夢を追う者よ まだ見ぬ夜を越えてゆけ
その刃が帰る日まで 我が刃もまた眠らない
side:山本重國
烏有玄十郎が塾へ来てから、百年が経った。
初めて会うた時から妙な男じゃった。元流の名も鬼道の名も知らぬくせに、剣を取らせればわしと斬り合い、術を見せろと言えば九十番台の破道を放つ。どこで覚えたと尋ねても、昔のことだと笑うばかり。教わりに来たという話まで疑いたくなったものじゃ。
じゃが、稽古にはよう来た。知らぬ術を見せれば使い方を尋ね、詠唱を教えれば声に出して覚える。塾生と並んで話を聞いておるかと思えば、その日のうちにわしを誘い、覚えた術をこちらへ放ってくる。
おかげで、稽古に使える場所を幾つも増やす羽目になった。
「先生。あれ、残しておいてよかったんですか」
庭から戻った塾生が、机の上の書き付けを見て言うた。玄十郎が旅立つ前に置いていったものじゃ。自ら編み出した術を幾つか、ほかの者にも使えるよう書き残しておる。
「本人が置いていったものじゃろう」
「ですが、御自身の術でしょう。人に教えてしまっては、戦う時に困りませんか」
わしは紙を一枚持ち上げた。白い糸で手足を縛る術。描かれた腕の脇には、糸を掛ける順序まで書き添えてある。
「お前は、これを読めば玄十郎を縛れると思うか」
「……それは、無理です」
「ならば、まず使えるようになれ。あやつの心配はその後じゃ」
塾生は紙へ目を落とし、頭を下げた。
玄十郎も、同じことを言いそうじゃった。誰かが自分の術を覚えたところで、使う相手が増えたと喜ぶだけかもしれん。教えた術で仕掛けられれば、どう使ってくるか確かめようとする。稽古であやつに勝つには、覚えた通りに放つだけでは足りぬ。
塾生が出ていくと、庭から掛け声が聞こえてきた。
昨日までは、あの中に玄十郎の声も混じっておった。百年前にはただの旅人じゃった男が、今では塾生どもに教えを請われておる。昨日も何度となく呼び止められ、旅支度を済ませてからまで構えを直してやっておった。
それでも、引き留めるつもりはなかった。
卍解を会得してからも、玄十郎の稽古は変わらず続いた。わしも何度か、その力を相手にしておる。初めて見せられた時は、こちらも刀を解かずには済まなんだ。
あやつは嬉しそうに笑っておった。
じゃが近頃は、稽古を終えてもすぐには刀を収めん。刃を眺め、何かを考えてから鞘へ戻す。負けた日に限ったことではない。わしに勝った日にも、同じようにしておった。
あれほどの卍解を得て、まだ何が気に入らぬのか。
昨夜、旅に出ると聞いた時、まず思い出したのはその姿じゃった。
以前、一度だけ尋ねたことがある。稽古を終えた玄十郎が、刀を膝へ置いたまま座っておった時じゃ。
「何が気に入らん」
あやつは顔を上げ、少し笑った。
「そんな顔してました?」
「勝った日にまで刀を睨んでおれば、気にもなるわ」
「睨んでないですよ。考えてただけです」
そう言って刃へ目を戻した。刀身には傷も欠けもない。解放を終えれば霊圧も収まり、玄十郎自身にも目立った変わりはなかった。
「卍解が、思うように使えぬのか」
「使えますよ。そこは問題ないです」
返事はすぐじゃった。実際、稽古でも扱いを誤った様子はない。会得したばかりの頃に比べれば、使いこなし方も格段に上達しておる。
「ならば、何を考えておる」
「……どうなんでしょうね。俺も、うまく言えないんですけど」
玄十郎は柄へ手を置き、親指で撫でた。
「こいつと話してると、まだ何かありそうな気がするんですよ」
刀の声は、持ち主にしか聞こえぬ。何を話し、どのような返事を得たのかも、わしには分からん。あやつ自身が言い表せぬのなら、代わりに答えてやることも出来ぬ。
「ならば、よう聞け。お前の刀じゃ」
「ええ。そうしてみます」
その日は、それで刀を収めた。
以来、玄十郎は何も尋ねてこなんだ。稽古をやめたわけでも、卍解を使わなくなったわけでもない。ただ、終えた後に考え込む姿は変わらず見かけた。
昨夜の旅の話も、あの刀と無関係ではなかろう。
ここにおれば、相手はわしか塾生じゃ。わしとは百年も剣を合わせておる。互いの癖を知り、次に何を仕掛けるかまで読めることも増えた。それでも稽古にはなるが、ここでは出会わぬ相手も、使う機会のない力もあろう。
知らぬ土地を歩き、知らぬ者と会う。そこで刀を抜くこともあるはずじゃ。その時、今までとは違う言葉を刀から聞くかもしれん。
手掛かりを探すつもりなら、旅へ出るのもよかろう。
わしは書き付けを揃え、机の端へ置いた。庭では、まだ木刀を打ち合わせておる。玄十郎が直した構えを、明日まで覚えておれるかどうか。あやつが戻った時、また同じことを言われては塾生どもの面目もなかろう。
立ち上がって廊下へ出ると、庭にいた一人がこちらに気づいた。すぐに姿勢を正したので、ほかの者も手を止めて振り返る。
「続けい。わしが見る」
玄十郎は、戻ると言うた。
その時には、また手合わせを申し出るじゃろう。新しい術を覚えたなら見せてくるし、刀のことで何かを掴んだなら、それも使いたがるはずじゃ。
今より強うなって帰ってくるつもりなら、こちらもそれを迎えねばならん。
わしは木刀を取り、庭へ下りた。