帰りし火に 盃を寄せ
飢えたる刃に 花は微笑む
地の上へ戻ると、廊下の向こうから声が聞こえた。
庭へ出ていた者たちが空を見上げ、今は何もないところを指している。長次郎が近くの男を呼び、短く何かを伝えた。男はこちらを見かけたが、先生の姿に気づくと頭を下げ、そのまま庭の者たちへ駆けていった。
「随分と驚かせたようだな」
「昼に星が出たのじゃ。見上げもする」
和尚が、元へ戻った空を眺めた。
俺も庭へ目を向けた。無間にいた時には、あの木の枝へさえ手が届いた。今は風に揺れる葉を見ている。触れたければ、縁側を下りて歩いていくことになる。
腰へ指を添えると、鞘の中からゆめが応えた。
『お名残惜しゅうござりんすか』
「また会えるよ。今度は、空を見て驚く人がいない時にな」
先生が、先の廊下へ曲がった。
「玄十郎。そこで待っておれ。儂は着替える」
「やっぱり、そのまま飯は食わないか」
「お前が斬ったところから、袖が落ちそうじゃ」
白い羽織の背が遠ざかっていく。俺は和尚と共に部屋へ入り、腰から刀を外した。
座ったところで、腹が鳴った。
和尚がこちらを見た。
「零番隊を断る腹は、なかなかよい音がするのう」
「断らなくても、腹は減ったと思うよ。上で飯まで断るつもりはなかったし」
「ならば、飯の話から始めればよかったか」
「それでも、今はここで食いたかったな」
和尚は笑い、俺の向かいへ腰を下ろした。
しばらくすると、長次郎が膳を運んできた。米の盛られた椀が置かれ、焼いた魚と煮物が並ぶ。汁の匂いが鼻へ届くと、さっきまで話していたことより、まず箸を持ちたくなった。
先生が戻ったのは、俺が魚の骨を外していた時だった。
新しい着物に羽織を掛け、刀を持っている。俺の隣へ座ると、その刀を手の届くところへ置いた。
「待たずに食うておるか」
「待ってたら、もう一度着替えに行きそうだったからな」
「儂が着る物まで斬ったのは、お前じゃ」
先生の前にも膳が置かれた。
長次郎が下がろうとすると、先生はその足を止めた。
「お前も食え。話があれば、ここへ持ってこさせい」
「承知いたしました」
四人分の膳が揃った。
和尚は煮物を口へ運び、先生は先に汁を飲んだ。長次郎が箸を取ったのを見てから、俺も残していた魚へ手を伸ばす。
昔、塾で食っていた飯を思い出した。
修行が長引けば、汁は冷めていた。手首を打たれた日は椀を持つのも痛く、箸を落とせば先生に笑われた。それでも食い終わる頃には、明日はどこまでやれるだろうと考えていた。
今日は、先生と刀を合わせたところに傷も残っていない。
俺は米を飲み込み、隣へ顔を向けた。
「で、先生。いつから十三隊も抱えるようになったんだ? 帰ってきたら、町を歩いてる奴らまで先生の名前を知ってたよ」
「お前が留守にしておる間じゃ」
「それは分かるって。何百年も空けたんだから、もう少し聞かせてくれよ」
先生が魚へ箸を入れた。
「流魂街へ出れば、刀を持つ者は幾らでもおる。腕の立つ者ほど、自分の縄張りを広げたがる。貴族の使いを斬る者も、隊を組んで町へ入る者も増えた」
「俺が歩いてた頃から、そういうのはいたな。先生が出ていったこともあっただろ」
「ああ。一つ潰せば、その跡へ別の者が入った。儂が帰るのを待って動く者もおった」
先生は魚の身を取り、口へ運んだ。
俺も覚えている。塾を何日か空け、戻った先生が、そのまま稽古へ出てきたことがあった。どこへ行っていたのか聞いても、刀を持てと言われただけだった。
「それで、先生がいなくても斬れる奴を集めたのか」
「儂の帰りを待つ必要などない。敵がおれば、その場で殺せる者を置いた」
「十三隊も?」
「集めてみれば、それだけに分ける方が使いやすかった」
長次郎が、椀を置いた。
「元字塾から出た者もおります。ただ、隊長の全員が塾の出というわけではありません」
「外からも拾ってきたんだな」
「拾うたというほど、従順な者ばかりではないぞ」
先生の口元が、僅かに上がった。
「儂へ刀を向けた者もおる。斬り合うて、まだ働ける腕が残っておった。ならば、ほかの首を落とさせる方がよい」
「……先生らしい集め方だな。そいつら、ちゃんと命令を聞くのか」
「聞かせる」
箸が、魚の骨を皿の端へ寄せた。
「勝手に斬っておった頃より、多くの敵を与えてやれる。それでも儂へ刃を向けたいなら、向ければよい。その後で、使える者をまた探すだけじゃ」
先生は、いつもの顔で飯を食っていた。
俺へ稽古をつけていた頃にも、甘い人ではなかった。腕が痛かろうと、足が動かなかろうと、立っているうちは次の刀が来た。
その人が今は、十三の隊へ行き先を与えている。
「隊を預けたら、そいつの判断で動かせるんだな」
「毎度、儂に聞きに戻られては役に立たん。敵を討てと命じたなら、そのために何を使うかも決めさせる」
「自分の部下もか」
「そのための隊じゃ。死なせたくないからと敵を逃がすなら、初めから刀を持たせる必要はない」
長次郎は口を挟まなかった。
和尚も、先生を見ただけだった。
俺は椀へ目を落とした。戻る途中、道を歩いていた死神たちを思い出す。揃いの着物を着て、刀を差し、先生の名を口にしていた。あいつらへも、いつか同じ命令が下るのだろう。
「俺がいた頃より、先生の刀が増えたんだな」
「お前がおれば、もう一本増やせた」
「帰った途端に、それかよ。今日は飯を食わせてくれる話だったろ」
「食わせておる。椀も空いておらんぞ」
俺は残っていた米を口へ運んだ。
先生はそれを見てから、自分の膳へ目を戻す。軽く返した話だったが、先生の方は冗談だけで言ったわけではなさそうだった。
今まで巡ったところを、もう一度歩きたいと思っていた。
その行き先へ、先生から渡された刀を持っていくこともできる。けれど、何を斬るのかまで、この場で預かるつもりはなかった。
「しばらくは、こっちにいるよ。まだ帰ってきたばっかりだし、塾もちゃんと見てないからな」
「ならば、見ていけ。昔のお前が寝ておった部屋は、もうないが」
「そこまで残してくれとは言わないよ。あの柱、俺が刀を当てた傷だらけだったし」
「柱だけではなかろう」
長次郎が、俺を見た。
「西の塀も、何度か」
「長次郎。そういうのは忘れてくれていいんだよ」
「修繕の手配をしたのは、私ですので」
和尚が、大きな声で笑った。
俺も笑い、椀を膳へ戻した。先生だけは否定せず、次の魚の骨を外していた。
*
和尚が立ったのは、茶が運ばれてきた頃だった。
「長居をしたのう。重國、おんしも今日は、その辺りにしておけ」
「もう刀は収めておる」
「今は、な」
和尚の目が俺へ向いた。
「玄十郎。話したことは、覚えておるな」
「ああ。次に使う時は、先に話すよ」
「ならばよい。おんしが次に何を持ち帰るか、楽しみにしておく」
大きな掌が肩を叩いた。
その背を見送ってから、俺は茶を飲んだ。さっきまで四人分あった膳が片づけられ、庭から風が入ってくる。先生も椀を手に取り、長次郎へ塾の様子を聞いていた。
戸口の向こうで、足音が止まった。
近づいてくる気配には、少し前から気づいていた。廊下を歩く者は何人もいたが、そのうち一人だけ、歩調が変わっていない。部屋の前へ来ても、声を掛けるつもりはなさそうだった。
俺は椀を持ったまま、そちらへ顔を向けた。
長い黒髪の女が立っていた。
白い羽織の下に刀がある。髪を結ばずに背へ流し、片手を戸口へ添えていた。その目は先生を通り越し、俺の膝の脇に置いた刀へ向いている。
「総隊長。私を置いて、随分と楽しんでいたようですね」
長次郎が立ち上がった。
先生は茶を飲み、その椀を下ろしてから答えた。
「お前を呼ぶために、こやつを待たせるつもりはなかった」
「呼んでくだされば、待たせませんでしたよ。今からでも」
女が、俺の顔を見た。
見覚えがあるような気がした。
黒い髪と、細い目。遠い記憶の中に、似た顔がある。けれど、そこで探していた顔よりも、目の前の女はずっと楽しそうだった。
俺の首へ、一度だけ視線が下りた。
どこを斬るか、確かめている。
「その人ですか」
「儂の古い弟子じゃ。今日、戻った」
「あなたと斬り合って、今はそこでお茶を?」
女の口元へ、笑みが浮かんだ。
俺は椀を膳のあったところへ置いた。刀を掴む必要は、まだなかった。ただ、先生と話していた時のまま、そちらから目を離すこともできなかった。
「ようやく飯を食えたところだよ。帰ってきてから、挨拶より刀を持ってる時間の方が長かったからな」
「では、挨拶をしましょう。名を聞かせてください」
「烏有玄十郎。先生のところには、ずっと昔にいたんだ。あんたも隊長なのか」
「十一番隊を預かっています。
その名を聞いて、記憶の奥で何かが動いた。
卯ノ花。
顔だけでは辿れなかったものが、名前へ繋がる。思い出しかけたところへ、女の声が重なった。
「どのくらい、離れていたのですか」
「何百年も。途中で数えるのが面倒になって、正確には分からないな」
「それほど長く、何を?」
「旅をして、修行をしてた。ここへ帰る前は、虚圏にいたよ」
八千流の目が、俺の右手へ向いた。
指に傷はない。握った刀の跡も、今は残っていない。それでも、何をしてきた手なのか見ようとしている。
「それで、総隊長のところへ戻った」
「ああ。長く留守にしたからな」
「戻って、真っ先に刀を合わせたのでしょう。懐かしいお話だけでは、足りなかったのですか」
俺は先生を見た。
先生は茶を飲んでいた。こちらへ助け舟を出すつもりは、少しもないらしい。
「見せたいものがあったんだ。先生も、見るなら斬り合った方が早いってさ」
「ええ。その方が、よく分かります」
八千流が部屋へ入ってきた。
長次郎は戸口から身を退いた。俺の前へ来ると、八千流は刀を差したまま座った。長い髪が肩を滑り、膝の上へ落ちる。
目が合った。
さっきからこちらへ向けられているものは、霊圧だけではない。俺が刀へ手を伸ばせば、この女もすぐに抜くだろう。先生が止めなければ、庭まで歩く必要もないと思っていそうだった。
「総隊長。どこで斬り合ったのですか」
「無間じゃ」
「……そこまで連れていったのですか」
八千流が、先生を見た。
初めて、俺から目が離れた。
「庭では済まなかった?」
「済まん。今からこやつへ刀を抜かせるつもりなら、お前も場所を選べ」
八千流の目が戻った。
俺は小さく息を吐いた。
「今日は、もう飯を食って帰るつもりだったんだけどな」
「お腹は満ちたのでしょう」
「そっちはな。だからって、すぐ刀を抜く話にはならないだろ」
八千流が笑った。
先生が無間で見せた顔を思い出す。よく育ててきたと言われた時、こちらも笑っていた。斬られることは分かっていても、まだ続けたいと思っていた。
今は、それを向こうから差し出されている。
「玄十郎。会いたい者には会うたのであろう」
先生が椀を置いた。
「今度は、お前に会いたい者へも顔を貸せ」
「先生。それ、顔だけじゃ済まない話だよな」
「残してほしいなら、自分で守れ」
八千流の笑みが深くなった。
俺は膝の脇にある刀へ手を置いた。ゆめが笑っている。茶を飲んでいた時から、ずっとこの女を眺めていたらしい。
『お前様。こちらにも、お腹を空かせた方がおいでで』
俺は鞘へ指を添えたまま、八千流を見た。
「分かったよ。ただ、先生とやったばかりだから、同じものを見せろとは言わないでくれ」
「総隊長が何を見たかは、後で聞きます。私が知りたいのは、あなたの刀が私へ届くかです」
八千流が、自分の柄へ手を掛けた。
抜かなかった。
その指が締まるところを見て、俺も腰を上げた。
「なら、場所を変えよう。ここの修繕まで俺に回ってきたら、長次郎に合わせる顔がないからな」
「今度は、私も請求いたします」
長次郎が戸を開けた。
八千流は立ち上がり、俺が刀を腰へ差すのを待っていた。廊下の先へ歩き出してからも、一度だけこちらを振り返る。
その目に、もう茶も膳も映っていなかった。