絶えたる声に 名は残り
継ぎゆく袖に 灯は移る
部屋へ入る前に、袖の泥を払っておくべきだった。
気づいたのは、並んだ白い羽織を見てからだ。俺の裾には川辺の土がついているし、袖には乾いた血まである。自分のものではないから怪我を心配されることもないだろうけど、これから座る畳には、少し申し訳ない。
「戻ったばかりかい?」
入口の近くにいた女が、俺の袖へ目を向ける。
「顔色がよくないね。何か食べた?」
「向こうで少し。俺の顔、そんなに酷いかねぇ」
「腹が空いた顔とは、違うけどね。座りな。話はもう始まるよ」
なら、食っても直らない顔をしているのだろう。
俺は頷いて、自分の場所へ入る。向かいには六番隊の
前にも、同じように挨拶を交わしている。
ただ、この人の名を初めて聞いた時には、何故かもう一度聞き返してしまった。どこかで聞いたことがある。曳舟の名も、そうだった気がする。今は顔を知っているし、話したこともあるから、昔の曖昧なものを探すより、こちらの方が先に浮かぶ。
先生が杖を置く。
座る場所を探していた俺も、そこで顔を上げた。
「西の討伐で、二名を失った」
もう、聞いている。
それでも、先生の声で聞けば、また蓮見の顔が浮かぶ。転がされた肩を押さえながら、次はどちらへ足を出せばよいかと尋ねてきた。あの時、俺は何と返しただろう。
刀の方ばかり見なくていい。
確か、そんなことを言った。
先生の前に置かれた紙へ、目を戻す。二人の名があるのだろう。ここからは字まで読めないのに、そこだけ、いつまでも見てしまう。
「残った者から報告を取っておる。詳しい経緯は、それを待て。今日は、同じことを繰り返さぬための配置を決める」
部屋の中央へ、現世の地図が広げられる。
赤い印が、随分と増えていた。
俺が今日歩いてきた川も、その中にある。寺は、ここか。女のいた渡し場は、もう少し下だろう。見たばかりの場所を探していると、先生の指が別の印へ置かれる。
「これまでの巡回では、間に合わん。魂葬へ向かった者が虚と遭遇し、その討伐に掛かっておる間に、別の場所へ魂が残る。援けを出せば、そちらの持ち場が空く。今は、空いたところへ次の任を入れておるだけじゃ」
それなら、俺も何度もやっている。
帰ってきた奴を休ませたいから、自分が代わりに出る。戻れば別の奴が疲れていて、今度はそちらへ行く。俺の身体は保つけれど、これを隊の全員へやらせるわけにはいかない。
「魂葬と討伐の人員を、分けられませんか」
銀嶺が、地図へ目を落としたまま言う。
「魂葬を担う者まで虚を追えば、留まる魂は増える一方です。討伐に当たる者を近くへ置き、そちらへ引き継がせる方がよいでしょう」
「遠くへ呼びに行くなら、その間に喰われるよ」
曳舟が地図の端を押さえる。
「引き継ぐまで、誰が守る? 魂葬へ回せる人数を増やしても、その子たちを弱いまま外へ出すわけにはいかない」
「無論、護衛はつけます。ただ、皆が同じ虚を追う必要はありません」
俺は二人の間にある、赤い印を見る。
今日の畑で、二人が虚を止めていた。一人は肩を斬られ、もう一人は倒れた魂へ声を掛け続けている。千鳥が着くまで俺が残らなければ、あの二人にまた守ってもらうことになっただろう。
「近くにいる奴を、呼べるようにはしたいねぇ」
先生が、こちらを見る。
「俺も、川を渡って初めて別の隊に会ったよ。同じ村を回ってても、お互いにどこへいるか知らなかった。先に分かっていれば、あっちの人を休ませてから、残った場所を分けられたと思う」
地図へ手を伸ばし、川の両側を指す。
片方を回り終えたから帰る。もう片方では、まだ刀を抜いている。同じ帰り道を歩くなら、一声掛けてくれれば俺も見に行けるのだ。
「隊ごとの持ち場を決めるのは要るけど、境目まで来てから、これは誰に聞くんだろうってなるのは減らしたいな。俺なら勝手に入っちゃうけど、若い奴には言いにくいだろうから」
「お前は、入った後の報告を忘れるでな」
それは、宗玄がやってくれている。
言ってしまうと帰ってから叱られそうなので、俺はそこだけ頷いておく。先生も今は追及せず、川辺に置かれた印を隣へ動かす。
「近隣へ出す者には、互いの配置を知らせる。日ごとに変わる分は、現世で纏める者を置け。隊を跨いだ増援の要請も、そこへ通す」
「要請を待つ間に危ない時は、先に助けていいんだよねぇ」
「当然じゃ。助けた後で知らせよ」
なら、その通りに教えよう。
頭を下げてからでなければ手を出せないと思う奴が、一人でも減ればいい。俺を呼ぶ時にも、報告の言い方など考えず、まず場所を言ってほしい。
地図の上で、印が幾つも動く。
俺は自分の隊から出せる顔を数えながら、それを見ていた。皆を現世へ出せば、流魂街の巡回が空いてしまう。向こうから送ってきた魂が、こちらでも安心して歩けないのでは、俺たちは何をしているのだろう。
「先生。十番隊からは、俺も出るよ。明日は帰ってきた連中を休ませたいから、それが済んでからになるけど」
「お前が出れば済むと思うな。後を預ける者も決めておけ」
「うん。千鳥に任せる組と、俺が見る組で分ける。ただ、ほかの隊からも、合わせて動く人を出してほしい。次に俺が違う場所へ呼ばれても、残った人同士でやれるように」
先生の目が、俺からほかの隊長へ移る。
誰も、その場で返事を急がなかった。自分の隊にも、休ませたい者がいるのだろう。俺が顔を思い浮かべている間、向こうも同じことをしている。
やがて銀嶺が、自分の前へ紙を寄せる。
「六番隊からも出しましょう。候補を選び、明日までに知らせます」
「うちからもね。ただ、怪我の残ってる子まで数に入れないでおくれよ」
曳舟が先生へ言う。
八千流は、先ほどから黙って座っていた。怪我人を診る方へどれだけ人が要るのか聞かれると、手元の紙を開いて答える。治った者の名前と、まだ動かせない者の名前。隊が違っても、あの人はちゃんと覚えているらしい。
俺は膝の上で、指を開く。
向こうで塞いできた肩は、今頃痛んでいないだろうか。
明日、顔を見てから出よう。
*
隊長会を終えると、曳舟が廊下で待っていた。
俺より先に出たはずなのに、行く手へ立っている。少し離れたところでは銀嶺が長次郎と話していた。もう明日の人員を決めるつもりらしく、こちらへ気づいても足を止めない。
仕事が早いなぁ。
俺も見習いたいところだけど、先に曳舟の持っている包みが気になっていた。
「これ、持っていきな」
「……俺に?」
「ほかに誰がいるのさ。帰ってから食べな。話してる間も、何度かぼうっとしてたよ」
「聞いてたんだけどねぇ」
「聞いてるから、そうなることもあるだろう」
包みを受け取る。
重い。開けずとも、握り飯だけではないことが分かる。持って帰れば宗玄が数えてくれるだろうと思い、それから、そういうことまで人任せにしている自分へ少し笑ってしまう。
「部下と分けてもいいかい」
「あんたの分までなくさなければね。足りないなら、今度は連れておいで」
「それ言うと、本当に来るよ。うちの三席、土産の話は忘れないから」
「いいじゃないか。忘れられるより」
曳舟が、俺の袖を軽く払う。
乾いた泥が落ちる。部屋へ入る前に、自分でやるつもりだったことを思い出す。随分と面倒を見てもらってしまった。
「……ありがとねぇ」
「うん。まず着替えな」
それには、すぐ頷ける。
帰ったら羽織を脱いで、傷を診て、それから飯だ。宗玄の報告がまだあれば、食いながら聞こう。蓮見のことも、もう少し尋ねたい。
廊下を曲がる前に振り返ると、曳舟は別の隊長へ声を掛けていた。
俺だけが、包みを持っているわけではなかった。
*
庭へ出ていたのは、千鳥と、見覚えのない若い男だった。
俺が門から入っていくと、二人とも刀を下げる。千鳥は先に俺の手元を見てから、男へ顔を向け直す。
「こちらが、隊長です」
「ああ。お前さん、どこの人?」
うちの隊士ではない。千鳥と知り合いなのかと思ったが、こちらを見る顔が硬い。俺が近づくと、両手を脇へ揃え、頭を下げた。
「蓮見六席に、教えていただいていた者です」
包みを持つ手が、止まる。
千鳥が、こちらへ歩いてきた。
「以前、こちらの稽古へ来たことがあるそうです。蓮見六席が、また伺うとお話しになっていたと」
「……そっか。俺と会ったことはある?」
「いえ。前に来た時は、隊長はお留守でした」
なら、あいつは俺のいない日にまで来ていたのか。
宗玄が何度か話してくれた気もする。別の隊から稽古へ来た者がいる。千鳥が相手をした。俺はよかったねぇと返し、そのまま紙へ名前を書いていたかもしれない。
俺の覚えていない日に、あいつもここを歩いていた。
「今日は、どうしたの」
「教わっていたものの続きを、千鳥三席にお願いできないかと。あの時、二人で退く稽古をしたのですが、私が先に出ると、後ろを見る方が遅れてしまって」
男が、自分の刀を見る。
そこから先は、少し声が小さくなった。
「蓮見六席には、まだ分かっていないところを、次に確かめようと言われておりました」
次は、もう来ない。
俺は包みを千鳥へ渡し、腰の刀へ手を添える。今朝まで振っていたものなのに、柄を握ると、また男の肩から転がった蓮見の姿が浮かぶ。
あいつも、初めから教えるのが上手かったわけではないのだろう。
俺に尋ね、千鳥へ尋ね、それを自分の隊で試していた。その続きを確かめたい奴が、今ここへ来ている。
「うん。やろうか。お前さんの隊には、話してある?」
「はい。夕方までには戻るようにと」
「じゃあ、そこまでね。次に来る日も、帰る前に決めとこう。俺が留守なら、千鳥に見てもらえばいいから」
千鳥が、包みを脇へ置く。
男はすぐ刀を構えようとしたので、先に名前を聞いた。口に出して確かめると、ようやく顔から少し力が抜ける。
「それじゃ、俺が後ろから追うよ。千鳥と二人で、門まで行ってみて」
「刀は、抜いたままでよろしいですか」
「うん。ただ、振り向く時は隣も見てねぇ。自分の刀で千鳥の袖を斬ると、結構怒られるよ」
「隊長も、気をつけてください」
俺もかい。
千鳥はもう男の隣へ立ち、どちらが先に出るか尋ねている。返事を聞いてから場所を譲り、刀の向きまで確かめていた。
俺は庭の端へ回る。
蓮見には、もう教えられない。
そう考えたところで、足が少し止まりかける。けれど、門の前には、こっちを待っている二人がいた。男の握る刀は、まだ肩より上へ来ている。背後を見る時に隣へ当たりそうだ。
「もう少し、下げようか。それだと、後ろを見た拍子に振っちゃうから」
男が、刀を下げる。
よし。それなら始められる。
俺は二人が頷くのを待ってから、庭へ踏み出した。