送りし袖に 風は立ち
帰らぬ声に 灯は揺れる
片瀬の名前を消したところへ、別の名前を書かなければならなかった。
昨日まで、そこは埋まっていた。本人にも伝えてある。帰ったら一日休ませて、次は西の交代へ出てもらう。連れていく者の中に初めて西へ行く子がいたので、道を教えてやってほしいとも頼んでいた。
その紙を、今朝から眺めている。
十番隊五席、
残った二人から話を聞いた。下がる途中で黒腔が開き、後ろへ回られたらしい。片瀬がそちらを受け持ち、一人に負傷者を担がせ、もう一人をその護衛につけた。そこまでは、俺も同じことを教えている。
だからといって、死んでよかったことにはならない。
帰ってきた男が、何度も頭を下げるものだから、顔を上げてくれと頼んだ。あいつに言われて退いたのなら、戻ってきたところまで話してほしい。俺へ謝るために、途中を飛ばさなくていい。
「片瀬五席は、橋を渡り終えるまで振り返るなと仰いました。私が最後に見た時には、まだ……刀を振っておられました」
そこから先は、何度尋ねても変わらなかった。
俺も聞くのをやめる。振り返るなと言われ、そうして帰ってきた奴へ、見ていないところまで話させるわけにはいかない。
聞き終えた頃には、昼になっていた。
「隊長。西へ出す組ですが」
戸口に立った四席の
筆を置いて、顔を上げる。
「槇島。お前さんに頼んでもいいかな。片瀬に任せるはずだった子も、一緒に」
「承知しました。榛名六席の組と途中まで同行するよう、話しておきます」
「うん。別れるところと、戻る道を先に確かめといてねぇ。向こうへ着いてから、人数が足りなくなったら知らせて」
槇島は頷いた。それから、少しだけ俺を見る時間が長くなる。
「……こちらのことは、お任せください」
「ありがとう。俺も、現世から戻ったらそっちへ寄るよ」
いつ寄れるかまでは、言えなかった。
槇島が出ていくと、廊下の向こうで人を呼ぶ声がする。返事をした奴の声も知っていた。昨日、片瀬と一緒に行くのを楽しみにしていた子だ。
俺は紙へ、槇島の名前を書き入れる。
浮竹が隊長になってから、二十年ほど経った。あの時に組み直した巡回は、もう何度も変えている。現世へ出す者を増やし、流魂街へ回す者も増やし、帰ってきた組から次に出られる者を探す。
しばらく休ませよう、と書いた名前を、自分で拾い直す日もあった。
出さずに済めば、その方がいい。けれど、西にいる連中だって帰りを待っている。あいつらを休ませるためには、誰かを行かせなければならない。
俺が行こう。
そう口にする前に、机へ置かれたもう一枚を見る。現世で大虚の群れが確認され、既に二隊が応戦していた。俺はそちらへ増援に行く。西へ出る槇島には、そのためにここへ来てもらったのだ。
紙の向こうへいる奴らの顔を、順に思い浮かべる。
どちらにも、俺を待っている者がいる。
*
出掛ける前の庭で、佐伯が隊士の荷を確かめていた。
十番隊三席になってからも、こういうところは変わらない。自分の袋を締めるより先に、ほかの奴の紐へ手が伸びる。今日連れていく八人は、佐伯と何度か任務へ出た者たちだった。
「お前さんたちは、南だねぇ」
「はい。巡回している組と合流し、集落の周辺を確かめてきます。異常がなければ、明後日には戻ります」
説明する間にも、佐伯は隣の男の帯を指している。袋の位置が低かったらしい。男が結び直してから、俺へ頭を下げた。
佐伯も、任せられる奴になった。
前はこいつの肩へ触れ、まだ俵を担ぐなと言っていた。今は俺が留守の間に、誰を休ませるかまで決めてくれる。宗玄や千鳥に教わったことへ、自分で見てきたことを足して、若い連中へ話すようになっている。
助かるよ、と言うたび、また頼みたくなる。
「南でも、黒腔が続けて開いた報告が来てる。最初の群れを斬った後も、すぐには散らないでねぇ」
「承知しております。捜索する者も、二人ずつで動かします」
「うん。無理そうなら、早めに知らせて。迎えに行くから」
佐伯が頷き、その後ろの者たちも返事をする。声が揃うのを聞いて、俺は一人ずつ顔を見た。いつもより長く眺めたせいか、最後の男が、自分の襟へ手をやる。
「何か、ついておりますか」
「いや。ちゃんと飯を食ってきたかなと思って」
「食べました。佐伯三席にも、確かめられましたので」
それなら大丈夫、と言いかける。
飯を食ったから帰ってこられるなら、幾らでも食わせてやるのにねぇ。
「じゃあ、帰ったらまた食おう。今日は台所へ、減らさず炊いといてって言ってあるから」
男が笑い、隣の奴も頷いた。佐伯が皆へ声を掛けると、庭へ集まっていた組が動き始める。西へ出る槇島たちとは途中で道が分かれ、六席の
俺は門までついていった。
爺さんは、既に東へ出ている。あちらも部隊を率い、流魂街の集落を回る予定だ。副隊長が出てくれているから、東は任せられる。佐伯には南を、槇島には西を。
任せると言ったのは、俺だ。
最後の背が門を抜けるまで待ち、それから現世へ道を繋ぐ。
皆、帰ってきてくれ。
声には出さなかった。まだこちらを振り返る奴がいたから、俺はいつものように手を上げた。
*
現世から戻った俺を迎えたのは、担架を運ぶ足音だった。
門の内側で、二人が道を空ける。運ばれている顔が見えたところで、俺は持ち帰った紙を近くの者へ渡し、担架の脇へ入った。
佐伯だった。
胸へ当てた布は赤く、腹を縛った帯まで濡れている。担いでいた男が俺へ何か伝えようとしていたが、先に寝かせる場所を指した。話はそこで聞く。ここで担いだまま待ってもらう用事はない。
「佐伯。聞こえる?」
膝をつき、胸へ手を添える。薄く開いた目がこちらへ向いた。唇が動くので、頷いて見せながら霊力を流す。喋れるようにするより先に、止めなければならない血があった。
「隊長……二人、まだ」
「場所は、一緒に帰ってきた子から聞くよ。お前さんは、今はこっちを見てて」
傷が深い。
爪が胸から腹へ抜けている。自分で押さえていたのだろう、掌にも血がついていた。朝、隊士の袋を結び直していた手だ。俺はその指を傷から離し、代わりに自分の手を当てる。
まだ、温かい。
そのことへ縋りたくなるのを堪え、傷の奥を確かめた。息が途切れないようにしながら、損なわれたところへ回道を施す。そばで布を持っていた者には、手の空いた奴を一人呼ぶよう頼んだ。
「二人って、誰が残ってるの?」
「……亡くなった者です。佐伯三席が取りに戻ろうとされたのですが、傷が」
「分かった。場所を教えて。その話は、俺が聞くから」
男が、集落の名と道を伝える。
俺が朝送り出した八人のうち、ここへ戻ったのは六人だった。歩ける者も、無傷ではない。頬が裂けた男が、佐伯の足元を見たまま立っている。
佐伯が、俺の袖へ触れた。
「……置いてきて、しまいました」
「うん。俺が連れて帰るよ。お前さんたちが戻った道を、教えてもらったから」
約束してから、手を治療へ戻す。
佐伯の目が閉じかけるたびに名前を呼んだ。返事は頷くだけでいい。謝らなくていい。朝のように皆の荷を見て回れなくても、今は誰も困らない。
駆けつけた四番隊の隊士へ、傷と施した処置を伝える。担架へ移す間も手を離さず、運び出すところでようやく腰を上げた。
門の向こうへ、佐伯の足が消える。
俺は追い掛けかけて、残った六人の方へ向き直った。
現場を教えてくれた男が、刀を取りに行こうとしている。
「お前さんも、診てもらって。案内は要らないよ。今の話で分かるから」
「ですが、残した場所は」
「橋の手前、右へ入った道。大きな木の根元だねぇ。そこから動かしたかもしれない虚は、俺が探す」
男の手が止まる。
もう一度場所を確かめ、そちらへ道を繋いだ。近くの席官へ、帰った者を全員四番隊へ運ぶよう頼んでから抜ける。
朝、皆を見送った場所へ、まだ泥のついた足跡が残っていた。
*
二人を連れて戻る頃には、爺さんの組も帰っていた。
全員いる、と最初に聞かせてくれた。俺は頷き、運んできた二人を預ける。白い布を掛ける者の手が止まり、一人の顔へ目を落とした。知っている奴だったのだろう。少し待ってから、場所を空ける。
爺さんの袖にも、血がついていた。
「腕、やられたの?」
「もう塞いだ。儂の腕より、あやつの足を見てやれ。帰り道でずっと庇っておったぞ」
指された男が、慌てて姿勢を直す。それで分かった。左の足へ体重を掛けず、右だけで立とうとしている。
「座って。爺さんが見てたなら、隠す方が難しいよ」
男は観念したように縁側へ腰を下ろす。足袋を脱がせると、足首が腫れていた。動けたので申告しませんでした、と言われ、動けたことと、明日も動かしていいかはこっちで確かめると伝える。
爺さんが隣へ座った。
「東も、群れだった?」
「ああ。先に出てきた分を斬って、奥を確かめようとしたところへ、もう一つ開いた。そちらを向けば、今度は集落の入口じゃ」
「三つか」
「見たのは四つ。最後は帰る道の横へ開いた。あやつの足は、その時じゃな」
治療を受ける男が頷く。負傷者を担いだ者へ虚が飛び掛かり、間へ入ったところで爪に掛けられたらしい。
俺は足首へ当てた手を動かさず、爺さんを見る。
自分の組がどちらを見ているか確かめ、別の黒腔が開けばそちらへ走る。斬って、戻って、また走る。その間に一人が倒れたら、運ぶ者も必要になる。
今日、佐伯がしてきたことだ。
「白い槍は?」
「なかった。小さいのと、ギリアンが二つじゃ。あれまでおれば、もっと早う知らせに走らせておった」
「そうだねぇ。こっちでも、来なかったって聞いたよ」
足へ巻く布を受け取り、爺さんの袖へもう一度目をやる。血は肘のあたりから広がっていた。塞いだと言ったのだから、傷はないのだろう。
帰ってきた。
この人は今日も、皆を連れて帰ってきてくれた。
安堵するたび、次も頼みたくなる。その次も、爺さんならと思ってしまう。山へ迎えに行った時に、儂も死ぬぞと言われたことを、俺はちゃんと覚えているのに。
「今日は、もう出ないでねぇ」
「出る用事があるのか」
「今のところはないよ。飯を食って、休んでほしい」
「ならば、お前も食え。佐伯のところへ行くにしても、その前にじゃ」
膝へ置いた俺の手を見てから、爺さんが立ち上がる。
血が、爪の間へ残っていた。
*
翌日の派遣を決める頃には、榛名の組からも報告が届いた。
一人、戦死。
報告を読んでから、机の向かいにいる榛名へ顔を上げる。顎へ布を当てていた。手当てを終えても、まだ少し血が滲むらしい。話すたびにそこを押さえ、それでも最後まで説明してくれた。
聞いた場所を地図へ記し、帰った者の名前を確かめる。
佐伯が率いるはずだった次の組には、別の指揮役が要る。槇島はまだ西にいる。片瀬は死んだ。榛名を明日また出せば、こいつも、今日帰った連中も休めない。
筆の先を、紙から離した。
「明日は、俺がその組を見るよ。現世の交代は八番隊へ相談する。今日帰った子たちは、任務から外しておいて」
「では、北の増援は」
「鷺坂に頼もうと思ってる。伏見の組も、一緒につけるよ」
口にすれば、決まっていく。
七席の
「鷺坂を呼んでもらえる? 俺から話すから」
「承知しました。伏見八席にも、こちらへ来るよう伝えます」
榛名が腰を上げる。戸口で一度こちらを振り返ったが、何も言わずに出ていった。
俺は、呼ばれて来る奴へ何を伝えるか考える。
見つかった虚の数。開いた黒腔の場所。交代する組の負傷者。先に知らせてもらいたいことは、幾つもあった。
帰ってきてくれ、という言葉だけでは、あいつらの刀を助けられない。
それでも、最後にはそれを願ってしまう。
『お前様。佐伯のもとへは、いつおいでに?』
「鷺坂たちと話したら行くよ。今度は、向こうで叱られないくらいの時間にねぇ」
『お顔を見れば、あちらもようお休みになれましょう。お前様も、少しは』
返事をしようとして、息を吐く。
ゆめには、隠せなかった。佐伯を預けてからずっと、治療を受けているところを自分で確かめたかったのだ。息をしている。目を開く。呼べば、返事をする。
今日の俺は、その顔を見に行ける。
鷺坂と、八席の
「鷺坂七席。こちらを渡ってから合流すれば、戻る時にも同じ道を使えます」
「そうしよう。先行する者にも、橋から離れないよう伝えておく」
俺も、その道を一緒に辿る。
話し合いを終えると、二人は人数を確かめ、北へ出る支度を始めるという。俺も席を立ち、一緒に廊下へ出た。
「皆にも伝えておいて。知らない道へ追い込まれたら、無理に抜けようとしないでねぇ。近くの組と合流できる方へ下がって」
「はい。交代する者にも、戻る道を確かめておきます」
「頼むよ。帰ったら、話を聞かせて」
鷺坂が頭を下げ、伏見と庭へ向かう。
そこに集まる連中も、俺を見つけて顔を上げた。刀を差した奴、荷を担ぎ直す奴、隣の帯を確かめる奴。佐伯が朝していたのと同じように、互いの支度を見ている。
俺は手を上げて、それから四番隊へ足を向ける。
明日も、あの顔を見たい。
帰ったら何を聞くか考えながら、誰も欠けずに戻ってくることを願った。