卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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遠き山には 雪は降り
老いたる袖に 手は縋る




79.雪庵の頼み人

 

 

 宗玄の机は、しばらく空けておくことにした。

 

 使わなければ困るのは分かっている。誰かが座り、あそこへ集まっていた紙を読まなければならない。俺のところへ全部持ってこられても、何を先に返すべきか確かめるだけで日が暮れてしまう。

 

 だから、隣へ机を一つ置いてもらった。

 

 宗玄に教わっていた連中が交代で座る。棚から紙を探し、分からないところへ印をつけ、俺へ持ってくる。宗玄なら一度で済ませたことを、二人で確かめ、時には三人目まで呼んでいた。

 

 悪いと思わなくていい、と言ってある。

 

 それでも、戸を開ける時には皆、申し訳なさそうな顔になる。俺が先に気づいて呼んでやれればいいのだけど、紙へ目を落としていると、廊下に立っている時間まで分からなかった。

 

 千鳥の稽古も、残った席官へ頼んだ。

 

 初日は俺も庭へ出た。俵を担ぐ組と、後ろを見る組を分け、前と同じように塀まで走ってもらう。途中で誰かが千鳥を呼びかけて、口を閉じた。

 

 俺は聞こえなかったふりをした。

 

 そうしていいのかは、今でも分からない。けれど、あそこで俺まで顔を向けたら、そいつはもう一度走れなかった気がする。

 

 皆が帰るまで、庭にいた。

 

        *

 

 先生へ報告を出した日、隊へ戻る前に呼び止められた。

 

 書き直せと言われるのだろうかと思った。宗玄の紙を見ながら埋めたつもりでも、抜けたところはある。先生はそういうものを、俺よりずっと早く見つける。

 

「烏有。副隊長の後任は、どうする」

「……まだ、決めてないよ。今は何人かで分けてやってもらってる」

「いつまでも、そのままにはしておけんぞ」

「うん。分かってる」

 

 分かっている。

 

 そう返すのは、もう何度目だろう。

 

 先生は机へ報告を置いた。すぐに次の紙へ手を伸ばすと思っていたが、その手は動かなかった。

 

「お主が全ての任務へついていくことも、できん」

「それも、分かってるよ」

 

 少しだけ、声が硬くなる。

 

 先生を責めるつもりはなかった。こちらも、無理だと知っている。昨日は隊士を送り出した後で別の増援へ行き、その帰りに四番隊へ寄った。先に出た連中の方が早く戻り、俺を門で待っていた。

 

 副隊長の後任を考えている暇がなかった、とは言えない。

 

 考えたくなくて、ほかの用事を入れていたのだ。

 

「悪いねぇ、先生。ちゃんと考えるから」

「候補が決まれば、儂へ伝えよ」

 

 先生は、それ以上尋ねなかった。

 

 部屋を出てから、俺は隊とは逆の方へ歩く。門の前で一度立ち止まり、近くにいた伝令へ、十番隊へ知らせてほしいと頼んだ。

 

 今日中には戻る。

 

 そう伝えてから、山へ道を繋いだ。

 

        *

 

 爺さんは、畑にいた。

 

 腰を曲げ、土へ半分隠れた大根を掴んでいる。俺が庭へ下りた時には、まだこちらを見なかった。引き抜いたものの土を払い、脇の籠へ置いてから、ようやく顔が上がる。

 

「今日は、早いのう」

「急に来てごめんね。何か手伝おうか」

「そこの籠を持ってくれ。残りは明日じゃ」

 

 言われた通り、取っ手を持つ。

 

 大根は思ったより重かった。葉も大きい。前に来た時には畝の間へ腰を下ろして、こんなところでよく育つなと話した覚えがある。

 

 敷地の外では、雪が降っていた。

 

 家へ届く前に脇へ流れ、向こうの斜面へ積もっていく。畑の土には一つも落ちない。何百年ぶりに見ても、そこは変わらなかった。

 

「大きくなったなぁ」

「お前が来ん間も、育つからな」

 

 爺さんが先へ歩く。

 

 籠を台所へ置き、縁側へ戻ると、もう湯が用意されていた。俺の分の椀もある。ここへ来るたびに使っているものだ。

 

 席へつく。

 

 爺さんは俺が一口飲むまで待ってから、口を開いた。

 

「二人のことは、聞いた」

 

 椀を持つ指が止まる。

 

「……先生から?」

「山本のところから、人が来た。十番隊の副隊長と三席が死んだとな。お前のところの者かと尋ねたら、そうじゃと言うておった」

 

 爺さんは湯へ目を落とす。

 

「前に、ここへ連れてきた二人じゃろう」

「うん」

 

 顔を覚えていてくれた。

 

 それが嬉しくて、同じくらい辛かった。俺が話さなくても、二人がここへ来たことは残っている。宗玄は帰る時間を気にしていたし、千鳥は畑の向こうまで歩いていた。

 

 あの時も、爺さんはここへ座っていた。

 

「宗玄の机、まだ片づけられなくてさ。隣へもう一つ置いてもらったんだ。狭くなったけど、誰も文句は言わないよ」

「文句を言うほど、困っとらんのじゃろう」

「そうならいいんだけど」

 

 椀を膝へ置く。

 

 爺さんは何も聞かず、庭を眺めていた。俺もそちらへ顔を向ける。雪が脇へ流れていく様子なら、何も考えずに見ていられるはずだった。

 

 けれど、頭の中には先生の声が残っている。

 

 副隊長の後任は、どうする。

 

 隊へ帰れば、また誰かが宗玄の机を見ながら紙を探している。千鳥の代わりに稽古を任された奴も、終わってから俺へ、これでよかったでしょうかと聞きに来る。

 

 俺が頷けば、次もやってくれる。

 

 そうやって頼れる奴が増えて、俺が留守にしても隊が動くようになる。

 

 また、その誰かを失うのか。

 

「爺さん」

 

 声を掛けると、顔がこちらへ向く。

 

「俺のところへ、来てくれないかな」

 

 爺さんはすぐには答えなかった。

 

 聞こえなかったわけではない。椀を置き、膝へ両手を揃えている。続きを話すまで、待ってくれるつもりらしい。

 

「十番隊の、副隊長になってほしい」

 

 言えた。

 

 ここへ来るまで、一度もちゃんと口にしていなかった。先生へ報告を出す前から、誰を選ぶか考えるたび、爺さんの顔が浮かんでいたのに。

 

「隊長は、お前じゃろう」

「うん。俺がやってる」

「ならば、お前がよう知っとる者へ任せればよかろう。儂は、お前の隊へいる者も、その用事も知らんぞ」

「知ってる奴へは、頼んでるよ。皆、やってくれる。ただ……」

 

 椀を持ち直す。

 

 飲もうとしたわけではなかった。手を置くところが欲しかっただけだ。

 

「爺さんに、いてほしいんだ」

 

 言ってしまうと、もう言い繕えなかった。

 

 書類を読めるからでも、隊士へ教えられるからでもない。あの二人へ任せていたものを、全部代わってほしいわけでもない。

 

 帰った時に、そこへいてほしい。

 

「俺、爺さんは死なないと思ってたんだよ」

 

 爺さんの眉が動く。

 

「勝手だけどさ。先生も、爺さんも。俺が留守にしてる間に、誰かから死んだって聞くことはないと思ってた」

 

 強いから。

 

 そう言えば、理由にはなる。先生へ刃を向けて、無事に済む奴など滅多にいない。爺さんも、自分へ開いた傷をなくせる。俺が山を離れた後も、こうして同じところへ住んでいた。

 

 だから、安心して帰ってこられた。

 

「俺がいなくても、皆を連れて帰ってきてくれる人が欲しい。爺さんなら、って……」

 

 言葉が細くなる。

 

 この人にだって、ここでの暮らしがある。俺が来なくても大根は育つし、薪を割る日も、茶を飲んでいる時間もある。

 

 それを全部、俺の都合で変えてほしいと頼んでいる。

 

「……ごめん。こんなことを頼むのは、ずるいよな」

 

 椀を置いた。

 

 爺さんの袖へ手が伸びる。自分でも、何をするつもりだったのか分からない。ただ、膝へ戻すより先に、その布を掴んでいた。

 

「それでも、頼みたいんだ。爺さん、俺のところに来てくれ」

 

 爺さんは、俺の手を見た。

 

 引き抜こうとはしない。もう片方の手で自分の椀を寄せ、残った湯を飲む。その間、俺は袖を掴んだまま待っていた。

 

「儂も、死ぬぞ」

 

 椀が縁側へ戻る。

 

「お前へ話したことがあったじゃろう。腕を落とされ、胸を刺された話じゃ。戻せなんだら、そこで死んでおった」

「……覚えてる」

「何万年生きようが、そこは変わらん。儂を呼べば、もう誰も死なんと思うておるなら、引き受けられん」

 

 指へ力が入る。

 

 違う、と返したかった。

 

 けれど、ここへ来た時の俺は、どこかでそれを望んでいた。爺さんがいてくれれば大丈夫だと。次に誰かを送り出す時、今ほど怖がらずに済むのではないかと。

 

 爺さんは、その返事まで待ってくれる。

 

「……怖いんだよ」

 

 俺は袖を見たまま、口を開く。

 

「隊士を出す時、帰ってこなかったらって考える。俺がついていけばいいと思うけど、そうしたら、別のところへ行けない。隊に残ってる奴らまで気になって、出掛けた先でも、早く戻りたくなる」

 

 爺さんへ頼んでも、それが全部なくなるわけではない。

 

 分かっている。今度こそ、分かっているつもりだ。

 

「爺さんも死ぬって言われたら、今度は爺さんを出したくなくなるよ。そんなの、副隊長を頼む奴の言うことじゃないんだろうけど」

 

 ようやく、顔を上げた。

 

「それでも、一緒にいてほしい。俺一人じゃ、皆のところへ行けないから」

 

 爺さんが俺を見る。

 

 長い間、黙っていた。その目は庭へも畑へも向かなかった。俺が言ったことを聞き終えてから、ゆっくり頷く。

 

「なら、しばらく行ってみるかのう」

 

 袖を掴んだ指が緩む。

 

「……来てくれる?」

「お前のところの者を、見てからじゃ。副隊長という用事が儂へ務まるかは、その後で話せ。いきなり札をつけられても、誰を呼べばよいか分からん」

 

 俺は頷く。

 

 一度で済まず、もう一度。

 

「うん。皆に会ってほしい。宗玄がやってた仕事も、見せるから。紙は、俺も読むよ」

「読めるなら、先に読んでおけ。儂が行くまで積んでおくなよ」

 

 宗玄にも、似たことを言われた。

 

 そう思った途端、息が詰まりかける。爺さんは気づいたのだろう。袖から離れた俺の手へ、椀を持たせた。

 

「湯が冷める。飲んでから、畑を見ていけ」

「畑?」

「儂がおらん間、誰が見る。今日、全部抜くつもりはないぞ」

 

 庭の向こうへ顔を向ける。

 

 まだ、幾つも葉が並んでいた。明日抜く分も、その後まで置いておく分もある。

 

「……俺が来るよ。何をしたらいいか、教えて」

「隊の者にも、手を貸してもらえ。お前が全部やるなら、儂を呼んだ甲斐がなかろう」

 

 椀を両手で包む。

 

 さっきより、少し温かく感じた。

 

        *

 

 帰る前に、畝を一通り見て回った。

 

 どれを抜いて、どれを残すか。水はどこから運ぶか。爺さんが土を指すたび、俺は頷く。前にもここで暮らしていたのだから、覚えているつもりだったが、育てているものが違えば、やることも変わるらしい。

 

「忘れそうなら、書け」

「帰ってから、書くよ」

「帰る頃には忘れとるわ」

 

 結局、家から紙を出してもらった。

 

 縁側へ座り直し、爺さんの言ったことを書きつける。大根を何本持っていくかまで決めてから、筆を置いた。

 

『お前様。今度は、こちらへ帰る用事もできんしたな』

「……そうだねぇ」

 

 胸の内で、ゆめへ返す。

 

 爺さんを隊へ連れていく。畑を見るために、誰かとここへ戻ってくる。留守にするなら、いつ帰るか伝える。

 

 頼んだ相手の暮らしも、預かることになるのだ。

 

「爺さん。隊へ来るのは、いつにする?」

「明日でもよい。今から行くと、飯まで急かされそうじゃ」

「そんなこと、しないよ。部屋も用意しないと」

「では、明日じゃな。迎えに来い」

 

 頷いて、腰の刀を確かめる。

 

 庭へ道を繋ぐ前に、もう一度振り返った。爺さんは縁側へ座り、俺の書いた紙を眺めている。

 

「ありがとう」

 

 爺さんが顔を上げる。

 

「明日、来るよ」

 

 今度は、向こうが頷いた。

 

 隊へ戻ったら、まず皆へ話そう。

 

 副隊長が決まったと、まだ言うつもりはない。ただ、明日、会ってほしい人が来る。

 

 先生にも、そう伝えておこう。

 

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