抱きし骸に 声は失せ
閉ざせぬ胸に 夜は荒ぶ
佐伯が、爺さんの足へ手を添えた。
いつものように怪我人を受け取るつもりで来たのだろう。背中へ回そうとした腕が途中で止まり、俺の顔へ目が戻る。何か聞こうとしているのに、声が出てこない。
「部屋を、空けてくれる?」
佐伯が頷く。その後ろで一人が走り、別の奴が廊下へ置いてあった荷を退け始める。俺が通るところだけ、いつもより広くなった。
爺さんは、自分の部屋へ窓を開けていた。
今日も開いている。朝、出ていく前にそうしたのだろう。机には読みかけの紙があり、隣へ椀が置かれていた。帰ってきたら、続きを読むつもりだったはずだ。
布団へ寝かせる。
肩から腕を抜く時、爺さんの頭が少し傾いた。枕を寄せ、顔が真っすぐになるよう直してやる。そこまでしてから、膝へ置かれていた刀を傍へ下ろした。
「隊長。四番隊へ、知らせております」
佐伯の声が、戸口から聞こえる。
「うん。頼むよ」
まだ治療を頼むのだと思われたかもしれない。俺も、そういうことにしておきたかった。烈が来れば、俺の知らないやり方で目を開けさせてくれるんじゃないかと、ほんの少し考えてしまう。
そんな術があれば、宗玄にも千鳥にも使っている。
胸へ掛けた布を直し、立ち上がる。
佐伯が道を空けた。俺が庭へ出ると、戻ってきた連中が縁側へ集まっている。伏見もそこにいた。包帯を当てられながら、こちらへ顔を向ける。
「隊長、私が……」
そこで、声が詰まった。
俺は頷いてやろうとした。
帰ってきてくれてよかった。爺さんの言う通りにしてくれたんだねぇ。いつも話していたことを、今日もちゃんとやってくれた。
どれも、本当だ。
けれど、口へ出そうとすると、爺さんの声まで聞こえてくる。
儂がそこへ立っておるからといって、最後までつき合わんように。
そう言っていた人が、あの岩へ一人で座っていた。
「……お前さんたちは、休んでて」
それだけ返して、庭の向こうへ歩く。
今、皆の顔を見ていたくなかった。帰ってきた奴へ、帰らなかった人の話をさせたくない。俺が何を聞いても、爺さんが戻る道は見つからないのだから。
ならば、別の道を開けばいい。
『お前様』
ゆめの声がする。
分かっているよ。向こうへ行けば、今夜だけでは済まない。砂原を回り、虚圏中に蔓延る虚を皆殺しにする。その先にも、そのまた先にもいるだろう。
全部、回ればいい。
俺には時間がある。今まで、そう思って旅をしてきた。どれだけ遠くへ行っても、帰れば爺さんがいた。
もう、いない。
「どこへ行く、烏有」
門の前に、先生が立っていた。
俺は歩くのをやめる。白い羽織の向こうへ長次郎も見えたが、先生の顔から目を離す気にはなれなかった。
「虚圏だよ。今なら、まだ今日の群れの続きがいるかもしれない」
「厳十斎のことは、聞いた」
「うん。連れて帰ってきた。部屋にいるから、顔を見てあげてよ」
先生は、道を空けなかった。
「お主は、ここへ残れ」
「……何で?」
自分の声が、少し大きくなる。
残る用事なら、佐伯へ頼める。烈が来れば、爺さんを見てもらえる。俺があの部屋へ座っていても、もう何も治せない。
「今、向こうへ行って、何をする」
「斬るよ。出てくる前に」
「どこまでじゃ」
「いなくなるまで」
先生の目が細くなる。
「それを許すわけにはいかん」
「許してもらうために、ここへ帰ってきたんじゃないよ」
俺は左手を上げる。
指を開くより先に、先生の声が庭へ落ちた。
「ならん。道を繋ぐな」
手が止まる。
先生は、俺を見ている。
止めるのか。
今日も、俺をここで止めるのか。
「……また、待てって言うの?」
喉の奥が痛かった。大きな声を出したせいではない。言おうとしていることが、胸の内側へ引っ掛かって、なかなか出てこない。
「報せが来るまで待って、場所を聞いて、向こうへ行って。着いたら、もう死んでる。先生、それをあと何回やればいいんだよ」
爺さんの血が、指へ残っている。
その手を、先生へ見せてしまった。
「今日、朝には話してたんだよ。帰ったら飯を残してって。あの人、俺が食わないからって、漬物まで取ってさ」
こんな話をするつもりじゃなかった。
先生へ聞かせたところで、何になる。
「それが、もう喋らないんだよ。俺が治しても、名前を呼んでも。先生、俺は……」
息を吸う。
吸った分だけ、胸が苦しくなる。
「もう、連れて帰るだけなんて嫌なんだよ!」
足元の土が裂けた。
*
side:佐伯
隊長の声を、あんなふうに聞いたことがない。
怒鳴られたのだと思い、身を縮めた。誰へ向けられた声かを考えるより早く、膝が折れる。手を地面へついても、腕が身体を支えてくれなかった。
息ができない。
顔を上げなければ。そう思うのに、庭の土しか見えない。縁側から椀の割れる音がして、誰かが伏見八席を呼んだ。
そちらへ行こうとしても、指が動かない。
これは、隊長の霊圧なのか。
隣にいた男の刀が、鞘ごと地面へ落ちる。拾おうとした手が途中で止まり、そのまま額まで下がった。庭へいた者が、誰も立っていない。
私も、立てない。
隊長が刀を抜くところなら、何度も見てきた。虚の群れへ入っていき、こちらを追ってきたものを斬り、怪我人を抱えて戻ってこられる。
その方へ、私たちは任務の報告をしていた。
怖かったです、と話しても、笑われなかった。次はどうするか一緒に考えてくださり、明日また教えていただけると思っていた。
今、あの方の前へ行けない。
名前を呼ぶことさえ、できない。
苦し紛れに顔を上げると、隊長は総隊長を見ておられた。刀は腰へ差したまま。髪も服も、いつもの姿である。
解放すら、していない。
庭を横切る風が、途中から土を巻き上げた。塀へ亀裂が走り、屋根から瓦が滑り落ちる。それでも霊圧は収まらず、遠くで別の建物が軋む音まで聞こえてくる。
隊長、と呼ぼうとした。
声の代わりに、喉から息が漏れる。
あの方がこちらを向いたら、何を言えばいい。
大丈夫です。皆、帰ってきました。
そう伝えたかった。
副隊長のいない人数を、隊長へ報告する勇気が、私にはなかった。
*
side:山本重國
厳十斎を失った。
門へ来た伝令から聞いた時、まず烏有の居場所を尋ねた。十番隊へ戻っていると知り、長次郎を連れてこちらへ来たが、まだ遅かったかもしれん。
庭の者が、次々と伏せていく。
儂は一歩進み、烏有と隊士の間へ霊圧を張った。近くの者が息を吸い直す。その音を聞きながら、こちらへ向いた顔から目を離さずにおく。
これほど怒りながら、まだ刀へ手を掛けておらん。
ならば、言葉を聞くうちは止められる。
「烏有。後ろを見よ。お主の隊士がおる」
「だから、向こうへ行くんだよ」
返事は、すぐに来た。
「こいつらが次に襲われる前に、俺が斬ってくる。先生、それなら誰も送り出さずに済むだろう。もう、帰ってくるかどうか、待たなくていい」
その後ろで、三席が地面へ手をついておる。
儂は長次郎へ顔を向けずに命じた。
「負傷者を下げよ。厳十斎の部屋へも、四番隊の者を通せ」
「承知しました」
長次郎が庭を回る。
儂の張った霊圧の内側へ入った者から、少しずつ身体を起こし始めた。じゃが、烏有の力はまだ増しておる。これ以上は、下がる者へも届く。
無間で見た時には、これを向ける先が決まっておった。
今は、あやつ自身が行く先を決めかねておる。目の前に仇はおらず、腕の中にあった者も、もう返事をせん。
その怒りを、虚圏のすべてへ向けるつもりじゃ。
「お主が虚を斬り尽くせば、三界の均衡はどうなる」
「それは、後で考えるよ」
「後で済む話ではない」
「じゃあ、今考えてよ、先生。俺が斬っても大丈夫なように。俺、もう待ちたくないんだよ」
声が掠れておる。
その顔を見ながら、儂は杖を地面へついた。
「通すわけにはいかん。お主が何と言おうと、ここから先へは行かせんぞ」
烏有の右手が、僅かに動く。
まだ柄へ届いてはおらん。
儂は庭へ伏せる者たちへ、声を掛けた。
「聞け、十番隊の者ども」
三席が顔を上げる。その隣の者も、震える腕で身体を支え直した。
「他隊から侮られておる、お主らの隊長じゃがな。護廷十三隊の全戦力を合わせても、あやつ一人には及ばん」
烏有の目は、儂から動かん。
隊士へ向けて話しておることも、耳へ入っているはずじゃ。それでも、止めてくれとは言わん。
「その力は、
三席の口が開く。
名を知っておるだけでも、その言葉の重みは分かろう。分からぬ者も、今ここで頭を上げられん理由なら、嫌というほど知ったはずじゃ。
「動ける者は、直ちに全隊長を呼んでこい。任務へ出ておる者も、戻せ」
儂は杖を握り直す。
「烏有を、虚圏へ行かせてはならん」
返事をした三席が、立とうとして膝を滑らせた。それでも隣の者へ腕を掛け、二人で身体を起こす。別の席官も壁へ手をつき、門へ向かっておった。
儂は、そちらへ届く圧を押し返す。
この者たちを潰してしまえば、烏有へ残るものまで奪うことになる。
「先生」
あやつが、儂を呼ぶ。
「そこ、どいてよ」
長い付き合いじゃ。
こんな頼み方を、教えた覚えはない。
*
side:京楽春水
伝令が来る前から、誰の霊圧かは分かっていた。
分かっていたから、聞き直したくなった。
烏有隊長が、虚と戦っているんじゃないのか。十番隊へ侵入されたとか、誰かが襲われたとか。そういう話なら、まだ急いで刀を持つだけで済む。
逆瀬川さんが戦死した。
伝令がそこまで言ったところで、僕は庭へ下りていた。
鳴瀬隊長の顔が浮かぶ。
あの人を連れて帰ってくれたのも、烏有隊長だった。布を掛ける前に顔を見せてもらい、僕が動けずにいる間も、隣へ立っていてくれた。
今度は、その人が連れて帰る番になった。
僕は瞬歩で屋根を渡る。
十番隊へ近づくにつれて、足へ掛かる重さが増した。遠くからでも分かるほどの霊圧なのに、近づけば更に先がある。屋根へ下りようとした膝が沈み、そのまま落ちそうになって、隣の壁へ手を掛けた。
前の隊首会で、烏有隊長の霊圧に皆が膝をついたと聞いた。
それを聞いた時には、この人を怒らせてはいけないと思った。刳屋敷さんだって、後から自分の言葉を詫びている。
あれで、全部わかったつもりになっていたのか。
僕は壁を蹴り、門の内側へ入った。
山爺が立っている。
その向こうに、烏有隊長。
刀を抜いていない姿を見て、背中が冷えた。あの人が怒っているのは分かる。分かるけれど、僕の知っている声へどう繋がるのか、顔を見るまで想像できなかった。
今は、見ても言葉が出ない。
いつもなら僕に気づき、来てくれたんだねぇと片手を上げる。その手が、血に濡れていた。
「春水。奥へ行け」
山爺が言う。
「負傷者を下げる者へ手を貸せ。ここには儂がおる」
「……山爺、一人で大丈夫なの?」
言ってから、聞き方を間違えたと思った。
大丈夫なわけがない。
山爺が力で負けるところなんて、僕は見たことがない。それでも、目の前の人を止めるために全隊長を呼んだのは、山爺本人だ。
「卯ノ花が来る。厳十斎のところへ通してやれ」
返事をして、廊下へ回る。
そこで佐伯三席とすれ違った。伝令を出して戻ったところらしく、まだ呼吸が整っていない。彼は僕へ頭を下げようとしたが、途中で庭へ顔を向けてしまう。
「隊長は……」
続きを待った。
けれど、彼も何を聞けばいいか分からないらしい。
僕が知っている烏有隊長なら、優しい人だと答えられる。皆を無事に帰すことを考えて、他隊へまで手を貸してくれる。
だからこそ、今のあの人へ何を言えばいい。
「僕らも、ここにいるよ」
それだけ伝えて、奥へ進む。
部屋へ入ると、逆瀬川さんが寝ていた。
窓が開いている。
風で机の紙が動いたので、近くの椀を載せて押さえた。そうしてから布団へ目を戻すと、もう一度、自分が何をしに来たか分からなくなった。
肩を斬られても、次に見た時には傷がなかった人だ。
副隊長でこの霊圧は反則でしょう、と僕が言ったら、烏有隊長は助かっていると笑っていた。
その人が、こうして寝ている。
庭から、声が聞こえた。
「俺が行けば、終わるんだよ!」
僕は窓へ顔を向ける。
浮竹が門へ入ってきたところだった。いつものように声を掛けようとして、山爺と烏有隊長の間へ目をやる。その後ろに銀嶺さん、別の屋根から刳屋敷さんの姿も見えた。
誰も、すぐには刀を抜かなかった。
相手が虚なら、それでよかった。
僕らが止めなければならないのは、今まで隣で刀を振ってくれた人だ。
*
side:烏有
皆が来る。
京楽、浮竹、銀嶺。門へ入ってくる顔を見れば、誰かは分かる。先生が呼んだから来たのだろう。俺を向こうへ行かせないために、任務の途中から帰ってきた奴もいる。
そんなことに、人数を使わなくていいのに。
虚を斬りに行くのは、俺一人で済む。
「烏有隊長」
浮竹が呼ぶ。
返そうとして、喉が動かなかった。あいつも隊長を亡くしている。京楽もそうだ。それなのに、俺へ声を掛ける時には、まだいつものように顔を見てくれる。
俺は今、その顔に腹を立てそうになっていた。
どうして、止める側へ立てるんだ。
あいつらのことだって、忘れていないだろう。
先生の後ろで、隊士が二人、負傷した男を運んでいく。片方の足がもつれ、もう一人が腰を落として支えた。落とさなかった。そこを過ぎるまで、横にいた奴が庭の方を見ている。
爺さんに教わったことを、今もやっていた。
俺から、怪我人を守るみたいに。
目を逸らす。
先生は、まだ門の前に立っている。あの人を抜ければ、道を開ける。ここからでも虚圏へは行けるのだから、門へ向かう必要さえなかった。
俺が手を上げれば、それで済む。
「烏有」
先生が呼ぶ。
「儂を見よ」
顔を戻した。
杖が地面から離れ、先生の手の中で僅かに傾く。刀を抜くつもりなら、俺にも分かる。ここまで来て、まだ言葉で止めようとしてくれるのだから、待っているのだろう。
俺が、やめると言うのを。
「先生」
腰の刀へ、指を添えた。
近くにいた隊長たちの霊圧が変わる。先生も、杖を持つ手へ力を込めた。
俺はその顔を見たまま、口を開く。
「先生まで、俺の邪魔をするの」
誰も、返事を挟まなかった。
先生だけが、一歩近づく。
「するとも」
その足が、俺の前で止まる。
「今のお主を止めるためなら、儂はここから動かん」