卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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帰りし袖に 雨は沁み
空きたる席に 夜は積もる




78. 空席の夜雨

 

 

 宗玄の字は、濡れても読めた。

 

 紙を広げた時、そんなことを思ってしまった。端は血で貼りついていたけれど、人数の書かれたところは残っている。村へ着いた時に確かめた分。その下には、先に送り出した者の数まであった。後から読む奴に分かるよう、きちんと行を分けている。

 

 俺の報告だったら、余白へ足してしまうところだ。そうして宗玄に、こちらはどの時点の人数ですかと聞かれる。読む本人が隣へいるからいいだろう、なんて返したこともある。

 

 今日は、聞ける相手がいない。

 

 机の上へ置いた紙を押さえ、名簿と照らし合わせる。四番隊へ送った者には印をつけた。戻ってから自分で歩けた奴にも。残った名前の横へ筆を置こうとして、墨が足りないことに気づく。

 

 硯へ水を足す。

 

 さっきから、こればかりだ。墨を磨り、紙を揃え、筆の先を整える。必要なことではある。ただ、必要なだけで、こんなに丁寧にやっているわけではなかった。

 

「隊長」

 

 戸の向こうから声がした。

 

 佐伯だった。肩の手当ては済んでいる。着替えてきたらしく、袖にも血は見えなかった。こちらを見るなり頭を下げるので、先に座ってもらう。

 

「まだ休んでてよかったのに。何か足りなかった?」

「いえ。東でのことを、お伝えしておこうと」

「うん。聞くよ。ただ、傷が痛むなら途中でやめようねぇ」

 

 佐伯は膝へ両手を置き、川を渡ったところから話し始める。

 

 声は小さかったが、聞き返す必要はなかった。途中で止まった時も、次に言う言葉を探しているのが分かる。俺は宗玄の紙へ目を落としながら、聞いた場所を指で辿っていた。

 

 南の坂。新たに開いた黒腔。千鳥が皆へ、右の林へ入るように言ったところ。

 

「副隊長は、大虚の口を上へ向けてくださいました。三席も、もう一体を止めようとされていたのですが……」

 

 佐伯の指が、膝の上で握られる。

 

「三席を庇って、副隊長が撃たれました。その後、三席が副隊長を連れて、こちらへ」

「……そうか」

「私が、もっと早く戻っていれば」

 

 顔を上げる。

 

 佐伯はこちらを見ていなかった。宗玄の紙を見ている。自分が運んだ人数も、そこには書かれていた。

 

「お前さんが背負ってた人は、今、四番隊にいるよ。まだ寝てるけど、目を覚ましたら話もできるって」

「はい」

「途中で下ろして戻ったら、その人が襲われたかもしれない。宗玄は、お前さんに運んでほしかったんだと思う」

 

 言いながら、俺も紙を見る。

 

 宗玄なら、そう言っただろう。俺が勝手に決めてやることではないのだけど、少なくとも、運ぶ相手を放り出して戻れとは教えていない。

 

 佐伯が両手を開く。膝へ押しつけた指の跡が、袴に残っていた。

 

「三席は、私の方へ来ていました。こちらを、と呼ばれた時には、まだ……」

 

 その先が出てこない。

 

 俺も、続きを促せなかった。

 

 千鳥が宗玄を抱えていた理由は分かった。あそこまで戻ろうとしていたのだ。佐伯へ声を掛けて、一緒に運んでもらうつもりだったのだろう。

 

 もう少しだった。

 

 そんなことを考えてしまう。俺が来るのも、あいつらが林へ入るのも。何を少し変えれば間に合ったのか、今からなら幾らでも探せてしまう。

 

「話してくれて、ありがとう」

 

 筆を置く。

 

 佐伯はまだ、何か言わねばならない顔をしていた。俺がこちらを見るまで待っていたのだろう。帰ってきてから、ずっと。

 

「今日はもう休んで。明日、ほかの皆にも聞くけど、お前さんの分は今ので預かったから」

「隊長は、お休みになられないのですか」

「この紙を、書いてからにするよ」

 

 佐伯の目が机へ向く。

 

 俺はその前で、筆を取り直した。休めと言った本人が、いつまでも手を止めていては帰りにくいだろう。戸が閉まる音を聞いてから、名前の横へ筆先を下ろす。

 

 一人ずつ、書いた。

 

        *

 

 食堂には、まだ灯がついていた。

 

 俺が来ると、膳を片づけていた隊士が立ち上がる。飯を残しておいてくれたらしい。食うつもりはなかったのだけど、こちらの分だと言われれば、戻ってくれとも言いにくい。

 

「ありがとう。お前さんも、もう休んでいいよ」

「片づけは、後ほど」

「自分でやるって。膳を下げるくらいなら、俺も覚えてるからねぇ」

 

 少しだけ笑ってくれた。

 

 その顔を見てから、俺はいつものところへ座る。飯は冷めていた。汁も。温め直そうとした手を止めてしまったが、頼めばよかったかもしれない。

 

 箸を持つ。

 

 向かいに誰もいないのは、珍しいことではない。宗玄は用事があれば先に済ませるし、千鳥も稽古が長引けば遅れてくる。俺が一人で食う日だってあった。

 

 けれど、今日は待っても来ない。

 

 汁の椀を持ち上げ、一口飲む。飲み込めたので、飯も口へ入れた。噛んでいる間、昼に何を食ったのか思い出そうとする。食ったはずだ。出掛ける前に、何か。

 

『お前様。お箸を置いて、お椀を持たれなんし。手から落ちてしまいんす』

 

 指を見る。

 

 椀が傾いていた。慌てて置くと、汁が縁へ少し零れる。

 

「……ああ。ありがとう」

 

 袖で拭きかけて、やめる。綺麗な布を探す癖が、今日は何度もついた。

 

 ゆめは、それ以上言わなかった。

 

 俺も箸を置いたまま、暫く座っている。食堂の奥で、戸締まりを確かめる音がした。ここへいると気を遣わせてしまうのだろう。残った飯を食い、椀を空にしてから、膳を持って立ち上がった。

 

 部屋へ戻る途中、庭が見える。

 

 俵は軒の下へ置かれていた。雨に濡れないよう、誰かが寄せてくれたらしい。藁の出ていた端には、新しい縄が巻いてある。

 

 今日は、二人ともあれを見たのだろうか。

 

 明日の稽古へ使うつもりで、通り過ぎたのだろうか。

 

 俺は庭へ下りず、部屋へ戻った。

 

        *

 

 雨が降っていた。

 

 ゆめのところへ来たと分かったのは、水面へ足をついた時だ。波紋が重なり、遠くの灯が揺れている。いつも見える空は雲に隠れ、軒から落ちた雫が、俺の肩へ当たった。

 

 向こうの座敷に、ゆめがいる。

 

 襖は開いていた。こちらへ顔を向け、俺が歩いてくるのを待っている。今夜は何と言えばいいのか分からず、俺は濡れた袖を見ながら、その前へ腰を下ろした。

 

『お召し物は、そのままでようござりんす。こちらへお座りなんし』

 

 いつもより近いところを、指で示される。

 

 座り直すと、ゆめは俺の袖へ手を添えた。布を絞るでも、汚れを払うでもない。ただ、そこへ置いている。

 

「今日、帰ってきたんだよ」

 

 ゆめが頷く。

 

「皆、連れて帰ってきた。途中で残した奴もいないし、四番隊へ送った奴らも、ちゃんと受け取ってもらった」

 

 そこまでは、何度も話した。

 

 佐伯にも、四番隊にも。報告を受け取る者へも。誰を運んだか、どこで見つけたか、俺が着いた時には何が残っていたか。

 

 順番に話せば、相手は分かってくれる。

 

 なのに、ゆめの前へ座ると、それ以上が出てこなかった。

 

『宗玄さんと千鳥さんも、お帰りになりんしたな』

「……うん」

 

 膝へ手を置く。

 

 血は洗ってある。爪の間まで確かめた。千鳥の頬へ触れた時には汚れていたから、もっと早く洗っておけばよかったなと思う。

 

「俺、二人とも連れて帰ってきたんだけどさ」

 

 ゆめの指が、袖から俺の手へ移る。

 

「帰ってきて、何を話したらいいのか分からなかった。宗玄の紙を読んで、千鳥の刀を置いて。それから、ずっと仕事をしてた」

『ええ。お前様は、よう働いておいででありんした』

「まだ、やることがあるんだよ。明日は皆に話を聞くし、先生にも報告する。誰をどこへ出すかも、決め直さないと」

 

 宗玄へ頼んでいた分だ。

 

 あいつが何をしていたかは知っている。三百年以上も隣にいたのだから。分からないところがあれば、ほかの者へ聞けばいい。紙だって残っている。

 

 できる。

 

 俺がやればいい。

 

「千鳥の稽古も、代わりが要る。俺が全部見ると、また留守にした時に困るから。誰か、教える方へ回ってもらって……」

 

 そこで、口が止まる。

 

 明日の話をしているのに、頭に浮かぶのは千鳥だった。俵を担いだ奴へ声を掛ける顔。俺へ土産を聞く顔。自分の分も稽古してほしいと、箱を抱えて立ち上がった時の顔。

 

 代わりを探すのか。

 

 まだ、帰ってきたばかりなのに。

 

『今宵は、そこまでにしなんし』

 

 ゆめが、俺の手を両手で包んだ。

 

『明日のことは、明日にもお考えになれんす。ここまで来て、まだお一人で抱えておいででは、わっちの座るところまでなくなってしまいんす』

「そんなつもりじゃ……」

『存じておりんすよ。お前様は、誰かに頼む前に、ご自分でできるか考えておしまいになる。できてしまうことも、多うござりんすから』

 

 指が温かい。

 

 この手は、今日も俺と一緒にいた。宗玄へ触れた時も、千鳥を起こそうとした時も。何も言わずにいたからといって、見ていなかったわけではない。

 

「ゆめ」

 

 顔を上げる。

 

「もう、いないんだな」

 

 答えを聞くのが怖かった。

 

 自分で確かめたくせに。身体へ手を添え、霊力を探し、返ってこないことまで知っている。あれだけ分かっていて、まだ誰かに違うと言ってほしかった。

 

 ゆめは目を逸らさない。

 

『……ええ』

 

 握られた手へ、力が入る。

 

「俺が隊長になった時さ、こうなるのが嫌だったんだよ。知ってる奴が増えて、いつか死んだって聞いて。知らない奴の名前だった時にも、嫌だったのに」

 

 息を吸う。

 

 上手く続かなかった。

 

「宗玄は、俺が帰ると部屋へ来るんだ。千鳥は、顔を出したら何か言う。長く付き合ってるから、多少留守にしても、戻ればいると思ってた」

 

 今日も、そのつもりだった。

 

 東へ道を繋いだ時には、腹を斬られた宗玄へ文句を言おうと思っていた。すぐ呼べと言っただろう、と。千鳥にも、二人とも無理をして、と言うつもりでいた。

 

 返事があるところまで、考えていた。

 

「明日、戸が開いたらさ」

 

 喉が詰まる。

 

「俺、見ちゃうと思う。宗玄が来たのかって」

 

 ゆめの顔が滲んだ。

 

 目を拭こうとした手は、握られたままだった。離してもらおうとは思わない。今、この手までなくなったら、どこへ置けばいいのか分からなかった。

 

『よう、お待ちになっておいででありんしたものな』

 

 ゆめが傍へ寄る。

 

『帰りを待たれるばかりではなく、お前様も、あの方々のおいでになるのを待っておられた』

「……うん」

 

 頷くと、雫が膝へ落ちる。

 

 雨の音が近くなっていた。軒の向こうで水面が揺れ、いつもの灯が霞んでいる。ここが俺自身なのだと、ゆめは前に教えてくれた。

 

 今夜は、酷い雨だった。

 

「……前にも、間に合わなかったんだよな」

 

 ゆめの手へ目を落とす。

 

 滅却師と戦った時も、こうして誰かの身体へ触れた。傷を塞ぐことはできた。けれど、そこにあったはずの魂魄までは戻らなかった。

 

 だから、回道(かいどう)を覚えた。

 

 刀を解放できなくても、傷ついた奴を助けられるように。血が流れているのを見ながら、許しを待つことだけはしなくて済むように。

 

「今度は、治せると思ってたんだ」

 

 今日、助けた奴らの傷を思い返す。肩も、腹も、脚も。掌を添えれば術は通った。覚えたことは、ちゃんと役に立っている。

 

 宗玄にも、千鳥にも、同じことができるはずだった。

 

「腹を斬られたって聞いてもさ、俺が行けば大丈夫だと思ってた。治して、連れて帰って、無茶した分は後で叱ればいいって」

 

 ゆめの指を握る。

 

「あと少し、早ければ」

 

 口にした途端、二人の顔が浮かんだ。

 

 傷を治すために覚えた術を、傷へ当てる布を探す間も使えずにいた。あんなに深く斬られていたのに、俺にできたのは、着物を整えてやることだけだった。

 

「俺、何のために……」

 

 言いかけて、止まる。

 

 西で助けた二人がいる。林の中から運んだ隊士も。あいつらの前では、絶対に言えない。助けてよかった。今でも、そう思っている。

 

 それでも、宗玄と千鳥の前へ座った俺は、あの戦いの時と同じだった。

 

 強くなった。治す術も覚えた。遠いところへ、一歩で行ける道まで作った。

 

 また、間に合わなかった。

 

「……ゆめ。俺は、あと何ができればよかったんだろうな」

 

 ゆめはすぐには答えず、握った手を自分の膝へ寄せた。

 

『西でお助けになった方々も、お前様を待っておいででありんした。あちらへ向かわれたことまで、責めておしまいになりませぬように』

「分かってるよ。置いてくればよかったなんて、思ってない」

 

 あの二人にも、生きていてほしかった。

 

 宗玄と千鳥にも。

 

 どちらも連れて帰るつもりで、俺は道を繋いだのだ。

 

「……思ってないんだけどさ」

 

 その先は、声にならなかった。

 

 ゆめが俺の肩を抱き寄せる。額が触れた着物へ、顔を伏せた。

 

『今宵は、わっちの前でまで、お言葉を整えなくてもようござりんす』

 

 背へ添えられた手が、ゆっくり動く。

 

 宗玄を起こそうとした時も、千鳥の頬を拭った時も、俺の手は震えなかった。

 

 今になって、止まらなくなった。

 

        *

 

 目を開けると、部屋はまだ暗い。

 

 机の紙は、そのままだった。筆は洗ってある。いつやったのか思い返してから、食堂へ行く前だったと気づく。

 

 戸の外に、足音がした。

 

 俺は顔を向ける。

 

「隊長。朝の分を、お持ちしました」

 

 若い隊士の声だった。

 

 返事をしてから、布団を畳む。開いた戸の向こうで、膳を持つ男がこちらの顔を見た。何か尋ねかけて、口を閉じる。

 

 たぶん、目が赤いのだろう。

 

「そこへ置いてくれる? ありがとう」

「本日の報告は、私が取りまとめます。副隊長の机にある分も、確認しておきますので」

 

 宗玄に教わっていた奴だ。

 

 紙を運び、分からないところへ印をつけて、後から聞きに来ていた。俺の部屋にも何度か来たことがある。その時には、宗玄も一緒だった。

 

「うん。分からないところは、俺へ聞いて。俺も分からなかったら、一緒に探そう」

「はい」

 

 男が膳を置く。

 

 汁から、湯気が上がっていた。

 

 俺は席へつき、椀を両手で持つ。昨日は冷たかった。今日は温かい。運んでくれた奴がまだ戸口にいるので、一口飲んでから礼を言った。

 

 戸が閉まる。

 

 向こうへ歩いていく足音を、聞いていた。

 

『お前様。お膳が済んだら、顔を洗っておいでなんし』

「そんなに酷いかねぇ」

『そのままお出ましになれば、皆様、ご自分の話よりお前様のお顔が気になってしまいんす』

 

 少しだけ、息が漏れる。

 

 笑ったのかどうか、自分でも分からなかった。

 

「……分かった。食ったら、そうするよ」

 

 箸を持つ。

 

 今日、会わなければならない奴らがいる。俺へ話したいことを抱えて、待っている。

 

 聞きに行こう。

 

 宗玄と千鳥へ聞けなかった分まで、今いる奴らの声を聞いておきたかった。

 

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