仰ぎし空に 影は連なり
戻らぬ声に 春は遠のく
北へ行く支度をしていたら、千鳥に握り飯を一つ取られた。
取られた、という言い方はよくないか。俺の膳から持っていったわけではなく、包もうとしていたものを先に食われただけなのだけど。どちらにせよ、俺が昼に食うつもりだった分である。
「お前さん、朝飯は?」
「食べました。今日は私も行きますので、これで足りるか確かめています」
「それ、俺の分なんだけどねぇ」
「もう一つ包んでもらってください。十三番隊の方は、門へ来ておられますよ」
仕事が早い。
俺に知らせるまでに一口食ったのだから、なおさらだ。残った二つを包み、台所へもう一つ頼んでから門へ向かう。千鳥は先に歩き出していて、その後ろへ四人の隊士が続いていた。
昨日、北で黒い穴を見たという男は、門の脇で待っている。御影が寄越してくれた者だ。挨拶を終えるなり頭を下げるので、まずは顔を上げてもらった。
「場所を教えてくれるだけでいいよ。昨日、何か出てきた?」
「いえ。木の上に開いたのですが、こちらが近づく前に閉じました。奥に白いものが見えた気もします。ただ、仮面だったかまでは」
「そこは、分からないままでいい。見えたところから教えて」
そう言うと、男は懐から紙を出す。山の形と道が描いてあり、途中の沢へ印がついていた。これなら帰ってきてからも使える。宗玄が喜びそうだと思って振り返れば、本人も同じ紙を覗いている。
「今回は、夕刻までにはお戻りになる予定ですね」
「うん。何もなければ、もう少し早いと思うよ」
「何かあった場合は、お知らせください。昨日と同様、こちらから伺うことになりませんように」
「分かった。千鳥にも覚えててもらうから」
千鳥がこちらを見た。
まだ握り飯を食っている。俺の帰る日を覚えるより、そちらを先に済ませたいらしい。
*
黒腔があったという場所には、何も残っていなかった。
沢を挟んだ向こうに木が並び、その上へ青い空が続いている。指された位置まで上がってみても、虚の姿はない。霊力の名残を探しながら周囲を回り、俺は昨日の男へ顔を向ける。
「この高さ?」
「もう少し上です。あの枝から、二人分ほど」
「そっか。じゃあ、頭が出てきたら、下からは見えたんだね」
男が頷く。
俺は枝の高さまで下り、林の向こうを見渡した。畑と、屋根が幾つか。ここへ大虚が出てきて虚閃を放てば、あそこまで届くだろう。昨日は出てこなかった。それはありがたいが、今日も同じとは限らない。
千鳥は下で、隊士へ道を確かめさせている。沢へ沿って進めば村から離れられるらしく、先へ走った一人が戻ってきた。
「隊長。西へ抜ける道があります。ただ、途中から人のいる方へ下りますので、退くなら沢の上へ」
「うん。そっちにしよう。十三番隊の人にも、一緒に行ってもらって」
返事を聞きながら林へ意識を広げる。
普通の虚が二体。村の外へ伏せていた方は、もう千鳥が見つけていた。もう一方は山の裏だ。先に斬ってこようかと足を向け、その途中で、頭上の空が歪んだ。
昨日の場所ではない。
沢を越えた先。村の真上へ、黒い線が走っている。
「千鳥。村へ。魂がいたら先に送って、人間の家から離れて待ってて」
「承知しました。皆、こちらへ!」
千鳥が走り、五人が続く。俺は空へ上がりながら刀を抜く。白い指が黒い縁へ掛かり、その向こうから、長い鼻のついた仮面が覗いた。
また、お前さんか。
昨日は四体。今日も朝から一体。こうも続けて会うようになるとは、現世へ来た頃には思っていなかったなぁ。虚圏なら見慣れた顔なのに、こちらで見ると、どうしても下の屋根へ目が行く。
赤い光が集まり始める前に、額へ刃を通す。
白い顔が割れた。
その背後にも同じ顔がある。さらに、もう一つ。黒腔が広がり、別の大虚の指まで縁へ掛かっていた。
俺は一体目の身体が崩れる横を抜け、奥へ踏み込む。
暗がりに並んだ仮面が、こちらを向いた。見えるだけで六体。出てきたものを合わせれば七体になる。なるほど、村へ続く道を見つけて、皆で来たわけか。
「悪いけど、ここで終わりにしてもらうよ」
二体目の首を斬り、三体目へ刀を向け直す。奥の一体が口を開いたので、そちらへ空いた掌を翳した。
「縛道の八十一⸺
赤い光が壁へぶつかる。その間に手前の二体を斬り、壁の横から残る顔へ回った。こちらを追って口が動く。ああ、下を狙うよりは、その方が助かる。
俺は指先を仮面へ向ける。
「破道の四⸺
光が額を抜けた。
その向こうから伸びてきた腕を落とし、最後の顔へ刀を入れる。崩れていく身体の間を見渡しても、すぐ近くにはもういない。遠くに感じる霊力まで、ここへ集まってくる様子はなかった。
外へ戻ると、村の屋根はまだ並んでいた。
火も上がっていない。俺は黒腔が閉じるまでその前に残り、それから千鳥たちの方へ下りる。
沢の上へ揃った顔が、こちらを見る。
「七体いたよ。こっちは?」
「虚を二体討伐しました。魂が三人。魂葬は済んでいます。人間への被害はありません」
「そっか。ありがとう。十三番隊の人も、怪我はない?」
男は頷きかけ、頭上を見た。
もう何もない空だ。それでも、さっきまでどれほどのものが出てきていたかは見ていたのだろう。俺の刀へ目を戻した後、言葉を選ぶように口を開く。
「昨日、閉じてくれてよかったです。あれが出てきていたら、私たちだけでは」
「うん。だから、見つけた時に知らせてくれて助かったよ。今日、ここへ来られたのは、そのお陰だからねぇ」
俺が昨日の紙を指すと、男はそれを握り直した。
自分で斬らなかった相手の数も、報告へ書ける。そういう仕事を、これからはもっと頼むことになるのだろう。
千鳥が紙へ七つ、印をつけていた。
*
その年のうちに、同じような報告は十一件になった。
俺が出たところもあれば、巌堂や御影が出たところもある。銀嶺が自分で斬って戻り、連れていた者へ報告を書かせているのも見かけた。皆、片づけてはいるのだ。現れたものを斬り、魂を送り、負傷者を運んで帰る。
それが終わっても、次の場所から呼ばれる。
宗玄が俺の机へ置く紙には、帰ってきたばかりの組をもう一度出さずに済むよう、人の名を入れ替えた跡が増えていた。
「こいつ、昨日帰ったんじゃない?」
「はい。ですので、三日後へ回しております。こちらの者は、今日の稽古を外して、午後から休ませます」
「うん。俺が出る分も入れといて。朝からなら、二つは回れると思うよ」
「隊長にも、戻っていただく日は必要です。稽古を待っている者もおりますので」
そう言われれば、そちらも放ってはおけない。
現世で刀を振り、戻ったら庭で刀を振る。俺はどちらでも同じように動けるけれど、相手をしている連中はそうもいかなかった。俵を担いで走った後に息が戻らず、千鳥へ座らされる者もいる。
前は、もう一度お願いしますと言われる方が多かった。
今は、そのもう一度を、明日にしておこうと言うことが増えている。
京楽と浮竹が飯を食いに来た夜には、三人とも箸を持つ前に紙を広げてしまった。誰をどこへ出すか。帰った者へ何日休みをやれるか。せっかく飯が温かいのに、汁へ湯気が立たなくなるまで気づかない。
「……食おうか。これ、宗玄に見つかったら叱られるよ」
「烏有さんも叱られるんだ?」
「俺が一番叱られるねぇ。お前さんたちの飯まで冷ましたことになるから」
京楽は紙を畳み、浮竹も膳を引き寄せる。
その日は三人で食えた。次に同じ顔が揃ったのは、季節が一つ変わってからだった。
*
十二年後、俺は隊葬へ出るために羽織を替えていた。
血がついているわけではない。現世から戻った時、襟を泥で汚してしまったのだ。千鳥が持ってきてくれた方へ袖を通し、腰へ刀を戻す。その間も、隣の部屋から稽古の音が聞こえている。
「誰が教えてるの?」
「佐伯です。今日は、私の代わりに。担ぐ時に刀をどちらへ寄せるか、やり直してもらっています」
ああ、あいつか。
昔、腿を斬られて担がれた方が、今は担ぐ奴へ教えている。四番隊へ顔を出した時には、歩けるから庭へ行かせてほしいと頼んでいたな。あの時は帰ってもらったけれど、今なら、俺がいない間も庭を任せられる。
戸口へ出ると、佐伯が俵の紐を結び直していた。
俺を見て手を止め、頭を下げる。今日は稽古へ混ざらないことを知っている顔だ。俺も手を上げるだけにして、門へ向かった。
宗玄がそこで待っている。
見送るためではない。今日は一緒に行く。手にした紙へ三人の名が並んでいて、そのうち一人は、宗玄が何度か任務の引き継ぎを頼んだ者だった。
「前に、お前さんと門で話してた人だよね」
「はい。七番隊の方です。東の巡回について、こちらへ知らせに来られました」
「覚えてるよ。俺が帰ってきたら、宗玄が留守だからって、あの人に土産を渡しておいたんだ」
返事を待つ必要はなかった。
宗玄も、思い出している。預かった包みを潰さないよう両手へ持ち、俺がまた出掛けようとすると、帰ったことだけは副隊長へ知らせていってくださいと困っていた男だ。
名を見れば、顔が出てくる。
十二年の間に、何度同じことをしただろう。
今日も場所は知っている。道へ迷うこともない。門を出て、宗玄と並んで歩けば、ほかの隊からも同じ方へ向かう者が見えた。
京楽は先に来ていた。
巌堂の隣に立ち、こちらへ頭を下げる。浮竹も少し離れたところへいる。誰も紙を広げてはいなかった。
並べられた棺は、三つ。
昨日、救援へ出た場所では五人を運び出せた。そのうち二人は四番隊へ入り、残る三人がここへ来ている。俺が掌を当てた胸も、治そうとして開いた着物も覚えていた。
傷なら塞げる。
血を止め、折れた骨を戻し、また息をしてくれるところまで持ち直すこともある。昨日の二人はそうだった。あとの三人も同じようにできてほしくて、俺は手を離すまで、随分と時間を使ってしまった。
棺の前へ立つ。
俺が着くより先に死んでいた。
報告へ書くなら、その一行で済むのだろう。俺も、到着した時には、と何度も書いてきた。けれど、読んだ宗玄が覚えている顔まで、その一行へ収まるわけではない。
巌堂が隣へ来た。
「昨日、出てくれたんだな」
「うん。五人は見つけたよ。二人は、まだ四番隊にいる」
「そうか。後で行ってくる。御影も、向こうへ寄ると言ってた」
俺は頷く。
助かった方へ会いに行くことまで、忘れかけていた。あいつらは今も、こちらが顔を出すのを待てる。
「俺も行くよ。終わってから」
「おう。ここは、先に済ませよう」
巌堂はそれ以上言わず、列へ戻る。
俺も宗玄の隣へ立った。始まるまでの間、庭の方から風が入ってくる。誰かの袖が動く音まで聞こえるほど、皆が静かだった。
*
四番隊から戻ると、千鳥はまだ庭にいた。
佐伯の稽古は終わっている。今度は千鳥自身が、宗玄を相手に刀を振っていた。あいつも隊葬から帰ってきたばかりなのに、既に上着を替えている。
俺が縁側へ座ると、二人が刀を下げた。
「隊長。五人いたそうですね」
「うん。二人には、顔を見てきたよ。一人は、水も飲めるようになってた」
「……そうですか」
千鳥は柄へ目を落とす。
今日の三人とも、合同の稽古へ来たことがある。宗玄だけが知っている顔ではなかった。俺も、棺へ入ってから初めて会った相手なら、もう少し別の顔で戻れたかもしれない。
そんなことを考えたところで、どうにもならないのだけど。
「お前さんたち、今からもう一度?」
「そのつもりです。今のは、私が追う側でしたので。次は、宗玄に」
宗玄が刀を持ち直す。
普段なら、飯の前に疲れすぎないようにと言ったかもしれない。今日は俺も、腰の刀へ手が伸びていた。
「じゃあ、俺も混ぜて。二人で下がる方、見ておきたいから」
「隊長、今日はお休みになるのでは」
「うん。これをやったら休むよ。宗玄も、一回終えたら飯にしよう」
庭へ下りる。
千鳥が少し場所を空け、宗玄は縁側へ刀を置きに戻った。怪我人を運ぶ方から始めるらしい。俵へ手を掛けるところを見ながら、俺は自分の袖を寄せた。
この二人も、現世へ出る。
俺のいない場所で刀を抜き、俺が着くまで仲間を守ることがある。今日の棺を見て帰ってきたばかりなのに、明日も人を出すための紙が、部屋へ置いてあるのだ。
「隊長。始めてよろしいですか」
宗玄が俵を背負い、千鳥がその前へ立つ。
聞き慣れた声だった。
俺は刀を抜き、二人の顔を見る。
「うん。今日は、簡単には帰してあげないよ」
千鳥の口元が、僅かに上がる。
帰ってくる方には、難しい稽古をしてもらおう。俺が見ているうちなら、何度でもやり直せる。