流れゆく水に 袖は触れ
交わりし刃に 風は通う
川から吹く風に血の匂いが薄まった。
袖を捲ると肘の下まで赤くなっている。川辺へ降りて洗いたかったが、道の先で待つ佐伯と目が合った。俺が片手を上げると頷き、隣の榛名へ何か伝える。
「川まで下りるくらいはいいだろう?」
「俺に聞かれても知りませんよ。副隊長に聞いてください」
平子が隣を歩いている。
刀を納めた手を柄に残し、草の向こうを見ていた。川を挟んで低い家が並び、白い煙が一筋上がっている。屋敷から連れてきた者たちはもう後ろだ。代わりに六番隊の子が二人、俺たちの前を進んでいた。
「袖、気持ち悪くない?」
「乾いたら乾いたで硬なりますね。せやから帰ったら洗います」
「お前さん、そういうところは律儀だねぇ」
「今ここで洗い始めたら、後ろ全員待たせるでしょう。隊長が下りたら俺も下りたことにされそうですし」
まだ何も言ってないよ。
振り向くと蒼純がこちらを見ていた。目が合い、口元に少し笑みが浮かぶ。
「私は戻られるまでお待ちしますが」
「ほら。蒼純は待ってくれるって」
「待つ言うてくれた相手を待たせんでください」
平子の返事が早い。
川へ下りる石段を横目に通り過ぎた。水面には空が細長く映り、流れの速いところで千切れている。あそこへ腕を入れたら冷たそうだねぇ。
蒼純が懐から布を出した。
「よろしければ、こちらを」
「いいの? 赤くなるよ」
「そのために持っておりますので。傷のない方へ使うのは初めてですが」
受け取って指を拭く。
よく畳まれた布だった。端から汚さないようにと思ったのに、刀を握っていたところへ触れるとすぐに染まった。
「悪いねぇ。洗って返すよ」
「お気遣いなく」
「そう言われると、そのまま返すみたいで嫌だな。今度お前さんのところへ持っていこうか」
「ほな、その時に俺の袖もお願いします」
「お前さんのは自分で洗いなさいよ」
平子が笑い、前へ目を戻す。
少し先で六番隊の子が立ち止まっていた。道へ張り出した葦を刀の鞘で分け、対岸を見ている。蒼純も足を止めた。呼び掛けようと口を開いたところで、屋根の縁に白い光が出る。
「伏せろ!」
平子の声が飛んだ。
矢がこちらへ届く前に川を越える。屋根に立つ男はまだ弦へ指を掛けていた。刀を抜き、弓ごと斬り下ろす。膝が折れた身体を越えて奥を見ると、煙の上がっていた家の脇でも二人が弓を引いていた。
下には隊士がいる。
屋根から踏み出し、一人の胸へ刀を通す。もう一人がこちらへ向け直す間に白縫を張った。引き倒した身体が土へ落ちる。弓を残したまま転がろうとしたので、その場で斬った。
軒下から男が飛び出す。
手に短い刃があった。俺へ来るかと思ったら川沿いへ走り、その背後から戸が開く。出てきた平子が刀を振り、男の手から刃が落ちた。
「そこへ座れ。次、拾おうとしたら斬るで」
男が膝をつく。
平子は刀を向けたまま脇へ寄り、戸口から出てきた隊士へ顎を動かした。男の手が縛られるまで見てから、俺のところへ来る。
「川、洗いに来たんちゃいますよね」
「こっちから呼んでくれたからねぇ」
切れた弦が風に揺れていた。
平子の目が屋根から俺へ戻る。何か言いかけたようだったが、背後で隊士に呼ばれてそちらを向いた。
俺も川辺へ出る。
蒼純たちが上流の橋を渡ってきていた。先頭にいた子は片膝をつき、草に埋もれた足元を確かめている。蒼純が肩へ手を置くと顔を上げ、立って道を空けた。
「当たってないね?」
「はい。平子殿の声で伏せました」
「ならいいよ。起きる時に頭ぶつけなかった?」
「そちらも大丈夫です」
返事が少し硬い。
傍へ来た蒼純が俺の手を見た。まだ布を握っている。白いところを探して刀の鍔を拭くと、平子が家の中から顔を出した。
「中は空です。裏に荷車が一台。弓も積んであります」
「触らせないで、そのまま見てて。佐伯を呼んでもらえるかな」
隊士が川沿いへ走る。
その向こうの橋から、別の一団が来ていた。先頭の白い羽織が風を受けて膨らみ、すぐに背へ戻る。蒼純が姿勢を正したので、俺も刀を納めた。
「銀嶺。いいところへ来たねぇ」
「お主の声が聞こえた」
橋を渡り終えた銀嶺がこちらを見る。
それから屋根へ目を向け、弦の垂れた弓を見た。後ろの者へ手で合図し、俺たちの前へ来る。
「こちらへも流れてきたか」
「さっきからよく会うよ。蒼純にも助けてもらった」
「そうか」
銀嶺の目が隣へ動く。
蒼純は頭を下げた。何か言おうとして息を吸ったところで、銀嶺が口を開く。
「報告は後でよい。まず息を整えろ」
「はい」
蒼純が静かに息を吐く。
銀嶺は俺の手へ目を戻した。
「それはどうした」
「借りたんだよ。俺の袖がこんなだからねぇ」
布を広げると、もう白いところは殆どない。
銀嶺が自分の袖から別の布を出した。受け取ろうと手を伸ばすと、俺を通り越して蒼純へ渡る。
「お前が使え」
「私はまだ」
「汗を拭け」
蒼純が布を受け取った。
俺の横で平子が顔を背ける。肩が僅かに揺れたので肘で触れると、そのまま二歩離れていった。
*
川辺の家には長椅子があった。
銀嶺が腰を下ろし、俺も端へ座る。真ん中には蒼純を入れようとしたが、本人が辞退するのでそのまま空けた。平子は柱へ背を預け、軒の先を見ている。
川向こうから佐伯たちが渡ってきた。
榛名が荷車へ回り、佐伯は銀嶺へ挨拶してから俺の隣へ立つ。手元にはまた紙があった。開かれる前に俺が袖を見せると、少し目を細める。
「洗ってきてよろしいですよ」
「今なら?」
「六番隊の皆様がおられますので」
「俺たちだけじゃ駄目だったみたいだねぇ」
平子がこちらを見る。
「置いてかれんように、ちゃんと声掛けてから下りてくださいね」
「お前さん、俺を幾つだと思ってるの」
「幾つやったら黙って川へ下りんようになるんです?」
銀嶺が立った。
話を終えるのかと思ったら、俺へ川辺の石段を示す。
「下りるなら今だ。戻るまでにこちらも纏める」
「うん。じゃあ、ちょっと待ってて」
刀を佐伯へ預けて石段を下りる。
水へ入れた指が冷え、腕に乾いた血が細く流れていった。袖を裏返して揉むと、手首へ白い泡がつく。上では紙を広げる音がした。銀嶺の低い声に佐伯が答え、平子が途中で何か挟む。
蒼純の声も聞こえた。
川の音で言葉までは拾えない。けれど、時折笑いが混じるので俺も少しゆっくり袖を揉んだ。
『そこまで濡らしてしまわれて』
ゆめが笑う。
肘まで捲っていたつもりが、肩の下まで水を吸っていた。持ち上げると雫が膝へ落ちる。
「よく落ちるねぇ」
『お着物もお前様も、川へ入るにはよう冷えておりんすよ』
「入らないよ。そこまではね」
布も洗って絞る。
赤い色は少し残った。畳もうとしてやめ、片手に掛けて石段を上がると平子に見つかった。
「ほんまに洗ってきたんですか」
「洗ってこいって言ったじゃないか」
「腕だけや思うでしょう。何で肩まで濡れてるんです」
「袖が長いんだよ」
佐伯が俺の刀を差し出す。
受け取る手へ水が落ちたので、羽織で拭いてから腰へ戻した。蒼純へ布を見せると少し驚いた顔をする。
「まだ落ちきらなかった。ちゃんと洗ってから返すねぇ」
「そのままお持ちください。替えはいただきましたので」
銀嶺がこちらを見る。
俺が笑うと鼻から短く息を出し、紙へ目を戻した。
「北の道は押さえた。川を越えた者も捕らえておる。だが、東の橋で矢を受けたと知らせが来た」
「そっちは誰が?」
「八番隊だ。京楽が向かっておる」
平子が柱から背を離す。
佐伯も地図へ目を落とした。紙の端が風で持ち上がり、蒼純が手を添える。指の下で川が曲がっていた。
「俺たちも橋へ行こうか」
「橋へ集まればよいというものではない」
銀嶺の指が川から離れる。
「こちらの道を頼む。東から戻る者がおれば、その先で受けよ」
「分かった。銀嶺は?」
「橋の南へ回る」
紙に描かれた細い道を見て頷く。
平子が俺と銀嶺を順に見た。
「五番隊もこっちに残します。先へ出した二人を戻してから動きますんで、少し待ってください」
「佐伯。うちは?」
「戻せる者を榛名に集めさせます。負傷者と捕らえた者は後方へ出しました」
「じゃあ、俺たちはここで待とうか」
銀嶺が地図を畳む。
俺の前へ置き、蒼純を呼んだ。蒼純は銀嶺の隣へ来たが、道へ向かう前に足が止まる。
「父上。こちらへ残ってもよろしいでしょうか」
銀嶺の手が紙から離れた。
蒼純は俺を見る。
「まだ家々の中を確かめていない者がおります。先ほどの組もこちらへ戻りますので、私が受けたく存じます」
「何人残す」
「四人を」
銀嶺が六番隊の者へ目を向ける。
呼ばれた者が一歩前へ出た。蒼純の顔を見て頷き、その後ろへ三人並ぶ。
「では、その四人と残れ。知らせは絶やすな」
「承知しました」
蒼純が頭を下げる。
銀嶺はもうこちらを見ていた。俺が片手を上げると、濡れた袖から雫が落ちる。
「次に会うまでには乾かせ」
「風があるから、そのうち乾くよ」
「袖の話をしておるだけではない」
平子が下を向いた。
蒼純まで目を逸らす。俺は袖を見て、それから銀嶺へ顔を戻した。
「分かってるよ。次は皆と行くから」
「そうしてくれ」
銀嶺の羽織が翻る。
川沿いへ続く六番隊の背を見送っていたら、蒼純が隣へ来た。手に持った布を畳み直し、懐へ戻す。
「何か失礼を申し上げましたでしょうか」
「俺に? 何も言ってないだろう」
「父が」
「銀嶺のはいつものことだよ。お前さんまで気にしなくていい」
蒼純の肩が少し下がった。
平子がこちらへ戻り、長椅子の空いていたところへ腰を下ろす。刀の位置を直してから両手を膝へ置いた。
「座るならさっき座ればよかったのに」
「朽木隊長の横は気ぃ遣いますわ」
「俺の横ならいいの?」
「今さらやないですか」
俺も座る。
蒼純はまだ立っていたので場所を空けてやった。今度は少し迷ってから腰を下ろす。三人並ぶと長椅子が鳴り、平子が端を見た。
「これ、折れません?」
「折れたら立てばいいよ」
「そういう話してへんのですけど」
蒼純が声を漏らした。
平子は顔を向け、笑うならもうちょっとそっちへ寄ってくれと言う。蒼純が座り直すと、今度は俺の膝が端へ出た。
川から風が上がる。
濡れた袖が冷たく、腕へ張りついた。少し浮かせてやると、平子がそっちへ飛ばさんといてくださいと身を引く。
その先で榛名が隊士を集めていた。
佐伯がこちらへ顔を向ける。俺が頷くより先に平子が立ち、蒼純も続いた。
「行きましょうか。乾くまで座っとったら日が暮れます」
俺も腰を上げる。
椅子がもう一度鳴った。蒼純が振り返って座面へ手を置き、何ともないことを確かめてからこちらへ来る。
平子はもう隊士へ声を掛けていた。
道へ出ると川が左へ曲がる。遠くで白い光が一つ上がり、その下を黒い袖が走っていった。