留まる袖に 風は宿り
結ばれし名に 道は続く
飯をよそう椀を二つ出してから、俺は帰るつもりだったことを思い出した。
爺さんは向こうで漬物を切っている。俺が棚へ椀を戻そうとすると、包丁を止めもせず、そちらへ顎を向けた。
「食うていけ。もう炊いてしもうた」
「俺が来る前から炊いてただろ」
「一人で二人分食うてもよいがな」
それはそれで、やりそうなのが困る。
椀を並べ直し、鍋の蓋を開ける。湯気の向こうで米が光り、腹まで素直に鳴ってくれた。瀞霊廷へ戻ってから食えばいいと思っていたのに、この匂いを嗅いでしまっては、もう無理だ。先生への返事を考えるために戻ってきて、最初に決まったのが晩飯とは。
爺さんの前へ膳を置き、俺も向かいへ座る。畑から持ってきた菜が汁に浮いていた。何度も食ったものなのに、外で暮らしてから口にすると、汁まで残すのが惜しくなる。
「山本に、何か言われたか」
「隊長をやらないかってさ。護廷の穴が大きすぎるから、俺にも一隊持ってほしいらしい」
爺さんは菜を噛み、飲み込んでから俺を見る。
「返事は」
「まだ。考えさせてくれって言ってきた。……爺さん、俺が部下を連れてるところ、想像できる?」
「畑で人に指図するところなら、見たことがある」
「あれは畝を踏むなって言っただけだろ」
「踏まれると困るから言うたんじゃろう。困ることが増えれば、言うことも増えるわ」
なるほど。確かに、黙っていて勝手に覚えてくれるのを待つのは、俺も得意ではない。
けれど、畑なら踏まれたところを直せば済む。人を預かって、間違えたからもう一度というわけにはいかない。俺が教えたことを頼りに刀を抜き、そのまま帰ってこなくなったら、教えた時の顔まで思い出すのだろう。
椀の底へ残った米を拾いながら、そのことを話す。爺さんは途中で口を挟まず、俺が箸を置くまで聞いていた。
「覚えてしまうのが、嫌か」
「……嫌っていうか。顔を覚えた奴が物言わぬ骸になって帰ってくる時を考えるとな。俺がいたのにって、あの日のことだけでも何度も考えるから」
「そうか」
短い返事だった。
それから爺さんは自分の椀を置き、膳の端へ零れた米を箸で摘まむ。昔の話をしてくれる時と同じ顔で、俺の肩越しにある戸口へ目を向けていた。
「お前が初めてここへ来た時も、儂は飯を食わせたな」
「ああ。随分と図々しく居ついたけど」
「最初から百年もおるとは思わなんだ」
俺も思っていなかったよ。
何か分かりそうだと山へ通い、分からなければ家へ戻る。刀を振る合間に薪を割り、畑へ出て、飯を食う。そのうち、使う椀まで決まっていた。旅の途中で寄ったはずの家に、自分の道具を置く場所ができたのだ。
「それで、旅へ出た」
「出たな」
「儂は、お前の椀を捨てなんだぞ」
棚を見る。
今朝出したものと、同じ形の椀が幾つか並んでいる。けれど、俺が使っているものはいつも同じだ。縁に小さく欠けたところがあって、そこへ指を掛ける癖までついている。
「帰ってくると思ってたのか」
「帰ってきても、飯が食えるようにはしておいた」
爺さんは汁を飲み、空いた椀を膳へ戻す。
俺がここを離れている間にも、この人は米を炊いていた。畑へ出て、薪を割り、雪の外へ下りる日を選んでいたのだろう。その棚に、俺の椀があった。
俺は空になった膳を持ち、台所へ立つ。洗い終えた椀を拭いていると、背後から声がした。
「今夜は、泊まるか」
「いや。向こうへ戻るよ。明日、先生に話してくる」
「そうか。なら、菜を持っていけ」
振り返れば、既に束ねてある。
俺が何と返事をするのか、爺さんは聞かなかった。代わりに菜の束へ芋まで足し始めるので、流石にそちらは止める。台所を借りているわけではないし、俺の部屋へ土のついた芋を転がしておいても、すぐには食えない。
「飯を食うところはあるんだよ」
「腹が減ったら、戻ってこい」
「……うん。また来る」
椀を棚へ置き、菜の束を受け取る。
ここへ置いていくものが、今日も一つある。
*
『それで、お返事はお決まりで?』
ゆめが髪へ挿していた簪を抜く。俺は隣へ座ったまま、渡されたそれを受け取り、机の端へ置いた。川に近い窓が開いていて、灯を映した水面から、涼しい風が入ってくる。
「引き受けようと思う。まだ、心配はあるけど」
『ええ。お前様は、ようお考えになること』
長い髪が肩へ落ちる。ゆめは指でそれを揃え、俺の方へ身体を向けた。
「俺が教えてやれることなら、結構あるんだよな。鬼道も、逃げ方も。先生に習ったことだけじゃなくて、旅の途中でどうにかしてきたことも」
『山へお逃げになったことも、川へ飛び込まれたことも』
「あったな。あの川、思ったより流れが速くてさ。逃げ切った後まで大変だった」
『わっちは、お前様がお刀を離されぬか、そればかり気にしておりんした』
あれを教えるなら、「川へ入る前に流れを見るように」からだな。
笑いながら思い返しても、当時は必死だった。相手が強いのに退くのが遅れたことも、退こうとして道を失ったこともある。生きているからこうして話せるだけで、運がよかったと思うことなら、両手で数えても足りない。
同じことをする奴がいたら、先に言ってやれる。
「俺がずっと傍にいるわけにはいかないし。いなくても帰ってこられるように、教えておきたい」
『ご一緒に旅をなさるおつもりでは、ござりんせんの?』
「連れていく時もあると思う。でも、二人で出掛ける時間は残すよ。そこまでやめたら、俺も落ち着かない」
ゆめの目が、少し細くなる。
『ならば、お戻りになる日もお決めなんし。お前様のひと巡りは、長うござりんすから』
……それは、確かに。
山の向こうまでと思って歩き始め、気づけば海へ出ていたことがある。その先も気になると渡ってしまい、帰ってから数えた年に自分で驚く。待っている奴ができてからも同じことをしていたら、先生の拳だけでは済まないかもしれない。
「気をつける。少なくとも、何も言わずに百年いなくなるのはやめるよ」
『ええ。お前様がお留守の間に、わっちがお返事をして差し上げることはできんせん』
ゆめは俺の手を取り、膝へ乗せる。掌を上へ向けられたので、今度は切っていないと先に言っておいた。指がゆっくり開かれ、その間へ彼女の指が入る。
名前を覚える。顔を覚える。
帰ってこない奴がいたら、きっと辛い。そのことを考えずに済む答えは、とうとう見つからなかった。ゆめも、そんな答えをくれるつもりはないらしい。
「俺が帰ったら、話を聞いてくれよ。面白い話ばかりじゃないと思うけど」
『今まで、お選びになってからお話しで?』
「……いや。そうでもなかったな」
『では、今まで通りに』
繋いだ手を、そのままにしておく。
明日は先生に返事をする。それから何を頼まれるのか、まだ分からない。分からないまま寝るのも久しぶりだが、今夜は川の音を聞いていたかった。
*
先生の部屋へ入ると、長次郎が紙の束を運び出していた。
道を譲ろうと脇へ寄る。向こうも同じ方へ避け、二人で顔を見合わせてから、俺が立ち止まることにした。部屋へ入る前から邪魔になっている。隊長の仕事に、こういうものを運ぶ用事まで含まれるなら、もう少し周りを見た方がよさそうだ。
「お待たせしました。
「ありがとう。……その紙、俺の分もある?」
「お返事の後に、お渡しするものはございます」
あるのか。
受け取る前から帰りたくなるのは、流石に先生へ失礼だろう。俺は苦笑いを残して中へ入り、前と同じところへ座る。先生は筆を置き、こちらを見るなり用件を尋ねた。
「決まったか」
「ああ。引き受けるよ、先生。ただ、長年の放浪癖は中々抜けないと思うけど」
先生の目が細くなる。
言ってから、順番は逆だったかと少し考えた。引き受けると返事をした途端、いなくなる話をする奴を、俺ならどう思うだろう。けれど、後から言って叱られるよりはいい。昔からの癖なのだから、先生だって知らないわけではない。
「隊を放り出して行くことは許さんぞ」
「それはしない。任務も、稽古もやる。ただ、俺が毎日いなくても動けるようにはしたいんだ。俺一人の帰りを待って、何もできないんじゃ困るだろ」
「そのために副官がおる。出掛けるなら、任せられる者を育ててからにせい」
「分かった。行き先も知らせるよ」
先生は一度頷き、脇へ置いていた紙を寄せた。
もう話が進むらしい。まだ何番隊とも聞いていないのに、その上には人の名が並んでいる。覗き込もうとした俺へ、先生が先に口を開く。
「何を教えるつもりじゃ」
「まずは、自分がどれだけやれるか分かるようにしたい。相手を見て、勝てるか、援けが要るか、退いた方がいいか。そこを間違えると、覚えた技を使う前に死ぬから」
先生は黙って聞いている。
旅先で出会った相手を、幾人か思い出す。得意そうに刀を抜いた奴も、術を知っているからと距離を詰めなかった奴もいた。俺が強くなってからなら、何をしてくるのか見る余裕もあった。初めからそのつもりで受けていたら、今頃ここには座っていない。
「足は鍛えるよ。斬るところまで行くにも、囲まれる前に抜けるにも要るし。鬼道は、得意じゃなくても幾つか使えるようにする。刀を持てなくなった時、次に何をするか決めておけるだけでも違う」
「退く稽古か」
「それも、ちゃんとやる。仲間を連れてると、一人で逃げる時みたいには動けないだろ。担いで走るのも、追ってくる奴を止めるのも、初めて戦場でやるより、先に失敗しておいた方がいい」
言いながら、試してみたいことが幾つも浮かぶ。
一人を担いでいる奴へ、後ろから術を撃ってみる。二人で逃げるなら、どちらが足を止めるのか決めておく。道を繋ぐ術も、そのまま教えるには難しくても、使い方を絞れば覚えられる者がいるかもしれない。
千年近く、自分が先へ進むために考えてきたことだった。
今は、俺より遅い足で帰ってくる奴のことを考えている。
「敵を前に退けぬこともある」
「うん。その時は斬れるようにするよ。ただ、そこで死んで終わりにするつもりで教えたくはない。斬って、それから帰ってきてほしい」
先生の指が、紙の上で止まる。
俺はその手を見て、それから顔を上げた。あの日、刀が並んでいた場所に、今は人の名がある。この先、俺もそこへ名を書かせることになるのだろう。
「俺が出た方がいい時は呼んでくれ。部下を預かったから、そいつらに全部やらせるつもりもないから」
「呼ばれずとも、隊長が見ねばならぬ」
「……そうだった。そこは、これから覚える」
先生が、鼻から息を抜く。
「お前も、ようやく人を教える側に回るか。儂に言われたことを、幾つ思い出すじゃろうな」
「今、結構思い出してるよ。まだ部下に会ってもいないのに」
紙が、俺の前へ置かれる。
今度は受け取った。最初の名から順に目を通し、読めない字のところへ指を添える。先生に教えてもらって声に出せば、紙の上に並んでいたものが、一人の名前になる。
怖さがなくなったわけではない。
それでも、次の名を読む。
*
顔合わせの場所には、座布団が足りなかった。
長次郎へ案内されて入った俺を見て、手前にいた男が慌てて立ち上がる。そのまま座布団を差し出そうとするので、返して座ってもらった。空いている床ならある。全員が詰めて座るより、俺が端へ座る方が早い。
先生から渡された名簿を開き、顔を見ながら確かめていく。
さっきまでなら、誰か一人へ呼び掛ければ済んだ。今は、部屋にいる全員が俺の次の言葉を待っている。なるほど。これが、先生から見えていた顔か。
「烏有玄十郎。これから、あんたたちを預かることになった。人を率いるのは初めてだから、分からないことは聞くと思う。よろしく頼む」
頭を下げると、前の列まで慌てて下がる。
そんなに深く下げなくても、顔は覚えるよ。言いかけてやめ、皆が起きるのを待ってから名簿を畳んだ。聞いておきたいことがあると言うと、一番端の男が背筋を伸ばす。
「怪我がまだ完治していない人は、先に教えてくれ。治ったつもりでも、刀を振ると痛むところとか。そこを隠して稽古されると、俺も加減を間違えるから」
幾人かが、隣の顔を見る。
やがて、一人の手が上がる。肩が上がりきらないらしい。続いて、膝を曲げると痛むという男も名乗った。二人へ顔を向け、どこで負った傷なのか聞いているうちに、ほかにも手が上がり始める。
俺は名簿を開き直した。
名前の隣へ、肩、と書く。その下には膝。その次の男は指だった。顔を見てから字を足すたび、こいつには明日、何をさせるか考える。
『お前様。お預かりになることが、随分と増えんしたな』
「……うん。そうみたいだ」
小さく返すと、近くの男が聞き返す。何でもないと首を振り、俺は名簿を膝へ置いた。
「今日は、身体を確かめるところからにしよう。俺の前で、できるふりはしなくていい。できないところが分かった方が、教えやすいから」
端にいた男が、ゆっくり肩を回す。
その隣でも指が開かれ、足が伸ばされる。互いの傷を知っていたらしい者が、そこで止めておけと声を掛けていた。俺は立ち上がり、まず肩を押さえている男の前へ膝をつく。
顔を覚え、名を呼ぶ。
今度は、最初からそうすることにした。