卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

90 / 92


振り上げし刃に 天は降り
帰らぬ人に 夜は閉じる




90.天墜の慟哭

 

 

 先生の刀へ、俺の刃がぶつかる。

 

 抜くところまで見ていた。受けられることも分かっている。それでも押し込むと、先生の足元から石が割れ、庭へ長い溝が伸びていく。門の向こうで誰かが叫ぶ声を、俺は聞かないふりでやり過ごす。

 

「ここで刀を振るえば、お主の隊士が死ぬぞ」

 

 それを言われると、次を出せない。先生の肩越しへ、佐伯が見える。負傷した奴を庇って膝をつき、こっちへ顔を上げようとしている。

 

「……なら、場所を変えようよ」

 

 刀を引き、左手を開く。前に一人で通った荒野なら、家も畑もない。流魂街の外れから更に離れ、夜になっても灯の一つも見えなかったところだ。

 

【千里一重(せんりひとえ)】

 

 開いた道の向こうから、乾いた風が入ってくる。庭の土へ砂が混じり、先生の羽織の裾が揺れる。これなら、もう言われずに済む。

 

「ここなら、止めなくていい?」

 

 先生は答えてくれない。廊下の方へ人の動く気配があり、烈が部屋から出てくるのも分かった。爺さんのところへ行ってくれたのだろう。俺はそちらを見ず、道へ足を向ける。

 

「俺を止めたい人だけ、来て」

 

 誰も来なければ、そのまま虚圏へ行けばいい。来るなら、そこでどいてもらう。足の下が砂へ変わる頃には、後ろから先生の足音が続いていた。

 

        *

 

side:京楽春水

 

 酒でも持ってきたかったな。

 

 荒野へ出て、そんなことを考える。見渡す限り、岩と砂ばかりだ。座る場所なら幾らでもあるけれど、今の烏有隊長へ杯を差し出しても、受け取ってはくれないだろう。

 

 浮竹が僕の隣へ来る。その後ろから銀嶺隊長、刳屋敷さん。向こうへ目をやれば、烏有隊長は道を閉じずに待っている。僕らを待つ時の、いつもの笑い顔はない。

 

「残りも来るよ。閉じないでおくれ」

 

 曳舟隊長が声を掛けると、刀を持つ手が僅かに動く。聞いてはいるらしい。やがて二番隊の四楓院夕月(しほういんゆづき)隊長が抜け、久々津綾臣(くくつあやおみ)隊長たちも続く。最後の灰庭隊長が出たところで、背後の十番隊が見えなくなる。

 

 これで十二人。

 

 相手は、一人。

 

「烏有隊長。まず、刀を下げてくれませんか」

 

 浮竹の声に、あの人が顔を向ける。少しは聞いてくれるかもしれない、と僕まで息を止めてしまう。

 

「お前さんも、止めるんだね」

 

 浮竹は頷く。刀を下げてほしいと頼んだ手で、自分の柄を握り直している。ああ、そうだよね。誰も、ここで行ってらっしゃいとは言えない。

 

「夕月、手を押さえよ。久々津、灰庭は足を止める。ほかの者は、抜ける先へ回れ」

 

 山爺が命じる間に、夕月隊長の姿が消える。烏有隊長の左へ入る速さに、僕も一瞬、目を奪われる。道を開く手を先に押さえようというのだろう。

 

 その手首へ届く寸前、烏有隊長が肘を引く。

 

 空いたところへ刀が入り、夕月隊長は身体を捻って躱す。その肩を掴んだ手が、今度は相手を岩へ叩きつける。砕ける音へ、僕は思わず足を出しかける。

 

〈踏み留めよ、月鞘(つきざや)〉

 

 岩を蹴って戻る夕月隊長が、黒く染まった刀を地面へ刺す。伸びる帯が烏有隊長の影を踏み、前へ出ようとする足を留める。その間に、久々津隊長の刀も形を変える。

 

〈鳴り縛れ、縛鎖鈴(ばくさりん)〉

 

 小さな鈴のついた鎖が、右腕へ巻きつく。鉤が袖へ掛かり、鳴るたびに鎖が短くなる。夕月隊長は刀を置いたまま白打へ移り、左腕を背へ回そうとしていた。

 

「夕月。お前さん、こんな時には速いんだねぇ」

 

 烏有隊長が、そちらを見る。

 

 次には夕月隊長の身体が浮いていた。握られた腕ごと持ち上げられ、地面へ落とされる。影を留める黒い帯が弾け、その先にあった刀まで砂から抜ける。

 

 鈴の音が、急に近くなる。

 

 鎖を握った烏有隊長が、久々津隊長を引き寄せたのだ。受けた刀の脇を刃が抜け、肩から血が飛ぶ。まだ離れない鎖を、あの人は二度目の振りで断ち切ってしまう。

 

〈閉ざせ、檻守(おりもり)〉

 

 九番隊の灰庭朔之進(はいばさくのしん)隊長が、二人の前へ鉄格子を立てる。救うための一枚と、囲むための三枚。更に頭上まで塞ぐところへ、朱い灯が六つ浮かぶ。

 

〈照らし焼け、赫灯籠(あかとうろう)〉

 

 鷺宮朱音(さぎみやあかね)隊長の刀から離れた灯が、檻の周りへ散る。そこから伸びる火の筋が格子の隙間を埋め、内側の袖へ迫っていく。燃える前に、烏有隊長の刀が振られる。

 

 格子が、こちらへ倒れてくる。

 

 僕と浮竹は左右へ跳ぶ。空いた真ん中へ踏み込んだ鬼籠野鉄舟(きごめのてっしゅう)隊長が、大刀を振り上げる。

 

〈轢き砕け、巌車(いわぐるま)〉

 

 刀の背へ生まれた鉄輪が回り、頭上から落ちる刃に重さを乗せる。岩なら地面ごと割れる一撃だろう。それを烏有隊長は刀で受け、横へ滑らせる。足を止められたのは、受けた方だった。

 

 鉄舟隊長の腹へ、膝が入る。

 

 僕はその肩を引き、浮竹が前へ出る。打ち込まれた刃を二本で受けても、あいつの足が砂へ沈む。横から刀を入れれば、烏有隊長はこちらを見ずに手首を返してくる。

 

 袖が裂け、腕が熱い。

 

 浮竹を下げるつもりで入ったのに、二人で退くことになってしまう。背後で曳舟隊長が結界を張る。その壁へ烏有隊長の掌が触れ、割れる音が、僕の耳のすぐ傍まで届く。

 

「破道の九十⸺黒棺(くろひつぎ)」

 

 鷺宮隊長の声に、黒が持ち上がる。今度こそ足を止めるつもりだ。けれど、囲い切る前に烏有隊長が踏み込み、刀を振る。黒い壁が裂け、その向こうへ鷺宮隊長の顔が見える。

 

 間へ入った銀嶺隊長が、刃を受ける。

 

 救えた。そう思う暇もなく、二人の刀が外れ、銀嶺隊長の胸へ赤い線が走る。その肩を曳舟隊長が支え、灰庭隊長の格子がまた間へ入る。

 

 止めるために作った檻を、もう僕らを守るために使っている。

 

「烏有!」

 

 刳屋敷さんが斬り込む。正面からだ。あの人らしい入り方だけれど、今は、もう少し待ってほしかった。刀がぶつかる音の後に、胸を斬られた刳屋敷さんが片足を引く。

 

「こいつらは、貴様を⸺」

「知ってるよ」

 

 烏有隊長は、刃を下げない。

 

「だから、邪魔しないでって言ってるんだ」

 

 知っていて、斬るのか。

 

 腕へ手を当てながら、僕はあの人の顔を見る。いつか宗玄さんへ見つかる前に食べてしまおうと、菓子を分けてくれた顔だ。今は、僕らが退くかどうかだけを見ている。

 

「加減を捨てよ」

 

 山爺の声が、背後から響く。

 

「斬らずに止められる相手ではない。生きて止めるために、全力で掛かれ!」

 

 烏有隊長の口元が、僅かに動く。

 

「俺を止めたかったら、殺しなよ。まぁ、そんなことを許すわけがないけど」

 

 砂が、足元から持ち上がる。さっきまでの力でも、まだ足りないというのか。僕は刀を握り直し、浮竹の隣へ戻る。山爺と卯ノ花隊長が前へ出るのを見て、ようやく息を吸える。

 

        *

 

side:卯ノ花烈

 

 受けた腕へ、重さが残ります。

 

 初めの一撃は右からでした。刃の下へ入ろうとすれば、烏有隊長の膝がこちらへ向きます。身体を外へ逃がし、その内腿へ刀を滑らせますが、これでは浅すぎます。皮膚を割った感触はあっても、踏み込みを奪うには足りません。

 

 総隊長の刀が肩へ下り、烏有隊長がそれを受けます。その間に脇へ入り、肘を狙います。あと少しというところで左手に手首を押され、こちらの刀が外へ流れてしまいます。

 

 ですが、そこまででしたら続けられます。

 

 柄を持ち替え、押された方へ身体も回します。その先で袖が裂け、ようやく深く入ったと分かるだけの血が落ちます。

 

「烈まで、やるんだね」

「刀を納めてくだされば、やめます」

「そっちが先に、やめてよ」

 

 返ってくる刃を受け、足を下げます。踵の下で岩が崩れ、刀を傾けても肩から腕へ響くものがあります。以前に斬り合った時には、こちらが次を選ぶ間まで楽しんでいらっしゃいました。今は、待ってくださいません。

 

 離れれば詰め、受け直すより早く次を振るわれます。首へ向いた刃を流すところで、右の脇腹が熱くなります。手を当てる前に総隊長が間へ入り、燃え上がる刀で烏有隊長を押し返してくださいます。

 

 こちらも、早く戻らなければなりません。

 

 傷を塞ぐ間に、総隊長の腕へ切れ目が増えています。私が治療を続ける分だけ、あの方に受けていただくことになります。流刃若火の炎が横へ広がり、その先から抜けようとする烏有隊長を、総隊長が追っていらっしゃいます。

 

 私たち二人を相手にしながら、まだ先へ行くことを考えていらっしゃるのでしょう。

 

 誰も戻せないと知った部屋へ、もう戻りたくないのかもしれません。あの部屋へ残る方を診た私にも、それは分かります。ですが、その先へ行かせてしまえば、止めようとする者へ、今度は何をなさるのでしょう。

 

「烏有隊長」

 

 立ち上がり、刀を構え直します。こちらへ向けられた目を見ながら、告げなければならないことを口へ出します。

 

「私も、厳十斎を戻せません」

 

 今度は、正面から刃が来ます。

 

 逃がさずに受け、私も踏み込みます。ここで退けば、先ほど部屋で確かめたことから目を逸らしたまま、あの方を送り出すことになります。

 

        *

 

side:山本重國

 

 左の炎を抜け、烏有がこちらへ来る。

 

 袖は燃えておる。その下の腕も焼けておるはずじゃが、止まらん。肩へ刀を入れようとした儂の刃を弾き、そのまま胸へ振ってくる。

 

 受ければ、足が沈む。

 

 踏み直して押し返す間に、卯ノ花が脇から入る。烏有はそちらを受け、儂へは左手を向けた。指先に集まる霊力を刀で払い、空いた腹へ刃を通す。

 

 その手が、儂の刀を掴む。

 

 腹へ入った刃を抜かせず、右の刀を返してきおる。胸が開き、羽織へ血が散る。こやつ、儂が受けると思うたな。自分へ刃を残したまま、こちらを斬りに来るとは。

 

「退け、烏有!」

 

 霊圧を乗せて押す。卯ノ花がその手を斬り、ようやく刃が離れる。烏有は砂を滑り、腹へ手を当てる間もなく刀を構え直しておった。

 

 卍解させるどころではない。

 

 儂らの血が、既にこれだけ地面へ落ちておる。解放前の身体と刀だけで、皆が揃うた陣を抜け、儂と卯ノ花へも傷を負わせる。

 

「総隊長、もう一度、こちらへ!」

 

 久々津が叫ぶ。肩へ布を巻き、切れた鎖を繋ぎ直したらしい。灰庭の格子が烏有の背へ立ち、夕月も刀を砂へ戻しておる。倒されても、それぞれ戻ってきたか。

 

 ならば、もう一度じゃ。

 

 儂と卯ノ花で両腕へ斬り込み、下がる先を鎖で塞ぐ。地面へ影が留まり、左右から格子が重なる。曳舟の結界まで外へ張られたところで、烏有の足が止まる。

 

「刀を放せ!」

 

 烏有が、儂を見る。

 

 次には、檻の中から霊圧が噴き上がる。

 

 格子が曲がり、鎖が千切れる。儂は刀を前へ立て、吹き飛ばされた夕月の前へ入る。卯ノ花も下がる鉄舟を支え、砂へ顔を打ちつける前に引き起こしておった。

 

 崩れた檻の向こうで、烏有が手を上げる。

 

 まだ、行くつもりか。

 

 止めるために足を出したところで、頭上から別の霊圧が下りてくる。見上げずとも分かる。こちらの騒ぎが、ついにあそこまで届いたのじゃ。

 

「皆、下がれ! 降りてくるぞ!」

 

 春水が浮竹へ腕を貸す。灰庭も久々津を引き、曳舟が銀嶺を連れて離れる。その先へ、大きな柱が空から落ちてくる。

 

 天柱輦(てんちゅうれん)。

 

 巻き上がる砂の向こうへ、筆を担いだ男が現れる。後ろにも白い衣が見えたが、まずこちらへ歩いてきたのは、兵主部一兵衛その人じゃった。

 

「……お越しになられたか」

「霊王の命じゃ。随分と、やったのう」

 

 和尚の目が、烏有へ向く。儂は二人の間から退かず、刀を握り直す。

 

「和尚も、止めるの」

「そうじゃ。おんしを止めに来た」

 

        *

 

side:烏有

 

 空からまで来るんだね。

 

 和尚の後ろへいる顔を見ても、名前はすぐに出てこない。前に見たような気もするけれど、今は、どちらでもよかった。先生たちと同じように、俺の前へ立つのだろう。

 

「虚圏へ行くだけだよ」

「そこで、すべての虚を斬るつもりじゃろう」

「先生から聞いたの」

「おんしの力が荒れれば、上でも分かる」

 

 そういうものか。知らなかったよ。なら、行ってからも来るのかな。砂原のどこかで俺を見つけ、また刀を納めろと言うのだろうか。

 

「刀を納めよ。これは霊王の命じゃ」

「納めなかったら?」

「わしらが、止める」

 

 刀を持つ手へ、力を込める。

 

 指が滑る。柄へ血がついているからだ。爺さんを抱いた時から、ずっとそうだった気がして、握り直してしまう。けれど、手首からも新しく血が落ちている。

 

 先生が、まだ前にいる。

 

 和尚が来たのだから、もう任せればいいのに。その胸へ赤いものが広がっていた。腕にも傷がある。刀を握る指まで濡れているのが見え、俺はようやく左手を下げる。

 

「先生、怪我してるよ」

「誰が斬った」

 

 答えようとして、口が止まる。

 

 俺だ。

 

 俺が斬った。どいてくれなかったから、刀を入れた。その後も先生が前へ出るたび、また斬ればいいと思っていた。

 

『お前様。こちらを、ご覧なんし』

 

 ゆめに呼ばれ、先生の後ろへ目を向ける。

 

 京楽が浮竹の腕を押さえていた。銀嶺は胸へ布を当て、曳舟がその横へ座っている。倒れた格子の傍で、久々津が肩を押さえたまま俺を見ていた。夕月は片膝をつき、砂から抜いた刀を杖のように使っている。

 

 皆、俺が通ったところにいた。

 

 そこから動いてくれたので、ようやく道を開けると思っていた。どうして動いたのかまで、見ようとしていなかった。

 

「……死んでない?」

「今は、誰も」

 

 烈の声がする。その人の脇腹にも、血がついている。俺が斬ったところだ。爺さんを戻せないと言われて、聞きたくなくて、刀を振った。

 

「これ以上、儂らを斬るか」

 

 先生に聞かれて、首を振ろうとする。すぐには動かない。刀を下げれば虚圏へ行けなくなる。そのことを、まだ考えてしまう。

 

 でも、このままなら。

 

 次には、ここにいる誰かを連れて帰ることになる。

 

 俺が斬った人を、俺が抱えて。佐伯へ部屋を空けてくれと頼んで、また同じように布団へ寝かせる。

 

「……俺、帰ってきてほしかったんだよ」

 

 刀の先が下がる。先生が一歩近づいても、今度は振り上げられない。

 

「皆を帰してくれたのは、分かってる。ちゃんと、やってくれた。俺が頼んだこと、全部」

 

 喉が詰まる。それでも、今度は言わなければならない気がする。皆を逃がせたからよかったと、俺が言えなかったことだ。

 

「でも、爺さんも帰ってきてほしかった。俺、あの人も一緒がよかったんだよ」

 

 先生の足が止まる。刀へ掛けた手を動かさず、俺の顔を見てくれる。朝にはあった爺さんの声を、先生へ話したくなる。先に食っておけとか、漬物まで減らすなとか。そんなことしか、もう出てこない。

 

「刀を、納めよ」

 

 鞘の口へ刃を合わせる。手が震えて、うまく入らない。もう一度合わせ直し、柄が戻るところまで押すと、足から力が抜けてしまう。

 

 砂へ膝をつく。

 

 先生が俺の刀へ手を伸ばす。差し出せと言われる前に、帯から外して渡す。持っていれば、また手を掛けるかもしれない。今は自分でも、それを大丈夫だと言えなかった。

 

「俺も、治すよ」

「動くな」

 

 立とうとした肩を、先生に押さえられる。烈が皆の方へ戻るのを、俺はそのまま見送る。手伝いたかった。でも、俺が近づけば、また誰かが刀へ手を掛けるかもしれない。

 

「お主を拘束する。処分が決まるまで、牢へ入ってもらうぞ」

 

 先生の声が、頭の上へ落ちる。

 

 俺が皆へ刀を向けたことを、なかったことにはできない。先生の命も聞かなかった。ここで斬った誰かが、明日、目を開けるかどうかも、まだ確かめてもらっている。

 

「……分かったよ」

 

 両手を出すと、灰庭がこちらへ来る。さっきは折ってしまった格子と同じ色の鉄が、手首を囲む。夕月も隣へ膝をつき、そこへ封を重ねる。二人とも、俺が動くかどうか見ている。

 

 動かないよ。

 

 もう、斬らないから。

 

「先生」

 

 立たせてもらう前に、呼び止める。先生は刀を預ける手を止め、こちらへ顔を向けてくれる。

 

「爺さん、まだ部屋にいるから」

 

 窓が開いている。机へ紙がある。あのまま俺だけ出てきてしまった。佐伯が見てくれているとは思うけれど、今、誰がそこにいるのかも分からない。

 

「……一人に、しないであげて」

「分かっておる」

 

 先生が頷く。

 

 その返事を聞いてから、俺は差し出された腕へ手を添える。支えてくれた夕月が、傷ついた方の肩を僅かに引く。そちらへ触れないようにして立つと、周りの者たちが、ようやく刀を下げ始める。

 

        *

 

 牢の戸は、思ったより静かに閉まる。

 

 大きな音がするものだと思っていた。けれど、鉄が重なり、鍵が回るだけで、俺のいるところと廊下が分かれる。明かりは外にあり、座ると格子の影が膝へ落ちる。

 

 手首へ、まだ鉄がある。

 

 外そうと思えば、外せる。その向こうの戸も、壁も。さっき皆が作ったものを、俺は同じ手で壊してきた。

 

 今は、その手を膝へ置く。

 

「もう、何もしない」

 

 廊下にいた者が、こちらを見る。返事はなかった。俺も、何を言ってもらいたかったのか分からない。ただ、そこへ立つ奴が俺から目を離さないことだけは、よく分かる。

 

『お前様』

「……いるんだね」

『ええ。ここに』

 

 腰へ刀はない。それでも、ゆめの声がする。いつもなら会いに行く前に顔くらい洗うのだけど、今日は爪の間まで血が残っている。手を隠す場所もなく、指を丸めて膝へ寄せる。

 

 明日、皆へ何を言おう。

 

 京楽へ、浮竹へ。傷はどうだいと聞くのか。烈が治してくれたならよかったと、俺が言うのか。いつものように声を掛けたところで、皆がいつものように返してくれるとは思えない。

 

 佐伯にも、伏見にも、まだ帰ってきてくれてよかったと言っていない。

 

 言えるうちに、言えばよかった。

 

「ゆめ」

『はい』

「爺さん、もう帰ってこないんだね」

 

 返事を待つ間に、廊下へ顔を向ける。ここまで来て、何をしておると叱られるところを思い浮かべてしまう。飯は食ったかと聞かれて、まだだよと返せば、まず食えと言われる。

 

 宗玄に、また叱られるよ。

 

 そう言って笑う相手も、もういない。

 

『……ええ』

 

 ゆめの声を聞いて、ようやく顔を伏せる。廊下で足音が遠ざかり、代わりの者が持ち場へつく。俺を一人にしないためではないと分かっているのに、その音まで待ってしまう。

 

 今夜は、どこにも行かない。

 

 行けないことにしてもらった場所で、俺はようやく、爺さんを呼んで泣いた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。