帰らぬ人よ 帰れぬ人よ
その声で 帰ってくるな
8.亡声の戸口
宿の主人は、俺が刀を外さないのを見て何も言わなくなった。部屋へ案内される途中、廊下の隅に槍が立て掛けられていた。穂先には赤黒い汚れが残っている。主人の左手にも布が巻かれていた。
「この辺り、何か出るのか」
「夜は戸を開けないでください。呼ぶ声がしても、返事をせずに」
それだけ言って、主人は階段を下りた。
窓を開けると、通りの家ではもう雨戸を閉めていた。まだ日が残っている。店先に品を並べたまま戸を閉めた女が、隣の家へ何か声を掛けた。中から手が伸び、軒先で遊んでいた子供を引き入れる。
包みを床へ置き、窓枠へ腰を掛けた。塾を出てから十日ほど経っていた。南へ向かうつもりではいるが、道は真っ直ぐ続いてくれない。橋が落ちていれば遠回りをし、旨い飯があれば一泊増やした。今日も煮魚の匂いにつられて宿を取ったのだ。
飯が来る前に、通りから声がした。
「開けてくれ」
窓の下に男が立っていた。向かいの戸を叩いている。背を丸め、顔を戸へ近づけたまま、同じ言葉を繰り返した。
「開けてくれ。帰ってきたんだ」
家の中で、何かが倒れた。男が顔を上げた。口元だけが笑っていた。戸の隙間へ指を掛けると、爪が木に食い込む。
俺は窓から下りた。
「そこに住んでるのか」
男が振り返った。こちらを見た途端、口が左右へ裂けた。歯の並ぶ奥から別の顎がせり出し、肩に掛かっていた着物まで引き裂いていく。
白い仮面が現れた。人の姿をしていた胴が膨れ、屋根より高くなる。四本の腕が通りへ伸びた。一つは家の柱へ、残る三つはこちらへ向かってくる。
「なるほど。戸を開けたところで食うつもりだったか」
柱を掴む腕へ、人差し指を向けた。
「⸺
白い光が腕を貫いた。肘から先が落ち、柱から指が離れる。照射を止め、そのまま半歩横へ動いた。俺のいた場所へ三つの拳が重なり、地面を砕く。
虚がこちらを向いた。仮面の奥で、幾つもの声が笑っていた。さっきの男の声も、女の声も、子供の声もある。柄へ手を掛けた。
「今度は、誰の声を借りるんだ」
「開けてくれ」
虚の口から、さっきと同じ声がした。裂けた口が動くたび、男の声に女や子供の声が重なる。向かいの家で、戸を押さえていた手が離れた。隙間から覗く顔がある。
「違う。そいつを見るな」
声を掛けた途端、虚が家へ腕を伸ばした。刀を抜き、その腕を斬り落とす。返す刃でもう一本を肘から断った。落ちる腕を踏み越え、胸元へ入る。虚は残った拳を振り下ろしたが、そこにはもう俺はいない。
肩へ跳び乗り、白い仮面へ刀を突き立てた。刃を横へ引く。仮面が割れ、その下の顔まで裂けた。
「帰ってきたんだ」
男の声が、もう一度聞こえた。
虚の身体が傾く前に地面へ下りた。頭上で崩れた輪郭が薄れていく。通りを塞いでいた腕も、屋根に掛かった肩も消え、向かいの家が見えるようになった。刀を払って収める。
「……終わり?」
戸の向こうから、子供が尋ねた。
「終わり。けど、そこは開けるなよ。柱が割れてる」
宿の主人が槍を抱えて出てきた。俺の横を通り、向かいの雨戸へ手を掛ける。片方を外して壁へ立て掛けると、中から女と小さな男の子が出てきた。男の子は俺より、虚の消えた辺りを見ていた。
「あいつ、父ちゃんの声だった」
「お父さんは?」
「去年、死んだ」
女が子供の肩を抱いた。
「あれは違うって、何度も言ったんです。でも毎晩、戸の前へ来て……」
宿の主人が槍を握り直した。左手に巻かれた布へ血が滲んでいる。
「追い払ったこともあります。刺したはずなのに、次の晩にはまた来た。今度は、うちの女房の声で」
俺は通りを見渡した。閉じた雨戸の奥から、人がこちらを窺っている。戸口へ米の器が置かれた家もあった。空になった器だけが、幾つも並んでいる。
「供えたのか」
「腹が満ちれば、入ってこないかと思って」
主人はそう言って、器から目を逸らした。
虚に飯が必要なわけではない。だが、それを知らずに戸の向こうで家族の声を聞けば、何かしてやりたくもなるだろう。男の子が俺の着物を掴んだ。
「もう、父ちゃんの声しない?」
「あいつの声は、もうしないよ」
掴んでいた手が緩んだ。女が頭を下げ、子供を連れて家の中へ戻っていく。主人はしばらく割れた柱を見ていたが、やがて俺へ向き直った。
「お食事、まだでしたね」
「煮魚、残ってる?」
「すぐにお持ちします」
宿へ戻る途中、腰の刀から声がした。
「わっちを呼んでくれても、よかったでありんしょうに」
「家ごと寝かせたら、飯が来なくなるだろ」
ゆめが笑った。階段を上がりかけたところで、主人に呼び止められた。振り返ると、主人は槍を壁へ戻していた。
「もう一つ、お聞きしても?」
俺は階段へ掛けた足を下ろした。
「あれに連れていかれた人も、どこかにいるんでしょうか」
「連れていかれたところを見たのか」
「近所の者が、二人ほど引きずられていくのを。女房は……朝になったら、いなくなっていました」
主人の目が通りへ向いた。先ほどの女が外していた雨戸を戻している。男の子も内側から手を添えていた。
「死んだところを見た人は?」
「いません。ですが、戻ってきた人もいません」
俺は階段から離れ、戸口へ戻った。虚を斬れば食われた人間まで、その場へ戻ってくるわけではない。けれど、運んだ先があるなら確かめられる。あの身体で毎晩この通りへ来ていたのだ。近くに潜む場所くらいはあるだろう。
「どっちから来る」
「川の方です。橋を渡ってくるのを、何度か見ました」
「じゃあ、そっちを見てくる。残ってる人がいるかは、まだ分からないけどな」
主人が槍へ手を伸ばしたので、その肩を押さえた。
「こっちは任せる。柱を支えてやってくれ。戸を閉めるたびに傾いている」
「ですが」
「帰ってきて飯まで潰れてたら、俺が困るだろう?」
主人は槍から手を離した。俺は通りへ出て、川の場所を聞いた。家の間を抜けて坂を下れば、すぐに橋へ出るという。
坂には引きずったような跡が残っていた。土の上を通り、石段の端で途切れている。橋へ出ると、欄干の一部が折れていた。下を覗けば川幅は狭く、水も浅い。人が流されるほどではないが、橋の下は岸から張り出した石に隠れて見えなかった。
「ゆめ。さっきの奴、ほかにもいたと思うか」
「お前様が斬ったのは、一匹でありんす」
「そりゃそうなんだけどさ」
橋を渡らず、脇の斜面を下りた。草に赤い布が引っ掛かっている。拾い上げると、小さな袖だった。裂けた端には泥が乾いていた。
川岸へ下り、橋の下を覗く。石の奥に穴が開いていた。大人が屈んで入れるくらいの口だが、その向こうは広い。あの男の姿なら、ここも通れる。暗がりへ目を凝らすより先に、息を吸う音が聞こえた。
「誰かいるか」
返事はない。代わりに、奥で石の擦れる音がした。
左手に小さな火を灯した。穴へ入ると、着物や草履が散らばっていた。壁際には折れた櫛がある。その先で、膝を抱えた女がこちらを見ていた。肩から胸へ血が流れ、片足が不自然な方へ曲がっている。
「来ないで」
女は石を握っていた。俺が足を止めても、その手を下ろさない。火を少し高く掲げると、女の背後でもう一人が横たわっているのが見えた。胸が僅かに動いていた。
「俺は、あいつを斬ってきた。宿の親父に頼まれて、誰か残ってないか探しに来たんだ」
刀から手を離し、空いた右手を見せた。
「近づいてもいいか。怪我を治せる」
女はすぐには頷かなかった。握った石と俺の顔を交互に見ている。俺はその場へ膝をつき、左手の火を傍らの石へ移した。両手を空けて待っていると、ようやく石を握る指が緩んだ。
「……この人を、先に」
女が背後へ目を向けた。横たわっているのは若い男だった。脇腹の着物が血で固まり、呼吸のたびに喉が鳴っている。近づいて襟を緩めると、胸から腹まで爪の跡が走っていた。傷口へ掌をかざす。淡い光が広がり、裂けた肉が少しずつ塞がっていった。
「そいつに、やられたのか」
「私の声を聞いて、来てくれたんです。助けようとして……その人まで」
女は男の顔を見つめたまま、石を床へ置いた。
「あれは、私に助けを呼ばせるんです。誰かが来るまで、ずっと。声を出さないと、脚を……」
俺は女の曲がった脚へ目を向けた。逃げられないようにして、人を呼ばせる。戸口で家族の声を借りるのと同じだった。近づいてくる者を待ち、手の届くところで捕まえる。
男の呼吸が落ち着いた。傷を閉じても失った血までは戻らない。身体が冷えていたので、傍らに落ちていた羽織を掛けた。
女の方へ戻り、肩の傷を塞いだ。脚には触れる前に声を掛ける。
「骨が折れてる。位置を戻す時は痛むから、俺の肩に掴まっててくれ」
女が頷いたのを見て、踵と膝を支えた。ゆっくり脚を戻すと、肩へ食い込む指に力が入る。骨の位置を合わせてから回道を掛けた。女は唇を噛んでいたが、光が消える頃には指の力も抜けていた。
「少し曲げてみて」
膝が動いた。女は自分の脚へ手を添え、何度か確かめた。それから俺の袖を掴む。
「宿の人は、無事ですか」
「手に怪我してたけど、槍を持って走ってたよ。あんたが帰ったら、止めてやってくれ」
「……あの人、槍なんて使ったこともないのに」
女の目から涙が落ちた。袖で拭ってから男の方へ這い寄り、掛けた羽織を胸元まで引き上げる。俺は石の上の火を掌へ戻し、穴の奥まで照らした。ほかに人はいない。着物や草履は二人分よりずっと多かったが、持ち主を確かめられるものは見つからなかった。
「あいつは、二人を置いてどこへ行ってた?」
「外で声がすると、出ていきました。戻ってくる時は、誰かを引きずって……」
女の言葉が途切れた。俺は続きを聞かず、男の傍らへ屈んだ。
「帰ろう。歩けそうか」
「はい。この人は」
「俺が運ぶ」
男を背負い、女に火を持ってもらった。穴を出る手前で女が立ち止まり、もう一度だけ奥を振り返る。俺は待った。やがて女は顔を前へ戻し、川岸へ足を踏み出した。
坂を上がる頃には日が落ちかけていた。通りへ戻ると、柱を支えていた宿の主人がこちらに気づいた。手にしていた木槌を落とし、走ってくる。
「お前……」
女が頷いた。主人は伸ばした手を一度止め、肩の傷があった辺りを見た。それから両腕で女を抱き寄せた。
俺は二人の横を抜け、宿の戸を足先で押し開けた。
「親父。こっちにも布団を一枚、頼む」
返事の代わりに何度も頷くのが見えた。背中の男が僅かに身じろぎしたので、俺は担ぎ直して中へ入った。