遠き山には 雪は降り
老いたる袖に 手は縋る
宗玄の机は、しばらく空けておくことにした。
使わなければ困るのは分かっている。誰かが座り、あそこへ集まっていた紙を読まなければならない。俺のところへ全部持ってこられても、何を先に返すべきか確かめるだけで日が暮れてしまう。
だから、隣へ机を一つ置いてもらった。
宗玄に教わっていた連中が交代で座る。棚から紙を探し、分からないところへ印をつけ、俺へ持ってくる。宗玄なら一度で済ませたことを、二人で確かめ、時には三人目まで呼んでいた。
悪いと思わなくていい、と言ってある。
それでも、戸を開ける時には皆、申し訳なさそうな顔になる。俺が先に気づいて呼んでやれればいいのだけど、紙へ目を落としていると、廊下に立っている時間まで分からなかった。
千鳥の稽古も、残った席官へ頼んだ。
初日は俺も庭へ出た。俵を担ぐ組と、後ろを見る組を分け、前と同じように塀まで走ってもらう。途中で誰かが千鳥を呼びかけて、口を閉じた。
俺は聞こえなかったふりをした。
そうしていいのかは、今でも分からない。けれど、あそこで俺まで顔を向けたら、そいつはもう一度走れなかった気がする。
皆が帰るまで、庭にいた。
*
先生へ報告を出した日、隊へ戻る前に呼び止められた。
書き直せと言われるのだろうかと思った。宗玄の紙を見ながら埋めたつもりでも、抜けたところはある。先生はそういうものを、俺よりずっと早く見つける。
「烏有。副隊長の後任は、どうする」
「……まだ、決めてないよ。今は何人かで分けてやってもらってる」
「いつまでも、そのままにはしておけんぞ」
「うん。分かってる」
分かっている。
そう返すのは、もう何度目だろう。
先生は机へ報告を置いた。すぐに次の紙へ手を伸ばすと思っていたが、その手は動かなかった。
「お主が全ての任務へついていくことも、できん」
「それも、分かってるよ」
少しだけ、声が硬くなる。
先生を責めるつもりはなかった。こちらも、無理だと知っている。昨日は隊士を送り出した後で別の増援へ行き、その帰りに四番隊へ寄った。先に出た連中の方が早く戻り、俺を門で待っていた。
副隊長の後任を考えている暇がなかった、とは言えない。
考えたくなくて、ほかの用事を入れていたのだ。
「悪いねぇ、先生。ちゃんと考えるから」
「候補が決まれば、儂へ伝えよ」
先生は、それ以上尋ねなかった。
部屋を出てから、俺は隊とは逆の方へ歩く。門の前で一度立ち止まり、近くにいた伝令へ、十番隊へ知らせてほしいと頼んだ。
今日中には戻る。
そう伝えてから、山へ道を繋いだ。
*
爺さんは、畑にいた。
腰を曲げ、土へ半分隠れた大根を掴んでいる。俺が庭へ下りた時には、まだこちらを見なかった。引き抜いたものの土を払い、脇の籠へ置いてから、ようやく顔が上がる。
「今日は、早いのう」
「急に来てごめんね。何か手伝おうか」
「そこの籠を持ってくれ。残りは明日じゃ」
言われた通り、取っ手を持つ。
大根は思ったより重かった。葉も大きい。前に来た時には畝の間へ腰を下ろして、こんなところでよく育つなと話した覚えがある。
敷地の外では、雪が降っていた。
家へ届く前に脇へ流れ、向こうの斜面へ積もっていく。畑の土には一つも落ちない。何百年ぶりに見ても、そこは変わらなかった。
「大きくなったなぁ」
「お前が来ん間も、育つからな」
爺さんが先へ歩く。
籠を台所へ置き、縁側へ戻ると、もう湯が用意されていた。俺の分の椀もある。ここへ来るたびに使っているものだ。
席へつく。
爺さんは俺が一口飲むまで待ってから、口を開いた。
「二人のことは、聞いた」
椀を持つ指が止まる。
「……先生から?」
「山本のところから、人が来た。十番隊の副隊長と三席が死んだとな。お前のところの者かと尋ねたら、そうじゃと言うておった」
爺さんは湯へ目を落とす。
「前に、ここへ連れてきた二人じゃろう」
「うん」
顔を覚えていてくれた。
それが嬉しくて、同じくらい辛かった。俺が話さなくても、二人がここへ来たことは残っている。宗玄は帰る時間を気にしていたし、千鳥は畑の向こうまで歩いていた。
あの時も、爺さんはここへ座っていた。
「宗玄の机、まだ片づけられなくてさ。隣へもう一つ置いてもらったんだ。狭くなったけど、誰も文句は言わないよ」
「文句を言うほど、困っとらんのじゃろう」
「そうならいいんだけど」
椀を膝へ置く。
爺さんは何も聞かず、庭を眺めていた。俺もそちらへ顔を向ける。雪が脇へ流れていく様子なら、何も考えずに見ていられるはずだった。
けれど、頭の中には先生の声が残っている。
副隊長の後任は、どうする。
隊へ帰れば、また誰かが宗玄の机を見ながら紙を探している。千鳥の代わりに稽古を任された奴も、終わってから俺へ、これでよかったでしょうかと聞きに来る。
俺が頷けば、次もやってくれる。
そうやって頼れる奴が増えて、俺が留守にしても隊が動くようになる。
また、その誰かを失うのか。
「爺さん」
声を掛けると、顔がこちらへ向く。
「俺のところへ、来てくれないかな」
爺さんはすぐには答えなかった。
聞こえなかったわけではない。椀を置き、膝へ両手を揃えている。続きを話すまで、待ってくれるつもりらしい。
「十番隊の、副隊長になってほしい」
言えた。
ここへ来るまで、一度もちゃんと口にしていなかった。先生へ報告を出す前から、誰を選ぶか考えるたび、爺さんの顔が浮かんでいたのに。
「隊長は、お前じゃろう」
「うん。俺がやってる」
「ならば、お前がよう知っとる者へ任せればよかろう。儂は、お前の隊へいる者も、その用事も知らんぞ」
「知ってる奴へは、頼んでるよ。皆、やってくれる。ただ……」
椀を持ち直す。
飲もうとしたわけではなかった。手を置くところが欲しかっただけだ。
「爺さんに、いてほしいんだ」
言ってしまうと、もう言い繕えなかった。
書類を読めるからでも、隊士へ教えられるからでもない。あの二人へ任せていたものを、全部代わってほしいわけでもない。
帰った時に、そこへいてほしい。
「俺、爺さんは死なないと思ってたんだよ」
爺さんの眉が動く。
「勝手だけどさ。先生も、爺さんも。俺が留守にしてる間に、誰かから死んだって聞くことはないと思ってた」
強いから。
そう言えば、理由にはなる。先生へ刃を向けて、無事に済む奴など滅多にいない。爺さんも、自分へ開いた傷をなくせる。俺が山を離れた後も、こうして同じところへ住んでいた。
だから、安心して帰ってこられた。
「俺がいなくても、皆を連れて帰ってきてくれる人が欲しい。爺さんなら、って……」
言葉が細くなる。
この人にだって、ここでの暮らしがある。俺が来なくても大根は育つし、薪を割る日も、茶を飲んでいる時間もある。
それを全部、俺の都合で変えてほしいと頼んでいる。
「……ごめん。こんなことを頼むのは、ずるいよな」
椀を置いた。
爺さんの袖へ手が伸びる。自分でも、何をするつもりだったのか分からない。ただ、膝へ戻すより先に、その布を掴んでいた。
「それでも、頼みたいんだ。爺さん、俺のところに来てくれ」
爺さんは、俺の手を見た。
引き抜こうとはしない。もう片方の手で自分の椀を寄せ、残った湯を飲む。その間、俺は袖を掴んだまま待っていた。
「儂も、死ぬぞ」
椀が縁側へ戻る。
「お前へ話したことがあったじゃろう。腕を落とされ、胸を刺された話じゃ。戻せなんだら、そこで死んでおった」
「……覚えてる」
「何万年生きようが、そこは変わらん。儂を呼べば、もう誰も死なんと思うておるなら、引き受けられん」
指へ力が入る。
違う、と返したかった。
けれど、ここへ来た時の俺は、どこかでそれを望んでいた。爺さんがいてくれれば大丈夫だと。次に誰かを送り出す時、今ほど怖がらずに済むのではないかと。
爺さんは、その返事まで待ってくれる。
「……怖いんだよ」
俺は袖を見たまま、口を開く。
「隊士を出す時、帰ってこなかったらって考える。俺がついていけばいいと思うけど、そうしたら、別のところへ行けない。隊に残ってる奴らまで気になって、出掛けた先でも、早く戻りたくなる」
爺さんへ頼んでも、それが全部なくなるわけではない。
分かっている。今度こそ、分かっているつもりだ。
「爺さんも死ぬって言われたら、今度は爺さんを出したくなくなるよ。そんなの、副隊長を頼む奴の言うことじゃないんだろうけど」
ようやく、顔を上げた。
「それでも、一緒にいてほしい。俺一人じゃ、皆のところへ行けないから」
爺さんが俺を見る。
長い間、黙っていた。その目は庭へも畑へも向かなかった。俺が言ったことを聞き終えてから、ゆっくり頷く。
「なら、しばらく行ってみるかのう」
袖を掴んだ指が緩む。
「……来てくれる?」
「お前のところの者を、見てからじゃ。副隊長という用事が儂へ務まるかは、その後で話せ。いきなり札をつけられても、誰を呼べばよいか分からん」
俺は頷く。
一度で済まず、もう一度。
「うん。皆に会ってほしい。宗玄がやってた仕事も、見せるから。紙は、俺も読むよ」
「読めるなら、先に読んでおけ。儂が行くまで積んでおくなよ」
宗玄にも、似たことを言われた。
そう思った途端、息が詰まりかける。爺さんは気づいたのだろう。袖から離れた俺の手へ、椀を持たせた。
「湯が冷める。飲んでから、畑を見ていけ」
「畑?」
「儂がおらん間、誰が見る。今日、全部抜くつもりはないぞ」
庭の向こうへ顔を向ける。
まだ、幾つも葉が並んでいた。明日抜く分も、その後まで置いておく分もある。
「……俺が来るよ。何をしたらいいか、教えて」
「隊の者にも、手を貸してもらえ。お前が全部やるなら、儂を呼んだ甲斐がなかろう」
椀を両手で包む。
さっきより、少し温かく感じた。
*
帰る前に、畝を一通り見て回った。
どれを抜いて、どれを残すか。水はどこから運ぶか。爺さんが土を指すたび、俺は頷く。前にもここで暮らしていたのだから、覚えているつもりだったが、育てているものが違えば、やることも変わるらしい。
「忘れそうなら、書け」
「帰ってから、書くよ」
「帰る頃には忘れとるわ」
結局、家から紙を出してもらった。
縁側へ座り直し、爺さんの言ったことを書きつける。大根を何本持っていくかまで決めてから、筆を置いた。
『お前様。今度は、こちらへ帰る用事もできんしたな』
「……そうだねぇ」
胸の内で、ゆめへ返す。
爺さんを隊へ連れていく。畑を見るために、誰かとここへ戻ってくる。留守にするなら、いつ帰るか伝える。
頼んだ相手の暮らしも、預かることになるのだ。
「爺さん。隊へ来るのは、いつにする?」
「明日でもよい。今から行くと、飯まで急かされそうじゃ」
「そんなこと、しないよ。部屋も用意しないと」
「では、明日じゃな。迎えに来い」
頷いて、腰の刀を確かめる。
庭へ道を繋ぐ前に、もう一度振り返った。爺さんは縁側へ座り、俺の書いた紙を眺めている。
「ありがとう」
爺さんが顔を上げる。
「明日、来るよ」
今度は、向こうが頷いた。
隊へ戻ったら、まず皆へ話そう。
副隊長が決まったと、まだ言うつもりはない。ただ、明日、会ってほしい人が来る。
先生にも、そう伝えておこう。