帰りし道に 影は残り
呼びたる名に 声は絶ゆ
千鳥の燕が、川の上を渡っていく。
岸へ上がろうとした虚の仮面を切り、その後ろから伸びてきた腕へ、もう一羽が当たる。宗玄は崩れた身体の間へ鉄葛を通し、残った大虚の足首へ巻きつけた。
引くと、膝が折れた。
白い顔が低くなる。そこへ燕が降り、額の傷を深く広げたところで、宗玄が刀身を固める。両手で振り抜いた長い刃が、その割れ目へ届いた。
大虚の頭が崩れていく。
「下がります。千鳥、先へ」
「一緒に行けます。川上は、もう追ってきません」
千鳥が刀を引き、南へ走る。宗玄も続いた。追いついてきた虚を鉄葛で薙ぎ倒し、柄を戻す。腹へ当てた布は既に赤かったが、足はまだ動いた。
坂の上で、佐伯の声がする。
続けて、悲鳴。
二人が顔を上げると、木々の向こうに黒い裂け目が開いていた。枝より低いところから、幾つもの腕が地面へ伸びている。
「千鳥!」
宗玄が呼ぶ頃には、彼女は刀を振っていた。
燕が坂を越える。佐伯の背へ迫っていた爪を断ち、隣の虚の顔を切った。佐伯は振り返らず、抱えていた魂を木の陰へ押し込む。
その横で、隊士が一人倒れた。
仲間が腕を掴んで引く。けれど、黒腔から出てきた次の身体が、その二人へ覆いかぶさった。
宗玄が踏み込む。
伸ばした鉄葛を胴へ巻き、横へ引き落とす。隊士の腕が抜けたところへ、千鳥が着地した。
「南へ行かないで! 右の林へ、散ってください!」
刀から放った燕が、木の間を抜ける。
走れる者が走り、倒れた者へ手が伸びる。佐伯も魂を背負い直した。前へいた隊士が刀を抜き、林へ入る道を空けようとしている。
宗玄は、頭上を見た。
黒腔の上端へ、白い顔が現れていた。口の奥で赤い光が膨らむ。その下には、もう一つの顔。二体とも、木々の間へ口を向けている。
「千鳥、上を!」
鉄葛が伸びる。
低い方の大虚の顎へ巻きつけ、宗玄は柄を引いた。上へ逸れた口から、赤い光が空へ抜ける。
千鳥の燕も、もう一体へ届いていた。
仮面へ傷が走る。だが、開いた口は閉じなかった。千鳥が二度目を放つより先に、虚閃が坂へ落ちた。
宗玄が彼女の襟を掴む。
横へ投げた身体が木の根へぶつかる。その後ろで赤い光が地面を削り、宗玄の姿を呑んだ。
千鳥が起き上がる。
土煙の中に、宗玄の背が見えた。刀を持つ手が下がっている。肩から胸へ焼けた着物が貼りつき、膝が折れると、伸びていた鉄葛も地面へ落ちた。
「宗玄さん!」
千鳥はその腕を肩へ掛ける。
返事はなかった。身体が重い。腰へ手を回して立たせようとすると、腹の布から血が落ちた。
雨燕を振る。
迫っていた虚の仮面が割れた。もう一羽を背後へ飛ばし、千鳥は宗玄を抱えて林へ向かう。
「佐伯、こちらを!」
木の陰から、佐伯が顔を出した。
その目が見開かれる。
千鳥が振り向くより早く、黒腔から伸びた爪が背中へ届いた。
*
四番隊の隊士へ、負傷者を渡す。
腹へ当てていた手を、向こうの掌が引き継いでくれた。肩を斬られた男も、もう運ばれている。俺は二人の顔を確かめ、東へ道を繋いだ。
「
足を踏み出す。
見えてきた川には、橋がなかった。
岸へ赤い溝が走り、その先の坂が抉れている。木の下に人がいた。立っている者も、倒れている者も。
白い爪が、その頭へ落ちかけていた。
俺は刀を抜く。
手首を落とし、仮面を斬る。振り返る必要はない。次にいる場所も、その次も分かっている。坂へ上がり、黒腔から出てきた顔を割ると、その奥へ刃を伸ばした。
赤い光が消える。
もう一体の口へ白雷を通し、林へ潜りかけた虚の首を斬った。倒れた隊士へ伸びていた尾も落とす。残った霊力を辿って、木の向こうまで回った。
もう、動いている虚はいない。
俺は刀を下げた。
「宗玄。こっちは⸺」
見つけたのは、刀だった。
坂の下へ落ちている。いつもの長さへ戻っていた。柄に血がつき、その少し先へ、宗玄が倒れている。
千鳥もいた。
片腕が宗玄の背へ回っている。こちらへ向いていた刀の先は、土へ埋まっていた。
俺は二人の前へ膝をつく。
「宗玄、俺だよ。もう虚はいないから」
腹へ手を添える。
布の下へ傷があった。深い。胸の方も焼けている。どちらを先に、と考えかけて、両手を使えばいいと思い直す。
そんなことを迷っている時間が惜しい。
掌へ霊力を集めた。
「千鳥も、ちょっと待っててねぇ。すぐそっちも見るから」
宗玄の胸が動かない。
俺は襟を開き、手の位置を変える。ここへ触れれば、いつもは分かった。傷ついたところも、残っている力も。生きている身体へ沿って術を通し、塞がるところから塞いでやればよかった。
手の下に、宗玄がいる。
なのに、何も返ってこない。
「……宗玄」
肩を支えて、顔をこちらへ向ける。
叱られるなら、今でよかった。隊長が怪我人の名前ばかり呼んでいては治りません、とでも言ってくれれば、俺も手を戻せる。
口は閉じたままだった。
俺は宗玄を地面へ寝かせ、千鳥の背へ掌を添えた。爪が抜けたところから、着物が裂けている。手が濡れた。
「千鳥。聞こえる?」
顔へかかった髪を退ける。
この人は、俺が来ればだいたい何か言う。遅い時には遅いと言うし、早く帰れば土産を聞く。手当てをしているところへ入った時も、こちらの顔を見てから、ちゃんと口を開いてくれた。
目を閉じている。
頬についた土を袖で拭った。血まで広がったので、そこで手を止める。
もっと綺麗な布が要る。
「包帯、誰か⸺」
顔を上げると、佐伯が立っていた。
両手に袋を持っている。俺が言う前から出してくれていたらしい。受け取ろうと手を伸ばすと、男の指が震えた。
「隊長。三席は、副隊長を……」
「うん。あとで聞くよ。先に手当てしよう」
袋を開ける。
布の端が引っかかった。片手で出そうとしたせいだ。両手を使えば済むのに、千鳥の背から手を離したくない。
佐伯が袋を支えてくれる。
俺は包帯を抜き、傷へ当てた。
分かっている。
宗玄へ手を添えた時から、分かっていた。千鳥にも、治すために辿れる霊力がない。さっき西で運んだ二人にはあったものが、ここにはない。
それでも、裂けた背中をそのままにはしておけなかった。
「隊長……」
佐伯の声が掠れる。
俺は布を押さえたまま、その顔を見た。額に傷がある。肩も濡れていた。こいつまで、そこで立たせていてはいけない。
「お前さんも、座って。肩、斬られてるだろ」
「私は、大丈夫です」
「大丈夫でも、座っててくれる? 今、立っていられると、俺も気になるから」
佐伯が膝をつく。
俺は千鳥へ当てた布を結んでから、彼の肩へ手を伸ばした。傷は浅い。塞ぐ間、佐伯はずっと二人の方を見ていた。
俺も、そちらを見たかった。
けれど、今度こそ手を止めてはいけない。
*
林の中へ、まだ人がいた。
佐伯に場所を教えてもらい、俺は立ち上がる。木の根へ座っていた隊士は脚を斬られていた。その先にも一人。魂を庇って倒れたらしく、腕の下から女が這い出してくる。
女が、俺へ何か言っていた。
耳へ入っているのに、上手く言葉にならない。俺は頷き、下にいた隊士を仰向けにした。
息がある。
そこへ手を添えると、今度は術が通った。
「……うん。お前さんは、帰ろうねぇ」
傷へ霊力を送る。
男の指が動いた。俺の袖を掴もうとしているので、その手へ自分の手を添えた。掴んでいていい。そのまま離さずにいてくれれば、俺も顔を見失わない。
四番隊へ道を出す。
向こうから来てくれた者へ男を渡し、次のところへ行く。生きている奴を見つけるたびに、声を掛けた。死んでいる奴にも、名を呼んだ。
返事があれば、手当てをする。
返事がなくても、確かめる。
途中で何度か、宗玄へ人数を聞こうとした。
誰を先に送ったのか。村に残っていた魂は、何人だったのか。隊士は何人連れてきたのか。宗玄なら、俺が尋ねる頃には数えていたはずだった。
今日は、佐伯へ聞く。
男は一人ずつ指し、途中で声を詰まらせた。俺は急がせず、示された顔を確かめていく。朝、廊下ですれ違った奴もいた。稽古の後へ残って、もう一度やりたいと言っていた奴も。
名前は、出てくる。
忘れていなかった。
覚えていてよかったのか、今は考えたくない。
運ばれていく顔へ頷き、次の名前を口にした。
*
二人を運ぶ時、宗玄の袋が地面へ落ちた。
俺が拾う。
口が少し開いていて、中から折り畳んだ紙が覗いていた。今日の分だろう。広げれば人数が分かるかもしれないと思い、指を入れかけた。
血がついている。
自分の手にも。
俺は袋を閉じ、宗玄の刀と一緒に置いた。紙を読むのは、帰ってからにしよう。濡れたところまで無理に開けば、破いてしまう。
千鳥の刀も拾う。
土へ刺さっていた刃を抜き、袖で拭おうとしてやめた。俺の袖も汚れていた。鞘へ戻す前に、綺麗にしてやりたいのだけど。
「隊長。こちらを」
四番隊の隊士が布を差し出す。
礼を言ったつもりだった。声になったかは分からない。刃を拭き、鞘へ納めてから、千鳥の横へ添える。
二人には、白い布が掛けられた。
顔はまだ見えている。
宗玄の襟が曲がっていたので、直す。千鳥の袖も、身体の下へ入っていた。引き出して揃えると、俺の指から離れた。
今朝は、二人とも自分で歩いていた。
宗玄は俺の部屋へ来て、先に知らせろと言った。千鳥は先へ出ていたから、今日はまだ話していない。帰ってから聞こうと思っていたことが、幾つもある。
「隊長、参りましょう」
佐伯が傍へ来る。
俺は顔を上げ、向こうに開いている道を見た。先に運ばれた者たちがいる。手当てを待っている者も、まだいる。
行かなければならない。
立ち上がり、二人を運ぶ者へ場所を譲った。身体が持ち上がると、布の端が揺れる。千鳥の手が出かけたので、そっと内側へ戻しておく。
宗玄。千鳥。
帰るよ、と言いかけた。
俺がそんなことを言わなくても、二人とも帰るつもりだった。