送りし背には 風が吹き
冷めゆく椀に 影は伸ぶ
爺さんが、俺の皿から漬物を取った。
まだ箸をつけていなかったところだ。食わんのかと聞くより先に持っていくのだから、この人も随分とうちの暮らしに馴染んだものだと思う。取られた俺の方まで、残った一切れを先に食うようになってしまった。
「それ、俺の分なんだけどねぇ」
「喋ってばかりで、減らんからな」
「佐伯に聞かれたから答えてたんだよ。爺さんも、さっきまで話してたじゃない」
「儂は食い終えた」
空の椀を見せられる。そういうところで勝たれても困るのだけど、言い返す間に残りまで取られそうなので、俺も箸を動かすことにした。
向かいの佐伯が、笑うのを堪えている。
胸から腹へ受けた傷は、もう十年も前のものだ。治ってからもしばらくは、俵を持ち上げるたび俺が顔を向けてしまった。今ではこちらが何か言う前に、自分で身体を確かめ、まだ走れない奴には見ている役を渡してくれる。
今日は隊へ残ってもらう。
俺は現世、爺さんは流魂街へ出る。槇島も昨日から留守なので、戻ってきた組を見てくれる者が必要だった。
「伏見たちは、庭へ揃ってる?」
「はい。先に出た巡回の組とは、谷を抜けたところで合流する予定です。負傷者を戻す際の道も、確認しております」
「向こうから来た紙、爺さんにも渡してあるよねぇ」
「儂が読んで、こいつへ返した。お前はまだ探しとったがな」
そうだった。
読み終えた紙をどこへ置いたか分からず、佐伯のところへ聞きに行ったのは俺だ。二人とも覚えているのだから、ここで確かめ直さなくてもよかったらしい。
現世の報告は、まだ懐にある。
離れた二か所で大虚の群れが出た。先へ向かった隊からは、負傷者を下げるための増援を求められている。一方を片づけてから、もう一方へ回るつもりだが、帰る時間までは決められなかった。
「帰ったら、飯は残しといてねぇ。俺も遅くなりそうだから」
「先に帰った方が、台所へ言うておけばよかろう」
「爺さんが先だったら、漬物も残しておいてよ」
「残してほしければ、今のうちに食え」
皿を寄せられる。
佐伯がとうとう笑った。本人は口元へ手をやっているが、もう聞こえている。爺さんも気にせず立ち上がり、腰へ差した刀の位置を直していた。
俺は残った飯を掻き込む。
先に出ていく爺さんへ声を掛けると、戸口から顔だけが戻った。
「じゃあ、また後で」
「ああ。お前も、飯を食い損ねて帰ってくるなよ」
今日はもう食ったよ、と返してから、昼のことを言われているのだと気づく。俺が言い直す前に、爺さんは廊下へ出てしまった。
仕方がない。
向こうで食う分も、台所へもらいに行こう。
*
side:逆瀬川厳十斎
伏見が、儂の前へ立とうとする。
右へ回れば右へ、左へ出れば左へ。後ろの者へ指示を出す間も、こちらの足を見ておる。これでは儂が道を選ぶたび、あやつまで歩く先を変えねばならん。
「伏見。儂は自分で前を見るぞ。お前は後ろの者を見てやれ」
「承知しております。ただ、先の巡回から、木の間へ潜むものがいると聞いておりますので」
「ならば、上も見ておけ。儂の前だけ見ておっては、枝から来た奴に気づかん」
伏見の顔が上がる。
その先で、葉が揺れた。儂は腰の刀を抜き、落ちてくる白い顔へ刃を入れる。伸びた爪が地面へ刺さる頃には、仮面の半分が肩から離れておった。
後ろで抜かれた刀が、次の一体へ向く。
そちらは任せた。伏見が腹へ蹴りを入れ、木の幹へ押しつけたところを、横から来た男が斬る。二人とも、倒れたものを見続けずに周りへ顔を戻す。
烏有が教えた通りじゃな。
「逆瀬川副隊長。先へ出た組は、谷の向こうです」
「負傷者は何人おる」
「報告では三人です。集落の者も、何人か動けないと」
「ならば、担ぐ者を先に決めておけ。着いてから皆で同じ一人へ寄っても、あとの者が待たねばならん」
伏見が後ろへ声を掛ける。
返事を聞きながら、儂は谷へ下りる道を覗いた。岩の間へ、黒い血が残っておる。先の組もここで刀を抜いたらしい。木に寄り掛かった男がこちらへ気づき、腕を上げた。
顔を知っておる者じゃった。
隊へ来たばかりの頃、俵を落とした男の一人だ。今は自分の肩へ布を巻き、儂らの来る道を見ておる。
「立たんでよい。皆は奥か」
「はい。集落の広場へ集めております。私もすぐ戻りますので」
「まず、その肩を見せい。戻るのは、その後じゃ」
布を外せば、傷はまだ開いておった。
こいつをここまで歩かせた分は、なくしてやれん。肩が裂けたことを取り消してから、血のついた布を本人へ渡す。腕を上げた男が、何度も肘を曲げ伸ばししておる。
「今は動く。じゃが、帰ったら診てもらえ。ほかにも痛むところがあれば、そこで言うんじゃぞ」
「……ありがとうございます」
「礼は後じゃ。広場までの道を教えてくれ」
谷を抜けると、家の屋根が見えた。
その向こうから、地面を踏み鳴らす音がする。伏見が儂の顔を見るより先に、長い白い鼻が屋根の上へ出てきた。
一つではない。奥にも並んでおる。ここの者を担いで谷へ戻るまで、少し賑やかになりそうじゃな。
*
最初の二体を斬った時には、まだ陽が高かった。
儂が仮面へ刀を通す間に、伏見たちが家を回り、動けん者を広場へ運んでくる。背負われた子供が母親の袖を掴み、離すまいとするので、二人とも同じ組へ入れてやった。
谷の道は狭い。
急がせて転ばせるより、一列で歩かせた方が早い。先へ出した者から順に人数を伝えさせ、最後の家を確かめた者まで帰ってきてから、儂も広場を離れるつもりじゃった。
そこへ、黒腔が開いた。
家の裏から出てきた虚を斬れば、今度は谷の入口。そちらへ向かった儂の背後で、広場にも新しい裂け目が口を開ける。
「伏見! 集めた者を先へ出せ。家を見に行った者は、二人で迎えに行かせい!」
返事の向こうで、刀が鳴る。
儂は谷へ伸びた腕を落とし、続いて出てくる頭を斬る。裂け目の奥には、まだ顔が並んでおった。出てきたところを一つずつ斬っておっては、儂の後ろへ回る奴が増える。
刀を左へ引き、霊圧を刃へ乗せる。
横薙ぎに放った斬撃が、黒腔から覗いた仮面をまとめて割った。家の壁まで崩れたが、あそこに人はおらん。伏見が確かめてくれておる。
別の裂け目から、獣が飛び出す。
低い身体へ霊力を詰めた、
間へ入り、顎を斬り上げる。
空へ抜けた虚閃が雲を焼く。その下で獣の前脚を断ち、倒れた首へ刀を通した。残った身体を蹴り退け、通りかかった男へ先に行けと手を振る。
男は、儂の袖を見ておった。
肘から血が落ちておる。さっき後ろへ回った奴の爪じゃな。裂かれたことをなくすと、男の目がようやく前へ戻る。
そうして歩けばよい。
儂の腕を気にして止まる暇があるなら、抱いた子の頭を支えてやれ。
伏見が戻ってきた。
額へ汗を浮かべ、後ろに二人を連れておる。そのうち一人は刀を失い、もう一人の肩へ寄り掛かっていた。
「家を回った者も揃いました。集落の方々は、谷の向こうへ出ております」
「よし。ならば、儂らも下がるぞ」
「増援は求めてあります。先に戻した者へ、隊に知らせるよう伝えました」
「向こうで合流できればよい。ここへ呼び戻すなよ」
話しておる間にも、広場へ影が落ちた。
長い鼻が二つ、家の上へ出てくる。儂は伏見たちを谷へ向かわせ、そちらへ飛んだ。仮面の横へ刀を叩き込むと、隣の一体が口を開く。
狙いは、儂の背後じゃ。
その顎を蹴り上げてから斬った。口から漏れた光が空へ走る。見下ろせば、伏見たちはもう家の間を抜けておる。
間に合う。
あやつらが谷へ下りるまで、ここを空けてやればよい。
*
その谷へ、三つの黒腔が開いた。
儂のいる方へ一つ。下り始めた隊士の横へ一つ。最後は道の先じゃった。先へ送った者を追うつもりか。長い腕が岩へ掛かり、その奥から別の白い顔まで覗く。
儂は道を飛び越え、先の裂け目へ入ってきた頭を斬った。
横から突き出た爪が腹へ刺さる。抜く手間は省いた。刺されたことをなくして、その腕を肩から落とす。崩れた身体を押し退ければ、下りてきた隊士が立ち止まっておる。
「走れ! 谷を抜けるまで、止まるでない!」
男の肩を押し、後ろの虚へ向き直る。
伏見が刀を振っておった。足を痛めた隊士を背へ置き、岩の間へ入ってきたものを斬る。刃が仮面から抜けんうちに、次の腕がその頭へ落ちてくる。
それが振り下ろされたことを、なくす。
元の高さへ戻った腕の下を抜け、儂が首を落とした。伏見はすぐ刀を引き、足を痛めた男へ肩を貸す。
「副隊長。最後の組です!」
「そのまま連れていけ。儂の前へ残るな!」
背中を見送ってから、岩へ手を掛けた。
崩れかけておる。これを通った者の上へ落ちれば、運び出すだけでも手が要る。亀裂が入ったことを取り消し、迫る白い顔へ刀を向ける。
息を吸うと、腹が少し痛んだ。
傷は戻しておる。血も止まっておる。それでも、使うた霊力まで返ってくるわけではない。さっきから同じことを、何度繰り返したかのう。
陽は、既に山へ掛かっておった。
烏有はまだ現世じゃろうか。佐伯のところへ報せが届けば、誰かを寄越してくれるはずだ。じゃが、待つなら谷の向こうで待たねばならん。ここへ新しい者が来れば、儂はそいつを送り出すところから始めることになる。
伏見が、最後の男を押し上げた。
谷の出口から、こちらへ振り返る。儂は刀を持たん方の手を上げ、先へ行けと振ってやる。まだ何か言いたそうじゃったが、隣の男に呼ばれ、ようやく顔が前へ向いた。
これで、出せた。
儂も上がろうと、足を踏み出す。
白い槍が、道へ刺さった。
岩を貫いた先から枝が伸び、伏見たちのいる方へ走る。儂は穂先へ刃を当て、根元から折った。その向こうで、今度は空中へ幾つもの光がともる。
虚閃じゃ。
口も、指もないところへ、赤い光が集まっておる。
儂は左手を上げた。
光が放たれる。谷へ向かった分が届くより先に、その攻撃が放たれたことを取り消す。消えた光の向こうから、また別の槍が来るので、今度は刀で弾いた。
「伏見! その先の組と合流せい! 白い槍じゃ。烏有へ、そう伝えろ!」
声が岩へ返る。
あやつがこちらへ戻りかけるのが見えた。儂はもう一度、今度は刀を向けて道を指す。
「戻るな! 連れて帰る者が、お前の後ろへおるじゃろう!」
伏見の足が止まる。
儂を見る顔が歪んだ。じゃが、すぐに後ろへ向き直り、男たちへ走れと声を上げる。最後の一人を押し、今度こそ谷の向こうへ消えていった。
儂はそちらを見届け、槍の飛んできた方へ顔を戻す。
家の残骸の上に、白い虚が立っておった。
人と変わらん大きさじゃ。痩せた身体を白い殻が覆い、顔には細い縦の裂け目。背中へ畳まれた六本の突起が開くたび、そこから槍が生まれてくる。
報告に描かれておった姿、そのままじゃな。
あやつの周りには、まだ黒腔が開いておる。ギリアンの鼻が覗き、獣の脚が地面へ下りる。ここまで斬ってきた分を、埋めるつもりらしい。
「お前が、鳴瀬を殺した奴か」
白い顔が、儂へ向く。
「名は知らん。大きな刀を持っていた死神なら、殺した」
儂は刀の柄を握り直した。
烏有が連れて帰った男じゃ。あいつはその顔を見てから、随分長い間、口を開かんかった。あの時の話を、こやつの口から聞くことになるとはのう。
「今度は、お前が残るのか」
槍の先が、谷へ向いた。
儂はその前へ立つ。退いた者の背は、もう見えん。追おうとするなら、ここを通らねばならん。
「儂の後ろへは、行かせんぞ」
白い虚の周りで、光が増える。
儂は腰を落とし、刃を正面へ向けた。
帰りの道は、あそこじゃ。
そこへ一匹も通さず斬ればよい。