東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第二話:同じ匂い

~魔法の森 霧雨魔法店~

 

――棚の一番上で、何かがカサリと鳴った。

 

 魔理沙は研究ノートから顔を上げず、右手だけを伸ばした。研究用の干しキノコを入れておいた紙袋を探る。指先に触れたのは、口を開けられた紙袋と、その中の空気だけだった。

 

「……おい」

 

 魔法の森の奥、巨大なキノコの陰に建つ『霧雨魔法店』は、今日も店というより蒐集品の物置である。床には本の山、壁には竜の鱗や爪をぶら下げた紐、作業台には分解しかけのヘビィボウガンの部品。そのどれもが、主人にとっては『どこに何があるか分かっている』物だ。

 窓から差し込む朝の光は、森の胞子を含んでうっすらと金色に濁っている。小屋の中は、乾いたキノコと古い紙と、重弩の機関部に差した油の匂いが混ざり合っていた。炉の上では、魔法の試しに煮詰めている小鍋が、コトコトと蓋を鳴らしている。

 研究ノートの頭には、『紫傘と火薬、混合の割合』と書きかけたままだ。その割合を確かめるための干しキノコが、今しがた消えた。

 分かっていない物があるとすれば、それは大抵――屋根裏にある。

 魔理沙は帽子を指で押し上げ、天井の梁を見上げた。梁と梁の間に渡した古い板の上から、細く長い黒い尻尾が一本、ダラリと垂れ下がっている。尻尾の先が、寝息に合わせて小さく揺れていた。

 

「おいクスネ。紙袋に入れてあった私のキノコ、知らないか」

 

 尻尾が一度だけ、ピクリと動く。

 

「……知らない、ニャ」

 

 低くて、かすれた声が降ってきた。板の縁から、金色の目が片方だけ覗く。黒い毛並みに、鼻先と手足の先だけが白い。右耳の先が少し欠けている。魔理沙のオトモであり、そしてオトモとしては珍しい獣人のメラルーだ。

 

「口の周りに粉が付いてるぞ」

 

 金色の目が引っ込んだ。板の上でごそごそと、前足で顔を擦る音がする。

 

「……借りてるだけ、ニャ」

「食ったもんをどうやって返すんだよ」

「そのうち、ニャ」

 

 魔理沙は溜め息を吐き、椅子の背にもたれた。怒る気にはならない。自分も同じことを、香霖堂や紅魔館の図書館でやっているのだから。――クスネを迎えてから、否が応でも自分の行動が迷惑を掛けている事を自覚してしまっている。尤も、死んだら返すのは確実なので改めるつもりはこの魔法使いにはさらさら無いが。

 無理に取り返す代わりに、棚の一番下の段へ目をやる。そこだけは崩れた本も竜の骨も置かれていない。一つだけ、小さな飯椀が伏せてあった。縁が少し欠けた、朱塗りの木の椀だ。

 この椀だけは、一度も散らかしたことがない。

 

「……そういや、お前が来た日も、キノコを盗られたんだっけな」

 

 屋根裏からの返事は無かった。ただ、垂れ下がった尻尾の先が、少しだけ丸まった。

 


~幻想郷の山奥 山道~

 

―――その日、魔理沙は一匹のメラルーの尻を追いかけていた。

 会館でオトモを申し込んでから十日後の朝だ。霧雨魔法店の戸を叩いたのは、黒い毛並みに鼻先と手足の先だけが白い、小柄な獣人だった。右耳の先が欠けている。その獣人は「迎え、ニャ」とだけ言うと、さっさと森の奥へ歩き出した。

 それから半日、魔理沙はその尻尾だけを見て歩いている。

 案内役は、姿を消すのがやたらと上手い。藪に入る、岩の陰を回る、倒木の下をくぐる。そのたびに魔理沙は足を止め、草の揺れ方と、土の上に残った小さな足跡を探した。猫の足跡は、爪を隠して歩くので丸い。それを拾いながら進む。

 

「――おい、そこの猫。今、わざと撒いただろ」

 

 沈丁花の茂みの向こうで、金色の目が瞬いた。

 

「……撒いてない、ニャ」

「空き地の土に、わざわざ反対向きの足跡が付いてたぞ。尻尾で消し損ねてたけどな」

 

 尻尾が、ブワリと幅を広げた。それから案内役は何も言わず、また歩き出す。ただし、先ほどより少しだけゆっくりと速度を抑える。

 山は、奥へ入るほど何もかもが古くなっていった。苔に埋もれた石畳、割れた道祖神、木の根に飲まれた石垂。道と呼べる物があるのか無いのか、魔理沙にはもう分からない。ただ、案内役の細い尻尾だけが、迷いなく前を行く。

 一度だけ、案内役が足を止めて振り返った。

 

「……何で、引き返さない、ニャ」

「引き返す理由が無いだろ。お前の尻尾、見てて飽きないしな」

「……大抵の人間は、半分で帰る、ニャ」

「じゃあ、私は大抵じゃないんだろうな」

 

 案内役は何も言わず、また歩き出した。金色の目が、振り返る前より少しだけ細くなっていた。

 やがて山道が尽き、霧が濃くなる。その霧の奥に――不意に大きな茅葵き屋根が現れた。

 


~マヨヒガ 母屋~

 

―――誰も居ないのに、火鉢の鉄瓶が湯気を上げている。

 

 山奥に現れる無人の屋敷、『マヨヒガ』。縁側では普通の猫と尾の二つある猫とアイルーが一緒くたに丸まって昼寝をしている。裏手の斜面からは、金槌の音と、「そっちの粉、混ぜちゃ駄目ニャ!」というがなり声が聞こえてくる。タル爆弾を扱う稽古でもしているのだろう。

 座敷へ上がる前、魔理沙は庭をぐるりと見回した。母屋の裏手の斜面には、小さな屋根が段々に並んでいる。アイルーの村だ。屋根の上では、飯を炒く煙がいくつも立ち上っている。沢を一本越えた向こうからは、犬の吠え声が一つ、二つ。野原には丸太を組んで作った竜の模型が立ち、その足元で若いアイルーが木の剣を振るっていた。

 竜の模型の胸には、爆弾で焦げた穴が幾つも開いている。

 魔理沙の目は、その焦げ跡に吸い寄せられた。穴の大きさも、周りの焦げ方もばらばらだ。火薬の量を少しずつ変えて、何度も試した跡だ。

 

――得意な奴が居るな。

 

 そう思った時、自分の口元が緩んでいるのに気付いた。

 魔理沙は座敷に上がり、整えられた膳の前に座らされた。米と味噌汁、川魚の塩焼き、キノコの煑。煑のキノコは、魔法の森でもなかなか見つからない種類だった。

 

「……これ、誰が作ったんだ?」

「知らない。いつもそうなんだよね」

 

 奥の帳場から、二本の尻尾を揺らして少女が出てきた。猫の耳、赤い服、耳には金の耳飾り。この里のまとめ役で、オトモの育て親でもある化け猫の『橙』だ。両手で、墨で真っ黒になった台帳を抱えている。

 

「いらっしゃい。――へぇ、ちゃんと着いたんだ」

「なんだ、着いちゃまずかったのか」

「ううん。ただ、その子が案内だと、大抵は途中でみんな迷っちゃうからさ」

 

 橙が顔で示した先に、あのメラルーが座っていた。縁側の柱に背を預け、小さなつるはしを抱えている。細い柄の先に、小さな鉄の刃。メラルーなら必ず持っているとかいう[ネコピック*1]だ。

 

「この子が、魔理沙のオトモだよ」

 

 橙は座敷に台帳を広げ、指で一行をなぞった。字は斜めに傾き、あちこちに墨が滲んでいる。台帳を付けるのは、あまり得意ではないらしい。

 

「種族はメラルー。毛並みは鉢割れ。性格はこざかしい。得意は爆弾。名前は――クスネ」

「クスネ。――それ、名前で全部言っちまってないか?」

「だって、そういう子なんだもん」

 

 橙は悪びれもせずに頭を掻いた。

 

「この前なんか、私の台帳の筆を持ってったんだよ。三日探したんだから」

「……借りただけ、ニャ」

 

 縁側から、かすれた声が上がる。魔理沙は吹き出しそうになるのを、味噌汁の椀でごまかした。

 

「なんでこいつを、私に?」

 

 橙は、一瞬だけ言葉に詰まった。それから、台帳に目を落としたまま、もごもごと答える。

 

「……同じ匂いがしたから」

「匂い?」

「うん。迎えに行った子から聞いたの。あんたの家、いろんな所から持ってきた物の匂いがするって。――だから、同じ匂いだよ」

 

 何の匂いかを、橙は口にしなかった。魔理沙も聞かなかった。聞かなくても、大体の見当は付く。

 

「――じゃあ、面通しだよ。クスネ、こっち来なよー」

 

 クスネが、のそのそと座敷に上がってきた。魔理沙の膳の前で尻を下ろし、金色の目で下から上まで眺め回す。帽子、髪、革帯、弾薬帯。その目が、弾薬帯の所でしばらく止まった。

 

「……火薬の匂い、ニャ」

「分かるのか」

「二種類、ニャ。一つは里の火薬。もう一つは――キノコを焼いた匂い、ニャ」

 

 魔理沙は眉を上げた。弾薬帯の端に差しているのは、魔法の森のキノコを煸じて自分で調合した、試しの点火剤だ。里の火薬とは混ぜていない。言わなければ、誰にも分からない物だ。

 

「……へえ。いい鼻してるじゃないか」

 

 魔理沙が身を乗り出した、その時だった。

 クスネの身体が、ふっと膳の向こうに消えた。気付いた時には、もう縁側の柱の陰に戻っている。口に何かをくわえていた。

――干しキノコだった。

 魔理沙は帽子を取った。帽子の裏に縫い付けてある小さな隠し袋。そこに入れておいた、魔法の森でも三年に一度しか生えない紫の傘のキノコが、一つ消えている。

 

「――お前、それどこから……」

「種類が分からなかったから、確かめる、ニャ」

 

 橙が立ち上がって怒鳴った。

 

「もう、クスネ!お客さんの物には手を出しちゃ駄目って、何回言ったら分かるのよ!」

 

 クスネは耳を伏せた。だが、キノコは口から放さない。

 魔理沙は――笑っていた。

 

「いいよ、いいよ。キノコの一つくらい」

「えっ、でも……」

「私の帽子の裏にあるものを、一目で当てた。それだけじゃなく、スッてみせたんだぜ。そっちの方がよっぽど貴重だ」

 

 魔理沙はクスネの前にしゃがみ込み、金色の目を正面から覗き込んだ。

 

「そのキノコは貸しとく。――その代わり、私の狩りに付いて来い。その鼻を、全部借(・)り(・)る(・)ぜ」

 

 クスネはしばらく魔理沙を見ていた。それから、口のキノコを前足でとり、懐にしまった。

 

「……借りるだけなら、いい、ニャ」

 

――帰り際、橙は台所の棚から小さな朱塗りの飯椀を一つ選び、魔理沙に手渡した。縁が少しだけ欠けている。

 

「その子の帰る所の印だから。無くさないでね」

「……私の家で無くさないってのは、結構な難題だぞ」

「無くしたら、私が取りに行くんだからね」

 

 橙はそう言って、二本の尻尾をピンと立てた。

 帰り道は、行きよりずっと短かった。クスネは一度も姿を消さず、魔理沙の半歩前を歩いた。時々、道端のキノコに鼻を寄せては「これは、食える、ニャ」「これは、腹を壊す、ニャ」と、聞かれもしないのに報せてくる。外れたのは、十のうちひとつだけだった。

 霧雨魔法店に着くと、クスネは戸口で鼻をひくつかせ、そのまま一直線に小屋の奥へ入っていった。本の山を飛び越え、棚を駆け上がり、梁に飛び付く。古い板を渡した屋根裏の片隅で、一度ぐるりと回って、丸くなった。

 

「……ここ、借りる、ニャ」

「そこは物置だぞ。埃だらけだ」

「……いい匂いがする、ニャ」

 

 何の匂いかは、聞かないことにした。

 


~中央会館~

 

―――オトモを迎えてからの初めての依頼は、掲示板の一番下の段に貼られていた。

 

狩猟依頼:小型の駆除
目標:フロギィの群れの間引き。十頭以上
地点:魔法の森 入口の採集地(沈み沼の縁)
備考:採集人の籠・弁当が荒らされる。二名が毒で寝込む

 

 大した報酬も無ければ、珍しい素材も出ない。新人が最初に受けるような仕事だ。

 

「……魔理沙さんが、これですか?」

 

 受付の小鈴が、受注書と魔理沙の顔を見比べた。

 

「これがいいんだよ。こいつの初仕事だからな」

 

 魔理沙は足元を顔で示した。受付の台の下で、クスネが何食わぬ顔で尻尾を揺らしている。その前足が、台の上の筆立てに伸びかけていた。

 

「あっ、それは駄目ですよ!会館の備品ですから」

「……触ってない、ニャ」

 

 小鈴は筆立てを奥へ引っ込め、受注書に朱を押した。

 


~魔法の森 入口の採集地~

 

――キノコの傘の下に、竹籠が一つ転がっていた。

 魔法の森の入口は、人里の者が入ってもよいとされる、数少ない採集地だ。巨大なキノコが傘のように立ち並び、その根元に小さな食べられるキノコが群れて生える。奥へ進むほど空気が湿り、沼の匂いが濃くなる。

 朝霧が地面を伝い、空気には細かな胞子が金色に光って漂っている。風はほとんど無い。

 いつもなら、この時刻の採集地には人の声がする。籠を背負った里の女衆が、キノコの傘の下を屈んで歩き、「こっちにも生えてるよ」と声を掛け合う。魔理沙も何度か、その声に混ざってキノコを摘んだことがある。

 

――だが今朝は、誰も居ない。踏み荒らされた草と、折れた小さなキノコが、花を散らしたように地面に転がっているだけだ。

 魔理沙は背中のヘビィボウガンを下ろし、弾薬帯を一つずつ確かめた。通常弾、散弾、それに少しの貫通弾。腿の袋に回復薬を三つ。[解毒薬*2]を二つ。この頃の重弩は、まだ部品の継ぎ足しも少なく、今より一回り細い。それでも肩に食い込むくらいには重い。

 クスネは、籠の周りを一周していた。

 籠は採集人が逃げた時に落とした物だろう。肩紐が切れ、中のキノコが半分ほどばらまかれている。弁当の竹の皮は破れ、握り飯は一つも残っていない。

 クスネは、破れた竹の皮に鼻を近づけ、すぐに顔を背けた。

 

「……臭い、ニャ」

「どう臭い」

「甘くて、鼻の奥がツンとする。この匂いは――毒、ニャ」

 

 魔理沙もしゃがみ込んだ。竹の皮の破れ口に、紫がかった液が乾いてこびり付いている。その周りの落ち葉が、葉脈だけを残して黒ずんでいた。

 

「吐きかけた毒だな。――弁当を横取りした奴が、周りを威したんだろう」

 

 地面には足跡も残っている。三本の指。細く長く、爪の先が土に刺さっている。二本の脚で走る、身軽な生き物の足だ。大きさは人の掌ほど。それが、十、二十と重なり合い、籠の周りの土を踏み荒らしている。

 足跡の周りには、食べ残しも落ちていた。

 採集人の籠からこぼれたキノコではない。傘の裏が赤紫に染まった、里の者なら絶対に摘まない種類だ。それが、半分ずつ噿み切られて散らばっている。噿み口は小さく、細かい歯の跡が列になって残っていた。

 

「……毒キノコを、わざわざ食ってるのか」

 

 魔理沙は噛みちぎられた傘を一つ拾い、匂いを嗅いだ。鼻の奥がツンと痛む。竹の皮にこびり付いていた毒と、同じ匂いだ。

 

「食った毒を、そのまま吐いてるんだな。――少し持って帰るか」

 

 傘を紙で包んで袋にしまう。クスネが、その手元をじっと見ていた。

 

「群れだな。――毒を吐く、群れで動く、二本足。依頼の通りだ」

 

 依頼票にあった名は、『フロギィ*3』。沈み沼の周りに群れを作る、橙色の小型の竜だ。

 クスネが、地面に鼻を付けたまま、ゆっくりと先へ進む。そして、ある所でぴたりと止まった。

 

「――魔理沙、止まる、ニャ」

 

 魔理沙の右足が、落ち葉の上で宙に浮いたまま止まる。

 

「そこ、金属と油の匂いがする、ニャ」

 

 魔理沙は足を引いた。クスネがネコピックの先で落ち葉をそっと除ける。

 落ち葉の下に、金属の円盤が埋めてあった。縁に小さな爪が並び、真ん中に細い針金が一本張られている。その針金は、落ち葉の間を通って、傘のキノコの陰へ続いていた。

 

「……罠だな」

 

 金属の円盤は、河童製の[シビレ罠]に似ている。だが、起動の仕掛けが違う。踏むのではなく、針金を引いた時に弾けるようになっている。針金の先には、細く光る糸が結ばれていた。蜘蛛の糸のように白く、引っ張ると琴の弦のように鳴る。

 魔理沙は、その糸に見覚えがあった。

 

「……この罠はアイツか」

「誰、ニャ」

「黙って糸を辿れ。そうすりゃ分かる」

 

 糸は、傘のキノコから傘のキノコへ、人の胸の高さで張り巡らされていた。それにも匂いがあるらしい。クスネは一度も糸に触れず、その下をくぐって先へ進む。途中で二度、「ここも、ニャ」と足を止めた。落ち葉の下に、同じ円盤があと二つ埋まっていた。

 糸が集まる先に――一体の人形が座っていた。

 金髪に青い服、赤いリボン。掌に乗るほどの大きさの人形が、傘のキノコの傘の縁に腰掛け、沼の方をじっと見ている。その背中から伸びた糸が、霧の奥へ続いていた。

 人形の首がこちらへ回った。

 

「――罠の糸を踏まなかったのは褒めてあげるわ」

 

 霧の中から、落ち着いた声がした。

 現れたのは、金髪に赤いカチューシャ、青いワンピースの少女だった。肩から矢筒を下げ、腰には糸巻きをいくつも提げている。弓は、白い甲殻を薄く削って重ねた物で、弦には蜘蛛の糸のような白い繊維が張られている。

 魔理沙の隣人。人里ギルド所属のハンターにして人形遣いの魔法使い、『アリス・マーガトロイド』だ。

 

「やっぱりお前か。――会館の依頼に、先客がいるなんて書いてなかったぞ」

「依頼じゃないわ。観察よ」

 

 アリスは糸を一本、指に巻き取った。霧の奥で、人形がかすかに揺れる。

 

「この三日、群れがどう動くかを見ていたの。罠は、群れが罠の所まで来た時にだけ弾けるように糸で繋いである。――あなたのその獣人、よく気付いたわね」

 

 アリスの青い瞳が、クスネを値踏みするように細くなる。

 

「あら、メラルーなのね。その特性上オトモには合わない印象があったのだけど。……魔理沙にはお似合いね――後で、私の糸巻きが減ってないか数えておかなきゃ」

「……そんなの、借りない、ニャ」

 

 クスネはそう言いながら、アリスの腰の糸巻きをじっと見ていた。

 

「――それで、三日見て何か分かったのか?」

「群れは毎朝、沈み沼の北の縁で毒キノコを食べる。それからこの採集地へ下りてきて、人の籠を狙う。――そういう群れにしては、数が多すぎるのよ」

「多すぎる?」

「二十三頭。この森の入口の群れは、例年ならせいぜい十頭よ。――それと、もう一つ」

 

 アリスは、足元の土を靴の先で示した。

 採集人達の足跡の上に、一つだけ、大きな足跡が重なっていた。指は同じ三本。だが大きさが、他の足跡の三倍はある。爪の跡も深い。足跡の縁に、紫の毒が滴った丸い染みが、幾つも落ちていた。

 

「……長が居るのか」

「居るわ。群れの長。一昨日の夜から、太い声で屠えているのよ。子分を呼ぶ声。――群れが多いのは、そのせいだと思うわ」

 

 魔理沙は、大きな足跡の縁を指でなぞった。土はまだ湿っている。一日と経っていない。その先、足跡は沈み沼の方へ、霧の中に続いていた。

 クスネが、その足跡のひとつに鼻を入れ、尻尾をピンと立てた。

 

「……弁当の匂いもする、ニャ」

「つまり?」

「握り飯を食ったのは、こっちのデッカイの、ニャ。小さいのは、周りで吐いてただけ、ニャ」

 

 アリスが、初めてクスネの方へ体ごと向き直った。

 

~魔法の森 沈み沼の北の縁~

 

――沼へ近付くほど、霧の色が変わっていった。

 白かった霧が、少しずつ紫を帯びる。傘のキノコの色も暗くなり、足元の土は靴の底を吸い込むように柔らかい。木の幹に張り付いた苔が、ところどころ黒く枯れている。

 鳴いていた虫が――ふと黙った。

 代わりに、沼の方から音がする。クチャクチャと何かを食む音。それが、幾つも重なっている。

 クスネの耳が、音のする方へピクリと向いた。欠けた右耳の先が、小刻みに震えている。低く身を屈め、前足を一歩ずつ、落ち葉を鳴らさないように根の上へ置いていく。

 魔理沙もそれに倣った。重弩を胸の前に抱え直し、木の根から根へと足を運ぶ。土に踏み込めば、ずぶりと泥が鳴るからだ。

 後ろで、アリスが小さく鼻を鳴らした。

 

「……その子の足の運び、そのまま真似しなさい。あなたの足音よりずっとマシよ」

「……余計なお世話だ」

 

 魔理沙は倒木の陰に身を伏せ、帽子のつばを下げた。隣でアリスが口元を布で覆い、その後ろでクスネが鼻を地面に押し付けている。

 沼の縁に、橙色の群れが居た。

 人の胸ほどの背丈の、二本足の小型の竜。橙の皮に白い斑が散り、首が細く長い。その群れが、沼の縁に生えた赤紫のキノコを夢中で食んでいる。細い口でキノコを引き切り、上を向いて飲み込む。飲み込むたびに、首の横が微かに膨らんだ。

 

「……あのキノコ、人間が一口でも食えば血を吐いて死ぬやつだぞ」

「あの子達には御馳走よ。食べた毒を首の袋に溜めて、自分の毒にするの」

 

 アリスが小声で答える。彼女の人形が一体、倒木の上を沼の方へ走っていく。人形の手には小さな帳面が握られていた。

 群れの奥に、一頭だけ、食べていない竜が居る。

――デカい。

 他の竜の倍、いやそれ以上の背丈。同じ橙と白の斑の皮だが、色がずっと鮮やかだ。尾の先には大きな棘が生え、前脚の鱗と爪は他の竜より分厚く、硬そうに光っている。そして何より、頰から首の付け根にかけて、紫がかった袋が重たそうに膨らんでいた。

 その竜は、群れが食べている間、ずっと首を高く上げて周りを見回している。時々、近くの若い竜が食べるのを止めて見上げると、鼻先で小突いてまた食べさせた。

 やがて長は、群れから少し離れた倒木の上へ、重たい足音で上がった。そこには、竹の皮の包みが一つ、置かれている。採集地から引きずってきた物だろう。長は前脚の爪で包みを押さえ、細い口で中の握り飯を掘り出しては飲み込んだ。

 子分が一頭、倒木の下からそれを見上げているが、長は一粒も分けてやる素振りを見せない。

 

「……人の飯を覚えちまったか」

「だから、入口に下りてくるのよ。――群れが下りるのじゃないわ。長が群れを連れて下りるの」

 

 アリスの帳面には、三日分の群れの動きが、細かい矢印で書き込まれていた。どの朝も、先頭の矢印は一頭分だけ太い。

 

――『毒狗竜:ドスフロギィ』

 

 群れの長。採集地の大きな足跡の主だ。その口の端に、竹の皮の切れ端が引っ掛かっているのを、魔理沙は見た。

 

「……握り飯の犯人、見つけたぜ」

 

 アリスが帳面を開き、群れの数を指で辿る。

 

「――二十一。二頭は山の方へ分かれたんでしょうね。――いい、魔理沙。依頼は駆除。長を狩れとは書いてないわ」

「分かってる。でも、長が居る限り、間引いた端からあいつがまた子分を呼ぶんだろ」

「だから、追い払うの。沼の奥へ。群れが小さくなれば、あの子は里の籠には手を出さなくなるわ」

 

 魔理沙は少し考えて、肩をすくめた。

 

「――じゃあ、先に子分を間引く。長が出てきたら、痛い目を見せて奥へ帰す。それでいいか」

「罠はまだ三つ生きてるわ。群れを採集地の方へ追い返したら、私が弾かせる」

 

 魔理沙は後ろを振り返った。

 

「クスネ。お前はここで待ってろ。初仕事だ。無理はするな」

「……分かった、ニャ」

 

 クスネはそう言って頷く。だが――その視線は魔理沙の弾薬帯をじっと見ていた。

 


 

 魔理沙は倒木の上に重弩を据え、散弾を装填した。重い槓桿を引くと、ガチリと弾が座に収まる。

 群れはまだ気付いていない。

 

――狙うは、食いついてる奴らの真ん中。

 

 引き金を引く。

 ヘビィボウガンの反動に耐え、散弾が扇形に散った。キノコを食んでいた三頭が、まとめて沼の縁に転がる。二発目。さらに二頭を転がす。

 群れが一斉に首を上げた。

 何頭かがこちらへ駆けてくる。走りながら首を引き、口を開けた。紫の霧が、プフッと吹き出される。小さな竜の毒の息だ。届く距離は短い。

 魔理沙は倒木を蹴って後ろへ下がり、三発目を放った。霧ごと先頭の二頭が吹き飛ぶ。

 

「――九つ!」

 

 弦が鳴った。右手の茂みから、アリスの矢が続けざまに飛ぶ。一本ずつ、走る竜の首を正確に射貫く。その後ろで人形が罠の糸を引いた。落ち葉の下で円盤が弾け、青白い火花が二頭を縛り付ける。

 十三、十四。

――その時、沼の奥から、太い声が響いた。

 

〈ゴアアアアッ、ゴアアアアアッ……!〉

 

――長が、子分を呼んだ。

 野太く、腹の底を揺らすような声だ。散りかけていた群れが、その声に引かれて長の周りに集まる。残った七頭が、長を囲むように輪を作った。

 その輪の真ん中で、長が首を引いた。

 首の袋が、ムクムクと膨らむ。

 

「――アリス、毒霧が来るぞ!」

 

 長の口から、紫の霧が吐き出された。子分の息とは比べ物にならない。地面を這うように広がり、倒木の周りを飲み込んでいく。そして、消えない。風の無い森の底に、重たく溜まったまま居座る。

 魔理沙は帽子で口を覆い、横へ走った。その足を追うように、長が突っ込んでくる。

 頭を低くし、肩から体当たり。縦に長く伸びる。真っ直ぐだ。

 

――横だ。

 

 魔理沙は重弩を抱えて横へ転がった。長の巨体が、自分が居た所を素通りしていく。その勢いのまま傘のキノコにぶつかり、キノコが根元から折れた。

 起き上がりざま、通常弾を込める。一発、二発。長の肩の鱗が弾ける。だが、前脚の分厚い鱗に当たった弾は、火花を散らして弾かれた。

 

「――硬ったいな!」

 

 長は振り返りざま、尾を大きく薙ぎ払った。先の棘が、魔理沙の帽子のつばを掟める。風が鼻先を打った。

 そこへ、アリスの人形が飛び込んだ。小さな槍を長の鼻先でちらつかせ、すぐに横へ逃げる。長の首が人形を追い、牙が空を噛んだ。その一瞬、魔理沙は傘のキノコの陰へ走り込んだ。

 

「――助かったぞ」

「壊したら弁償よ」

 

 返事をする前に、長の目がまたこちらを捉えた。人形は飛び回る。当たっても痛くない。それに気付いたのだろう。群れの長は、何が一番危ないかをよく分かっていた。

 長が狙いを定めるように、首を魔理沙の方へ向けた。子分が二頭、左右から回り込んでくる。

 アリスの矢が一頭を射、もう一頭は魔理沙の散弾が吹き飛ばした。だがその間に、足元の紫の霧が、靴の足首まで届いている。

 喉の奥が、焼けた。

 咳き込む。胸が熱い。指先が痺れるように重くなっていく。毒が回っている。

 魔理沙は霧の外へ転がり出、腿の袋から解毒薬を引き抜いた。栓を歯で抓き、一息に呂る。苦い。喉の燒けが、少しずつ引いていく。

 だが、その間に重弩の弾は尽きていた。

 

――装填。

 

 弾薬帯から弾を抓む。指がまだ痺れていて、一つを取り落とした。

 長は、その一瞬を見逃さなかった。

 尾の棘を上げ、首を低くして、脚を引く。突進の構えだ。重弩を抱えては、横へ転がるのにも間に合わない。

 

――まずい。

 

 魔理沙が重弩を盾のように掛げた、その時だった。

 倒木の陰から、黒い影が飛び出した。

 

「――こっち、ニャ!」

 かすれた声が、長の鼻先で弾けた。

 クスネだった。長の目の前、牙の届く距離で、ネコピックを振り上げている。長の首が、小さな黒い生き物の方へぐいと向いた。

 

「クスネ、馬鹿、下がれ!」

 

 長の牙が、クスネの居た所を噛んだ。クスネはもうそこには居ない。長の前脚の内側をすり抜け、胸元に飛び付く。紫の袋のすぐ下。

 右手に、いつの間にか小さな筒を握っていた。筒の先が、錐のように尖っている。

 

「――仲良くしよう、ニャ」

 

 クスネは、それを袋の根元の鱗の隙間に突き立てた。筒の尻から小さな火縄が突き出し、ジリジリと燃えている。

 メラルーの得意技、[起爆竜弾]だ。

 長が身を捩って暴れる。クスネは、振り落とされる前に自分から飛び降り、沼の縁の泥に顔から突っ込んだ。

 

「――魔理沙!当てる、ニャ!」

 

 魔理沙は、弾を込め終えていた。

 起爆竜弾は、刺さっただけでは爆ぜない。刺さった所に衝撃が加わった時、はじめて火を吐く。クスネは、一番刺したかった所に刺し、一番強い弾を持つ者に引き金を譲ったのだ。

 

――袋の根元。

 

 引き金を引く。

 通常弾が、筒の尻を叩いた。

――ドッ、と腹の底に響く音がした。

 長の胸元で、橙の火が爆ぜた。紫の袋の根元の鱗が吹き飛び、袋の皮が裂ける。裂け目から、濃い紫の液がドロリと溢れ出した。吐くために溜めていた毒が、沼の水へ流れ落ちていく。

 

〈ゴアアアアアアアッ!!〉

 

 長が後ろ足で伸び上がり、太い声で咆哮した。橙の皮が赤みを帯び、鼻先から荒い息が吐き出される。――怒り状態だ。

 長はもう一度首を引いた。だが、袋はもう膨らまない。吐き出したのは、薄い紫の息がひと吹きだけだった。

 長は、それに自分で驚いたように首を振った。

 だが、怒りは止まらない。

 長は首を低くし、先ほどよりずっと速く地を蹴った。突進。しかも一度では終わらない。傘のキノコにぶつかっては向きを変え、沼の泥を蹴ちらしてはまた突っ込んでくる。一度、二度。魔理沙はそのたびに横へ転がり、泥にまみれる。

 三度目、長の肩が重弩の銃身を掟めた。重弩ごと体が回り、背中から倒れ込む。肺の空気が一気に押し出された。

 転がったまま、腿の袋から回復薬を抓む。栓を抜く手が震えていた。緑の液を呂ると、胸の痛みが少しずつ遠のいていく。

 

――霧が吐けない分、体で来やがる。

 

 魔理沙は泥の中から立ち上がり、重弩を引き寄せた。長はまた首を低くしている。その前脚の内側、硬い鱗の継ぎ目が、走るたびに開いたり閉じたりしているのが見えた。

 

「――もう霧は吐けねえぞ。――アリス!」

「分かってるわ」

 

 アリスの弓が、弦を限界まで引き絞った。白い矢が風を切り、長の前脚の硬い鱗と鱗の継ぎ目に、深々と突き刺さる。

 長がよろめいた。

 魔理沙は、重弩の槓桿を引いた。散弾。狙いは長ではなく、輪に残った子分達だ。

 散弾が扇に散って、三頭が沼に落ちる。残りは既に、方々へ逃げ散っていた。

 周りにもう子分は居ない。袋からは毒が漏れ、脚には矢が立ち、霧は出ない。

 長は、一度だけ魔理沙の方を振り返った。

 それから、脚を引きずりながら、紫の霧の奥へ、沼の向こうの暗い森へと消えていった。

 

〈ゴアアア……〉

 

 遠くで、一度だけ声がした。だが、それに応えて集まる子分は、もう居なかった。

 霧が、ゆっくりと薄れていった。

 魔理沙は重弩を下ろし、その場に座り込んだ。喉の奥にはまだ苦味が残っている。指先の痺れは、ようやく引き始めていた。

 沼の縁の泥の中で、何かがもぞもぞと動いた。

 黒い毛を泥でさらに黒くしたクスネが、顔だけを出して、ペッと泥を吐き出した。

 

「……苦い、ニャ」

「当たり前だ。毒の沼だぞ、そこ」

 

 魔理沙は立ち上がり、クスネの首根っこを抓んで泥から引き上げてやる。魔理沙の腿の袋には解毒薬がもう一つ残っている。それを半分、クスネの口に流し込んだ。

 

「……もっと苦い、ニャ」

「文句言うな。――待ってろって言っただろ」

「……魔理沙が、弾を落としたから、ニャ」

 

 クスネは、金色の目を魔理沙から逸らした。でも、もう一度言い直す。

 

「……落とした弾、拾っといた、ニャ」

 

 前足が、泥だらけの通常弾を一つ、魔理沙の掌に載せた。

 魔理沙は、しばらくその弾を見ていた。それから、弾を弾薬帯に戻し、クスネの頭の泥を乱暴に拭った。

 

「――そうか。そりゃ、助かった」

 

 アリスが弓を肩に掛け、沼の縁に倒れた子分の数を帳面に付けながら歩いてくる。人形が後ろで、弾けた罠の円盤を拾い集めていた。

 

「十七頭。依頼の数は足りてるわ。残りは六頭――長が居なければ、この森の入口にはそれくらいが丁度いい。帰ってこなければ、だけど」

「袋が裂けたんだ。しばらくは霧も吐けないだろうよ。入口まで居座る気にはならないだろ」

 

 アリスは帳面を閉じ、クスネを見下ろした。

 

「――その子、罠の糸を一度も引かなかったわね。三つ全部、匂いだけで」

「……糸は、糸巻きの匂いがする、ニャ」

「私の糸巻きの、ね」

 

 アリスは腰の糸巻きを指で数えた。一つ、二つ、三つ。――四つ目で、指が止まった。

 

「……魔理沙」

「私じゃないぞ」

 

 クスネは、既に倒木の向こうへ歩き出していた。細く長い尻尾の先に、白い糸が一本、引っ掛かって揺れている。

 

「――そこの猫!」

「……借りてるだけ、ニャ」

「メラルーはメラルーね……泥棒猫がまた一匹増えるなんて……!」

 

 その後ろで、魔理沙は腹を抱えて笑った。

 それから二人と一匹は、沼の縁に倒れた子分達の後始末をした。

 毒の袋を傷つけないように、小刀の刃を浅く入れる。切り取った袋は、中の毒が漏れないように口を紐で縛ってから、蓋付きの壺へ。橙と白の斑の皮は、薄くてしなやかだ。里の革屋なら微笑んで買い取るだろう。

 

「――袋は一つ、私がもらうぞ。火薬に混ぜるとどうなるか試したい」

「そういうことを言うから、あなたの家は燃えるのよ」

「燃えたことは無いぞ。焦がしたことはあるけどな」

 

 大地に伏した子分の前で、アリスが少しだけ手を止めた。竜は死んでも霊にならない。それでもアリスは、開いたままの小さな目を、指先でそっと閉じてやっていた。

 ふと気付くと、クスネが居ない。

 探す間もなく、紫の霧の残りから、黒い小さな影が戻ってきた。口に、橙色の片をくわえている。

 掌の大きさほどの、分厚い鱗だった。縁が焦げ、裏にはまだ紫の毒がこびり付いている。起爆竜弾で吹き飛んだ、長の袋の根元の鱗だ。

 

「……くすねてきた、ニャ」

「落ちてたんだろ」

「……くすねてきた、ニャ」

 

 クスネはそれを譲らなかった。魔理沙は吹き出し、鱗を受け取った。

 

「わかったよ。お前の手柄だ。――これでお前の防具を作ってもらうか」

 


 

 帰り道、採集地の籠を拾い上げた。紐を結び直し、ばらまかれたキノコを拾い集めておく。毒がかかった物を、クスネが鼻で選り分けた。

 採集人の家に籠を届けると、毒で寝込んでいた娘の母親が、上り框に頭を擦り付けて礼を言った。その後、お茶請けに干し柿を出してくれた。

 皿には五つあった。魔理沙が一つ食べ、茶を飲んで皿を見ると、二つになっていた。

 足元のクスネは、恒常の顔で尻尾を揺らしていた。

 その夜、霧雨魔法店の棚の一番下の段から、本と竜の骨が片付けられた。

 そこに、朱塗りの小さな飯椀が一つ、伏せて置かれた。

 それから半月後、マヨヒガの鍛冶小屋から、クスネの防具が届いた。

 胸当ての真ん中に、あの橙の鱗が一枚。周りには、魔理沙が重弩を継ぎ足した余りの素材が、色も形もばらばらのまま縫い付けられている。頭には、魔理沙の古い帽子の端切れで作った、小さな三角帽。ネコピックの柄には、星形の飾りが一つ付け足されていた。

 継ぎはぎだらけで、ちっとも揃っていない。

 クスネはそれを着て、魔理沙の前で一度だけぐるりと回った。それから、何も言わずに屋根裏へ駆け上がっていった。

 屋根裏から、しばらくの間、尻尾で板を叩く音がしていた。

 


~魔法の森 霧雨魔法店~

 

――屋根裏の板が、ギシリと鳴った。

 いつの間にか、垂れ下がっていた尻尾が引っ込んでいる。代わりに、板の縁から黒い前足が突き出された。

 前足が、何かを放った。

 研究ノートの上に、乾いた音を立てて落ちたのは、小さな干しキノコだった。

 紫の傘。乾き切って縮んで、色も半分押せている。今朝の紙袋の物ではない。魔法の森でも三年に一度しか生えない、あの種類のキノコだった。

 

「……お前、これ――」

「……代わり、ニャ」

 

 屋根裏から、かすれた声が降ってきた。

 

「今朝のは食ったから、それを返す、ニャ」

「……どう考えても、こっちの方が貴重だぞ」

「……それは、食べると苦い、ニャ。置いとくだけにしてた、ニャ」

 

 魔理沙は、乾いたキノコを指先で転がした。

 あの日、「貸しとく」と言って渡したキノコだ。屋根裏のどこかに、ずっとしまってあったらしい。借りた、くすねたと言いながら、この一つだけは食べもせず、売りもせずに。

 

「……返すのはいつか、じゃなかったのかよ」

「……今が、そのいつか、ニャ」

 

 魔理沙は少し黙った。それから、キノコを指で摘み上げ、棚の一番下の段へ手を伸ばす。伏せた飯椀を起こして、その中にキノコを入れた。

 

「――返さなくていい。それはお前の椀に入れとく」

 

 屋根裏は静かだった。

 しばらくして、板の縁から金色の目が片方だけ覗いた。

 

「……それは、借りてるだけになるのか、ニャ」

「さあな。――死ぬまで借りとけよ」

 

 魔理沙は帽子を目深に引き下げ、研究ノートに向き直った。

 屋根裏から、もう一度だけ、細く長い尻尾が垂れ下がった。その先は、丸まって、ゆらゆらと揺れていた。

 

――魔法の森の物置には、今も一つだけ、散らからない棚がある。

 

*1:
アイルー・メラルーが持ち歩く小さなつるはし。採掘にも、身を守るのにも使う。

*2:
体に回った毒を打ち消す薬。

*3:
沼地や湿った森に群れで棲む、二本足の小型の竜。橙色の皮を持ち、毒の息を吐く。




『アリス・マーガトロイド』
所属:人里ギルド、および猟団"魔狩の集い"
役職:登録ハンター。精密射撃・罠・偵察。人形遣いの魔法使い
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