荒れたる世に 星は満ち
帰らぬ名に 夜は降りる
「卍解⸺
頭上の白い矢が、消える。
刀で受ける必要も、返して払う必要もない。俺の夜へ入ったところから永遠の眠りへ落ち、断空を叩いていた音が途切れていく。すぐ傍で目を閉じた死神が、恐る恐る顔を上げた。
もう、降ってこないよ。
そう声を掛ける代わりに、夜を広げる。石畳も、倒れた身体も、運ぼうとする者たちも眠らせない。その間を縫って、白い矢だけを消していく。ゆめと長く旅をしたお陰で、こういう選び方にも慣れたものだ。
空へ星がともる。
煙の向こうまで夜の帳が下り、兵たちの持つ弓が白く浮かび上がる。こちらへ向け直されたものもあったが、好きに撃てばいい。今度は、後ろへ逸らした弾の始末まで気にする必要がない。
隣へ立ったゆめが、俺の顔を覗いた。
『ようやく、お傍へ出られんしたな』
「待たせたな。今日は、ゆっくり話してる暇がない」
『ええ。帰ってから、長うお付き合いいただきんす』
その時には、付き合うよ。
俺は頷き、差し出された手へ自分の手を重ねる。指に触れる温もりを確かめれば、ゆめも同じように握り返してくれた。
昔は、この手に触れるために眠らねばならなかった。
今は、俺が起きているここへ、二人で来られる。
〈
白銀の光が、俺たちを包む。
刀の重さが掌から失われ、ゆめの身体が胸の内へ重なっていく。長い髪が白銀へ染まり、袖も裾も同じ色へ。帯の前へ指を揃えると、金の文様だけが光の中へ残っていた。
柱となった霊圧が、空へ抜ける。
町へ広げた黒い夜は白銀へ変わり、煙を押し分け、その先の屋根まで照らしていく。俺はそこから動かず、更に遠くへ意識を向けた。
分かる。
隣の通り。倒れた塔。東で消した線が食い込んでいた瓦。先生の庭に残った木の根も、俺が通ってきた道も。
その上へ、満天の星がある。
こんな日に見せるには、綺麗すぎる空だった。
柱の光が薄れると、和尚がこちらを見ていた。肩へ置かれていた掌は、もう離れている。俺は白銀の袖を寄せ、その向こうにいる死神たちへ顔を向けた。
「『もう、お運びになってようござりんす。上から降るものは、わっちらが止めんすから』」
若い男が、俺の顔と髪を見比べる。
驚くのは、後にしてほしい。俺も初めてこの姿になった時は、少しばかり自分の胸元を確かめたくなったけれど、今はそういう暇がないのだ。
男が仲間へ声を掛け、倒れた身体を持ち上げる。それを見届けてから、空へ浮かんだ白い輪へ指を向けた。
俺たちの頭上だけではない。
隣でも、その向こうでも、輪を形作る霊子が分かる。そこへ集められた力も、下の兵たちから流れ込むものも。随分と大勢で、随分と大きなものを作ってくれた。
けれど、俺とゆめは、もう集めるところから始めなくていい。
白い輪が、星明かりへほどけていく。
放たれた矢も同じだった。塀の陰へ迫るもの、負傷者の背へ落ちるもの、空中で次を待つもの。その一つずつへ触れ、尖った形を失わせる。
弓を握った兵が、空を見上げる。
もう一度作ろうとした矢は、指の間から光となって零れた。
「『今宵は、もうおしまいでござりんす』」
声にしたところで、遠くの兵たちまで聞こえるはずはない。
それでも、分かってもらえるだろう。何を作ろうとしても、俺たちがそこにある霊子へ触れている。弓も銃も剣も、もうその手へ残してやるつもりはない。
西で火が上がる。
先生の刀が振られ、その前にいた男が大きな剣で受けていた。ユーハバッハ。俺が東へ向かった時と同じ顔で、けれど今度は、先生の向こうに広がる夜を見ている。
八千流も、空へ顔を向けた。
その隙へ、大きな男が踏み込む。白い光を纏った拳が八千流の胸へ届く寸前、俺はそこへある霊子を留めた。
拳が止まる。
八千流の刀は、止めない。
男の首へ刃が抜け、白い服へ血が広がる。こちらを探すように顔を動かした八千流へ、聞こえないと知りながら、俺は少し笑った。
その一人くらいは、あんたに返すよ。
あとは、俺たちが引き受ける。
袖の内で、指を開く。
町中の滅却師へ、触れた。
弓を失って剣を抜いた者。空へ逃れようとする者。死神へ掴みかかり、その首を折ろうとしていた者。その腕も足も、身体を支える霊子も、今は俺たちの手が届くところにある。
止めることができる。
解放を収めれば、また動き出す身体だった。
俺は、それで終わらせなかった。
首へ、胸へ、切れ目を入れる。刀を振るう時と同じように、相手を殺すために。
白い服へ、血が滲む。
道の上で、屋根の上で、兵たちが崩れていく。声を上げる間もなく倒れた者もいれば、手にあった剣を落とし、胸を押さえようとした者もいた。俺はその最後まで見ていた。
この姿なら、遠くにいる相手も殺せる。
そのことは、もう知っている。
だからこそ、見ずに済ませる気にはなれなかった。
死神たちの刀が、宙へ残る。
斬ろうとした相手が先に倒れ、撃たれるはずだった矢が消えた。負傷した仲間を庇っていた男が顔を上げ、まだ動く敵はいないかと周囲を見回している。
いないよ。
少なくとも、その道には。
俺は次の通りへ、門の向こうへ、崩れた家の裏へ意識を巡らせる。隠れて弓を作っていた兵にも、仲間を率いて退こうとしていた男にも、同じように刃を通す。
俺が歩けば、何度も曲がらねば辿り着けないところまで。
足は、動かさない。
ただ袖を重ねたまま、この町へ残った敵を斬っていく。
「……これほどか」
和尚の声がした。
俺は顔を向けず、石畳へ立つ足の裏を確かめる。今朝は土を踏み、鍬を握っていた。爺さんは縁側で豆の莢を剥いていて、俺が帰る頃には、畑の残りも済ませているかもしれない。
同じ手で、今はこれをしている。
ゆめも、黙っていた。
俺たちが何を選んだか、そのことを話し合う必要はない。
*
最後まで剣を手放さなかった男が、一人いた。
ユーハバッハ。
先生と向き合うその手からも、霊子で作った刃は崩れていく。握り直しても、力を込めても戻らない。男は空いた掌を見て、それから俺たちのいる方へ顔を向けた。
かなり離れている。
それでも、俺にはその目が見えた。
「山本。あれも、お前の護廷か」
先生は答えず、刀を振るう。
ユーハバッハが身を引き、その脇腹へ焼けた刃が入る。血が噴き、白い外套の下へ広がった。俺は男の周囲へ集まりかけた力を収め、足元から作ろうとした武器も形にさせない。
先生の背後へ、長次郎が回る。
俺が昔、塾で見ていた時と同じように、二人は声を掛けなかった。先生が前へ踏み込めば、長次郎はその陰を抜ける。
ユーハバッハの身体へ、刀が突き入れられた。
背中から。
男が振り返ろうとする。その肩が動ききる前に、先生の刃が胸へ落ちる。俺はその一瞬も、目を逸らさずに見ていた。
白い外套が、石畳へ広がる。
先生は倒れた男を見下ろし、まだ刀を下げない。長次郎も刃を抜き、横へ立つ。二人の周りには、もう弓を向ける兵も、援けに来る者もいなかった。
男の胸の内へ、微かな力が残っている。
俺はそこへ意識を向けた。
「烏有」
和尚に呼ばれ、顔を向ける。
「あれは、わしが見届ける。おんしは、まだ息のある者を頼む」
その顔を見てから、俺は頷いた。
聞きたいことはある。どうしてあの傷で力が残っているのかも、前世で見たあいつが、その後どうなったのかも。
けれど、今ここで思い出せない話を探るより、まだ間に合う者へ手を向けたい。
胸の切れ目を繋ぎ、腹へ開いた穴を塞ぐ。
俺の断空の下にいる者だけではない。崩れた屋根へ挟まれた者も、塀へ背を預けた者も、仲間に運ばれている途中の者も。息があり、身体へ霊力が流れているところを辿り、その傷へ触れる。
血を失った身体には、失った分を戻す。
折れた脚も、裂けた腕も繋ぐ。
先生の傷を塞いだ時より、ずっと数が多い。それでも、どこへ手を伸ばせばいいか分かる今は、一人を治し終えるまで次を待たせる必要がなかった。
運ばれていた死神が、自分の胸を撫でる。
担いでいた仲間まで足を止め、背中の男へ顔を向けた。何が起きたのか分からないまま、二人で傷のあったところを確かめている。
よかった。
少なくとも、その二人は帰れる。
俺はもっと遠くへ探し、次の身体へ触れた。その隣に伏せた白い羽織にも、手を伸ばしかける。
止まる。
傷を繋ぐことはできる。
けれど、失った魂魄をどうにかする術はなかった。
袖へ揃えた指を、少しだけ握る。ゆめの温もりが、その手へ重なる。何も言わずにいてくれることが、今はありがたかった。
星明かりの下で、誰かが隊長を呼んでいる。
傷の塞がった声で、何度も。
俺はこの町へ降る矢を止めた。残った敵を斬り、まだ生きている者を治した。先生も、長次郎も、八千流も、今は刀を下げている。
戦争は、終わった。
それでも、隊長を呼ぶ声は止まらない。
俺は白銀の袖を重ねたまま、その声を聞いていた。