帰りし袖に 雨は沁み
空きたる席に 夜は積もる
宗玄の字は、濡れても読めた。
紙を広げた時、そんなことを思ってしまった。端は血で貼りついていたけれど、人数の書かれたところは残っている。村へ着いた時に確かめた分。その下には、先に送り出した者の数まであった。後から読む奴に分かるよう、きちんと行を分けている。
俺の報告だったら、余白へ足してしまうところだ。そうして宗玄に、こちらはどの時点の人数ですかと聞かれる。読む本人が隣へいるからいいだろう、なんて返したこともある。
今日は、聞ける相手がいない。
机の上へ置いた紙を押さえ、名簿と照らし合わせる。四番隊へ送った者には印をつけた。戻ってから自分で歩けた奴にも。残った名前の横へ筆を置こうとして、墨が足りないことに気づく。
硯へ水を足す。
さっきから、こればかりだ。墨を磨り、紙を揃え、筆の先を整える。必要なことではある。ただ、必要なだけで、こんなに丁寧にやっているわけではなかった。
「隊長」
戸の向こうから声がした。
佐伯だった。肩の手当ては済んでいる。着替えてきたらしく、袖にも血は見えなかった。こちらを見るなり頭を下げるので、先に座ってもらう。
「まだ休んでてよかったのに。何か足りなかった?」
「いえ。東でのことを、お伝えしておこうと」
「うん。聞くよ。ただ、傷が痛むなら途中でやめようねぇ」
佐伯は膝へ両手を置き、川を渡ったところから話し始める。
声は小さかったが、聞き返す必要はなかった。途中で止まった時も、次に言う言葉を探しているのが分かる。俺は宗玄の紙へ目を落としながら、聞いた場所を指で辿っていた。
南の坂。新たに開いた黒腔。千鳥が皆へ、右の林へ入るように言ったところ。
「副隊長は、大虚の口を上へ向けてくださいました。三席も、もう一体を止めようとされていたのですが……」
佐伯の指が、膝の上で握られる。
「三席を庇って、副隊長が撃たれました。その後、三席が副隊長を連れて、こちらへ」
「……そうか」
「私が、もっと早く戻っていれば」
顔を上げる。
佐伯はこちらを見ていなかった。宗玄の紙を見ている。自分が運んだ人数も、そこには書かれていた。
「お前さんが背負ってた人は、今、四番隊にいるよ。まだ寝てるけど、目を覚ましたら話もできるって」
「はい」
「途中で下ろして戻ったら、その人が襲われたかもしれない。宗玄は、お前さんに運んでほしかったんだと思う」
言いながら、俺も紙を見る。
宗玄なら、そう言っただろう。俺が勝手に決めてやることではないのだけど、少なくとも、運ぶ相手を放り出して戻れとは教えていない。
佐伯が両手を開く。膝へ押しつけた指の跡が、袴に残っていた。
「三席は、私の方へ来ていました。こちらを、と呼ばれた時には、まだ……」
その先が出てこない。
俺も、続きを促せなかった。
千鳥が宗玄を抱えていた理由は分かった。あそこまで戻ろうとしていたのだ。佐伯へ声を掛けて、一緒に運んでもらうつもりだったのだろう。
もう少しだった。
そんなことを考えてしまう。俺が来るのも、あいつらが林へ入るのも。何を少し変えれば間に合ったのか、今からなら幾らでも探せてしまう。
「話してくれて、ありがとう」
筆を置く。
佐伯はまだ、何か言わねばならない顔をしていた。俺がこちらを見るまで待っていたのだろう。帰ってきてから、ずっと。
「今日はもう休んで。明日、ほかの皆にも聞くけど、お前さんの分は今ので預かったから」
「隊長は、お休みになられないのですか」
「この紙を、書いてからにするよ」
佐伯の目が机へ向く。
俺はその前で、筆を取り直した。休めと言った本人が、いつまでも手を止めていては帰りにくいだろう。戸が閉まる音を聞いてから、名前の横へ筆先を下ろす。
一人ずつ、書いた。
*
食堂には、まだ灯がついていた。
俺が来ると、膳を片づけていた隊士が立ち上がる。飯を残しておいてくれたらしい。食うつもりはなかったのだけど、こちらの分だと言われれば、戻ってくれとも言いにくい。
「ありがとう。お前さんも、もう休んでいいよ」
「片づけは、後ほど」
「自分でやるって。膳を下げるくらいなら、俺も覚えてるからねぇ」
少しだけ笑ってくれた。
その顔を見てから、俺はいつものところへ座る。飯は冷めていた。汁も。温め直そうとした手を止めてしまったが、頼めばよかったかもしれない。
箸を持つ。
向かいに誰もいないのは、珍しいことではない。宗玄は用事があれば先に済ませるし、千鳥も稽古が長引けば遅れてくる。俺が一人で食う日だってあった。
けれど、今日は待っても来ない。
汁の椀を持ち上げ、一口飲む。飲み込めたので、飯も口へ入れた。噛んでいる間、昼に何を食ったのか思い出そうとする。食ったはずだ。出掛ける前に、何か。
『お前様。お箸を置いて、お椀を持たれなんし。手から落ちてしまいんす』
指を見る。
椀が傾いていた。慌てて置くと、汁が縁へ少し零れる。
「……ああ。ありがとう」
袖で拭きかけて、やめる。綺麗な布を探す癖が、今日は何度もついた。
ゆめは、それ以上言わなかった。
俺も箸を置いたまま、暫く座っている。食堂の奥で、戸締まりを確かめる音がした。ここへいると気を遣わせてしまうのだろう。残った飯を食い、椀を空にしてから、膳を持って立ち上がった。
部屋へ戻る途中、庭が見える。
俵は軒の下へ置かれていた。雨に濡れないよう、誰かが寄せてくれたらしい。藁の出ていた端には、新しい縄が巻いてある。
今日は、二人ともあれを見たのだろうか。
明日の稽古へ使うつもりで、通り過ぎたのだろうか。
俺は庭へ下りず、部屋へ戻った。
*
雨が降っていた。
ゆめのところへ来たと分かったのは、水面へ足をついた時だ。波紋が重なり、遠くの灯が揺れている。いつも見える空は雲に隠れ、軒から落ちた雫が、俺の肩へ当たった。
向こうの座敷に、ゆめがいる。
襖は開いていた。こちらへ顔を向け、俺が歩いてくるのを待っている。今夜は何と言えばいいのか分からず、俺は濡れた袖を見ながら、その前へ腰を下ろした。
『お召し物は、そのままでようござりんす。こちらへお座りなんし』
いつもより近いところを、指で示される。
座り直すと、ゆめは俺の袖へ手を添えた。布を絞るでも、汚れを払うでもない。ただ、そこへ置いている。
「今日、帰ってきたんだよ」
ゆめが頷く。
「皆、連れて帰ってきた。途中で残した奴もいないし、四番隊へ送った奴らも、ちゃんと受け取ってもらった」
そこまでは、何度も話した。
佐伯にも、四番隊にも。報告を受け取る者へも。誰を運んだか、どこで見つけたか、俺が着いた時には何が残っていたか。
順番に話せば、相手は分かってくれる。
なのに、ゆめの前へ座ると、それ以上が出てこなかった。
『宗玄さんと千鳥さんも、お帰りになりんしたな』
「……うん」
膝へ手を置く。
血は洗ってある。爪の間まで確かめた。千鳥の頬へ触れた時には汚れていたから、もっと早く洗っておけばよかったなと思う。
「俺、二人とも連れて帰ってきたんだけどさ」
ゆめの指が、袖から俺の手へ移る。
「帰ってきて、何を話したらいいのか分からなかった。宗玄の紙を読んで、千鳥の刀を置いて。それから、ずっと仕事をしてた」
『ええ。お前様は、よう働いておいででありんした』
「まだ、やることがあるんだよ。明日は皆に話を聞くし、先生にも報告する。誰をどこへ出すかも、決め直さないと」
宗玄へ頼んでいた分だ。
あいつが何をしていたかは知っている。三百年以上も隣にいたのだから。分からないところがあれば、ほかの者へ聞けばいい。紙だって残っている。
できる。
俺がやればいい。
「千鳥の稽古も、代わりが要る。俺が全部見ると、また留守にした時に困るから。誰か、教える方へ回ってもらって……」
そこで、口が止まる。
明日の話をしているのに、頭に浮かぶのは千鳥だった。俵を担いだ奴へ声を掛ける顔。俺へ土産を聞く顔。自分の分も稽古してほしいと、箱を抱えて立ち上がった時の顔。
代わりを探すのか。
まだ、帰ってきたばかりなのに。
『今宵は、そこまでにしなんし』
ゆめが、俺の手を両手で包んだ。
『明日のことは、明日にもお考えになれんす。ここまで来て、まだお一人で抱えておいででは、わっちの座るところまでなくなってしまいんす』
「そんなつもりじゃ……」
『存じておりんすよ。お前様は、誰かに頼む前に、ご自分でできるか考えておしまいになる。できてしまうことも、多うござりんすから』
指が温かい。
この手は、今日も俺と一緒にいた。宗玄へ触れた時も、千鳥を起こそうとした時も。何も言わずにいたからといって、見ていなかったわけではない。
「ゆめ」
顔を上げる。
「もう、いないんだな」
答えを聞くのが怖かった。
自分で確かめたくせに。身体へ手を添え、霊力を探し、返ってこないことまで知っている。あれだけ分かっていて、まだ誰かに違うと言ってほしかった。
ゆめは目を逸らさない。
『……ええ』
握られた手へ、力が入る。
「俺が隊長になった時さ、こうなるのが嫌だったんだよ。知ってる奴が増えて、いつか死んだって聞いて。知らない奴の名前だった時にも、嫌だったのに」
息を吸う。
上手く続かなかった。
「宗玄は、俺が帰ると部屋へ来るんだ。千鳥は、顔を出したら何か言う。長く付き合ってるから、多少留守にしても、戻ればいると思ってた」
今日も、そのつもりだった。
東へ道を繋いだ時には、腹を斬られた宗玄へ文句を言おうと思っていた。すぐ呼べと言っただろう、と。千鳥にも、二人とも無理をして、と言うつもりでいた。
返事があるところまで、考えていた。
「明日、戸が開いたらさ」
喉が詰まる。
「俺、見ちゃうと思う。宗玄が来たのかって」
ゆめの顔が滲んだ。
目を拭こうとした手は、握られたままだった。離してもらおうとは思わない。今、この手までなくなったら、どこへ置けばいいのか分からなかった。
『よう、お待ちになっておいででありんしたものな』
ゆめが傍へ寄る。
『帰りを待たれるばかりではなく、お前様も、あの方々のおいでになるのを待っておられた』
「……うん」
頷くと、雫が膝へ落ちる。
雨の音が近くなっていた。軒の向こうで水面が揺れ、いつもの灯が霞んでいる。ここが俺自身なのだと、ゆめは前に教えてくれた。
今夜は、酷い雨だった。
「……前にも、間に合わなかったんだよな」
ゆめの手へ目を落とす。
滅却師と戦った時も、こうして誰かの身体へ触れた。傷を塞ぐことはできた。けれど、そこにあったはずの魂魄までは戻らなかった。
だから、
刀を解放できなくても、傷ついた奴を助けられるように。血が流れているのを見ながら、許しを待つことだけはしなくて済むように。
「今度は、治せると思ってたんだ」
今日、助けた奴らの傷を思い返す。肩も、腹も、脚も。掌を添えれば術は通った。覚えたことは、ちゃんと役に立っている。
宗玄にも、千鳥にも、同じことができるはずだった。
「腹を斬られたって聞いてもさ、俺が行けば大丈夫だと思ってた。治して、連れて帰って、無茶した分は後で叱ればいいって」
ゆめの指を握る。
「あと少し、早ければ」
口にした途端、二人の顔が浮かんだ。
傷を治すために覚えた術を、傷へ当てる布を探す間も使えずにいた。あんなに深く斬られていたのに、俺にできたのは、着物を整えてやることだけだった。
「俺、何のために……」
言いかけて、止まる。
西で助けた二人がいる。林の中から運んだ隊士も。あいつらの前では、絶対に言えない。助けてよかった。今でも、そう思っている。
それでも、宗玄と千鳥の前へ座った俺は、あの戦いの時と同じだった。
強くなった。治す術も覚えた。遠いところへ、一歩で行ける道まで作った。
また、間に合わなかった。
「……ゆめ。俺は、あと何ができればよかったんだろうな」
ゆめはすぐには答えず、握った手を自分の膝へ寄せた。
『西でお助けになった方々も、お前様を待っておいででありんした。あちらへ向かわれたことまで、責めておしまいになりませぬように』
「分かってるよ。置いてくればよかったなんて、思ってない」
あの二人にも、生きていてほしかった。
宗玄と千鳥にも。
どちらも連れて帰るつもりで、俺は道を繋いだのだ。
「……思ってないんだけどさ」
その先は、声にならなかった。
ゆめが俺の肩を抱き寄せる。額が触れた着物へ、顔を伏せた。
『今宵は、わっちの前でまで、お言葉を整えなくてもようござりんす』
背へ添えられた手が、ゆっくり動く。
宗玄を起こそうとした時も、千鳥の頬を拭った時も、俺の手は震えなかった。
今になって、止まらなくなった。
*
目を開けると、部屋はまだ暗い。
机の紙は、そのままだった。筆は洗ってある。いつやったのか思い返してから、食堂へ行く前だったと気づく。
戸の外に、足音がした。
俺は顔を向ける。
「隊長。朝の分を、お持ちしました」
若い隊士の声だった。
返事をしてから、布団を畳む。開いた戸の向こうで、膳を持つ男がこちらの顔を見た。何か尋ねかけて、口を閉じる。
たぶん、目が赤いのだろう。
「そこへ置いてくれる? ありがとう」
「本日の報告は、私が取りまとめます。副隊長の机にある分も、確認しておきますので」
宗玄に教わっていた奴だ。
紙を運び、分からないところへ印をつけて、後から聞きに来ていた。俺の部屋にも何度か来たことがある。その時には、宗玄も一緒だった。
「うん。分からないところは、俺へ聞いて。俺も分からなかったら、一緒に探そう」
「はい」
男が膳を置く。
汁から、湯気が上がっていた。
俺は席へつき、椀を両手で持つ。昨日は冷たかった。今日は温かい。運んでくれた奴がまだ戸口にいるので、一口飲んでから礼を言った。
戸が閉まる。
向こうへ歩いていく足音を、聞いていた。
『お前様。お膳が済んだら、顔を洗っておいでなんし』
「そんなに酷いかねぇ」
『そのままお出ましになれば、皆様、ご自分の話よりお前様のお顔が気になってしまいんす』
少しだけ、息が漏れる。
笑ったのかどうか、自分でも分からなかった。
「……分かった。食ったら、そうするよ」
箸を持つ。
今日、会わなければならない奴らがいる。俺へ話したいことを抱えて、待っている。
聞きに行こう。
宗玄と千鳥へ聞けなかった分まで、今いる奴らの声を聞いておきたかった。