濡れたる袖に 道は伸び
帰りを待つ灯に 雨は止む
俺だけ荷が少ない。
門へ集まった顔を見渡して、ようやく気づいた。千鳥は腰の後ろへ小さな袋を提げ、ほかの連中も肩や背に何かしら担いでいる。俺の方は刀と、懐へ入れた握り飯が二つ。これでも一人旅よりは用意したつもりなのだけど。
「隊長、こちらもお持ちください」
宗玄から渡されたのは、包帯の入った袋だった。
開けてみると、薬まである。これを使う羽目にならなければいいなと思いながら腰へ結ぶと、今度は折り畳んだ紙を差し出された。
「三日後にお戻りになる予定で、よろしいですね」
「うん。今回は寄り道しないよ。皆もいるからねぇ」
「皆様がご一緒ですから、確認しております」
俺一人なら多少遅れてもいい、とは言っていない顔だ。
分かっているよ。俺が集落へ寄れば、こいつらまでついてくる。山の向こうが気になっても、今回は先に帰ろう。気になるところへは、また行けばいいのだから。
「その紙は?」
「携帯する分です。帰還後、どなたかの記憶だけを頼りに報告をまとめなくて済むように」
「なるほど。俺も何か書く?」
「是非」
即答だった。
千鳥が横を向く。肩が少し動いているので、笑っているのだろう。こっちは帰る日を確かめられ、紙まで渡されたところなのに、随分と楽しそうだ。
まあ、俺も千鳥が宗玄に捕まっていたら、同じように笑う気はする。
紙を濡らさないよう袋の内側へ入れ、皆へ声を掛ける。
宗玄は門の前に残った。こちらが道を曲がるまで見送るつもりらしく、振り返るとまだ姿がある。手を上げれば、いつものように頭が下がる。
帰る日を言ってから出掛けるのも、随分と馴染んだものだ。
*
山へ入る頃には、雨が降り始めていた。
木の下を選んでも、葉に溜まった雫が首へ落ちる。袖で拭いたところへまた来るのだから、途中からは諦めた。俺の後ろでは、荷へ布を掛け直した男が、紐を締めている。
「前は、ここから右へ入りました」
千鳥が指した先に、細い獣道がある。草が倒れて、何かを引きずった跡も残っていた。佐伯を運んだ時のものらしい。先へ踏み込む前に皆を止め、俺は濡れた土へ膝をついた。
血の匂いは、もう薄い。
代わりに木の幹へ、爪を立てた跡がある。上から下へ長く引かれていて、皮の内側まで裂けていた。
「ここ、通る時にもあった?」
「ありませんでした。少なくとも、この木には」
「そっか。じゃあ、こっちを追ってきた奴が戻ったのかもしれないねぇ」
幹の向こうへ目を向ける。
いる。
右手の斜面へ一つ。もう少し高いところに二つ。正面にも、根の張り出した窪みへ潜っているものがあった。見える顔だけ数えていたら、先に山を下りたくなっただろう。こいつらは、枝の陰へ身体を伏せて待っている。
昨日ならともかく、今日は待たせる理由もない。
「千鳥。正面を見てもらえる?」
「何体ですか」
「すぐそこに一体。俺は右へ行くよ。残りの皆は道を空けといて。押し合うと、帰る時に転ぶから」
千鳥の刀が抜ける。
背後でも、鞘を払う音が続いた。緊張するのは仕方がない。一度ここで仲間を斬られているのだから、俺がいると言われたくらいで全部忘れられるわけでもない。
足元へ目を落とした男が、石を脇へ退ける。
いいねぇ。それができるなら、まだ周りを見ている。
俺は道から外れ、右の斜面へ上がった。
最初の一体が、木を蹴る。
獣に似た身体だった。前脚が異様に長く、白い仮面の下から顎が二つ突き出している。あれで腕を挟まれたら面倒そうだ。自分で取り上げる分には構わないが、部下へ試してもらうようなものではない。
爪が、俺の頭へ落ちてくる。
半歩だけ横へ避け、顎の下から刀を入れた。刃が仮面を抜けたところで手を返す。向こうの木まで斬ってしまわぬよう、そこで止める。
白い顔が割れ、身体が崩れていく。
その後ろから二体目。
こちらは口が大きかった。枝へ絡みついていた尾を離し、俺へ喰いつこうとしている。どうしてこう、山へ来る奴は口から入ってこようとするのだろう。話があるなら、先に言ってくれたらいいのに。
「悪いねぇ。今日は連れがいるから」
突き出した刀が、口の奥へ届く。
身体を捻って抜き、足元へ落ちる枝を避けた。これで二体。高いところに残ったものは、こちらを見たまま動かない。
逃げる方を探している顔だった。
そこで逃がすと、今度は誰がこの山へ入るだろう。
俺は空いた手を上げた。
「破道の四⸺
指先から抜けた光が、白い仮面を貫く。
木の皮が少し焦げた。火まではついていない。雨の日でよかったと思うべきか、もう少し狙えばよかったと思うべきか。先生なら後者だろうなぁ。
刀を下げ、道の方へ顔を向ける。
千鳥は、まだ斬っていなかった。
*
正面の虚は、腹を地面へつけている。
蜘蛛のように脚が多い。頭を低く伏せ、道へ踏み込んだ千鳥の足元へ、左右から爪を伸ばしていた。
千鳥が一歩退く。
虚は追う。そこで後ろにいた男が刀を振り、伸びてきた脚を一本落とした。身体が傾き、反対側の脚が持ち上がる。その下から別の男が踏み込んだが、こちらは届かない。
虚が腹を捻り、刀を避ける。
千鳥の方を見失ってはいない。脚を斬った男へ口を向けたまま、残る爪で彼女の退く先を塞いでいた。
なるほど。
何度も通じたやり方なのだろう。顔の正面へ刀を集めて、その間に足元から一人を取る。佐伯も、こいつにやられたのかもしれない。
俺は斜面を下り、道の端で待つ。
まだ、手は出さなくていい。
「下がって。こちらへ引きます」
千鳥が声を掛けると、前の二人が道の左右へ分かれた。
虚が、空いたところへ頭を突き出す。
追わせるつもりだったらしい。千鳥は刀を構えたまま退き、爪が届く手前で木の横へ回った。伸びた脚が幹へ当たる。
頭が、僅かに横を向く。
その顔へ、右の男が斬り込んだ。
刃は仮面へ届いたが、浅い。虚の口が開く。喉の奥へ赤い光が集まり、男の胸へ向き直った。
そこは、まずいねぇ。
俺が指を伸ばすより先に、千鳥の刀が下から入る。
顎が跳ね上がった。
放たれた光は頭上へ抜け、枝を吹き飛ばす。その隙に左の男が踏み込み、今度こそ仮面の割れ目へ刃を通した。
脚が土を掻く。
千鳥が刀を抜くと、白い顔が崩れ始めた。足元へ伸びていた爪も消え、男たちがようやく息を吐く。
俺も、上げていた手を下ろす。
頭上から折れた枝が落ちてきたので、それだけは受け止めた。戦いが済んでから、こいつに頭を叩かれては少し悲しい。
「今の、よかったよ。上を向かせたの」
「隊長が止めてくださるかとは思いましたが、間に合いましたので」
「うん。俺を待たずにやってくれる方が、助かるねぇ」
千鳥は頷き、男の刀へ目を向ける。
「仮面へ入れる時、踏み込みが浅くなっていました。戻ってから、そこをやりましょう」
「はい。……もう一歩、入るつもりだったのですが」
「怖かった?」
「口が、こちらを向きましたので」
俺は受け止めた枝を脇へ置く。
その返事をするのにも、少し勇気が要っただろう。千鳥の前なら、分からなかったことにして済ませられないと知っている。
「口は向くよ。向こうも、斬られたくないからねぇ。次はそれを見て、どっちへ避けるか考えとこう。千鳥が上げてくれたけど、毎回同じところから助けてもらえるとは限らない」
男が、虚のいた地面へ目を戻す。
土に幾つも穴が開いている。あの脚がどこへあったかも、まだ分かる。それを辿るように足を置き直し、千鳥へ何か尋ねていた。
もう少し、話す時間をやりたい。
けれど、奥にもいるのだ。
「続きは帰ってからにしようか。こっちも、先を見てこないと」
顔を上げた皆へ、俺は山の奥を指した。
*
窪みの向こうに、古い道があった。
石を積んだ跡が草の下へ続いている。昔はここを通る者がいたのだろう。奥へ進むと屋根の落ちた小屋まで見つかり、その横に、虚が喰い散らしたらしい骨があった。
皆の足が、そこで止まる。
俺は小屋の中を覗いた。人の霊力はない。残った気配も古く、今朝まで誰かがいたようなものではなかった。
それでも、帰らなかった誰かの家だ。
棚へ椀が一つ残っている。雨が入って、その中に水が溜まっていた。傾けて空にしてやりたくなったが、先に外へ出る。
「千鳥。皆と、そっちへ寄ってて」
小屋から少し離れたところに、岩がある。
その陰へ動いてもらってから、俺は山側の斜面へ近づいた。木の根が重なって見えるだけの場所だったが、その下に口が開いている。
穴だ。
大きな身体を押し込んだものが、奥からこちらを見ていた。
『お前様。よう隠れておいででありんす』
「こっちがいなくなるまで、待つつもりかねぇ」
刀を握り直す。
穴の奥で、霊力が集まった。
俺へ向けたものではない。右へ寄せ、岩の向こうを狙っている。今の話し声で場所を覚えたのか、それとも初めから全員を見ていたのか。
どちらでも、待ってやる理由はなくなった。
穴から光が噴き出す。
俺はその前へ立ち、掌を翳した。
「縛道の八十一⸺
壁へ赤い光がぶつかる。
山の木々が揺れ、濡れた葉が頭へ落ちてきた。袖まで泥が跳ねている。帰ったら洗ってもらおうなどと思ったところで、壁の向こうから腕が伸びた。
光では抜けないと分かったらしい。
指は六本あった。一本ずつに長い爪がつき、壁の端を回ってくる。あれを全部斬るより、頭を出してもらう方が早そうだ。
俺は断空を残したまま、左へ回った。
穴の奥の顔が、こちらを追う。
身体を引きずり、木の根を押し広げ、白い仮面が外へ出てくる。思ったより大きい。佐伯を担いでいた連中が、これまで出てくるのを待たずに帰ってくれてよかった。
口が開いた。
今度は、俺へ。
「そうそう。こっちを見ててくれればいいんだよ」
踏み込む。
下顎の横へ刃を入れ、そのまま仮面を斜めに抜く。腕が俺を掴もうとした頃には、もう背後へいた。刀についた血を払い、崩れ始めた身体へ顔を向ける。
六本の指が、空を握った。
その奥にも、霊力が二つ。
刀を納めるのは、もう少し後にしよう。
*
小屋へ戻ると、千鳥が雨漏りするところを避けて紙を広げていた。
討伐した数と、残っていた骨と、ここまでの道。宗玄が知りたがりそうなことを、俺よりずっと綺麗な字で書いている。
「隊長。奥は、もういませんか」
「うん。穴の底まで見てきた。こっちへ通じる道も、ほかにはなさそうだよ」
「では、この辺りを確かめてから戻ります」
返事をすると、男たちが小屋の周りへ散る。
俺も一緒に見て回った。床下へ手を入れ、倒れた材木を退け、骨の残っている場所を確かめる。刀を振って済むところが終わってからも、こういう用事がある。
雨は、まだ止まない。
小屋の棚へ戻ると、椀はさっきより水を溜めていた。
俺はそれを空にして、屋根の残っているところへ置き直す。誰のものか分からない。どこから来た人かも、何人で暮らしていたのかも。ただ、ここを通るなら、もっと早く来たかったなとは思う。
「隊長。こちらも、報告へ書いておきますか」
千鳥が、俺の手元を見ている。
「うん。住んでいた人がいたって。近くで、何か聞けるかもしれないからねぇ」
彼女は紙へ目を戻した。
初めて隊を預かった頃なら、こういうものまで自分で持ち帰ろうとしたかもしれない。今は、聞いてくれる者も、探してくれる者もいる。俺がここへ残り続けなくても、次の仕事を頼めるのだ。
任せられることが増えた。
その分、知らない顔を覚えることも増えている。
「隊長、帰りは同じ道ですか」
外から声がする。
尋ねた男の袖は泥だらけだった。藪へ入って確かめてくれたのだろう。俺も似たようなものだから笑えないけれど、これで門へ戻れば、宗玄はまた洗い物の心配をするはずだ。
「途中まではね。下の道へ出たら、集落へ寄ろう。雨を凌げるところもあるだろうし、ここの話も聞きたいから」
「……寄り道は、なさらないのでは」
「これは仕事だよ。ちゃんと紙へ書ける方の」
千鳥が顔を上げる。
皆もこちらを見た。どうも、納得してくれるまで少し掛かりそうだった。
「三日後には帰るからねぇ。そこは、宗玄にもそう伝えてくれていいよ」
「分かりました。では、こちらの分にも書いておきます」
千鳥の筆が、また動く。
俺は懐から握り飯を出し、包みを開いた。一つを食い終わる頃には、外で荷を整える音が始まっている。
『お前様。お連れのある旅も、悪うござりんせんな』
「うん。ただ、俺が言ったことを、皆覚えてるんだよねぇ」
ゆめの笑い声がする。
帰る日も、寄り道しないと言ったことも。
覚えてくれる奴がいるなら、俺も忘れないようにしよう。
残りの握り飯を包み直し、腰の袋へ収める。戸口へ出ると、千鳥たちはもう揃っていた。
「じゃあ、帰ろうか」
声を掛ければ、顔が上がる。
俺は今日もその数を確かめてから、先へ歩き出した。