遠き道より 袖は帰り
低き軒にも 春は宿る
68.旅燕の軒先
俺の机へ、知らない棚が増えている。
戸を開けた時には気づかなかった。窓際へ荷を下ろし、腰の刀を外して、さて座ろうかと振り返れば、前は壁だったところに紙が並んでいる。棚の上にも、その横にも。随分と立派なものを買ったらしい。俺の部屋なのだから、一言くらい相談してくれてもよかったのにと思う。
「隊長がお戻りになるまで、机には置かないようにしておりました」
なるほど。
俺への気遣いだったか。そういうことなら、礼を言わねばならない。机の上だけは綺麗なままだから、こちらも逃げようがない。
「ありがとう、宗玄。これ、全部俺の?」
「いえ。こちらの二段です。上は保管する分ですので、お目を通される必要はございません」
「二段かぁ。俺の留守、そんなに長かった?」
「お知らせいただいた日数より、三日ほど」
いや、まだ温かいというのは無理か。買ったのは一昨日だった。
「道が崩れててね。下まで回ったら、向こうにも集落があってさ」
「そこでお泊まりになったのでしょう」
「よく分かったねぇ」
「前にも伺いましたので。お帰りが延びた理由として」
長く付き合うと、話す前から知られていることが増える。
隊長を引き受けて、三百年。
俺の旅は、ようやく月を跨がずに済むくらいになった。昔を知っている先生なら随分と短くなったと言ってくれるはずだが、宗玄に言わせれば、先月も同じことを仰いました、となる。あちらはこちらを昔の物差しで測ってくれないのだ。
無理もない。俺がどれほど長く留守にしていたかを聞いても、その間の仕事が片づくわけではないからなぁ。
「留守の間、何かあった?」
「北の巡回が、予定を早めて戻っております。負傷者が二名。どちらも命に別状はございません」
「今は?」
「一名は四番隊へ。もう一名は、千鳥が手当てをしております」
紙へ置きかけた手を止める。
宗玄は俺の顔を見て、机の上にあったものを端へ寄せた。
「お戻りになってからで結構です。ただ、こちらの三枚は今日中に」
「分かった。菓子、千鳥の分も残しといてくれる?」
「隊長の分は」
「残ってたら、もらうよ」
刀を腰へ戻して、部屋を出る。
棚は逃げない。あの紙も、俺が帰るまで待っていてくれるらしい。ありがたい話だった。
*
「帰ってきたんですね。お土産は?」
手当てをしているところへ顔を出すと、
「宗玄のところにあるよ。お前さんの分も残してもらってる」
「じゃあ、ちゃんといただけますね。あの人なら人数を数えて分けてくれますから」
「俺も数えるよ」
「隊長は、食べたい人へ先に渡すでしょう」
それは、そうだ。
怪我人の前へ腰を下ろし、千鳥が包帯を結ぶのを待つ。男は俺と目が合うと背筋を伸ばしかけたが、肘へ触れた指がすぐにそれを止めた。
「今は楽にしてていいよ。もう一人は、誰?」
「佐伯です。腿を斬られました。こちらへ戻るまでは意識もございましたので、四番隊へ運んでおります」
「うん。後で顔を見てくる。お前さんの腕は、どこで?」
尋ねると、男の目が床へ落ちる。
叱られると思っている顔だった。心当たりがあるのか、それとも、怪我をしたこと自体がまずいと思っているのか。そこは聞いてみなければ分からない。
「佐伯を担ぐ際に、背後から。防ごうとしたのですが、間に合わず」
「追ってきた虚は?」
「千鳥三席が、止めてくださいました」
「縛道で足を止めたんです。ほかにもいましたから、そこで全部斬るのは諦めました」
千鳥が結び目を指で確かめる。
そこで初めて気づいた。彼女の袖にも裂け目がある。血はついていないようだが、帰ってきて着替えるより先に、こいつの手当てへ取り掛かったらしい。
「何体いたの」
「見えた分で五体です。初めに出た二体は斬りました。ただ、その間に残りが回り込んできて」
「それで、佐伯が斬られたのかい」
「はい。もう少し早く下がるべきでした」
男が、先ほどより深く顔を伏せる。
俺はその肩へ手を置く。怪我のない方だ。顔を上げてもらわなければ、誰へ話しているのか分からなくなる。
「帰る途中でも増えたの?」
「二体。ですが、そこは皆で止められました。交代で後ろを見て、佐伯を運ぶ者を先へ」
「そっか。じゃあ、途中からはちゃんとできたんだねぇ」
男が俺を見る。
褒めていいのか迷うところもある。退くのが遅かったなら、次は直さねばならない。けれど、最初に間違えたからといって、帰ってくるまでの全部を駄目にされては、こいつも何を続ければいいか分からないだろう。
「佐伯を置いてこなかった。追ってきた奴にも、同じようにはやられなかった。そこは、次もやってほしいよ」
「……はい。ただ、別の隊の方に、任務を投げ出したのかと」
ああ。
千鳥が、包帯の残りを箱へ仕舞う。蓋を閉める音が少し強かったので、俺は先に口を開いた。
「その人は、五体いたところを見てたの?」
「いえ。門のところで」
「なら、後から報告を読んでもらおう。お前さんが怪我した腕で説明しても、長くなるだけだからね」
男の肩から、僅かに力が抜ける。
門まで帰ってきてからも、まだ刀を抜いた時の顔をしていたのだろう。そこへ勇ましいことを言われれば、自分が引いた方へ目が向く。俺にも覚えはある。下がってよかったと思えるのは、随分と後になってからだった。
「死なずに帰ってきてるんだから、それでいいんだよ」
千鳥が俺を見る。
「帰ってきたら、次の相談ができるからねぇ。まず佐伯の顔を見て、それから、どこで退くべきだったか考えよう。刀を振るのは腕が治ってからでいい」
「私の分もお願いします。引く判断が遅れたのは、私ですから」
千鳥の顔へ目を向けると、彼女はもう箱を抱えて立っていた。
こういうところが、この人の頼もしいところだ。部下の前で俺に言われるのを待たず、自分の分も持ってくる。
「うん。じゃあ、明日ね。お前さんまで今日は稽古しなくていいよ」
「今日は、お土産を食べます」
「そうして。俺の分まで食べていいからね」
「それは宗玄が許さないと思います」
そこまで決まっているなら、任せよう。
男に水を飲むよう言い、俺も腰を上げる。四番隊へ行く前に、廊下で待っていた隊士たちが近づいてきた。こいつの顔を見るつもりだったらしい。入り口を空けると、誰からともなく話し始める。
佐伯が運ばれている間に何を言っただの、担ぐのを代わった時に刀が邪魔だっただの。
俺は少しだけ、その声を聞いていた。
明日の稽古で、教えてやれることが増えた。
*
翌日の昼には、佐伯を除いた巡回の者が庭へ揃っていた。
四番隊で会った本人も来たがっていたけれど、あちらの隊長が許してくれなかった。俺が口を挟もうとしたら、先にこちらへ笑顔が向いてくる。
帰ってもらったよ。俺には、どうもあの顔に逆らう勇気がない。
八千流が四番隊へ移ってから、もう長い。
初めの頃は、傷を治してからもう一度斬るのだろうかと、余計な心配までしてしまった。今でも、こちらがそう頼めば付き合ってくれそうな気はする。ただし、病室へ刀を持ち込む話はしない方がいい。俺もそのくらいは覚えた。
「まず、同じ並びになってみて。佐伯の代わりは、こいつで」
用意してもらった俵を指す。
千鳥が持ち上げ、昨日担いだという男へ渡した。怪我をした男は端へ座らせてある。今日は自分が何を見ていたか話してもらうだけだ。
「昨日は、こんなに重くなかったです」
「佐伯は自分で掴まってくれたんだろうけど、今度もそうとは限らないからねぇ。落とさず運べるか、先に確認したい」
男が背負い直す。
その間に、俺は庭の端へ回った。千鳥たちはこちらへ刀を向け、俵を背負った男が一歩下がる。位置は昨日と同じにしてもらっている。ここから俺が追えば、誰が先に動くかも分かる。
「じゃあ、塀まで。俺が俵に触れたら、やり直しね」
言い終わる前に、白い光が飛んできた。
千鳥の指先だ。
俺が避ける方へもう一人が回り、刀を振るう。その隙に俵が遠ざかっていくので、そちらへ踏み出すと、足元へ細い縄が伸びてきた。
おや。
「張り切ってくれちゃってまぁ」
縄を跨ぎ、刀の下へ潜る。
次の一歩で男の背へ届きかけたところへ、千鳥が身体を入れてきた。俺の胸を狙う刃を指で押し、脇へ抜ける。その向こうでは、俵を背負った男が振り返っていた。
そこで止まったのが、惜しかった。
俺は俵の端へ触れる。
「はい。一回目」
「今、誰か斬られたかと……」
「心配になるよねぇ。でも、そこでお前さんまで止まると、先へ行く奴がいなくなる」
振り返った男が、仲間の方を見る。
千鳥も刀を下げ、男の立っていたところまで歩いた。そこから俺とほかの隊士を見比べ、今度は庭の中央を指す。
「私が声を出します。振り返らずに行ってください。代わる時も、こちらから呼びます」
「声がなかったら、どうしますか」
「まず塀まで行く。そこで俵を下ろして、援けに戻ろうか。ずっと担いでいたら、お前さんも刀を使えないだろう」
俺が言うと、男は俵を背負ったまま柄へ手を伸ばす。
届くには届く。けれど抜こうとすれば、俵を支える手が一つ減る。少し傾いたところで諦め、男はもう一度背負い直した。
やってみれば、話が早い。
昨日も、そうしてみる暇があればよかったのだけど。
「もう一度お願いします」
男が自分から位置へ戻る。
今度は千鳥だけを見ず、隣にいた隊士にも声を掛けていた。塀へ着いたら下ろすから、その後は自分が代わる。そんな相談を終えてから、俺へ頷く。
いいよ。
俺も庭の端へ戻り、今度は少しだけ速く追うことにした。
*
宗玄が庭へ来た頃には、俵から藁が出ていた。
俺が裂いたわけではない。担ぐのを代わった拍子に落ち、引っ掛け、とうとう千鳥が結び直している。人間なら痛いと騒いだはずの扱いだったが、ここで分かってよかったと思おう。
「皆、随分と熱心ですね」
「うん。明日は肩が上がらないかもねぇ」
「その場合、午前の稽古は変更いたします。ところで隊長、昨日の三枚ですが」
忘れてはいない。
俺の部屋にあることは、よく覚えている。
「今からやるよ。宗玄も、こっち見ていくかい?」
「後ほど。その前に、今回の巡回について、他隊から問い合わせがございました」
宗玄の声が、少し硬くなる。
庭で聞かせたい話ではなさそうだったので、俺は縁側へ上がった。刀を置き、隣を空ければ、彼も腰を下ろす。
「討伐を終えずに戻った理由と、改めて出す人員についてです。報告には記載しているのですが」
「援けを頼んだ分だね。次の巡回に合わせて、俺も行くよ」
「それは、先方へ伝えております。ただ、十番隊は退く稽古ばかりしているのではないかと」
俺は庭へ目を向ける。
千鳥が結び終えた俵を、別の男が持ち上げている。もう終わりと言われたはずなのに、肩へ乗せる位置を変えて、歩きやすさを確かめていた。
気になることができたらしい。
それなら、飯の前に少しくらい試せばいい。
「ばかり、ではないと思うけどなぁ。俺、結構斬ってるよ。稽古でも」
「私もそう返しました」
「そっか。ありがとう」
宗玄はまだ、庭を見なかった。
この人は、俺が気にしないことまで気にしてくれる。貴族の家から来た当初は、自分の名に付く評判を気にしているのかと思った。長く見ていれば、それだけではないと分かる。
今は、あの庭にいる奴らの話をされるのが嫌なのだろう。
「宗玄。昨日、お前さんも怪我した奴の顔を見たかい?」
「はい。二人とも」
「じゃあ、そこは同じでいいよ。俺は帰ってきてくれて嬉しいし、お前さんも、そのつもりで門を開けてくれたんだろう」
宗玄の目が、ようやく庭へ向く。
俵を担いだ男が、千鳥へ何か言っている。今度は三人で運んでみるつもりらしい。さっきまで縄を使っていた隊士も戻り、藁の出た端を押し込んでいた。
「……次は、怪我もせずに帰ってきていただきたいものです」
「うん。そのために、今日はちょっと疲れてもらった」
俺も立ち上がる。
宗玄まで付き合わせたのだから、三枚くらいは書いてしまおう。部屋へ戻る前に庭へ声を掛けると、千鳥がこちらを見上げた。
「隊長、明日もいらっしゃいますよね」
「いるよ。まだ帰ってきたばっかりだからねぇ」
「帰ってきた翌日に、出掛けられたことがあるので」
あったなぁ。
俺は宗玄と顔を見合わせる。こちらも覚えていたらしく、返事を待つ顔になっていた。
「明日はいる。飯を食ったら、次の巡回の話もしよう。今度は俺も行くから」
「では、食堂で。隊長の分も取っておきます」
俵が地面へ下ろされる。
刀を納め、袖を払い、皆が食堂の方へ歩き始めた。その後ろへ千鳥がつく。怪我をした男も立ち上がりかけて、隣から手を貸されていた。
俺はそれを見送ってから、自分の部屋へ戻る。
机の上には三枚。
その横に、小さな包みが一つ残っている。
『お前様の分も、よう残しておいででありんすな』
「そうみたいだ。帰ってきた甲斐があったねぇ」
包みを開くと、菓子が二つ。
宗玄が向かいへ座ろうとするので、一つを渡す。先に紙を、と言いたそうな顔をされたが、俺はもう自分の分へ手を伸ばしていた。
話をするなら、食いながらでもいいだろう。
今度の旅には、何人連れていこうか。