去りし袖にも 春は巡り
帰りし声に 夜はほどける
side:佐伯
隊長の机は、思っていたより広い。
その端へ巡回の報告を置き、隣へ派遣の予定を並べても、まだ空いている。あの方はここへ肘をつき、帰ってきた者の話を聞いておられた。私が紙を一枚ずつ広げて説明する間にも、別の者が戸口へ顔を出す。隊長はそちらへ手を上げ、まず怪我の有無を尋ねてから、私の話へ戻ってこられる。
今は、その戸口から私が呼ばれる。
「佐伯副隊長。北の交代ですが、二人を外さなければなりません」
「四番隊へ?」
「はい。昨日のうちに診てもらうよう、鷺坂五席から。本人たちは出られると言っておりますが」
槇島三席へ頷き、北へ出す名前を確かめる。交代する組は、既に一日長く待っていた。その二人を外せば、担架を運べる者が足りなくなる。
私が行けばいい。
そこで筆が止まる。昨日、東の増援を引き受けたばかりだった。そちらにも私を待つ者がいる。先に北へ寄り、合流を確かめてから東へ向かう。隊長なら、そのくらいのことはなさっただろう。
私には、同じ速さで走れない。
「槇島三席。北へ出る組を、もう一度呼んでください。向こうへも、人数が変わると知らせます」
「承知しました。東は、予定通りでよろしいですね」
「はい。……そちらは私が行きます」
任務を受け持つ範囲を狭めてもらい、合流する場所を近くへ変える。向こうで待っていた指揮役から、もう少し早く知らせてほしかったと返ってきた。
その通りだった。
できる形へ直す前に、私が何とかしようとしていたのだ。隊長がいらした時の紙を眺め、人数だけを揃えれば同じように動けると思いかけていた。
隊長代行になって、一月。
あの方がいない分を埋めるには、私も少しは近づかなければならない。そのつもりで稽古へ出て、帰れば机へ座り、気づくと夜になっている。槇島三席が報告を預かると言ってくださった時にも、最後まで目を通してから渡そうと答えてしまった。
隊長から言われたことを、既に忘れかけている。
全部、自分で持たなくていい。
翌日の面会へ、その紙も持っていった。
「怒られたの?」
「はい。向こうの指揮役から、連絡が遅いと」
「そっか。じゃあ、次は早く言ってあげないとねぇ」
格子の向こうで、隊長が紙を覗く。いつもの声なのに、こちらが顔を上げると、少しだけ目が下がった。私の襟に残った包帯を、まだ気にしておられる。
「北へも、自分で行こうとしました」
「うん。俺も、行こうとしたと思うよ」
「ですが、東の増援がありましたので」
「そこまで一緒だねぇ」
笑われたわけではない。隊長も困った顔をして、地図へ指を添えておられた。この道をどう繋げば早いか、そんなことを考えておられるのだろう。
やがて、その指が紙から離れる。
「お前さんが直した方で、話は済んだんだね」
「はい。予定より遅れましたが、交代できました」
「なら、そのやり方を覚えとこう。俺がいた時のままじゃ、困るところもあるだろうから」
返事をして、もう一冊を開く。白縫で持ち上げたものを、歩きながら運ぶ時の記録だった。人を担いだ時には、足元ばかり見てしまう。前を確かめようとすれば、今度は糸へ込めた霊力が乱れる。
隊長は、そこから先を急がせなかった。
「一人で二人運ぶところまで、まだやらなくていいよ。今は隣の奴と持って、お前さんが手を離しても落ちないようにしてみて」
「隣の者へも、白縫を教えるのですか」
「そう。できるところまででいいからねぇ。お前さんが全部上手くなるのを待つより、持ってくれる手が増える方が早いよ」
帰り道で、槇島三席に教える順番を考えた。
隊長へ近づくために、来たつもりだった。
まず隣に誰を立たせるか、そこからやり直すことになった。
*
side:伏見小夜
隊長へ会いに行けるようになるまで、五年も掛かってしまった。
許可が出なかったわけではない。佐伯副隊長から、何度も誘っていただいている。歩けるようになったと伝えておきました。任務へ戻ったことも、お話ししました。そう聞くたびに礼を言って、私は次の派遣へ手を挙げた。
忙しいから、今度にする。
五年もあれば、今度は幾らでもあったはずなのに。
あの夜の霊圧を思い出すと、足が止まる。けれど、それ以上に怖かったのは、隊長へ副隊長の話をすることだった。私だけが逃げてきたわけではない。それでも、最後に伝えろと言われたのは、私だ。
戻るな。
後ろに、連れて帰る者がいる。
その声を聞いたまま、私は帰った。振り返らずに谷を抜け、隊へ着いてから、ようやく隊長の袖を掴んだ。
今度は、自分の足で廊下を歩く。
隣には佐伯副隊長がいる。ここへ来る前に、何を話せばよいか尋ねたら、話せることからでいいと答えてくださった。隊長も聞きたいことがあるそうです、と。
格子の前へ座ると、隊長がこちらを見た。
「伏見。足、もう平気?」
「はい。任務へも、戻っております」
「うん。佐伯から聞いてるよ。……来てくれたんだねぇ」
その一言で、持ってきた話の順番が分からなくなる。
副隊長が最後にどこへ立っていたか。誰を先に下がらせたか。増援を呼ぶよう命じられた時、まだ刀へ血潮が流れていたこと。忘れないように、何度も紙へ書いた。
先に、それを渡そうとした。
「今日は、置いといてもいいよ」
「ですが、副隊長のことを」
「うん。聞かせてほしい。でも、お前さんが今、何をしてるかも聞きたいんだよねぇ」
紙を持つ手へ、目を落とす。
私は六席になった。若い隊士を連れ、巡回へ出るようにもなった。道を覚えさせ、負傷した者を帰し、残る人数で続けるかどうかを決める。
その話を始めると、隊長は途中で何度も尋ねてくださった。
何人連れていったのか。最初に怪我へ気づいたのは誰か。こちらが声を掛ける前に下がれた者はいたか。任務の報告なら副隊長から聞いているはずなのに、私が何を見てきたかを待っておられる。
「一人、帰るのを嫌がった者がおりました」
「怪我してたの?」
「はい。腕を上げるのも難しそうでしたが、仲間を残しては帰れないと」
「……お前さんは、どう言った?」
「一緒に運ぶ者がいるから、そちらを頼むと。その者の足は動いておりましたので」
隊長の口元が、少し緩む。
「うん。それなら、帰る用事ができるねぇ」
「厳十斎副隊長が、私へ仰ったことです」
言ってから、顔を上げた。
隊長は笑わなかった。私の手にある紙を見て、それからゆっくり頷いてくださる。
「爺さんのこと、覚えててくれたんだね」
はい、と答えようとして、声が揺れた。
あの日、ほかにも言われたことがある。道の途中で倒れている者がいれば、先に担げ。報せだけを持って戻るつもりで走るな。儂のところへ帰る暇があるなら、そちらを連れていけ。
全部覚えている。
覚えていたから、その通りにした。
「私、戻ってもよかったのではないかと、今でも」
「伏見」
顔を上げる。
隊長の手が、膝の上へ揃えられていた。こちらへ触れられない場所で、指を静かに重ねておられる。
「帰ってきてくれて、よかったよ」
息を吸おうとして、うまくいかなくなった。
「爺さんが任せた人たちを、お前さんが連れて帰ってくれた。今は、お前さんに連れて帰ってもらう子もいる。……俺、あの日に言わなきゃいけなかったんだよねぇ」
持っていた紙へ、雫が落ちる。慌てて袖を寄せたが、隊長は読もうとなさらなかった。佐伯副隊長も、隣で待っていてくださる。
五年も掛かった。
それでも、聞けた。
帰ってよかったと、あの方の声で。
落ち着いてから、紙を広げた。副隊長が谷へ向かう前に、若い隊士の荷を持ち直させていたこと。足を庇っていた者へ、後ろから行けと言っていたこと。
隊長は、一つずつ聞いておられた。
私の知らない副隊長の話も、少しだけしてくださった。山で暮らしていた頃には、畑の芋を食べるために、こちらの話を切り上げようとなさったらしい。
「それ、聞いたことがあります。隊長は石ばかり見て、飯を忘れると」
「そんなことまで言ってたのかい」
困ったように笑う顔を見て、私も、少し笑えた。
*
side:京楽春水
十番隊の子に、お礼を言われた。
合同巡回の帰りだ。負傷者へ肩を貸していた子が、門の前で立ち止まり、僕へ頭を下げる。八番隊が道を見ていてくれたので戻れました、と。そこまではよかった。
「うちの隊長も、京楽隊長なら安心して頼めると仰っていたそうです」
そうです、か。
その子は、烏有隊長を知らない。入った時には、もう牢へおられたのだろう。佐伯君か、ほかの席官から聞いた言葉を、そのまま僕へ渡してくれたらしい。
あの人がいなくなって、十二年。
こちらはまだ、十番隊へ寄れば会えそうな気がしている。
「元気にしてるのかな、君の隊長」
「佐伯副隊長が、先日お会いになったと。稽古の記録を、お持ちになっていました」
「へえ。じゃあ、僕も顔を見に行こうかな」
「……京楽隊長は、怖くないのですか」
尋ねた途端、隣の子が袖を引く。言ってはいけないことを聞いた顔になったので、僕は少し待ってから、何が怖いのと返した。
大体、分かっている。
あの夜のことなら、まだ傷の残っている人もいる。僕も、時々肩が引きつる。雨の日に刀を抜くと、ああ、ここを斬られたんだったなと、身体の方が先に思い出してくれる。
「烏有隊長を、怒らせてはならないと。他隊の者からも、よく聞きますので」
「うん。それは、僕もそう思うよ」
「では」
「顔を見に行くのは、別に怒らせる用事じゃないからね」
笑ってみせると、その子も少し困った顔で笑った。
その程度で安心してくれたのかは、分からない。怖かったことを説明し始めたら、今の僕でも長くなる。皆で止めに入り、それでも止まらず、山爺の胸から血が落ちた。あの人が向こうへ行ってしまったらと、最後まで考えていた。
その話を、知らない子へ聞かせるだけでは済ませたくない。
翌月、会いに行った。
「お前さん、何も持ってきてないの?」
「持ち込みを確かめられるのが面倒でね。手ぶらなら、早いかなと思って」
「俺が、何も出せないと思ってるんだろう」
「よく分かったね」
そう返すと、烏有隊長が肩を揺らす。
声を聞いて、ほっとしてしまった。笑えるようになったんだね、などと言えば、また気を遣わせるだろう。だから隊の話をした。十番隊の子に手を貸してもらったこと。佐伯君がこちらへ来て、巡回の組み方を相談してくれたこと。
あの人は、僕の顔より、話の中に出る名前を見ているようだった。
「あの子、まだ十番隊にいる?」
「いるよ。今度は、若い子へ道を教えてた」
「そっか。前は迷って、皆で迎えに行ったんだけどねぇ」
懐かしそうに言ってから、手が止まる。
その迎えに行った者の中へ、もういない人がいたのだろう。僕も、鳴瀬隊長ならこう言ったかなと、今でも口を開く前に考える。
どちらも、気づかないふりをしなかった。
「逆瀬川さんにも、随分お世話になったよ」
「うん」
「副隊長であれは反則でしょう、って言ったの、覚えてる?」
「覚えてるよ。お前さん、呆れた顔してたねぇ」
「呆れるよ。隣にいた僕が、何を受け持てばいいか困ったんだから」
烏有隊長が頷く。
しばらくして、僕の肩へ目が向いた。着物の上からでは見えないのに、どこを斬ったか、あの人も覚えている。
「まだ、痛む?」
「たまにね。でも、刀は振れるよ」
「……ごめんね、京楽」
「うん。あれは、もう勘弁してほしいな」
軽く返そうとしても、そこまでは軽くならなかった。
あの人は顔を上げ、僕を見ている。僕も、笑って済ませなかった。
「僕ら、あなたを斬るつもりで行ったんだよ。そうしないと、止まってくれなかったから」
「知ってる」
「知ってて、あんなこと言うんだからね」
俺を止めたかったら、殺しなよ。
その声を覚えている。こちらへ向けられた刀も、目も。烏有隊長は、今は何も持っていない手を膝へ置いていた。
「お前さんたちが止めてくれなかったら、俺、戻ってこなかったと思う」
「……そう」
「戻ってきて、どういう顔をすればいいかも、分からなくなってたと思うよ」
僕は、格子の向こうへ少し身を寄せる。
あの夜も、言った。
僕らも、ここにいるよ、と。
「その顔なら、今から考えておいてよ。佐伯君たちは、ちゃんと待ってるから」
あの人が頷くまで待って、僕は十番隊の子に尋ねられた話をした。
戻ったら、あなたの顔を知らない子がいる。優しい人だと聞いている子も、怒らせたら終わりだと聞いている子も。どちらも同じ隊長なのだから、本人が見せてくれると助かる。
「俺、そんなに怖い話になってるの?」
「そこは、否定できないね」
「困ったねぇ。昼寝してるところから、見てもらおうかな」
それなら、その隣で僕も休ませてもらおう。
そう約束して、廊下へ出る。
帰り際に振り返ると、あの人はまだこちらを見ていた。手を上げれば、向こうからも上がる。
次に会う時にも、あの手に血がついていなければいい。
*
side:卯ノ花烈
佐伯副隊長の手は、よく動くようになりました。
運び込まれた者の腹へ布を当て、こちらの指示を聞く前に、支えていた隊士へ場所を空けさせています。以前なら、血を止めようとして、御自身の身体まで担架へ寄せていました。今は次の処置へ入る者を見てから、手を離してくださいます。
「こちらは、私たちが受け持ちます。ほかに負傷した方は?」
「外に二人おります。歩いて戻りましたが、先に診ていただきたいと」
「分かりました。佐伯副隊長も、そちらへ」
「私は、特に」
「右の袖を上げていただけますか」
返事の前に、目が下がります。
十番隊の方は、皆さんよく似ていらっしゃいます。動けるうちは、ほかの方の怪我を見つけてくださる。その御自身を診るところまで、もう少し覚えていただきたいのですが。
腕には、爪の跡が三本ありました。
処置を受けながら、佐伯副隊長は戻った人数を教えてくださいます。亡くなった方も、お一人。運んできた場所も、残した者がいないことも、最後までお話しになってから、息を吐かれました。
烏有隊長が投獄されて、二十年になります。
皆さんを連れて戻る方の顔に、あの方を思い出すことが増えました。疲れていても、先に別の方のお名前を仰るところまで。
「今日のことは、烏有隊長へも?」
「はい。次の面会で、お伝えするつもりです」
「御自身のお怪我も、忘れずに」
佐伯副隊長は、承知しましたと頷かれます。
それを聞いてから、私も面会へ伺うことにしました。治療に必要な面会ではありません。許可を求めた際、山本総隊長も、それは御承知でした。
「佐伯、叱られたって?」
「診せていただきました。烏有隊長からも、傷を隠さないようお伝えください」
「うん。俺が言っても、あまり説得力がないんだけどねぇ」
「でしたら、私も言っていたと添えてください」
烏有隊長は笑ってから、ありがとうございますと仰いました。
部下を診たことへのお礼なら、幾度もいただいています。御自身の傷を診た時には、手を止めていいよと仰る方でした。もっと重い者がいるから、そちらを先に、と。
あの夜にも、同じ声で頼んでいただければよかったのでしょうか。
そのように考えたことは、私にもあります。
けれど、烏有隊長は山本総隊長へ刀を向けました。止めるために入った私も斬られ、こちらからも斬りました。あの方の胸へ刃を入れた感触は、今も手に残っています。
「烈の傷は、もう」
「塞がっています。御覧になりますか」
「……いや。聞いたら、安心できるかと思ったんだけど」
「烏有隊長は、塞がったことを御存じでも、気になるのでしょう」
返事がありません。
傷が治ることと、こちらがどう受け取ったか。それを一度に確かめようとなさっているのかもしれません。
「私は、烏有隊長を止めるために刀を抜きました」
「うん」
「また同じことがあれば、抜きます」
顔を上げてくださるまで、待ちました。
「その前に、お話しになってください。御自身で抱えたまま、こちらへ刃を向けるところまで行かずに」
「……何を話せばいいのか、分からない時は?」
「それも、そのまま仰っていただければ」
烏有隊長が、膝へ置いた手を見ます。
しばらくして、厳十斎副隊長の御遺体へ回道を施した話をしてくださいました。助からないと分かっていても、手を離せなかったと。傷を塞いでいる間は、まだ自分にできることがあると思えたそうです。
「俺が、あの人をここへ呼んだんだよ」
「はい」
「来てほしいって、頼んで。死なないと思ってたって、本人にも言ってさ」
続きを急がずに聞きました。
私には、厳十斎副隊長の代わりにお返しできる言葉はありません。あの方は御自身で引き受け、隊士を連れて任務へ出られました。それをお伝えしたところで、今、烏有隊長の手が軽くなるわけでもありません。
ここへ呼んだ日の話まで、聞かせていただきました。
山の家で何を食べたか。隊へ来てから、誰が畑のことを尋ねたか。厳十斎副隊長が、隊士の手当てを覚えてくださった時のことも。
覚えていたい話が、まだ随分とあるのですね。
帰る時になって、烏有隊長が尋ねます。
「佐伯が連れてきた子、助かる?」
「今夜も診ます。明日になれば、もう少しお伝えできるでしょう」
「……じゃあ、明日、聞かせてもらえるかな」
頷きました。
明日を待っていただくために、私にもできることがあります。
*
side:浮竹十四郎
手紙の返事が、俺より早い。
こちらが三日掛けて書き終えたものへ、翌日には返ってくる。烏有隊長は、俺がどこで休みながら書いたかまで、分かっているような返し方をする。
長く書かなくていいよ。元気な時に、その続きを聞かせて。
そう書かれた紙を読んで、また長い返事を書こうとしてしまうのだから、困ったものだ。
あの方が投獄されて三十年。俺も、会いに行ける時には行った。ただ、出られない日もある。任務へ復帰したつもりで咳き込み、部下から休むよう言われることは、今も減らない。
「隊長。今日は、こちらへお残りください」
巡回へ出る隊士が、戸口から言う。
その口調が誰かに似ていると思ったら、十番隊と合同で出た時に、佐伯副隊長から言われたそうだ。隊長を呼びに行く者が増えるので、無理をして出てこないでほしいと。
随分とはっきり言われたな。
そう笑ってから、俺も座り直した。
烏有隊長に聞かせれば、きっと喜ぶ。あの方は佐伯副隊長の話になると、こちらへ稽古の出来まで尋ねてくる。俺も刀を合わせたことはあるので、答えられるところは答える。
本人から聞けばいいことでも、ほかの者がどう見たかを知りたいらしい。
俺が戻ってきた隊士の顔を、別の者へ確かめる時と同じだろう。
その月は、二度続けて任務から欠けた。
代わりに出た者が一人、帰ってこなかった。報せを受けた時、俺は縁側にいた。湯を持ってきた者へ礼を言ったばかりで、椀の温かさが掌に残っている。
あの者が刀を抜いた時にも、俺はここへ座っていた。
書きかけの手紙へ、そのことを足した。
慰めていただきたかったのか、今でもよく分からない。隊長である俺が、別の隊長へそんな話を送るのもどうかと思い、一度は畳んだ紙を開き直した。
それでも、送った。
返ってきた紙は、いつもより字が少なかった。
その子のこと、今度教えて。
名前だけは、副隊長から聞いたよ。
俺は、次に出られた日に牢へ向かった。御影隊長にも相談していたのだと話すと、烏有隊長は覚えているよと頷いてくださる。
「俺が出ていればと思ってしまいます」
「うん。思うよねぇ」
「休ませるよう部下へ伝えておきながら、自分が休む時には、同じことができません」
「お前さん、前にも言ってたね。隊長が座ってると、言いにくくなるって」
覚えておられた。
十三番隊を継いだ頃だ。復帰した隊士を止め、自分で行こうとしていた俺を、縁側へ座らせてくださった。あれから何年も経ったのに、まだ同じところで困っている。
「……あまり、変わっていませんね」
「変わってるんじゃないかな。今日は、俺に話してくれてるし」
返す言葉を探していると、烏有隊長がこちらを見た。
「俺があの日、爺さんの話を座って聞けてたら、先生たちを斬らずに済んだかもしれない。そう考えることはあるよ」
「烏有隊長」
「でも、あの日に戻って同じようにできるかって聞かれたら、まだ、自信はないんだよねぇ」
膝へ置かれた指が、僅かに動く。
俺も、椀を握ったまま報せを聞いた日のことを思い出していた。立とうとして咳き込み、こちらを支えた隊士へ、出掛ける支度を頼みかけた。
行って、何をするつもりだったのだろう。
「浮竹。帰ってきた子たちは、今、どうしてる?」
「傷を診てもらってから、任務へ戻る者もおります。まだ休んでいる者も」
「そっか。俺も、次に顔を見せてもらおうかな。今日は、お前さんから聞いておくよ」
促されて、話した。
亡くなった者の話も、戻った者の話も。誰が荷を持ち、誰が知らせに来たか。報告では先に人数を聞いたが、一人ずつ思い浮かべれば、それぞれ別の声がある。
気づくと、長く話していた。
「また長くなってしまいました」
「いいよ。俺、今は寄り道する用事もないからねぇ」
そう言って笑ってくださる。
帰ったら、こちらも座って聞こう。
俺が行けなかった場所のことを、帰ってきた者が話せるように。
*
side:刳屋敷剣八
格子の前へ座るには、少し狭い。
膝を折ってから、腰の刀を外へ寄せる。向こうの男は、それを見て笑っていた。牢へいるくせに、こちらが座るまで待つ顔は、隊首会の時と変わらない。
「お前さんまで来てくれるとは、思わなかったねぇ」
「近くへ来たのでな」
「ここを通る用事なんて、あるのかい」
「……ない」
取り繕う用事もない。
烏有が笑う。それから、先ほどまで広げていた紙を畳んだ。細かな図へ、糸のような線が何本も引かれている。こちらの刀を見せろと言われることはあっても、あいつが書いているものを見せろと言ったことは、あまりなかった。
「佐伯に?」
「うん。上手くなってくれたから、今度は少し難しいのをね」
「あれは、よく育った」
「お前さん、合わせたの?」
「先日な。隊長代行だからと、遠慮はしないと言っておいた」
こちらの刃を受けた時、佐伯は腕へ力を集めすぎなかった。下がる足を残し、脇へいた隊士にも声を掛けておる。押せば退く。追えば、別の者の刀が届く。
勝つために踏み込む顔をしながら、後ろの者も見ていた。
「卍解も使えるようになったと聞いたが」
「本人から、教えてもらったよ。先生に見せた後でねぇ」
「お前へ、先に言いに来たかったそうだぞ」
「……そうなの?」
「見てもらう順を変えるなと、総隊長に止められたらしい」
烏有が、紙の端を撫でる。
こちらへ返す言葉が、少し遅れた。その間、俺も黙って待つ。あいつがいなくなってから、四十年になる。隊士の死んだ名を聞く顔も、若い者を送り出す手も、佐伯はこの男から習うたのだろう。
昔、俺が腰抜けと呼んだ隊だ。
「烏有」
「うん?」
「佐伯は、よく戦っていた」
「そう。怪我は?」
「手当てを受けて戻った。こちらも、無事な者ばかりではなかったがな」
烏有の目が、俺の腕へ下がる。
傷跡を探しておるのだろう。あの夜には、こちらも幾つも斬られた。始解を使い、隊長どもと囲んでも、あいつは前へ出てきた。
思い返せば、今でも刀へ手が寄りそうになる。
だが、今日は斬り合いに来たのではない。
「俺は、お前の副隊長を、言葉で踏みにじったことがある」
「……うん」
「前にも詫びた。あれで済んだとは、思っていない」
烏有は、すぐには口を開かなかった。
あの時、殺してもよいかと総隊長へ尋ねた声を、覚えている。俺を見ていた目も。こちらへ向いた殺意へ、太刀を合わせる前に膝がついた。
あれから、死んだ者の話を聞くたびに、口を開く前に一度考えるようになった。
いい癖かどうかは、知らない。
言った後で取り消せないことがあるのは、もう知っておる。
「佐伯も、帰ってこなかった者の名を言う時には、お前と同じ顔をする」
「そっか」
「だが、次に出る者へ声を掛けていた。こちらへも、戻す道を残せと言いに来たぞ」
「お前さんに?」
「俺が先へ行きすぎると、怪我人を運ぶ者が見えなくなるとな」
烏有が、とうとう笑った。
「それは、お前さんも覚えてくれないとねぇ」
「分かっている。後ろへ一人、つけさせた」
笑われても構わん。
俺の隊へ来た佐伯は、腰抜けなどと呼ばれた程度では帰らなかった。言われたことを聞いてから、必要な人数をもう一度伝えてきた。烏有のように、気にしていない顔をしておった。
その顔が、本当に何も気にしていないのか。
以前の俺は、確かめようともしなかった。
「戻ってきたら、お前ともまた合わせる」
「先生に許してもらってからねぇ」
「分かっている。今度は、場所も先に決めておこう」
烏有が頷く。
それから、俺が立つまで、佐伯が覚えた術の話をしていた。あいつがこちらの刀を避けた時、白い糸が肩の後ろへ回ったことを話すと、それは覚えてもらってよかったよと、少し得意そうな顔になる。
お前がやったような顔をするな。
そう言いかけて、やめた。
教えて、待ったのだろう。
四十年も。
*
side:山本重國
最後の面会にも、佐伯は報告を持ってきておった。
廊下へ出てきたところで儂を見つけ、頭を下げる。その腕へ紙の束がある。返されたものと、これから確かめるものを分けておるらしい。
「稽古の分か」
「はい。任務へ使った際、直しておきたいところがありましたので」
「明日からでも、聞けよう」
「……そうなのですが」
佐伯が、格子の方へ目を向ける。
儂も、そちらを見た。烏有は紙へ何か書き足しておる。こちらへ気づいて、もう少しで終わるよと手を上げた。
五十年。
初めの頃は、佐伯の持ってきた報告を読む顔が、すぐに強張った。怪我をした者がいれば、こちらが処置を教える前に、どこへいるかと尋ねる。亡くなった名を聞けば、手が止まったまま、続く話が耳へ入らなくなった。
それでも、次の報告は来た。
佐伯が来られぬ時には、槇島が来る。伏見も、榛名も。若い者が任務でどう動いたか、誰が何を覚えたか。死んだ者の話ばかりを持ってきたわけではない。
烏有が聞きそびれたことを、次にまた聞く。
そうして、五十年分の用事を、この格子の前へ持ってきたのじゃ。
「佐伯。先に戻れ。明日の支度もあろう」
「承知しました。では、隊長。また明日、伺います」
「うん。今度は、迎えに来てもらうんだねぇ」
佐伯の口元が、僅かに緩む。
頭を下げて廊下を去るまで、烏有はそちらへ顔を向けておった。足音が遠ざかってから、ようやく儂を見る。
「先生、座る?」
「そのために来た」
向かいへ腰を下ろすと、烏有も紙を畳む。
この男へ、何度座って話をしただろう。塾におった頃は、話の途中で刀へ目が向いた。使ってみたいことがあると、顔を見れば分かったものじゃ。放浪から戻った時には、こちらが尋ねる前に、行ってきた場所を並べた。
今は、儂が口を開くのを待っておる。
「明日で、五十年じゃ」
「うん」
「外へ出た後、どうする」
烏有が、膝へ手を置く。
すぐに隊へ戻ると答えるかと思ったが、こちらへ顔を上げたまま、しばらく黙っておった。
「佐伯に、任せた分を聞くよ。紙では読んだけど、俺が見てないところも、随分あるから」
「その後は」
「隊長に戻っていいなら、戻りたい」
儂は、返事をせずに待つ。
戻りたいと言うだけなら、もっと早く聞いておる。死んだ者の顔も、止めに来た者の傷も、五十年で忘れたわけではなかろう。
「何を預かっておったのか。答えは出たか」
烏有の指が、一度重なる。
「皆に、帰ってきてほしいよ。そこは、今も変わらない。任務へ出して、待って、帰らなかった名前を聞くのは、やっぱり嫌だ」
声は、静かじゃった。
あの夜のように、儂へ返す言葉を急いではおらん。言うたことを自分でも聞きながら、次を探しておる。
「佐伯が報告を持ってくるたびに、行けたらなと思ったよ。今からでも俺が出れば、次の組に誰もつけずに済むって。……そういうこと、まだ考える」
「考えた後は、どうした」
「佐伯に聞いた。俺が行けないなら、どうするか。ほかの子たちにも。聞いてみたら、俺が思いつく前に、話が済んでることもあったんだよねぇ」
口元が、少し緩んだ。
「皆、俺の代わりをしてくれてたんじゃなかった。自分で見て、決めて、誰かに頼んでた。俺がいなくても、帰ってきた子の顔を、ちゃんと見てくれてた」
儂も、そういう報告を受けておる。
佐伯は隊長代行の名を使い、ほかの隊へ増援を求めた。任務を減らすよう、こちらへも頼みに来た。通せぬ時には理由を尋ね、自分の隊でどこまで受け持てるか、また紙を持ってきた。
任せたからには、その声を聞かねばならん。
儂にも、それを求めてきた男じゃ。
「俺が帰らなかった人ばかり見て、残った皆を置いていったら、あいつら、どこへ帰ればいいんだろうね」
烏有が、こちらを見る。
「爺さんが死んだ日、俺は伏見に顔を見ていたくないって思った。爺さんが守った子なのに。佐伯にも、あの人を任せて出ていこうとした。先生たちには、邪魔だって」
「覚えておる」
「……うん。俺も」
目を逸らしはせんかった。
「誰かがいなくなっても、その人が連れて帰った皆まで、俺が置いていくのは嫌だ。悲しくても、腹が立っても。帰ったら話を聞くって言ったなら、そこへいたい」
ようやく、その言葉を聞いた。
守るものが増えるのを恐れ、山へ、海へと歩いておった男じゃ。長く座れば、いなくなった時に困る。そう思うていても、いつの間にか人の名を覚えた。
覚えた分だけ、失った。
それでも、また名を呼びたいと申しておる。
「同じことが起きたら、今度は一人で決めない。先生に話す。烈にも、佐伯にも。……うまく話せない時は、そう言うよ」
「儂が止めたら、聞くか」
「聞く。腹は、立つかもしれないけどねぇ」
思わず、眉が動いた。
烏有も気づいたらしく、少し困った顔で笑う。
「嘘を言っても、先生には分かるだろう。俺、多分、また嫌だって言うと思う。でも、言ってるうちに斬るところまで行かないように、聞くから」
明日から、何も起こらんわけではない。
この男の力が弱くなったわけでもない。刀を解かずとも、隊長どもが束になって止めきれなんだ。儂が今ここへ置く言葉一つで、それがなくなることもなかろう。
それでも、格子の前へ来た者の話を、五十年、聞いた。
その男へ、もう一度預ける。
「隊へ戻れ、烏有」
こちらを見ておった目が、僅かに開く。
「佐伯から引き継げ。任せた者の話を聞き、見てきたことを確かめよ。勝手に以前の形へ戻すでないぞ」
「……うん」
「解放についての命は、変わらん。必要であるなら、許可を求めよ」
「分かってるよ」
「それから」
儂は、一度杖を持ち直す。
「戻った者へ、まず何を言うか。忘れるでない」
烏有は、長く息を吐いた。
それから、頭を下げる。
「ありがとう、先生。今度は、俺も帰るよ」
*
side:烏有
最後の夜なのに、眠れない。
五十年も同じ場所へ座っていたのだから、最後くらいは慣れた顔で寝ればいいのにねぇ。明日の支度をしようにも、荷は紙ばかりだ。佐伯が持ってきたものと、俺が返しそびれたもの。束ねてみると、持って歩くには少し多い。
前は、刀一本でも旅へ出られた。
今は、どの紙にも誰かの名前がある。
手放していいものを選ぶだけで、随分と時間が掛かってしまう。途中で諦め、全部持って帰ることにした。運ぶ術なら、佐伯も覚えてくれたしねぇ。
『お前様。明日のことばかりで、今宵はお越しになりんせんか』
「行くよ。最後まで、待たせちゃったね」
目を閉じる。
夜の水へ、灯が映っていた。ゆめはいつものように座り、俺が隣へ来る場所を空けてくれる。白い指の傍に、小さな盃が一つ。
こちらには格子がない。
それでも、何度も曇った。雨も降った。佐伯から死んだ子の名を聞いた日は、話をしようとして、声が出なくなることもあった。
そのたびに、ゆめがいた。
「俺、帰っていいって」
『よう聞いておりんした』
「うん。そうだよねぇ」
隣へ座ると、袖が触れる。
この人にも、何度謝っただろう。先生を斬った夜のこと。伏見へ顔を向けられなかったこと。爺さんを、もっと早く迎えに行けなかったことも。
ゆめは、それを一つずつ、俺と一緒に覚えていた。
「五十年って、長かったんだね」
『お前様が、数えておいででしたもの』
「旅してた時は、そんなことしなかったのに」
三日後に佐伯が来る。
その次は、伏見が話を持ってくる。烈が診てくれた子の具合を、明日聞ける。そんなふうに日を待っていたら、一年がちゃんと長かった。
朝になれば何を聞こうと、夜のうちに考えることも増えた。
「爺さんも、俺が山へ帰ってくるのを、こうやって待ってたのかな」
『お聞きになりたいことが、まだおありで?』
「あるよ。今なら、石の話ばっかりしないんだけどねぇ」
ゆめが、俺の手へ指を重ねる。
誰かを待っていたのか。畑に最初の芽が出た時、何を思ったのか。三万年より昔に斬り合った男の話も、まだ途中だった。
俺は、次があると思っていた。
あの人の分まで喋ろうとしても、俺が知っているところで話は止まる。その先を、勝手に作ってしまいたくはない。
「覚えてるところは、皆にも話すよ」
『ええ』
「爺さんが何を教えてくれたか。俺が、何を聞いてなかったかも」
夜空へ顔を上げる。
灯の向こうに、星が見えた。全部晴れたわけではない。低いところへ雲が残り、その端が、ゆっくり流れている。
悲しいままでも、明日は来るんだねぇ。
そう思ってから、隣へ目を戻す。
「ゆめ。帰ろうか」
『はい。お前様のお帰りを、よう待っておいででござりんす』
翌朝、格子が開く音で目を覚ました。
起こされる前に起きていようと思ったのに、最後の最後で寝てしまったらしい。戸口にいた役人へ顔を上げると、支度は済んでいるかと尋ねられる。
「うん。この紙だけ。……少し多いけどねぇ」
束を抱えて廊下へ出る。
何度も見送った方へ、自分の足で歩いた。佐伯が腰を下ろしたところも、伏見が紙を広げたところも、今は誰もいない。廊下って、こんなに長かったのか。
出口で、佐伯が待っていた。
副隊長の章を腕へつけ、隣には槇島と伏見。五十年前なら、俺がその荷を見ていた。今は佐伯が一歩前へ出て、頭を下げる。
「お迎えに参りました、隊長」
「うん。……待たせたねぇ」
顔を上げてくれたところへ、紙を少し持ってもらえるかなと頼む。
槇島が両手を差し出した。そこへ全部置こうとして、半分だけにする。残りを抱え直すと、伏見がこちらも預かりますと言ってくれた。
帰るだけなのに、随分と助けてもらうねぇ。
一番隊で刀を返してもらった。
先生は、まず柄へ手を添え、それから俺へ渡してくれる。両手で受け取ると、腰へ差すまで見ていた。長次郎も、少し後ろに立っている。
「お返しいたします」
「ありがとう、長次郎。先生も」
「借りたものを返すような顔をするな」
「……そうだねぇ」
自分で預けることになった刀だ。
柄へ触れると、ゆめの声がした。
『よう、お似合いで』
「久しぶりだから、少し落ち着かないよ」
「何か申したか」
「いや。こっちの話」
先生の目が、少しだけ細くなる。
それを見てから、俺も頭を下げた。今日の先生には、襟の下へ包帯がない。もう何年も前からそうなのに、顔を見るたび確かめてしまう。
「戻るよ、先生」
「行け。佐伯を、いつまでもここへ立たせておくでない」
振り返ると、佐伯が待っていた。
早く帰りたいのかと思ったら、俺が歩く方へ道を空けてくれる。そこを先に通りかけて、隣へ並んだ。
「案内してもらおうかな。変わったところも、あるだろう」
「はい。門の内側を、少し広げております」
「へえ」
「担架が二つ並ぶと、後から入る者が通れませんでしたので」
そっか、と頷く。
俺がいなくなったから変えたところもあれば、いても変えなければならなかったところもある。そこを自分で見て、皆と話して、直してくれた。
足の速い隊長が一人戻ったくらいで、狭くしていい道ではなかった。
十番隊へ近づくと、門の前に人がいた。
榛名と鷺坂が、こちらに気づく。その隣には、知らない顔も並んでいる。皆に集まるよう言ったのかと尋ねると、佐伯は、非番の者と隊に残っている者だけですと返した。
任務へ出ている子もいる。
俺が帰る日でも、帰ってくる道を見てもらわなければならない者がいる。そのことを、少し嬉しく思ってしまった。
門へ入る前に、足を止める。
ここから出ていこうとした日のことが、身体へ戻ってきた。先生が立っていた場所。佐伯が膝をついた土。伏見が、俺へ何か話そうとしていた顔も。
俺が壊したところは、直されている。
直してくれた奴がいる。
「隊長」
佐伯に呼ばれ、顔を上げた。
皆が、こちらを見ていた。
知らない顔の中にも、肩を強張らせている子がいる。話で聞いた隊長が戻ってきたのだろう。怖い顔をしないようにと思ったところで、ゆめが小さく笑う。
そういうことを考えている時ほど、妙な顔になってるのかもしれないねぇ。
「ただいま」
声を掛けると、榛名が先に頭を下げた。鷺坂も、槇島も。伏見は持っていた紙を抱え直し、こちらを見たまま、笑ってくれる。
「お帰りなさい、隊長」
佐伯の声へ、ほかの声が重なる。
帰ってきた。
俺も、この人数に入れてもらえた。
庭へ進むと、若い子が場所を空けようとして、隣の肩へぶつかった。慌てて謝っているので、そんなに急がなくていいよと声を掛ける。こっちが通るだけだからねぇ、と。
その子が顔を上げる。
「……はい、隊長」
「名前、教えてもらえる?」
「私の、ですか」
「うん。佐伯からは聞いてると思うけど、顔と一緒に覚えたいから」
名乗る声は、小さかった。
もう一度呼んでみると、今度は少し大きな返事が来る。隣の子も、こちらを見る。後で順に聞くよと伝え、まず荷を下ろす場所へ向かった。
机は、佐伯が使っていた。
紙の置き方も、筆を立てる場所も、俺がいた時とは少し変わっている。端へ置かれた湯呑だけが、前と同じだった。佐伯が白縫で持ち上げ、立った途端に落としかけたものだ。
「まだ、使ってたんだねぇ」
「はい。欠けずに済みましたので」
「お前さんが、受け止めたからね」
佐伯が笑う。
ここへ座る前に、爺さんの部屋だったところへ寄らせてもらった。今は稽古の記録と、手当てに使う道具が置いてある。伏見が、ここで若い子へ担架の支え方を教えるのだという。
窓が開いていた。
机へ紙が広がり、風で端が持ち上がる。その上へ、小さな石が置かれている。誰が持ってきたのかは知らない。丸いものでは転がるので、下の平たいものを選んだらしい。
紙が飛ぶ。
爺さんの声が、聞こえた気がした。
「隊長。こちらの使い方は、変えた方がよろしいでしょうか」
「いや。このままでいいよ」
石へ指を添え、紙の端を伸ばす。
「爺さんも、手を洗ってから道具を触れって、言ってたんじゃないかな」
「はい。何度も言われました」
伏見が、少し笑った。
俺も頷く。あの人の顔を知らない子が、ここで手当てを覚える。誰から教わったことか知らなくても、隣の奴へまた話してくれる。
それを、俺も見ていよう。
部屋を出ると、廊下の向こうから、帰還を知らせる声がした。
任務へ出ていた組だ。俺が戻ってきたと聞いたらしく、途中で足音が速くなる。怪我人を運んでいるなら急がせたくないと思い、こちらから門へ向かった。
四人いる。
一人は腕を吊り、別の子が荷を持っている。俺へ気づいて頭を下げかけたので、そのままでいいよと止める。顔を見て、息を聞いて、それから後ろの道へ目を向けた。
「ほかの皆は?」
「はい。後ろに、二人。四番隊の方と一緒に戻っております」
「分かった。お前さんたちも、先に診てもらってねぇ。話は、座ってから聞くよ」
頷いた子たちが、こちらの脇を通る。
最後の一人が、通りすぎる前に足を止めた。俺を知っている顔だった。少し大人びたようにも見える。名前を呼ぶと、懐かしそうに口元が緩む。
「隊長、お帰りなさい」
「うん。ただいま」
返してから、俺もその顔を見た。
今度は、言えた。
「お前さんも、帰ってきてくれてよかったよ」
後ろから、残りの二人が門へ入ってくる。
佐伯がそちらへ声を掛け、槇島が道を空けた。伏見は空いた担架を受け取り、榛名が戻った名前を確かめている。鷺坂の声で、次に出る者が庭の端へ集まり始めた。
皆、よく動くねぇ。
俺も、そこへ入っていく。
帰ってきた顔を見て、出ていく顔を覚えて、戻る日を聞く。遅くなりそうなら知らせてと頼み、休む者には座ってもらう。
それでも、帰らない名前を聞く日は来るのだろう。
その名前も、忘れずにいる。
覚えている奴と、話す。
そうして、帰ってきた子へ掛ける声を、もう失くさずにいたい。
「隊長。昼の分は、どうなさいますか」
佐伯が、廊下から尋ねる。
ああ、そうだった。
五十年ぶりに帰ってきたのに、俺はまだ飯の支度も見ていない。爺さんなら、そこへ座れと先に膳を出していたかな。
「食べるよ。お前さんたちも、一緒にどう?」
「では、人数を伝えてまいります」
「俺も行く。台所の子にも、挨拶してないからねぇ」
佐伯の隣へ並ぶ。
廊下から庭を見れば、さっき戻った子が縁側へ腰を下ろしていた。仲間が水を持ってきて、隣へ座る。話し始めた口元を見てから、俺は先へ歩いた。
待つ場所がある。
そこへ、俺も帰ってきた。
漸く今章終わりました。長かった。。。
この話は長くなりましたが、幽閉中の50年を書き切りたかったのでご容赦下さい。。
ここまで駆け足で投稿し続けましたが、そろそろ書き溜めた分が尽きてしまいそうです。
一気に投稿し続けてきた中で、評価やコメント、誤字脱字報告頂きました方々、ありがとうございました。
ここから投稿頻度を、もう一つ投稿してる小説と合わせようか、完結まで駆け足で書き切ってしまうか悩んでおります。
ぜひ感想で要望頂ければとてもうれしいです。
加えて、指摘等も頂けると、以降の参考になりますので、あわせてお願いします。
烏有以外のサイドも書こう書こうと思いながら中々書けずにいたので、今話はかなり使いました。
不評であれば次章からは控えます。。こちらに関しても感想頂けるとうれしいです。
長くなりましたが、今後も見て頂けるよう頑張りますので、ぜひ見ていって下さい。