裂けたる空に 影は満ち
帰りを呼ぶ声に 刃は立つ
京楽が笑っている時は、だいたい何かを頼まれる。
長い付き合いで覚えたことの一つだ。今日も、俺が川へ着くなり手を振ってくれたまではよかった。そちらへ歩いていけば、笑顔の横に、運ぶ者を待っている魂がずらりと並んでいる。
「烏有さん、向こう岸までお願いできるかな。こっちの舟、底が抜けちゃってね」
「俺に舟を直してほしいの?」
「いやぁ、道を出してもらえると助かる。直しても、あの人数は乗れないだろう?」
それは、確かに。
岸へ引き上げられた舟には、拳より大きい穴がある。人間たちが逃げる時に使ったものらしく、底へ板を当てた跡まで残っていた。ここを渡った時には、まだ浮いていたのだろうか。あまり考えたくない。
俺は向こう岸を見て、魂のいない場所を選ぶ。
「
足元から対岸へ、道が繋がる。
近くにいた男が、いきなり足を止めた。さっきまで渡れなかった川の向こうが、すぐ目の前へ来ている。そりゃあ驚くよなぁ。俺だって初めてできた時には、何度か行ったり来たりした。
「通っていいよ。向こうで、皆と一緒に待っててねぇ」
「川へは、落ちないのか」
「道から外れなければね。走らなくていいから、順番に」
京楽が先へ立ち、足元を見せるように歩く。
それを見て、一人が続く。次に二人。岸へ並んでいた顔が、少しずつ向こうへ移っていく。俺の傍に残った隊士が数を確かめているので、そちらは任せておこう。
「お前は、他隊の隊長を何だと思ってる」
背後から声がする。
京楽が振り返り、笑顔のまま頭を下げた。
「助けていただきました。ありがとうございます、烏有隊長」
「遅い。先に言え」
「俺は気にしてないよ。呼ばれてた場所も、ここだからねぇ」
八番隊隊長、
短く刈った髪と、左の眉を横切る傷が、遠くからでも見分けやすい。黙って立っていると、隊の若い連中は背筋を伸ばす。口を開けばもう少し話しやすいのだけど、本人にはそれを宣伝する気がないらしい。
こちらへ並ぶなり、俺の出した道を覗き込んでいる。
「便利だな。お前を一人、うちへ欲しい」
「今の俺で、話が通じるのは一人分だけだよ」
「なら、今いる方を寄越せ」
「宗玄に聞いてくれる? 俺からだと、また勝手なことをって言われるから」
巌堂が鼻で笑う。
京楽も対岸で笑っていた。自分が叱られた話は、もう済んだつもりらしい。あいつも随分と図太くなったものだ。
前に皆で地図を囲んだ年から、三十年ほど。
その間に、京楽は八番隊の副隊長になった。浮竹も、十三番隊で同じ立場を任されている。二人とも、たまに飯を食いに来る頃の顔は変わらない。けれど、来られなくなった理由を聞けば、俺も引き止める言葉を失う。
今日は浮竹が、別の集落へ出ている。
あいつの隊長である
最後の男が道へ入る。
俺は岸を確かめてから、巌堂と一緒に渡った。
*
魂葬が済むまで、俺と巌堂は外側を回ることにした。
八番隊と十番隊が一緒に動くのも、もう珍しくはない。初めの頃は誰の命令を聞くべきかと顔を見合わせていた奴らも、今は刀を抜いた相手へ声を掛け、空いたところへ入っていく。
稽古を続けた甲斐は、ある。
ただ、それで次から虚が出なくなるなら、俺も毎晩庭へ出てやるのだけど。
川下へ二つ、林の中へ三つ。
そのうち一体が、こちらの魂を見つけて走ってきた。四本の腕で木を掴み、枝を折りながら跳んでくる。俺が柄へ手を掛ける前に、巌堂の刀が抜けた。
白い仮面が、額から顎まで割れる。
振り下ろした刀を戻すついでに、次の腕も落としている。大きな身体が地面へつく頃には、巌堂はもう林の方へ歩いていた。
「残り、どっちだ」
「右に二つ。左へ一つ。俺は左に行くよ」
「おう。川へ追い出すなよ。せっかく、あいつらが纏めたんだ」
分かってる。
林へ入ると、木の陰から口が開く。待ち伏せのつもりだったのだろうけど、首を出す前から霊力が分かっていた。顎の下へ刀を入れ、そのまま仮面を抜く。枝へ引っ掛かった袖だけ外してから、俺は川へ顔を向けた。
赤い光が、岸を照らしている。
巌堂のものではない。
木々の上から顔を出した虚が、口へ力を集めていた。随分と首が長い。その下の身体は、地面へ腹を擦りつけたまま、林の外へ続いている。
狙いは、向こう岸だった。
「縛道の八十一⸺
光が、壁へぶつかる。
川面が赤く染まり、岸へいた男が両腕で顔を覆う。その前に立った京楽は、魂を後ろへ下げていた。うん。そっちは頼むよ。
俺は虚の首へ上がる。
刃を入れ、下まで振り抜く。口へ残った光ごと白い仮面が崩れ、長い胴が地面へ沈んだ。その向こうから、巌堂が出てくる。
「そっちへ回ったか」
「身体は、お前さんの方にあったみたいだねぇ」
「長すぎるんだよ。頭を出せと思って斬ったら、尻尾だった」
巌堂の羽織へ、葉がついている。
俺にも、たぶんついているのだろう。宗玄に見つかる前に払っておこうかと袖へ手を伸ばし、その途中で、空を見た。
裂けている。
林の上に、黒い隙間があった。そこから白い指が出て、左右へ縁を押し広げていく。細い爪ではない。木の幹を握り潰せそうな、太い指だった。
「……巌堂。皆を、岸から離して」
「お前が出るか」
「うん。あれは、若い奴に任せたくない」
巌堂はすぐ川へ向かう。
俺は空へ上がり、抜いた刀を肩へ置いた。開いた
虚圏では何度も見た。
けれど、あの白い砂の上で見上げるのと、村の屋根を越えて出てくるのとでは、どうも勝手が違う。下には、まだ人間の家がある。向こうの坂には、俺たちの姿が見えない人まで歩いている。
口へ赤い光が灯る。
俺は、その顔の前へ出た。
「悪いねぇ。ここで飯を探すのは、やめてもらおうか」
刀を横へ振る。
仮面が割れ、鼻の上から頭がずれる。口へ集まっていた光が消える頃には、俺はもう黒腔の前にいた。
奥にも、いる。
二体。続いて出ようとしている白い顔が、一体目の崩れる身体へ重なって見えた。
なら、そこで待っていてくれ。
踏み込んで、二体目の額へ刃を通す。三体目が顔を上げ、俺へ口を向ける。指から白雷を放つと、その奥まで光が抜けた。
崩れる顔の向こうを、確かめる。
まだ遠くに、幾つか霊力があった。今の隙間へ向かってくる様子はない。俺は外へ戻り、黒い縁が閉じていくのを見届けてから、岸へ下りた。
巌堂が、川の反対側を見ている。
その先にも、空の裂け目があった。
*
今度の白い顔は、川へ口を向けていた。
赤い光が膨らむ。
俺はそちらへ踏み出す。下では、巌堂が魂の前へ立ち、刀を抜き直していた。
「鳴り渡れ、
刀身が厚くなり、背へ幾つもの輪が現れる。
巌堂が、その刃を地面へ打ちつけた。
鐘の音が、川を渡る。
放たれた虚閃が、その音へぶつかった。先端が大きく上へ逸れ、岸の頭上を抜けていく。空へ伸びた赤い光が消える前に、俺は大虚の顔へ届いた。
仮面を斬り、黒腔の奥まで確かめる。
こちらは、一体だけ。
顔を失った巨体が薄れていき、その下から、川を渡ってくる京楽が見えた。俺へ向かっているのではない。京楽は巌堂の後ろへいた隊士を掴み、崩れた岸から引き上げている。
「こっちは僕が見る!向こうへ戻って、残った人を送ってくれ!」
声を掛けられた者が、対岸へ走る。
京楽は引き上げた隊士を立たせ、その背を押した。怪我はないらしい。俺も下りて、岸へ残った者へ顔を向ける。
魂が、三人。
一人は座り込み、もう一人はその肩を抱いている。巌堂の前へいた女は、耳を押さえたまま立っていた。
「大きな音だったねぇ。もう、鳴らないよ」
女が俺を見る。
それから、川の向こうへ顔を向けた。さっきまでそこに何がいたのか、もう見えない。黒腔も閉じている。けれど、それで脚の震えまで止まるわけではないのだろう。
俺は女の傍へしゃがみ、巌堂を見上げた。
「こっちは、皆いた?」
「京楽が、数を確かめてる。先に送った分を除いて二十七だ」
二十七。
さっき道を渡った顔を思い返す。途中でこちらへ寄せた者もいたから、俺が自分で数えていた分とは違う。適当に頷いて済ませたくはない。
京楽が、川の向こうから戻ってくる。
「二十七。揃ってるよ。こっちへ回した隊士も、全員いる」
「そっか。よかった」
そこで、ようやく刀を納める。
巌堂の刃も、元の形へ戻っていた。輪が消えたところを眺めていると、本人が俺を見る。
「何だ」
「お前さん、あれで虚閃の向きを変えられるんだねぇ」
「ここで受け止めりゃ、後ろまで吹っ飛ぶからな。上へ逃がした」
「助かったよ。俺の方が先に届くつもりだったんだけど」
「先に間に合った奴がやればいい。お前が、この前言ったんだろ」
そうだったな。
言ったことが、自分へ返ってくる。
京楽は俺たちの傍を抜け、座り込んだ男へ話し掛けていた。こちらの話が済むまで待つつもりはないらしい。男が頷くと刀を抜き、額へ柄頭を添える。
俺も、女へ向き直った。
耳を押さえていた手は、もう下りている。
*
浮竹たちと合流した頃には、日が落ちかけていた。
十三番隊の隊長、御影は、こちらの報告を聞きながら紙へ字を足している。髪を低く結び、羽織の襟まできちんと揃えているせいか、林から戻った俺と巌堂の方が、居残りを命じられたように見えた。
「別の黒腔から、続いて現れたのですね」
「ああ。最初の方に三体。川の向こうへ一体」
「こちらでは、大虚は出ていません。ただ、北の組から、空に黒い穴を見たという報告が来ています。近づく前に閉じたそうですが」
御影が、紙へ描いた道を指す。
浮竹はその隣に立っていた。自分が通った場所を確かめながら、こちらの川まで指を動かしている。
「同じものだとすれば、巡回を増やすだけでは見つけきれませんね。地面の痕跡を追っている間に、頭上から出てきます」
「出てきた後も、普通の虚と一緒に追うなよ」
巌堂が言う。
「お前らなら、やり合えるだろう。だが、連れてる全員がそうじゃない。近くに魂がいるなら、まずそっちを外へ出せ」
「はい。春水、次の配置を戻ってから見直そう」
「そうだね。頭の上まで見る人が要りそうだ」
二人が、紙を覗き込む。
さっきまで川辺にいた京楽も、今は笑っていない。浮竹が指した道へ手を添え、どちらから援けを出すか話している。御影はその言葉を聞いてから、別の場所を示した。
俺は、横から二人の顔を見ていた。
昔、俺へ斬り込んできた時には、隣へいる相手の刀を気にしていた。今は、その先へ何人を連れていけるか、誰を戻すかまで話している。
随分と、任せられるようになった。
そう思うのは、少し嬉しい。
けれど、任せると決めた先にも、今日のような顔が出てくる。京楽が大虚へ向かう姿も、浮竹が部下を庇って刀を抜く姿も、容易に思い浮かんでしまう。
「烏有さん?」
京楽に呼ばれ、俺は顔を上げる。
「聞いてた?」
「うん。聞いてたよ。明日は、俺が北を見てくる。黒い穴を見たって人に、場所を教えてもらえる?」
「その者を、同行させましょう」
御影が紙を畳む。
「ただ、今夜は一度戻ってください。先ほどから、十番隊へ帰還の見込みを伝えるよう催促が来ています」
「……宗玄?」
「お名前までは。しかし、三度目でした」
巌堂が、とうとう声を出して笑う。
京楽まで口元を押さえているので、俺は先に二人を指した。
「お前さんたちも帰るんだよ。俺がここへ残ってるの、話が終わってないからだからねぇ」
「分かってるよ。今日はちゃんと帰ろう、烏有さん」
今日は、とは何だ。
浮竹は笑いながら、伝令を呼んでくれる。全員で戻ると知らせてもらってから、俺は集まってきた隊士へ目を向けた。
八番隊。十三番隊。うちの連中。
顔を見れば分かる者が、また増えている。
巌堂が、羽織についた葉を摘まんで捨てた。その背後で、京楽が隊士から人数を聞いている。御影は浮竹へ紙を渡し、明日のことは戻ってからでよいと声を掛けていた。
俺も宗玄にそう言われるのだろう。
帰ったら、まず飯を食う。それから北の場所を聞いて、明日、誰を連れていくか決めよう。
刀へ添えていた手を離す。
今夜のうちに眠れる奴は、眠らせておきたい。