結ばぬ縁に 袖は触れ
帰らぬ声に 灯は揺れる
66.掌中の春灯
人を斬った手で、包帯を巻いている。
別に、初めてのことではない。旅の途中で怪我人を拾ったこともあれば、自分の傷へ布を押しつけ、血が止まるまで座っていたこともある。ただ、今俺が巻いている男は、さっきまで俺と一緒に材木を運んでいた。
「痛かったら言ってくれ。こういうの、上手いとは言えないから」
「いえ。大丈夫です」
「今、眉間に皺が寄ったぞ」
「……少し、きついです」
ほらな。
巻いたところを緩め、もう一度結び直す。男は手を開いたり閉じたりしてから、ようやく息を吐く。掌へ刺さっていた木片は抜いたが、傷はそのままだ。刀を解けば、布を持ってくるより早く塞げる。それを分かっているせいで、余計に手際の悪さが気に障る。
和尚の許しは、あの戦争を終わらせるためのものだった。片づけの途中で手を切ったからといって、空へ夜を広げていいわけではない。俺だって、そこまで話を大きくしたくはないのだけど。
「しばらく、その手で物を持たない方がいい。向こうには俺から言っておく」
「この程度で休んでは、ほかの者に申し訳が……」
「じゃあ、材木の数を数えてくれ。積んであるのと、使えるのと。あれ、誰もちゃんと分けてないだろ」
仕事がなくなるわけではないと分かれば、男も頷いてくれる。よかった。休めと言うだけで素直に休むなら、こんな怪我をするまで働いていなかったはずだ。
俺は水桶へ手を入れ、指についた血を洗う。
戦争から十日余り。
崩れた建物を退ける仕事は、まだ終わらない。道を空ければ今度は屋根が要り、屋根を直せばそこへ物を運ばねばならない。明日には済むと思っていた用事の隣へ、明後日の分が増えていく。先生のところへ残ると言ったのは俺だけど、帰る日を決めずに言っておいて正解だった。
爺さんには、一度顔を見せに戻った。
着替えを取りに行ったつもりが飯を出され、食い終わるまで座らされたのだから、あの人には敵わない。怪我はないと何度も言っているのに、椀へ米を足す手だけは止めてくれなかった。何の治療だったのだろう、あれは。
『お前様。あちらのお方が、お呼びでありんす』
「ああ。今行く」
水を払って振り返ると、薬箱を抱えた女が俺を見ている。先ほど頼んでおいた人だ。男の掌へ包帯が巻かれているのを見るなり、その前へ腰を下ろす。
「木片は残っていませんか」
「見える分は抜いた。奥まで刺さったものはなかったと思う」
「では、確かめます。包帯を外してもよろしいですか」
男が頷くと、女は俺の結び目を解く。
……そりゃあ、外すよな。見ずに治してくれなどと頼んだ覚えはない。それでも、自分が巻くのに掛かった時間を思い返し、少しだけ包帯の端を目で追ってしまう。
傷の上へ、女の掌が翳される。淡い光が指の間へ広がり、開いていた皮膚の縁がゆっくり寄っていく。その間、男の肩からも力が抜けていた。
痛みまで和らぐのか。
俺は傍へ膝をつき、邪魔にならない距離から手元を覗く。塞がったところを押して確かめ、女が新しい布を当てるまで、つい黙って見入ってしまった。
「……何か、残っていましたか」
「いや。あんたの術を見てた」
「回道です。ご覧になるのは、初めてで?」
初めてではない。けれど、こんなに近くから、使うつもりで見たのは初めてだった。これまでなら治療を任せて立ち去るか、自分でどうにかしてしまう。こちらを覚えようとは、あまり考えなかった。
「それ、教えてもらえないか」
女の手が止まる。次に、俺の顔へ目が向いた。
「私が、あなたにですか」
「ほかに習える人がいるなら、その人でもいい。ただ、今のを使えるようになりたいんだよ。包帯だけだと、俺はどうも頼りない」
男が慌てて首を振るので、そっちへ笑ってみせる。気を遣ってもらうことではない。きつく巻いたのは本当だし、何より、あの光の中で息を楽にした顔を俺も見た。
「鬼道はお使いになりますよね」
「それなりには」
「でしたら、お教えできると思います。ただ、今日はまだ診る者がおりますので」
「待つよ。運ぶものがあれば、先に運んでおく」
薬箱へ目を向けると、女は少し考えてから、通りの向こうを指す。
そこにも人がいるらしい。
俺は袖をまくり直し、彼女の持っていた箱を受け取った。
*
習い始めてから、俺の掌には小さな切り傷が増えた。
先生との稽古より、傷そのものはずっと浅い。自分でつけているのだから当然だけど、それを見つけた長次郎には、何をしているのですかと本気で眉を寄せられた。
「人で試すわけにいかないだろ」
「だからといって、繰り返しご自身を傷つける必要があるのでしょうか」
「治せるようになったら、やめるよ」
「……そのお言葉は、覚えておきます」
妙な約束をしてしまった。
だが、心配されるほど深くは斬っていない。血を流すのが目的でもないのだから、指の付け根へ一本、薄く刃を入れるだけ。その上へ手を重ね、教わった通りに霊力を巡らせる。
普段なら、形を作ればいい。壁でも火でも、どう働かせるかは俺が決めている。
今、手の下にあるのは俺の皮膚だ。傷へ触れた力がどう巡り、どこで治り始めるのか、見ながら加減する必要がある。ゆめと重なった時には、繋ぎたいところへ手を伸ばすようにできたことを、今度は一つずつ習っていく。
なるほど。これは、覚えたつもりになる方が危ないな。
光を強めれば早く済むと思った俺へ、教えてくれる女は、傷の周りまで見てくださいと言った。掌全体を温めておいて、肝心の切れ目へ力が届いていない。そこが分かれば、次からは直せる。
傷の縁が寄り、流れていた血が止まる。
閉じたばかりのところを親指で撫でると、隣から声がした。
「そこは、まだ押さないでください」
「塞がったように見えたけど」
「薄く繋がったところです。もう少し待ってからに」
「……分かった。せっかちだな、俺も」
斬る方なら、通ったかどうかはすぐに分かる。それに慣れすぎていたらしい。俺は手を戻し、今度は傷の奥まで確かめながら光を保つ。
こんな小さなところにも、習うことがある。
面白いと思う。思うのだけど、前みたいに、そこだけへ気持ちを持っていけなくなっていた。上手く使えれば、昼に掌を切った男を待たせずに済む。先ほど足を捻った者にも、布を巻く以外のことができる。
次に試す顔が、先に浮かぶ。
『お前様、よう覗き込んでおいででありんすな』
夜、ゆめの前でも掌を眺めていたら、とうとう指を取られた。
花街の奥、いつもの席。ゆめは俺の手を膝の上へ乗せ、治したばかりのところを撫でる。昼には押すなと言われたが、今はもう痛くない。そう言おうとした俺へ、目だけが向いてくる。
「こっちじゃ、傷もついてないだろ」
『ええ。お前様が、お持ち込みになるお話にはついておりんす』
「長次郎と同じこと言うのか。ちゃんと治してるよ」
ゆめは指を離さず、反対の手で杯を寄せた。
『こちらも、ちゃんとお持ちなんし』
はいはい。
受け取って飲めば、その間くらいは掌を見るのをやめられる。ゆめの肩越しには、川へ映った灯が見えた。水面が揺れるたび、長く伸びた色が崩れて、また戻る。
この場所には、何度でも来られる。
それを疑わずに眠れることが、今夜は少しだけありがたい。
「昼に治してた奴、また材木を運ぼうとしてさ。まだやめとけって言ったら、昨日より痛くないからって」
『お前様の術が、よう効いたのでござりんしょう』
「効いたなら、もう少し大事にしてくれてもいいだろうに」
『お前様も、先生にそのようなことを言われなんだか』
……言われた。
治ったのだから動けると言い張った覚えまである。俺は杯へ目を落とし、ゆめが笑うのを聞いていた。
*
先生に呼ばれたのは、ようやく通りから大きな瓦礫がなくなった頃だった。
借りている部屋から一番隊へ向かう途中、薬箱を運ぶ女とすれ違う。教えてもらった礼を言うと、彼女は俺の手を見て、今日は切らないでくださいねと念を押してきた。
評判というものは、随分と早く広がる。
斬魄刀のことなら好きに話してくれていい。だが、回道を習うために自分を斬っている男というのは、少しばかり誤解を招きそうだった。長次郎にも話が届けば、またあの顔をされるに違いない。
その長次郎が、部屋の前で待っている。
「
「何の話か、聞いてる?」
「今後の護廷について、と伺っております」
手伝う仕事が増えるのだろうか。
道を繋ぐなら、先に場所を見せてもらいたい。人を運ぶにしても、その先に何があるか知らなければ困る。そんなことを考えながら入り、先生の前へ座る。
あの夜、刀が並んでいたところには、今は紙が積まれていた。
俺が顔を上げると、先生は筆を置く。
「烏有。護廷へ入れ」
「……俺が?」
妙な返事が出る。俺以外に誰がいる。長次郎も部屋の端へいるが、あの人はとっくにここへ入っているのだから。
先生は、言い直さなかった。
「隊長を務めよ。今の護廷には、人が要る」
「先生。俺、部下を持ったことなんてないよ。人を連れて旅したことだって、ほとんどない」
「知っておる。じゃが、お前はあの戦場で人を下がらせ、運ばせ、自ら前へ出た。ここへ残ってからも、人を使っておる」
「使ってるってほどじゃ……材木を数えてもらったりはしたけど」
先生の眉が動く。
そこを聞かせたいわけではなかったらしい。俺も、こんな返し方をしたいわけではない。けれど、隊長という言葉が出た時から、口だけが余計なところへ逃げようとしていた。
「力のある者から戻ってくれば、席を埋めるにも時間が掛かる。残った者を束ね、育てねばならん。お前に、一隊を預けたい」
「……俺は、あんまり長く同じところにいるつもりじゃなかったんだ」
「今もか」
すぐには答えられない。
俺は旅が好きだ。まだ見ていないところへ行きたいし、何もない場所で、ゆめと二人で過ごす時間も気に入っている。先生もそれを知っているから、昔は送り出してくれた。
今だって、行こうと思えば行ける。
なのに、ここを離れた後のことが先に浮かぶ。治した男の手は、もう材木を持っていいのか。回道を教えてくれる女は、毎日あの数を一人で診るつもりなのか。長次郎は、俺が帰ったらちゃんと休むだろうか。
大した数でもないのに、もうこうだ。
隊を預かれば、朝には何十人もの顔を見る。用事を頼み、稽古をつけ、帰ってきた奴へ報告を聞く。名前を知らずに済むはずがない。誰が飯をよく食うか、誰が無茶をするか、誰が叱られると黙り込むか。
そういうことまで、きっと覚える。
そして、一人戻らなければ、その顔が浮かぶ。
「……少し、考えさせてくれ」
先生は俺を見たまま、しばらく黙っていた。
断るなら、いつもの言い方があったはずだ。旅がある。堅苦しいところは苦手だ。偉くなるのは向いていない。何を言っても先生は一度くらい怒り、それから、好きにせいと返してくれただろう。
今日は、そのどれも出てこない。
「よい。返事は待つ」
「ありがとう」
「じゃが、何が嫌なのかは、自分で確かめてから来い」
顔を上げると、先生はもう紙へ目を戻している。
俺は膝へ置いた手を握り、ゆっくり開く。掌に傷は残っていない。そこを見る癖までついたらしい。
「先生はさ」
筆が止まる。
「また、人を集めるんだな」
聞くまでもない。ここへ来る前から、俺は知っていた。それでも先生の口から聞きたくなり、座ったまま返事を待つ。
「集める。ここを空けてはおけん」
先生は顔を上げた。
「今、生きておる者まで失うわけにはいかぬ」
俺は頷き、それ以上は聞かなかった。
*
帰り道で、声を掛けられる。
包帯を巻いた男だった。手を振っているので、俺もそちらへ向かう。掌はもう治っている。材木の山へ寄りかかり、空いた手で紙を押さえながら、運び出す順番を確かめていた。
「烏有様。こちらの分、数え終わりました」
「その手、もう痛くないか」
「ええ。今朝からは握っても平気です。ですから、運ぶ方も手伝おうかと」
「今日は数える方を続けてくれ。運ぶのは俺がやるよ」
また俺が、と言いかけた顔になる。先に紙を受け取れば、男は諦めたように笑った。
「では、こちらが先です。あちらの屋根に使いますので」
「分かった。……そういえば、名前、まだ聞いてなかったな」
男が名乗る。
俺は一度、口の中で繰り返した。
覚えないでいたかったのかもしれない。
先生にも、爺さんにも、そんなふうに思ったことはなかった。あの二人が俺より先に死ぬところなど、想像しようにも難しい。飯を食い、茶を飲み、俺が馬鹿なことをすれば叱る。旅から戻っても、そこへ顔を出せば会える。
俺は、そのつもりで懐いていたのだろう。
目の前の男は違う。俺が塞げるくらいの傷でも、血を流して顔をしかめる。戦場へ行けば、俺の着く前に死ぬかもしれない。
それでも、もう名前を聞いてしまった。
「これ、持てばいいんだな」
「はい。向こうで二人、待っております」
材木を肩へ上げる。男が紙を退け、道を空けてくれる。その手へ包帯がなくなったことを、俺はもう一度確かめてから歩き出す。
先生への返事は、まだ決まらない。
ただ、運び終えた後に誰へ声を掛ければいいのかは、もう分かっていた。