和らぐ袖に 雷は潜み
去りたる名に 傷は疼く
一番隊へ来る途中で、増援を二つ頼まれた。
片方は明日でも間に合う。もう片方は、できれば今すぐ。そう言った伝令へ、俺も今すぐ行きたいんだけどねぇと返すと、向こうは俺の行く先を見て口を閉じる。
先生に呼ばれている。
こればかりは、途中で寄り道してから行くわけにもいかなかった。
廊下の角で羽織についた土を払い、部屋へ入る。並んだ顔の中には、俺より汚れた裾もある。鳴瀬などは袖へ血までつけていた。自分の分ではなさそうだが、洗う暇もなかったのだろう。
「お前も、呼び戻されたか」
こちらを見た鳴瀬へ頷く。
「現世からねぇ。あと少しで済むところだったんだけど、残りは任せてきたよ」
「俺は戻る途中だった。帰ったら飯にするつもりだったんだがな」
「終わったら食べようよ。うちなら、まだ何か残ってると思うから」
爺さんが来てから、飯を抜く奴に厳しくなった。
出先で食えなかったと言えば、台所へ連れていかれる。腹へ入れてから報告しろ、と。俺も何度か捕まっているので、鳴瀬一人くらい連れて帰っても、叱られる人数が増えるだけだ。
あの丘で大虚を斬ってから、もう二十年になる。
爺さんの腕章は一度取り替えた。隊士の顔も増え、佐伯は自分で負傷者を運ぶより、運ぶ者へ指示することが多くなっている。俺が庭へ出ると、今日は見ていてくださいと言う奴まで出てきた。
見ているだけで済む日は、随分と減ったけれど。
「揃うたな」
先生の声で、皆が前を向く。
魂葬した数。斬った虚。残してきた者。
何から話しても、足りないものの話になる。
「現世の状況より、報告せよ」
先生に促され、六番隊の朽木銀嶺が口を開く。
「戦の続く地域では、担当の者だけでは魂葬が追いついておりませぬ。近隣より人員を回しておりますが、そちらも同様の有様。巡回の間隔が空き、次に赴いた時には虚が現れていることも増えております」
銀嶺の報告を聞きながら、俺は昨日通った川を思い出す。
浅いところへ死体が引っ掛かっていた。岸には、こちらへ呼び掛ける者がいる。自分の身体を指して、まだあそこにいるんだと言うのだ。分かっているよと答えても、そいつは川から離れようとしなかった。
先に着いていた隊士は、別の村で虚を追っていた。
川へ戻るまで待っていてくれとは、俺には頼めない。
「十番隊でも同じだよ。魂葬へ出した連中が、途中で討伐に回る。そこが済んでも、元の場所へ戻る前に別の虚が出てる。俺が代わりに送ってきたけど、明日も同じことになりそうだねぇ」
向かいの
「十三番隊からも、応援を求める報告が続いています。担当を増やすにも、戻っていない者が多い。現世へ残す人数を増やせば、流魂街の巡回が薄くなります」
そちらへ虚が出れば、結局また呼び戻す。
聞いている隊長たちの顔に、驚きはなかった。皆、自分のところで似たような紙を読んでいるのだろう。うちだけが困っているわけではない。それで安心できたら、苦労はしないのだけど。
卯ノ花が静かに口を開いた。
「四番隊へ運ばれる者も増えています。治療を終えたばかりの隊士が、次の任務でまた戻ってくる。傷が塞がっていても、消耗した霊力まで戻っているとは限りません。復帰の判断を急がせないよう、お願いいたします」
鳴瀬が腕を組む。
「休ませる間、持ち場を誰かが受け持たなきゃならん。そいつが休む時には、最初に下げた奴を戻すことになる。どこの隊も、似たような回し方になってるだろう」
俺も頷いた。
休めと言って、その翌日に呼びに行ったことがある。相手はもう大丈夫ですと立ち上がってくれた。俺の顔を見て、寝ている場合ではないと思ったのかもしれない。
あれを、元気になったと受け取ってはいけなかった。
「大虚の出現については」
先生の問いへ、鳴瀬が顔を上げる。
「増えている。ギリアンだけならまだしも、小さいのが混じると隊士だけじゃ厳しい。春水に現場を任せることも増えたが、あいつ一人で抱えさせるつもりはない。俺も出る」
隣から、低い笑い声がした。
「なら、その分はうちへ回してくれ」
大きな身体へ隊長羽織を掛け、口元には笑みがある。疲れていないわけではなさそうだが、大虚が増えたという話は、彼には悪い知らせばかりでもないらしい。
「連中も魂葬ばかりじゃ持て余してる。まとまった群れがいるなら、十一番隊を出せばいい。斬る相手がいると聞けば、喜んでついてくるぞ」
「元気だねぇ。こっちは、帰ったら座りたいと思ってたところだよ」
「座るのは片づけてからでいいだろう。大虚が出てくるなら、こちらから探す手間も省ける」
随分と都合のいい出迎え方だ。
虚の方にも聞かせてやりたいが、それで十一番隊を避けて出てこられては困る。張り切ってくれる人には、張り切れる場所へ行ってもらおう。
「討伐の配置は、追って命じる」
先生の杖が床へつく。
「刳屋敷。独断で持ち場を離れるでないぞ」
「承知した」
返事は早かった。
先生が先に言ってくれた。喜んで出ていくのは、部下だけではなさそうだからねぇ。
「不足する人員は、学院より補充する。入隊可能な者を順次受け入れ、各隊で教育に当たる者を定めよ。魂葬と巡回へ配置し、熟練の者を討伐へ回すのじゃ」
先生が皆を見渡す。
学院から来る者は、毎年いる。それでも足りなくなっているのだから、受け入れる人数も、こちらで教える者も増やさねばならない。
刀を持った顔が増える。
帰ってくる顔も、同じだけ増やしたい。
「うちでも引き受けるよ、先生。ただ、最初は慣れた奴と組ませたいねぇ。魂葬に出した子を探しに行くようじゃ、余計に手が掛かるから」
教える者を一人つければ、その分は討伐へ出せなくなる。
けれど、初めから一人で行かせて済むほど、現世は落ち着いていない。俺だって今日、まだ刀を抜いていないだけで、呼ばれた先では抜くことになるのだろう。
「相変わらず、腰が引けてるな」
刳屋敷が言った。
「いつまで庇って育てるつもりだ。現場へ出さなきゃ、自分で動けるようにはならんぞ」
「出すよ。だから、一緒に行ってくれる奴をつけたいんだ。最初から全部できる子ばかりなら、俺も助かるんだけどねぇ」
「お前のところは、退き方ばかり教えていると聞く。斬る前から逃げることを考えていて、何が身につく」
「命は大事にしないとだからねぇ。覚えることなら、生きて帰ってからでも教えられるよ」
そこまでは、いつもの話だった。
十番隊の稽古を笑う奴はいる。俵を担いで走っているところを見て、刀を振る時間も残しておけと言われたこともある。残しているよと返せば、大抵はそれで済む。
刳屋敷の口元には、まだ笑みがあった。
「隊長の貴様がそんな調子だから、部下まで腰が引けるんじゃないのか。前の副隊長も、それで死んだんだろう」
宗玄の手が、浮かんだ。
紙を差し出す手。俺の返事を待ち、納得するまで引っ込めない手。帰ってきた時には、もう何も握っていなかった。
隣には、千鳥がいた。
俺は二人の傷を塞いだ。血を拭いて、顔を見られるようにして、それから隊へ連れて帰った。
腰が引けた。
誰が。
俺を待たずに、仲間を逃がした奴が。
「……お前さん、あの場にいたのかい」
床が鳴った。
刳屋敷の笑みが消える。彼の足元から細い亀裂が伸び、隣の鳴瀬が俺へ顔を向けた。その口が開きかけたところで、羽織の裾が床へ落ちる。
膝をついたのだと、すぐには分からなかった。
向かいでも音がする。銀嶺が片膝をつき、床へ掌を置く。御影は踏み出しかけた足を支えきれず、その場へ沈んだ。卯ノ花の袖が揺れ、指先が床へ触れる。
刳屋敷も、立っていなかった。
歯を食いしばり、片手を膝へ置いている。そこへ力を込めても、身体は上がらない。肩が更に下がり、もう片方の膝まで床を打つ。
俺は、そいつの顔を見ていた。
何か言うつもりなら、聞こう。
あの二人が何をしていたか、どこから見ていたのか。俺より早く着いていたのなら、知っていることがあるのだろう。
刳屋敷の唇が動く。
声は出なかった。
障子の枠が割れた。柱から軋む音がして、天井の木屑が彼の肩へ落ちる。俺の袖は、その音に合わせて膨らんでいた。
「先生、こいつ殺してもいい?」
先生だけが、立っていた。
杖をつき、俺を見ている。ほかの隊長は全員、床へ膝をついていた。それでも、今は刳屋敷から目を離したくなかった。
「ならん。烏有、霊圧を収めよ」
返事ができない。
宗玄なら、ここで何と言うだろう。
隊長、と呼ぶ声は思い出せる。その後に何が続くかも、普段なら幾つも浮かぶ。今は、最後に見た顔ばかりが出てくる。
『お前様』
胸の内で、ゆめが呼んだ。
『わっちの声を、お聞きなんし』
息を吸う。
袖が、少し下がる。先生の杖へ目を向け、足元まで広がった亀裂を見た。俺の立っているところから、皆のところまで続いている。
「烏有」
もう一度、先生が呼ぶ。
俺は指を開いた。掌へ爪が食い込んでいたらしく、皮膚に赤い跡が残っている。肩を下げ、吐く息と共に、外へ出ていた霊圧を引き戻す。
柱の軋みが止まる。
それからも、誰もすぐには立たなかった。
鳴瀬が床へ置いた手を動かし、こちらを見る。銀嶺は呼吸を整え、卯ノ花は膝へついた木屑を払っていた。
俺は、ようやく皆の顔を見た。
「……ごめん。巻き込んだね」
刳屋敷へは言わなかった。
そいつも、俺から目を逸らしてはいない。立ち上がるために伸ばした脚が僅かに震え、もう一度、膝へ手を置いていた。
「刳屋敷」
先生が向き直る。
「十番隊の報告は、儂が受けておる。仲間を逃がすために残り、命を落とした者じゃ。お主の言うような死に方ではない」
刳屋敷が口を閉じる。
「指導への意見があるなら述べよ。死んだ隊士を貶めることは許さん」
俺は、先生の顔を見られなかった。
床へ落ちた木屑を眺めていると、刳屋敷の声が聞こえる。
「……失言だった。お前の部下を侮辱した」
聞こえた。
それでも、頷くまでに時間が掛かった。
言ったことは戻らない。宗玄へ謝ってもらうことも、もうできない。俺だけが聞いて、それをどうするか決めなければならなかった。
「二度と、あいつのことをそんなふうに言わないでくれ」
刳屋敷が頷く。
俺は袖へ手を収めた。
会議は、まだ終わっていない。魂葬を待つ者も、俺が戻るのを待っている者もいる。今、ここで誰かを殺している場合ではなかった。
それくらい、最初から知っていたはずなのに。
*
隊へ帰ると、爺さんは飯を食っていた。
向かいに佐伯が座っている。俺を見つけると腰を浮かせたので、そのまま食べててと手を振る。台所にいた者が、俺の分の膳も運んできてくれた。
「遅かったのう。鳴瀬はどうした」
「八番隊へ戻ったよ。俺は増援に寄ってきたから、別々になった」
「ならば、先に食え。話はその後じゃ」
爺さんの隣へ座る。
箸を取ってから、自分の指を見る。掌についた跡は、もう薄くなっていた。あの部屋にいた者は、今頃どんな顔で飯を食っているのだろう。
「学院から、受け入れる人数を増やすことになったよ」
汁を一口飲んでから、話す。
「うちにも来る。最初は、慣れた連中と組んでもらうつもり。爺さんにも見てほしいんだけど」
「何人じゃ」
「まだ決まってない。分かり次第、伝えるよ。佐伯も、頼めるかな」
佐伯が箸を置く。
「はい。現世へ出る組と、こちらで稽古をする組に分けますか」
「そうだねぇ。一度に全員連れていくと、見る方が大変だから。ほかの連中にも相談して、組めそうな人数を教えて」
返事を聞いて、飯へ箸を伸ばす。
新人へ教えてくれる奴はいる。帰ってきたら話を聞き、失敗したところを一緒にやり直してくれる奴も。その時間を残せるように、俺は出先の虚を斬ってこよう。
爺さんが、俺の手元を見る。
「箸が進まんのう。出先で食うたか」
「いや。ちょっと、考えてた」
「食いながらでも考えられよう。冷めるぞ」
言われた通り、一口入れる。
熱かった。
佐伯が次の任務について話し始める。爺さんは飯を食いながら聞き、人数を確かめ、途中で担ぐ役を代えろと伝えていた。
二十年、こうして皆を連れて帰ってきてくれた。
爺さんの隣で飯を食う時には、帰ってきた者の話が聞ける。誰が転んだか、誰が先に虚を見つけたか。叱られた本人が、次はどうするかまで話している。
俺は椀を持ち直した。
今日は、その声を聞いていたかった。
*
学院から来た連中は、俺が思っていたより若かった。
いや、年を聞いたわけではない。立っている姿が、皆よく似ている。背を伸ばし、手を揃え、俺が話すたびに頷く。そんなに何度も頷かなくていいよと言うと、また揃って頷いた。
佐伯が後ろで笑いを堪えている。
お前さんも最初はあんな顔をしていたと思うけどねぇ、と言うのは、皆がいなくなってからにしよう。
最初の何日かは、庭で過ごしてもらった。
刀も振る。足も動かす。俵を担いだところで、これもやるんですかと尋ねた者がいたので、うちではよく使うよと答える。
爺さんは、担ぐ方より見ている方を叱った。
「そいつの顔ばかり見て、どうする。運んでおる者に前を見させたいなら、お前が後ろを見てやれ」
言われた男が振り返る。
そこで俺と目が合い、慌てて刀を上げた。遅いけれど、今は庭だから間に合う。次はもう少し早く向いてくれればいい。
幾つかの組が現世へ出るようになる頃には、俺は新人の顔を覚えていた。
出先で名前が浮かぶ。
あの子は足を捻りやすかったな、とか。怖い時ほど声が小さくなるから、隣に誰をつけたらいいだろう、とか。
『お前様。お帰りになってからも、まだ数えておいででありんすか』
「名前を覚えてるんだよ。間違えて呼んだら、申し訳ないからねぇ」
『お名前の後へ、あれこれ続いておりんすな』
ゆめには聞こえていたらしい。
紙から目を上げると、廊下の向こうで新人が佐伯を呼んでいた。明日の支度を見てほしいという声だ。佐伯は一緒に部屋へ入り、包みを開けてもらっている。
俺が呼ばれるのを待つ必要はなさそうだった。
「今日は、もうしまおうかな」
『ええ。わっちにも、お顔を見せておくんなんし』
筆を置き、刀を膝へ寄せる。
今夜は、ゆめのところへ行こう。
*
翌朝、門へ集まった連中の荷を、爺さんが見ていた。
包帯と薬はある。食うものも持った。確かめるたびに新人が袋へ手をやるので、出さなくてよいと止められている。
俺は軒の下から、その様子を眺めた。
「爺さん。南の方、頼むよ。俺は流魂街の増援へ行ってくる」
「聞いとる。こちらは夕方までには戻る。遅れるようなら、人を出すわ」
「うん。帰ったら、新しい子たちの話も聞かせてねぇ」
爺さんが俺の腰を見る。
「お前は、飯を持ったか」
「持ったよ。今日はちゃんと、途中で食べるつもり」
「つもりで済ませんようにな。帰ってから台所を覗いても、昼の分は残っとらんぞ」
新人の一人が、こちらを見た。
俺が叱られるとは思っていなかったらしい。目が合うと慌てて前へ向き直る。笑っていいよと言ってやりたかったが、爺さんがまだ俺を見ている。
先に返事をしよう。
「分かったよ。お前さんたちも、爺さんに言われる前に食べといてねぇ」
「まずお前がやれ。隊長が忘れとると、こやつらまで真似するわ」
今度は佐伯が笑った。
爺さんが門の外へ歩き、隊士たちも続く。最後の一人が振り返ったので、手を上げて送り出した。
俺も、懐の包みを確かめる。
増援先へ繋いだ道の向こうは、もう陽が当たっていた。出る前に一口くらい食っておこうかとも思ったが、呼んだ者を待たせるのはよくない。
向こうが済んだら、今度こそ。
門の方へ顔を向けると、爺さんたちはもう角を曲がっていた。
「じゃあ、俺たちも行こうか」
胸の内へ声を掛け、道を抜ける。
懐には、まだ温かい握り飯があった。