焼け落つ門に 名は残り
絶えざる道に 影は増す
今日は、刀を抜かずに済むはずだった。
そう思って来たのだから、腰を落として柄へ手を掛けた時には、もう少し働かせてくれるなよと口の中で呟いている。俺の願いを聞いてくれる相手なら、そもそも家の壁を破ってまで入ってこないだろうけど。
白い顔が、崩れた梁の向こうから覗く。
口の端が耳まで裂け、その下から長い舌が垂れていた。家の奥には、まだ送っていない魂が三人。俺の袖を掴んだ子供の手へ自分の手を重ね、そこから外してもらう。
「ちょっと、離しててねぇ。すぐ戻るから」
踏み込むと、舌が首へ巻きつこうとしてくる。刃を立てて受け、切り落とした向こうへ手を伸ばす。仮面を抜けた刀を返す頃には、
家まで壊さなくてもいいのに。
もう屋根は半分焼けている。残っていた柱へ爪が入ったので、そちらを支えながら刀を抜いた。白い顔が崩れ、窓を塞いでいた身体も薄れていく。その下から現れた戸口に、千鳥が立っていた。
「こちらにも来ましたか」
「一体だけ。お前さんの方は?」
「二体。皆で斬れました。ただ、北へ回った者から、まだ返事がありません」
「じゃあ、そっちを見てくるよ。この柱、持ってもらえる?」
千鳥が近づく前に、俺の後ろから男が手を伸ばす。
「俺が支えよう。こういう仕事は、やってたんだ」
「助かるけど、お前さんも送るところだったんだよねぇ」
男は俺の刀を見て、そうだったな、と苦笑いを浮かべる。
さっきまで、自分が死んだことを認めようとしなかった。今は立ち上がった妻へ手を貸し、子供の肩を抱いている。三人が揃うまで柱を支え、千鳥へ後を頼んだ。
抜いた刀は、まだ腰へ戻さない。
外にも、いる。
*
現世の増援へ初めて出た年から、四十余年が過ぎていた。
終わったと思って帰れば、違う土地の名が届く。そこへ行っている間に、前に送った者の村でもまた戦が始まる。俺も長く生きてきたけれど、これほど同じ道を行き来することになるとは思わなかった。
旅なら、今日は通らずにおこうと決められる。
今は、そういうわけにもいかない。
北の畑へ出ると、隊士が二人、焼け残った塀を背にしていた。一人は刀を握っている。もう一人は、その後ろで膝をつき、肩を押さえているようだ。爪に掻かれた塀の前へ、獣に似た虚が首を突き出していた。
俺が歩いていくと、その首がこちらを向く。
足元には、倒れた魂。
刀を持った隊士が声を上げる。俺へ向けたものではなかった。起きてくださいと何度も呼びながら、虚の爪を受け、押し戻している。
虚が喰いつくより先に、俺はその頭へ刃を入れた。
大きな口が閉じる。
倒れていた魂へ膝をつき、腕を取る。まだいる。千鳥がこちらへ来るまで、彼には俺の後ろで待っていてもらおう。
「よく止めてくれたねぇ。肩、見せて」
「隊長。私はまだ動けます。こちらの方を先に」
「うん。その人は千鳥に任せる。お前さんの肩は、俺が診るよ」
座っていた隊士の袖を開く。
傷は深いが、骨までは届いていない。血を拭き、傷の上へ掌を翳すと、男が唇を噛んだ。痛いなら言ってほしいのだけど、今は我慢する方へ気が向いているらしい。
「刀は、握れる?」
「はい。左も使えます」
「じゃあ、肩が治るまでは左で持ってて。右は今日は休ませよう」
「……それでは、退く時に担げません」
「今は、お前さんが担がれる方だよ。必要になったら、俺が運ぶから」
顔を上げた男へ頷く。
昔の俺なら、動けると言われれば、そうかと返していたかもしれない。自分でも同じことを言った覚えがある。今は、立たせた後にどれだけ血が落ちるか、先に考えるようになった。
少しは、先生へ近づいたのかねぇ。
そんなことを思いながら傷を塞いでいると、もう一人が隣へしゃがむ。刀を離さず、畑の向こうを見ていた。あちらを気にするのは分かるけど、息まで止めていたら苦しくなるよ。
「ほかにも見た?」
「いえ。ただ、先ほどのものが、家の方から来ましたので」
「そう。じゃあ、そっちも見よう。俺が先に行くから、千鳥が来たら、今のことを話しておいてくれる?」
返事を待ってから、掌を離す。
包帯を巻く間も、男の目は畑から戻らなかった。
*
虚は、村の外にもいた。
道に残っている魂を探し、家の奥へ潜り、あるものは戦場になった河原へ下りている。二体を斬って川を渡ると、向こうでは別の隊の死神が刀を振っていた。
こちらへ気づいて頭を下げようとするので、手を上げて止める。
今は、俺を見るより前を見ていてほしい。
相手は一体。刃を受けた虚が腕を引き、今度は身体ごとぶつかってくる。死神はそれを横へ避け、振り向いた顔へ刀を入れた。
崩れる身体を見届けてから、俺のところへ来る。
「十番隊の烏有隊長ですね。増援へ来ていただけたのでしょうか」
「こっちの村を回ってたら、出くわしてねぇ。そちらは、いつから?」
「昨日からです。西の道にも散っております。あちらを終えた者から、こちらへ回すようにと」
男の足袋には、乾いた泥がついていた。
今朝ついた分だけではないだろう。尋ねれば、昨日も夕方から動いていると言う。休む場所を見つけるより先に、次の魂を見つけてしまったらしい。
よくある話になっているのが、困る。
「ここから先は俺が見てくるよ。戻って、交代してもらいな」
「しかし、まだお送りできていない方が」
「その人たちを迎えに行く。場所だけ教えてくれる?」
男は川沿いの道を指した。
寺があるという。生きている時に通っていたからか、死んでからもそこへ来る者がいるらしい。俺は礼を言い、男が戻るのを見てから道へ下りる。
途中に、女が一人いた。
焼けた杭の前へ座り、川の向こうを見ている。背後へ声を掛けても顔は動かない。隣へ回れば、胸の鎖が足元へ続いていた。
ここから離れられなくなっている。
俺は刀を納め、少し離れた石へ腰を下ろす。
「誰か、待ってるの?」
「息子を」
女の視線が、川へ戻る。
「ここで舟を出す人がいたんです。息子は向こうへ渡って、私も来るようにって。荷を取りに戻ったら、もう舟がなくて」
「その時、向こうにはいた?」
「分かりません。名前を呼んだけど、返事がなくて。それから、道へ兵が来て……」
袖の下で、手が重なる。
続きを聞くことは、やめておいた。川辺へ座っている理由はもう分かる。ここにいたら会えると思って、この人は動かずにいるのだ。
俺だって、会いたい相手が戻ってくる道なら、そこで待ちたくなる。
けれど、川は越えられる。
息子がまだ向こうへいるなら、迎えに行ける。
「名前を教えて。向こうで、探してみようか」
「……見つかりますか」
「探すところまでは、約束できるよ。渡った先の道も見てくる」
女が俺を見る。
そこで初めて、俺の腰へ目が向いた。死神だと話すと、しばらく顔を見つめられる。俺が見えているのだから察しているものと思ったけれど、自分のことより息子の行った先を考えていたのだろう。
「私は、死んだんですね」
「うん」
「それでも、あの子を待っていたんですね」
俺は、頷いた。
女は足元の鎖へ触れ、それから、息子の名を教えてくれる。
声に出して繰り返し、顔も聞く。眉の横に、小さな傷があるそうだ。子供の頃に転んでつけたものだと言いながら、女が自分の眉へ指を添えた。
覚えているんだなぁ。
俺も、そこを確かめてから戻ってこよう。
*
息子は、寺にいた。
生きていた。
片腕を吊り、僧から渡された椀を飲んでいる。女に聞いた傷もある。こちらの声は聞こえないようで、話している相手の顔だけを見ていた。
近づいて、しばらく耳を傾ける。
母親を迎えに戻ろうとしていた。まだ渡れる場所があるなら教えてほしいと、川のことを尋ねている。僧は首を振り、その腕では無理だと答えていた。
そこへ俺が立っている。
死んだ母親から、言葉を預かることもできた。けれど、こちらが見えない息子へは、伝えられない。義骸を用意して話したところで、初めて会った男が持ってきた知らせを、そのまま信じられるだろうか。
母親がここまで歩いてきたなら、そうは言わなかったはずだ。
俺は息子の姿を覚え、川へ戻る。
女は、同じ場所にいた。
「見つかったよ。生きてる。腕を怪我してたけど、飯も食ってた」
「本当に?」
「うん。眉のところの傷も、ちゃんと見た。お前さんを迎えに戻りたいって話してたよ」
女が立とうとする。
足元の鎖が引かれ、そこで身体が止まった。俺は近づき、差し出された手を取る。
「会いに、行けますか」
「歩けるようにするところまでは、俺にはできない。ごめんねぇ」
その手を、ゆっくり下ろす。
刀を抜けば斬れる。川までなくしていいのなら、そんなこともできる。今この人が欲しいものへ手が届かないのは、俺に力がないからではない。
息子の傍へ、この人を連れていきたい。
そう思うたび、胸の鎖が目に入る。
「……生きてるんですね」
「うん」
「なら、よかった」
女は川を見たまま、何度も同じことを言う。
俺もそこへ座って、頷いていた。
やがて、こちらへ向けられた額へ柄頭を添える。送ってくれと言われてからも、俺は少しだけ手を止めてしまった。
光が広がる。
足元から鎖が消え、川を見ていた顔も薄れていく。向こうで息子が歩き出す前に、ここへいた母親は、もういなくなっていた。
俺は刀を腰へ戻す。
寺へ戻って、もう少し見ていようか。
そう考えてから、まだ行っていない家のある方へ顔を向けた。
*
瀞霊廷へ帰ると、宗玄が門にいた。
迎えに出ている時は、報告を待っている。俺の怪我を探す視線もいつも通りで、こちらが手を振ると、頭が下がる。
「千鳥たちは、帰った?」
「はい。負傷した者も休ませております。隊長、お先に一番隊へお寄りください」
「先生に呼ばれてるのか」
「現世の配置について、隊長方へお話があるそうです」
刀を外すのは、帰ってからになりそうだ。
宗玄へ頷き、門を抜ける。並んで歩いてくれるので、俺も向こうで見たことを話した。虚の数と、魂の残っている場所。寺にいた人間のことは、途中でやめておく。
報告のために聞いてくれているのに、母親の顔まで覚えさせることはない。
「こちらでは、何かあった?」
「……西へ出ていた他隊の者に、戦死者が出ました」
宗玄の声が、低くなる。
俺も足を止めた。
「誰」
「六席の
蓮見。
合同の稽古で会ったことがある。俺に斬り込んで、肩から転がった男だ。起き上がるなり、もう一度と言ってきた。飯の時まで、その転がり方を聞いていた顔が浮かぶ。
覚えている。
この前会った時には、隊の若い者を連れていた。
「……亡骸は、戻ってる?」
「はい。お二人とも」
「そっか」
それだけ言って、また歩く。
宗玄も、隣へついてきた。一番隊へ向かう道は、帰ってきた時と同じように人が通っている。誰かが俺へ頭を下げ、こちらも手を上げて返す。
蓮見を教えたのは、俺ではない。
俺の部下でもなかった。
それでも、あいつにもう一度と呼ばれることはないのだと、歩いているうちに分かってくる。
『お前様』
ゆめの声へ、小さく頷く。
今夜は、話すことが多くなりそうだった。