帰る場所を 背に負って
帰らぬ夢を 道連れに
第6話 暁の帰燕
帰る場所を、背に負って。
帰らぬ夢を、道連れに。
元字塾の門を潜ると、見知らぬ若者に呼び止められた。
「入門を希望される方ですか」
「いや。ここに住んでるんだけど」
「……失礼ですが、お名前を伺っても」
名を告げると、若者の背筋が伸びた。俺の顔と腰の刀を交互に見て、それから深く頭を下げる。
「烏有先生でしたか。申し訳ありません」
「先生はやめてくれって、誰かに聞いてない?」
「ですが、山本先生からは」
「あの人が言うと、みんな聞くんだよなあ」
抱えていた酒を持ち直し、門の脇を通った。若者はまだ頭を下げている。そんなに怖い話を聞かされたのだろうか。今度、誰が何を言ったのか確かめておこう。
庭では木刀を打ち合う音がしていた。奥の稽古場からは鬼道の詠唱も聞こえる。俺が来た頃には一つだった建物が、今は庭を挟んで幾つも並んでいた。人が増えるたびに建て足したせいで、初めて来た者はよく道を間違える。
ここへ来てから、およそ百年が過ぎていた。
初めはひと月ほど世話になるつもりだった。鬼道を教わり、刀のことも少し聞いて、また旅へ戻ろうと思っていたのだ。それが、覚えた術を試しているうちに次の術が気になり、そちらを教われば自分の術にも詠唱をつけたくなった。
気づけば、俺の部屋まで出来ていた。
「戻ったか」
縁側から声がした。山本が座っている。俺が脇へ置いた酒を見て、眉を動かした。
「随分と長い買い物じゃったな」
「帰りに呼び止められましてね。顔を見せたんなら飲んでいけって」
「三日もか」
「一軒じゃなかったんですよ」
山本の隣へ腰を下ろした。庭の向こうで、木刀を弾かれた若者が慌てて拾いに走っている。百年前にも似たような光景を見た。その時の若者は今、拾う方ではなく叱る方に立っていた。
「門のところで、俺も入門希望者に間違われましたよ」
「お前が新しく入った者の前に出てこんからじゃ」
「先生って呼ばれると、どうも落ち着かなくて」
山本は酒の包みを解いた。
「百年も居座って、まだ客のつもりか」
「客にしては、随分働いてるでしょう。先月も鬼道の稽古場を直しましたよ」
「あれを壊したのは誰じゃ」
返事をする前に、庭の奥で爆発が起きた。
二人でそちらを見た。屋根の上へ煙が昇っている。
「……今のは、俺じゃないですよ」
「分かっておる。お前なら、音がした後で弁解しても遅い」
山本は酒の栓を抜いた。俺も立ち上がり、部屋から盃を二つ持ってくる。戻る頃には煙が薄くなり、稽古場の方から叱る声が聞こえていた。
「見に行かなくていいんですか」
「任せておる者がいる。わしが顔を出せば、そちらへばかり頭を下げよる」
隣へ座り、差し出された盃を受け取った。酒を注いでもらってから、今度はこちらが山本の盃を満たす。
一口飲む。店では随分と勧められたが、ここの縁側で飲む方が旨かった。
「先生。俺、そろそろまた旅に出ようと思ってまして」
山本は盃へ目を落としたまま、酒を飲んだ。
「どちらへ行く」
「まだ決めてません。前に歩いたところも、百年経てば変わってるでしょうし」
ここへ来る途中、昔よく飯を食わせてもらった家を訪ねてみた。家は残っていたが、戸を開けたのは知らない男だった。俺の覚えている婆さんは、何十年も前に別の土地へ移ったらしい。
男に行き先を聞くと、南の方だと言った。それより詳しくは知らなかった。
「探す者でもおるのか」
「何人か、顔を見たい人はいますね。向こうが俺を覚えてるかは分かりませんけど」
庭では、また木刀を打ち合う音が始まっていた。百年前は俺もあそこに立っていた。山本と向かい合うたびに見物が増えて、途中からは人のいない場所へ移るようになったのだ。
「ここで覚えたことも、外で試してみたいんですよ。先生相手だと、どうしても先生に勝つ使い方ばかり考えますから」
「勝てぬのが気に食わんか」
「勝った日まで忘れないでくださいよ」
山本の口元が僅かに上がった。
「帰ってきたら、またお願いします」
「次は何年、留守にするつもりじゃ」
「さすがに五百年は空けませんよ。部屋が物置になってそうなんで」
山本は俺の盃へ酒を注いだ。
「空けておく。戻った時は、自分で掃除せい」
盃を持ち上げ、口へ運んだ。出る前に掃除をしておこうと思ったが、帰る頃にはどうせ埃が積もっているのだろう。
「じゃあ、荷物を少し置いていっても?」
「壊れた木刀は持っていけ」
「あれも残ってたんですか」
百年前、最初の稽古で折った木刀だった。捨てたつもりで部屋の隅へ置き、そのまま忘れていた。
山本はもう一度、盃を傾けた。
「お前の荷物を、わしが捨てるわけにもいかんじゃろう」
「じゃあ、出る前に片づけておきます」
酒を飲み干し、空いた盃を膝へ置いた。
「いつ出る」
「明日には。長く世話になりました」
「挨拶だけは、急にかしこまるのう」
「百年分ですからね。今のうちに言っとかないと、門を出たら忘れそうなんで」
山本は盃を縁側へ置いた。庭の向こうでは稽古が終わり、若者たちが木刀を抱えて歩いている。こちらに気づいた何人かが頭を下げたので、俺も手を上げた。
「お前が書いた術の覚え書きは、置いていけ」
「あれ、読めました?」
「読めぬところは、お前がおるうちに聞いておったじゃろう」
「俺にしか分からないつもりで書いたのも、結構ありますよ」
初めは教わった術を忘れないためだった。次に、自分の術へつけた詠唱を書いた。言葉を変えれば威力が変わる。長く唱えれば強くなるとは限らず、たった一語を替えた方がよく効くこともあった。
試したことを残すうち、紙は増えた。俺が読み返すより先に山本が持ち出し、いつの間にか稽古場で使われているものもある。
「白縫の頁は、もう別に写してある」
「よく使われてますね、あれ」
「剣を握ったまま使える術は、教える値打ちがある」
こちらへ歩いてきた若者が、少し離れたところで足を止めた。
「鬼道の稽古は終わったか」
「はい。壁を一枚、破損しました。怪我人はおりません」
山本が若者を見た。俺もつられて顔を上げる。
「何を使った」
「崩天です」
持ち上げかけた盃を戻した。
「……あれは、外で使えって書いてなかった?」
「稽古場を出て、土塀へ向けて放ったそうです」
山本が俺を見た。
「書いてありましたよ。ちゃんと外へ出てるでしょう」
「向ける先まで書いておけ」
「そこまで俺が面倒見るんですか」
若者を帰し、山本は酒を注ぎ直した。叱る声が聞こえたのも納得がいった。術を教えた者も、覚えた者も、あとでまとめて呼ばれるのだろう。
俺も明日までに、覚え書きへ少し書き足しておこう。
「教わる側でいた時は、気楽だったんですけどね」
「お前に教えておったわしは、気楽ではなかったぞ」
百年前の岩壁を思い出した。
「その節は、どうも」
「戻った時に、新しい術を見せい。それで許してやる」
*
部屋に残す紙を重ね、最後の一枚へ筆を走らせた。
崩天を使う時は、周囲の者を遠ざけること。土塀は的にしないこと。書いてから、後の一文を消した。岩ならいいと思われても困る。今度は、何を壊すか確かめてから撃つこと、と書き直した。
筆を置き、窓を開けた。庭にはまだ誰もいない。昨夜片づけた床へ朝の光が差していた。
着替えと路銀を包み、腰へ刀を差す。折れた木刀は二本の棒になって部屋の隅に転がっていた。拾ってみると、片方にはまだ俺が握っていた跡が残っている。
それも包みへ入れた。
門へ向かう途中、井戸の傍にいた若者が顔を上げた。
「お出かけですか」
「うん。今回は少し長くなる」
「お気をつけて」
昨日、俺を呼び止めた若者だった。頭を下げてから、肩の包みへ目を向ける。何か聞きたそうだったが、その前に奥から山本が歩いてきた。
「早いのう」
「稽古が始まったら、声を掛けづらいでしょう」
山本は手にしていた包みを差し出した。受け取ると、まだ温かかった。
「腹が減っても、昼までは開けるな」
「朝飯なら食べましたよ」
「ならば、昼まで持つじゃろう」
包みを荷物の上へ載せた。米の匂いがする。百年前には、こういうものを持たずに歩く日の方が多かった。
「先生も、あんまり無茶しないでくださいよ」
「誰に言うておる」
「俺より強い人ですよ。怪我をしないからって、休まなくていいわけじゃないでしょう」
山本が片眉を上げた。
「言うようになったのう」
「百年も聞いてれば、少しは覚えます」
門の外へ出て、振り返った。山本は門柱の脇に立ち、俺を見ている。初めて来た時も似たような顔をしていた。あの時は、何を考えているのか分からなかった。
今も全部は分からない。けれど、俺が歩き出すまでそこにいるつもりなのは分かった。
「行ってきます」
「うむ」
包みを担ぎ直し、道を南へ曲がった。
しばらく歩くと、塾から木刀の音が聞こえてきた。いつもの稽古が始まったらしい。そちらへ耳を傾けたまま、懐へ手を入れる。
昼飯の包みを開いた。
握り飯が三つ入っていた。一つ取り、齧る。塩がよく利いている。これなら昼まで残しても旨いだろう。
残りを包み直していると、腰の刀から声がした。
「言いつけも守れぬお方が、よう百年も置いてもらえたものじゃ」
思わず笑った。
「お前まで言うなよ。歩くと腹が減るんだ」
「歩き始めて、まだ幾らも経っておりんせんよ」
「これから歩く分もあるだろう」
「まあ。先のことまで、よう気が回りんすなあ」
ゆめの笑う声がした。握り飯をもう一つ食べようか迷ったが、包みを懐へ戻した。今から言い争っていては、日が暮れるまで何を言われるか分からない。
家の並ぶ道を抜け、畑の脇を通った。塾から離れるほど、人の姿は少なくなる。昼頃には山道へ入り、葉の間から差す光を踏みながら歩いていた。
前に通った道だった。坂の上に水の湧くところがある。そこで残りの飯を食べようと思っていると、向こうから男が下りてきた。
右腕を抱えていた。袖は血で濡れ、指の間から滴が落ちている。
「上で何かあったのか」
男は足を止めた。俺の顔を見てから、腰の刀へ目を落とす。そのまま道の端へ寄ろうとしたので、こちらも反対側へ退いた。
「別に、通せんぼするつもりはないよ」
男は返事をせず、俺の脇を抜けた。何歩か下りてから、ようやく振り返る。
「刀を置いていけ」
「……俺のを?」
「上にいる連中だ。刀を持ってる奴からは、刀を取る。持ってない奴からは銭を取る」
男の右手には、鞘だけが握られていた。親指で鍔を押し上げようとしていた時のまま、指が曲がっている。
「渡したのに斬られたのか」
「抜こうとした」
それだけ言って、男はまた坂を下り始めた。
「ちょっと待ってくれ。その腕、手当てくらいはさせて」
近づくと男が身を固くした。俺は刀から手を離したまま、掌を傷へ向ける。裂けた袖の下で、皮膚が少しずつ塞がっていった。血が止まると、男は抱えていた腕をそっと伸ばした。
「……あんた、塾の人か」
「さっきまでね」
男は俺と坂の上を見比べた。
「行くのか」
「水を飲みたいんだ。上に湧いてるだろう」
道を空けてもらい、坂を上った。背後から何か言いかける声がしたが、続かなかった。
「刀を欲しがるお方が、またおりんすなあ」
腰から声がした。
「悪いけど、渡す気はないよ」
「わっちに言われても困りんす。欲しいと言うたお方へ、そう言いなんし」
木立の向こうに、三人の男が見えた。道へ丸太を転がし、その上へ腰を下ろしている。
足元には、刀が五本並んでいた。
真ん中の男が立ち上がった。俺の包みを見てから、腰の刀へ目を移す。
「通るなら、それを置いていけ」
「水を飲みに来ただけなんだけどね」
「聞こえなかったか」
男が刀を抜いた。刃には血が残っていた。さっき下りていった男を斬ったのは、こいつらしい。
残る二人も丸太から腰を上げ、左右へ分かれた。俺の後ろへ回るつもりだろう。左手で荷物を肩から下ろし、道の脇へ置いた。
「刀は渡せないよ。それと、足元の五本も返してもらいたい」
「誰にだ」
「取り上げた相手に。さっき一人、下りていっただろう」
真ん中の男が笑った。
その間に、右へ回った男が踏み込んできた。抜いた刀を下から斬り上げる。半歩退いて避けると、今度は左の男が背後へ回ろうとした。
右手を開いた。
「白き糸、千々に渡れ。逃るる足を縫い留め、刃持つ腕を地に伏せよ⸺
白い糸が道を走った。
右の男の手首へ巻きつき、刀ごと腕を引き下ろす。背後へ回りかけた男は両足を取られ、顔から地面へ倒れた。真ん中の男がこちらへ刀を振る前に、残る糸が肘と膝を縛った。
三人とも地面へ伏せた。身体を起こそうとするたびに糸が張り、腕も脚も動かなくなる。
俺は開いた手を下ろした。
昔なら、こうして縛った後も指を動かしていた。抜け出そうとする相手に合わせ、巻く場所を変えたり地面へ打ち込む糸を増やしたりするためだ。
今は見ているだけでいい。男が腕を引くと、緩んだところへ新しい糸が重なった。逃げようと足を捻れば、足首から膝まで縫い止められる。
唱えた言葉の通りに、術が働いていた。
「百年かけた甲斐はあったな」
荷物を拾い、丸太を跨いだ。湧き水はその向こうにある。竹筒へ水を汲み、掌に受けて飲んだ。
「おい、解け!」
背後から声がした。
振り返ると、真ん中の男が顔だけを上げている。その横では別の男が刀を取り落とし、指先で柄を探っていた。
「まだ動くか。腕の方は、もう少し強くてもよかったかな」
「そういう話じゃねえ!」
竹筒へ栓をして、男たちの傍へ戻った。
「じゃあ、話をしよう。あの五本の持ち主は、どこにいる?」
男は黙った。俺の顔を睨み、それから腰の刀を見る。
こちらはまだ、一度も柄に触れていなかった。
「知らねえよ。みんな下りてった」
真ん中の男が答えた。
五本の刀へ目を向けた。鞘ごと置かれたものが四本。残る一本は抜き身で、刃が土に触れている。さっきの男が持っていた鞘に、長さが合いそうだった。
「銭も取った?」
「……少しだけだ」
「じゃあ、出してもらおうか」
男の右腕を縛っていた糸だけを緩めた。身体は地面へ伏せたままだが、懐には手が届く。
指が着物の内側へ潜った。
出てきたのは銭ではなく、小刀だった。
男が腕を振り上げるより早く、白い糸が手首へ巻きついた。そのまま腕を背中へ引き上げる。小刀が落ち、男の喉から短い悲鳴が漏れた。
「銭を出してって言ったんだけど」
今度は返事がなかった。小刀を拾い、手の届かないところへ置く。
隣の男が、慌てて声を上げた。
「俺の帯だ。右に袋がある。全部そこへ入れた」
言われた通り、帯から袋を外した。中には銭のほかに、櫛と小さな耳飾りまで入っていた。
もう一度、三人を見た。
「刀を持ってない人からも、随分取ったんだな」
誰も答えなかった。
袋を拾った刀の脇へ置き、指を動かした。三人の身体が白い糸に引かれて起き上がる。背中を丸太へ当て、腕と胴をまとめて縫い止めた。足も揃えて地面へ留める。
「ここで待ってて。持ち主を呼んでくるから」
「いつ解けるんだ」
「返すものを返してからだね」
坂を下りかけて、足を止めた。
腰から、ゆめの声がした。
「戻る道まで決まってしまいんしたなあ」
「まだ半日も歩いてないんだけどね」
「長い旅にすると、仰っておりんせんでしたか」
門を出た時の山本の顔を思い出した。今日のうちに戻れば、何を言われるだろう。
いや、俺が戻る必要はない。
湧き水の脇から平たい石を拾い、指先を当てた。表面を細く削って、山道の場所と三人のことを書きつける。最後に、刀と銭の持ち主を探してほしいと添えた。
石を掌へ載せ、塾の方へ向ける。
「⸺
白い羽が石を包んだ。小さな鳥の形になり、掌から飛び立つ。枝の間を抜けて坂を下り、その姿はすぐに見えなくなった。
百年暮らした場所なら、届け先を思い浮かべるのにも困らない。
「先生から、返事は受け取らなくていいぞ」
届く前に言っておいた。伝える相手が聞いていたかは、少し怪しかった。