだ聞いてないし」

 

 暗がりの先で、長次郎が扉を開いた。

 

 細い光が、足元へ伸びてきた。

 

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