閉ざせし戸に 春は巡り
預けし袖に 道は残る
先生の胸へ巻かれた布が、襟の下から見えている。
そこを見ていると、話の途中でも目が下がる。斬った時には、あの人が退いてくれればいいと思っていた。今は座り直すたびに着物が擦れるだけで、傷へ響いていないか気になってしまう。気にしたところで、俺がつけた傷なのだけど。
「五十年じゃ」
先生が置いた紙へ、目を戻す。
禁錮五十年。隊長としての職務は停止。斬魄刀は預けたまま、外へ出ることも許されない。皆へ刀を向け、総隊長の命に背き、止めに来た者まで斬った。その一つずつを読み上げる声に、俺は頷く。
五十年なら、長くない。
山を歩いているうちに過ぎたこともある。湯へ浸かり、鬼道を作っていたら、倍も経っていたことだってあった。なのに今は、その間に十番隊へ何人入るだろうと考えている。
俺を知らない子が来る。
知っている奴も、いなくなるかもしれない。
「……皆の怪我は?」
「命に別状はない。任務へ戻るには、まだ日を要する者もおる」
先生の腕へ、また目が向く。
「先生も?」
「儂のことより、自分が何をしたか考えよ」
顔を上げる。そう言った口元へ、疲れが残っているように見えた。俺を止め、皆を運ばせ、爺さんのところへも行ってくれた。その後には、俺の処分を決める話まである。
この人の用事を、俺が増やしている。
「厳十斎は、送ったぞ」
指が、膝の上で止まる。
先生は紙を畳まず、俺が顔を戻すのを待ってくれた。佐伯たちが立ち会い、帰ってきた者も顔を見たという。伏見は、最後まで傍へいたらしい。
「……俺も、行きたかったな」
「行かせるわけにはいかんかった」
頷いてから、息を吐く。
分かっているよ。あの夜、先生が言ったことは何も聞かなかった。今になって爺さんを送りたいと頼んだところで、また自分の頼みだけ通してもらうことになる。
「一人じゃ、なかった?」
「皆がおった。お主が連れて帰った者もな」
膝へ置いた指を、ゆっくり開く。
爺さんなら、何人も集まっておる暇があるなら飯を食えと言っただろうか。それとも、伏見の怪我を見て、まだ立つなと座らせたかもしれない。
そんなところばかり、よく覚えている。
「佐伯に、会えるかな」
「何を話す」
先生の目へ、顔を向ける。
皆は元気か。伏見は歩けるか。台所で、まだ俺の分まで炊いていないか。聞きたいことは幾つもあった。けれど、それより先に、言わなければならないことがある。
「謝りたい。帰ってきた子たちへ、俺、何も言わずに出てきちゃったから」
「ほかには」
「隊のこと。……誰が、見てくれるの?」
先生が紙から手を離す。
「佐伯を副隊長に据える。お主が戻るまで、隊長代行も任せるつもりじゃ」
「佐伯に、五十年も?」
思ったより大きな声になる。
先生は、答えなかった。
俺も口を閉じる。長いねぇ、と言おうとしたのだ。五十年も一人で預かるなんて、大変だろうと。そうして預けなければならなくした本人が、向かいに座っている。
「本人とは、話したの」
「話した。引き受けると申しておる」
佐伯なら、そう言うだろう。
爺さんが帰ってこなかった夜にも、俺へ部屋を用意してくれた。担架が入れば道を空け、誰かが怪我をすれば四番隊へ走らせる。俺が庭を出ていく間も、あいつは残った者を見ていた。
そこでまた、頼もうとしている。
あいつなら大丈夫だと、思いかけている。
「先生。佐伯が困ったら、話を聞いてあげて」
「お主に言われずとも、聞く」
「……うん。そうだねぇ」
返事をすると、先生が立つ。俺も腰を上げかけたが、格子の向こうへ行く用事はない。膝へ手を戻すまで見届けてから、先生は廊下へ足を向ける。
その背へ、声を掛けた。
「俺が戻るまで、隊長は替えないの?」
「戻ったお主を、そのまま座らせるとは言っておらん」
先生が、振り返る。
「五十年、考えよ。何を預かっておったのかをな」
*
佐伯は、二冊持ってきた。
隊の報告だと思ったら、片方は席官の名簿だった。格子の手前へ座り、こちらからも読めるところへ広げてくれる。見慣れた名前の脇へ、今までと違う数字がある。
副隊長、佐伯。
三席、
槇島が三席か。
俺が留守の間には、佐伯の代わりに若い子の荷を見てくれるのだろう。榛名も、あの顎の傷は塞がったかな。伏見の名前へ来たところで、谷から戻った時の顔が浮かぶ。
「伏見は、もう動ける?」
「歩いております。ただ、任務へはまだ出していません。四番隊からも、もう少し休ませるようにと」
「うん。……佐伯、お前さんは?」
こちらを見る顔が、僅かに強張る。
俺が動いたからかと思い、膝へ手を置き直した。佐伯はそれに気づいたらしい。目を下げ、何か言おうとしてから、名簿の端を揃える。
「私は、戻っております。傷も問題ありません」
「そっか。よかった」
あの庭で、こいつも地面へ伏せた。
俺が声を掛けるたび、また同じ霊圧が来るのではないかと思うのだろうか。そう思われても仕方がない。今はもう大丈夫だと言って、信じてもらえるようなことをしていない。
「佐伯。帰ってきた皆にも、伝えてくれるかな。俺が怖い思いをさせたって。……すまなかったって」
「隊長」
「爺さんのことを、皆のせいにはしてないよ。伏見も、ちゃんと帰ってきてくれた。あの人が頼んだ通りに、俺へ知らせてくれたんだから」
佐伯が頷く。それを見て、ようやく少し息が入る。
「でも、帰ってきてよかったって、言ってやれなかった。俺があんな顔をしてたら、戻るんじゃなかったと思う子も、いるかもしれないねぇ」
「……伏見は、副隊長の最後のお言葉を、何度も話しておりました。ほかの者も、覚えているところを聞かせてくれています」
「そう」
俺には、まだ聞いていない話がある。
爺さんが最後に何を言ったか。谷へ出る時に、誰の荷を持たせたか。顔を見ていたくないなどと思わず、座って聞けばよかった。
「今度、教えて。お前さんが聞いた分だけでも」
佐伯は返事をして、もう一冊を開く。
巡回へ出す人数と、戻ってきた組の報告だった。東の範囲を狭め、隣の隊へ一部を頼んでいる。槇島を西から戻し、代わりに鷺坂が出た。榛名は隊に残して、任務へ加える子たちの稽古を見てもらうという。
俺なら、東へ自分で行っただろう。
それから西にも顔を出し、帰りに北を見てきたかもしれない。そこまで考えて、紙へ伸ばしかけた指を止める。
今、行くのは佐伯たちだ。
俺が歩けば済んだ道を、同じように歩かせてはいけない。
「東を減らす話、向こうは聞いてくれた?」
「はい。ただ、交代する日を揃えてほしいと。こちらだけ先に戻ると、その間の集落を見る者がいなくなるためです」
「じゃあ、帰りを半日ずらそうか。合流するところで一緒に動けば、置いてく区間が減るよ。……お前さんは、どうするつもりだった?」
佐伯が、別の紙を出す。
そこには、同じ道を通る二組の時刻が並んでいた。半日早く出る方と、遅く戻る方。俺が今思いついたことを、既に向こうの隊と話している。
「それでいいねぇ」
紙を眺めながら、口元へ手をやる。
俺に聞かなければ分からないと思っていたわけではない。けれど、こちらが口を開く前に話が済んでいると、少し寂しい。助かるよ、と言うべきところで、自分の出番まで探してしまう。
困った隊長だねぇ。
「このまま、進めて。返事を待たせなくていいよ」
「承知しました。では、明日のうちに⸺」
「佐伯」
呼び止めると、筆を持つ手が止まる。
俺は名簿へ、もう一度目を落とす。副隊長と書かれた名前の下に、皆が並んでいる。五十年、あいつはこの顔を見て送り出すのだ。
「俺がいない間、皆を頼むよ」
言い終わる前に、爺さんの声が浮かんだ。
あの人にも頼んだ。俺のいないところを見て、皆を連れて帰ってほしいと。引き受けてもらって、安心して、自分は別のところへ出た。
佐伯が頭を下げる。
「はい。必ず⸺」
「待って」
顔を上げてもらう。
必ず帰します、と言わせたくなかった。言うつもりではなかったかもしれない。それでも、今の俺はそこまで聞くのが怖い。
「お前さんも、人数に入ってるからねぇ。最後に残って、皆が戻れば済んだなんて思わないで」
佐伯が俺を見る。
爺さんだって、自分だけ死ぬつもりで出たのではないだろう。生きて帰るために斬って、傷を戻して、その分がなくなるまで戦った。ここで言葉を足せば防げたなどと、俺には言えない。
それでも、言わずに任せることはできなかった。
「迎えを呼ぶなら、お前さんがまだ刀を振れるうちに。怪我したら、槇島でも榛名でも、隣の奴へ渡して。隊長代行になったからって、全部自分で持たなくていいよ」
「……はい。皆にも、同じように伝えます」
「うん。俺にも、教えて。どうやって帰ってきたか」
佐伯が頷き、報告を閉じる。
それで立つのかと思ったが、今度は薄い紙を取り出した。細かな字で幾つも書いてある。任務の話ではないらしい。上にあるのは、使える鬼道の名前だった。
「総隊長から、許可をいただいております。こちらで、お教えいただける範囲のことを」
「……稽古?」
「はい。隊長から習っておきたいことが、まだありますので」
まだ、習いたいのか。
あの夜、俺を見て立てなくなった奴が。怖かったですと話してくれた時のように、今もこちらへ紙を出してくれる。
受け取ろうとして、格子へ手が当たる。
佐伯が寄せてくれたので、指の間へ通してもらう。紙の真ん中に、
「これ、最初にやろうか」
「拘束する術を、ですか」
「縛るだけじゃないよ。落ちかけた奴を引く時にも、担架を支える時にも使える。お前さん、両手が塞がってから困ることが多いだろう」
佐伯が、自分の手へ目を落とす。
袋を結び直し、負傷者を担ぎ、俺が戻るまで傷を押さえていてくれた手だ。もう一本あればと思うなら、その代わりになるものを教えられる。
「卍解も、やろうねぇ」
顔が上がる。
「五十年、それだけで終わらせるつもりはないけど。お前さんが誰かを待つ時、少しでも余裕ができるように。刀のことも、鬼道も、教えられる分は全部教えるよ」
「ですが、ここでは」
「刀を振る場所は外にあるだろう。試して、分からなかったところを持ってきて。俺は、聞くから」
すぐにできるなどとは言わない。佐伯の刀は、佐伯が向き合わなければならない相手だ。俺が九つ願って済ませてやるようなものでもない。
ただ、一人で迷わせずにいることはできる。
「戻ったら、俺も一緒に振るよ。それまでに、先生にも見てもらってねぇ。あの人の稽古は、逃げ方も覚えないと大変だから」
「……存じております」
佐伯の口元が、少し動く。
笑ったのか、困ったのか。どちらでも、さっきより顔が見えた。
*
最初の糸は、帰り際に切れた。
廊下へ置いた湯呑を持ち上げ、こちらへ寄せるところまではできたらしい。けれど、佐伯が立った途端に白い輪が緩み、湯呑が傾いた。慌てて自分で受け止め、持ってきた盆へ戻している。
「動く方を、忘れてたねぇ」
「はい。持ち上げたところで、止めてしまいました」
「次は歩いてみて。お前さんが歩いても、湯呑が揺れないくらいに。中へ湯を入れるのは、それが済んでからでいいよ」
頷いた佐伯が、紙へ何か書き足す。
俺は格子へ寄りかけた身体を戻した。今のところを手で直してやることはできない。指の曲げ方を見て、力を収めるところを話して、あとは本人が試すのを待つ。
ずっと、待つ方になるのだな。
帰ってきた子の顔を数えた日も、戻らない名前を消した日も、待つのは嫌だった。自分で行けば早い。自分で斬れば負傷者が減る。そうして出ていった先から戻るたび、別の報せが机にあった。
佐伯は、明日もそこへ座る。
俺の代わりに。
「次は、いつ来られる?」
「三日後に伺う予定です。それまでに、こちらも試しておきます」
白縫の紙を示してから、名簿をしまう。
俺は、気をつけてねぇと声を掛けた。任務へ出る話はしていないのに、そう言ってしまう。佐伯も問い返さず、いつものように頭を下げてくれた。
足音が遠ざかるまで、廊下を見ている。
『お前様。ようお話しになりんしたな』
「うん。怖がらせちゃったのにねぇ。まだ、教えてくれってさ」
膝へ、佐伯の書いた紙を広げる。
白縫の下には、幾つも名前があった。俺が使うところを見て、覚えておいてくれたのだろう。昔は何をしているのか分からず、刀を抜くところだけ追っていた子が。
「俺、あいつに教えたいこと、随分あったんだね」
使える術を増やしてやりたい。誰かの刀を受ける時に、もう一つ選べるものが欲しい。下がる道へ爪が届くなら、その手前で止められるように。
考えていると、次から次へ出てくる。
それでも、これを全部覚えれば死なないとは、もう言えなかった。
『お戻りになるまでに、紙が足りなくなりんしょう』
「そうだねぇ。佐伯に、持ってきてもらおうかな」
返事をしてから、指で紙の端を伸ばす。
三日後には、またここへ来るという。
その時、俺はここにいる。どこへも行かず、あいつが持ってくる話を聞く。うまくできたところも、まだできないところも。隊で誰が何を言ったかも。
爺さんに話を聞いてもらった日を、思い出す。
石ばかり眺めていた俺へ、芋でも食うかと声を掛けた人だ。急いで答えを教えるより、隣へ座らせてくれた。俺がまた聞きに来るまで、山で待っていてくれた。
俺にも、それができるだろうか。
まだ、分からない。
けれど、次に佐伯が来た時に話すことなら、今夜のうちに用意できる。
白縫と書かれたところへ指を置き、俺はゆめと、糸の結び方から話し始めた。