白き矢羽に 春は裂け
帰りし空に 朱は満ちる
60. 朱天の戦野
鍬を入れた土が、畝の横へ崩れた。
次を掘ろうとした手を止め、俺は山の向こうへ顔を向けた。重なっていた木々の気配より遥か遠くで、幾つもの霊圧が膨れ上がっている。初めに感じたものを追う間にも、別の場所から新たな力が噴き上がった。
その中に、先生がいた。
柄を握ったまま、しばらくそちらを見た。以前、無間で向き合った時と同じ熱が、ここまで届いている。周囲にある霊圧も強い。先生のものに押されながら、なお退かずにぶつかっていた。
「爺さん」
縁側で豆の莢を剥いていた爺さんも、顔を上げていた。
「感じておるよ。お前の先生だけではないな。あちらも、こちらも、随分と騒がしい」
「瀞霊廷だ。こんなに大勢で斬り合うような場所じゃないはずなんだけどな」
鍬を畑の端へ置いた。
縁側へ戻り、外しておいた刀を腰へ差す。爺さんは膝の上の笊を脇へ寄せ、俺の手元を見ていた。
「行ってくる。先生があそこまで霊圧を高めてるなら、ただ事じゃない」
「帰りは、自分で道を開けるか」
「ああ。今度は、帰るところまでちゃんと覚えてるよ。畑の残りもやるから、置いといてくれ」
「お前を待っておったら、植える時期が過ぎるわ。帰ったら、次を手伝え」
爺さんは立ち上がらなかった。
俺も、ついてきてくれとは言わなかった。草履へ足を入れ、袖を直す。腰の刀へ指を添えると、ゆめの声がした。
『お出かけには、随分と賑やかなお迎えでありんすな』
「飯を持たせてもらう暇もなさそうだ。戻ったら、爺さんの分まで食うことにしよう」
『それは、帰ってからお頼みなんし。わっちに仰っても、畑の芋は増えんせんよ』
少し笑って、両手を開いた。
爺さんの山へ戻ってから、およそ百年が経っていた。
ここで暮らし、時には山を離れ、先生のところへも顔を出した。瀞霊廷へ行くたびに、町は少しずつ変わっていた。先生の私塾をもとに
先生自身は、一番隊隊舎へ移っていた。
会いに行けば、机へ積まれた書類を前にしていた。俺が入ると筆を置いたこともあれば、話をしながら書き続けていたこともある。庭で弟子の刀を受けていた頃より、顔を合わせるまでに待つ時間が増えた。
その先生が、今は刀を抜いている。
隊舎の庭へ渡るつもりで、道の先を定めた。
〈
開いた道から、煙が流れ込んできた。
向こうで、屋根が崩れた。
*
庭へ足を下ろした時、頭上を白い光が通った。
背後の塀へ突き刺さり、瓦と土を吹き飛ばす。俺は道を閉じ、飛んできた欠片を袖で払った。庭の隅にある木が折れ、縁側には血を引きずった跡が残っていた。
先生は、ここにはいなかった。
長次郎の気配も、もっと遠くにある。先生の霊圧へ向かおうとしたところで、表から男の叫び声が聞こえた。
塀の切れ目を抜ける。
道へ死神が倒れていた。片脚が不自然な方へ曲がり、折れた刀を胸の前へ構えている。その先には白い服の兵が三人いた。うち二人が、光の弓を引いていた。
名が浮かんだ時には、矢が放たれていた。
「縛道の八十一⸺
死神の前へ、壁を立てた。
白い矢がぶつかり、左右へ砕ける。後から放たれたものも同じ壁へ当たった。俺は倒れている男の襟を掴み、崩れた塀の内側へ引いた。
「悪い。その脚じゃ、少し痛むだろ。ここで待っててくれ」
「あなたは……一番隊の方ですか」
「先生の知り合いだよ。何があった? あいつら、いつ入ってきたんだ」
「急に、町へ……各所で交戦しています。総隊長も、隊長方も出られました」
それだけ聞いて、道へ戻った。
白い兵が、こちらへ弓を向け直していた。一人が仲間へ何か言う。壁を避けるためだろう。左右の二人が屋根へ上がり、俺を挟む位置へ移った。
弓を構えた腕へ、大気の霊子が集まっていた。
中国で、婆さんの手を眺めたことを思い出す。取り込んだ霊子を従え、自分の望む形へ作り上げていた。今、目の前にある弓も、番えられた矢も、同じように周囲から力を集めている。
ただ、その先へ狙われているのは、俺の知る町だった。
三人が、弦を放した。
瞬歩を踏み、正面の兵へ近づいた。矢が背後を抜ける。刀を抜きながら首へ振るうと、白い襟の上から血が噴いた。
左右の兵が、俺を追った。
右の屋根へ移り、弓を持つ腕ごと斬り下ろす。振り抜いた刃を戻す間に、最後の一人がこちらへ矢を向けていた。左手を開き、その胸へ掌を向ける。
「破道の三十一⸺
火が、白い服を包んだ。
男が屋根から落ちる。弓が消え、道へ落ちた身体は動かなかった。
俺は刃についた血を払い、最初の死神へ戻った。男は壁へ背を預け、浅い呼吸を繰り返していた。肩にも傷があり、袖から指先へ血が流れている。
「ほかに動ける奴はいるか。ここから離れた方がいい」
「裏へ、二人……負傷者を運んでいます」
「分かった。そっちへ繋ぐから、脚は動かさなくていいぞ」
裏手の気配を確かめ、短く道を開いた。
向こうの死神が刀を構えたが、こちらにいる男を見て駆け寄ってきた。二人で肩を支え、道の先へ運んでいく。
「この人を頼む。俺は先生のところへ行く」
「総隊長のところへ? あちらは敵の主力が⸺」
「だから、行くんだよ」
道を閉じ、屋根へ上がった。
瀞霊廷のあちこちから、煙が立っていた。
白い兵が道を進み、その前へ黒い死覇装の者たちが出ていく。刀が振られ、矢が放たれる。倒れた身体を跨いで次の者が踏み込み、後ろにいる兵が弓を引く。どちらも止まらなかった。
白い羽織が、一つ見えた。
長い黒髪が流れ、刀が横へ抜ける。その前にいた兵の首が落ちた。八千流は倒れる身体へ目も向けず、次の男へ踏み込んでいた。屋根の上から矢が放たれると、死体を掴んで前へ出し、その陰から刀を振るった。
笑っていた。
俺と斬り合った時よりも、ずっと深く。
離れた場所でも、強い霊圧が動いていた。白い羽織の者たちが敵の列へ入り、兵を斬り伏せていく。その後ろを死神たちが続いた。矢を受けて倒れる者がいても、前にいる隊長は振り返らなかった。
俺は先生の気配へ顔を向けた。
遠くで、炎が上がった。
屋根よりも高い。白い兵の列を呑み、道の先まで朱に染める。その中を、先生が歩いていた。後ろにいる死神たちが足を止める間にも、炎の向こうへ刀を振っている。
あの先に、敵の頭がいる。
周囲の兵とは違う霊圧だった。先生の火を前にしても動かず、強い力を一か所へ収めている。その傍には、長次郎がいた。
俺は屋根を蹴った。
途中の道で、白い兵がこちらへ弓を向けた。矢が十本以上、進む先へ集まってくる。その下には、負傷した死神を抱えた男がいた。
俺は二人の前へ降り、刀を立てた。
〈現を離れ、夢路を辿れ。待つ夜に果てはなし、
霊圧が、道へ広がった。
髪を括った紐が解け、黒髪が背へ落ちる。金、白、赤の房が肩の前を流れ、黒地の袖から朱の裏が覗いた。反った刃へ迫る矢を触れさせ、返す刀で払い消した。
兵たちの手が止まった。
「その人を連れて、後ろへ下がってくれ。こっちは俺が片づける」
背後の死神へ言い、左手を開いた。
黒い霧が、道を渡った。
「
弓を引こうとした腕が止まる。
後ろの兵も霧を浴び、半ば引いた弦を残して動かなくなった。俺は瞬歩でその列へ入り、一人目の首を斬った。返す刃を隣の胸へ入れ、抜いた刀で三人目の喉を裂く。
血が、白い服へ広がった。
霧の外へ逃れた兵が、矢を放った。切っ先へ触れさせて眠らせ、払い消す。その向こうへ踏み込み、弓を握った男を肩から斬り下ろした。
道に立つ者が、いなくなった。
刀を下げて振り返ると、二人の死神は塀の陰へ抜けていた。俺は袖を寄せ、先生のいる方へ向き直る。
今日は、飯を食いに来たわけではなかった。
八千流に誘われた手合わせでも、先生へ旅の成果を見せる日でもない。さっき縁側を出た時から、斬った相手を立たせて帰すつもりはなかった。
『お前様。あちらの炎が、また大きゅうなりんした』
ゆめの声へ、顔を上げた。
朱の向こうで、大きな刀が持ち上がった。
その刀を握る男の顔が、一瞬だけ見えた。長い黒髪と、濃い口髭。どこかで見たことがある。思い出そうとした時、先生の霊圧が更に膨れ上がった。
男が、先生を見て笑った。
俺は刀を握り直し、炎の立つ戦場へ向けて瞬歩を踏んだ。