東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~迷いの竹林 妹紅の家~
――砂を含んだ水が、研石の上で赤く濁る。
夕暮れの竹林は、風が止むと竹の葉の擦れる音も消えて、不意に静かになる。その静けさの中で、竹林の奥の小さな家から、シャッ、シャッと刃を研ぐ音だけが続いていた。
竹林の奥の家は、小さな平屋だ。竹を組んだ垣根に、干した薬草の束がいくつも吊るされている。軒下には割った薪が積まれ、その脇に、使い込んだ鍬と竹を伐る鉈が立てかけてあった。迷いの竹林の道案内が住む家だと知らなければ、ただの炭焼きの小屋にしか見えないだろう。
縁側に胡座をかいているのは、白い長い髪に大きな赤白のリボンを結んだ少女。白いシャツの袖を肘までまくり、赤いサスペンダーは肩から外して腰に垂らしている。人里ギルド所属のハンター、妹紅だ。
膝の前には、二振りの刃が並んでいる。赤黒い甲殻を研ぎ上げた刃。対になった翼のような形の双剣だ。妹紅はその片方を取って研石に当て、一定の拍子で前へ押し出しては戻す。
刃の根元で、何かがチリと光った。研ぐたびに、火の粉が一粒だけ散る。刃の根元に仕込んだ火竜の火炎袋が、砂と擦れて火を吐くのだ。
研ぎ汁に落ちた火の粉が、ジュッと小さく鳴って消える。妹紅はそれを気にも留めない。刃の反りに沿って研石を滑らせ、時々、親指の腹で刃先を撫でて確かめる。指先が引っかかる所があれば、そこだけを何度も研ぐ。急がない。乱さない。長い年月を生きてきた者の、気の長い手つきだった。
「――居るか、妹紅」
竹林の小道から、聴き慣れた声がした。
小道に立っていたのは、青みがかった銀髪に、建物のような形の帽子を載せた女だ。手には風呂敷の包みを提げている。人里ギルドのギルドマスター、慧音だ。
「居るよ。――どうした、こんな時間に」
「鯢呑亭の美宵が、煮物を作りすぎたんだそうだ。お前にも持っていけと」
慧音は縁側に包みを置き、妹紅の隣に腰を下ろした。それから、研石の上の刃に目を落とす。
「……また研いでいるのか。三日前にも研いでいただろう」
「欠けてはいないんだがな。――こいつは、研いでると落ち着くんだ」
妹紅は刃を夕日にかざした。赤黒い刃の上を、橙の光が滑っていく。
慧音はそれ以上何も言わなかった。ただ、妹紅の右の手首を、一度だけ見た。
そこには何も無い。傷も、痕も。
無いことを、慧音は知っている。それでも見てしまうのは、あの日、そこが骨まで焼けていたのを覚えているからだ。
「……火竜の刃も、もう長いな」
「あぁ。――少なくとも、あいつよりは長く生きてる」
妹紅はそう言って、もう一度刃を研石に当てた。
竹の葉が、少しだけ鳴った。
~中央会館 ギルドマスター室~
―――その年の春は、空から火が降ってきた。
最初は、人里の南東の放牧地だった。草を食んでいた草食竜の群れから、一頭が不意に消えた。牧童は「赤い影が空から落ちてきて、掴んで飛んでいった」と言った。それが三度続いた。
四度目は、竹林の端にある炭焼き小屋が焼けた。穴窯の煙を嫌ったのか、小屋の主を獲物と見たのか。空から火の玉が落ちてきて、小屋の屋根ごと吹き飛んだ。炭焼きの
源三は、里の診療所で背中に薬を塗られながら、震える声で言ったという。
「空のずっと上で、赤いのがぐるぐる回っとった。……窟の煙の上を、ずっとだ。そしたら、火が降ってきたんだ」
空から獲物を探す竜にとって、立ち昇る煙は、そこに何かが居るという目印になるのかもしれない。
そして五度目。竹林の東の端が、一筋に焼けた。
「――竹林に火が回ったら、私と兎達だけじゃとても消せない」
妹紅は、慧音の机の端に片手を突いていた。もんぺの裾が煙臭い。焼けた竹林の火を、一晩かけて叩き消してきたばかりだった。
ギルドマスター室は、中央会館の奥まった一室だ。壁一面の棚には、狩猟の記録と里の歴史の書が隙間なく詰まっている。窓から差し込む朝の光が、机の上に積まれた依頼票の束を白く照らしていた。
妹紅の頬にも手の甲にも、煤が黒く筋を引いている。シャツの袖の端は焦げて縮れ、白い髪からは焼けた竹の匂いがした。
この頃の妹紅は、まだハンターの登録をして一年も経っていない。背には工房で借りた鉄の双剣を負い、防具と呼べる物は、竹林の整備で使う厚い革の手甲くらいだ。
「分かっている」
慧音は、理香子から上がってきた報告書をめくった。
「『リオレウス』――火竜の雄だ。番は確かめられていない。竹林の東の崖に巣を作っているらしい。――巣の真下を、里の街道が通っている」
「追い払えばいいのか」
「火竜は、巣を作った縄張りからは退かない。追い払っても、後になって届く番と二頭で戻ってくる。巣を移すには、人に近すぎる」
慧音は筆を取り、依頼票に一行を書き足した。それから、しばらく筆先を止めていた。
慧音の視線が、妹紅の背へ移る。借り物の双剣の柄に巻かれた革は擦り切れ、鞘の留め具も一つ欠けている。
「……工房に、[閃光玉]と[解毒薬]を用意させる。必ず持っていけ。火竜の後ろ脚の爪には、毒がある」
「……詳しいな」
「書庫には、人里がこれまでに狩った竜の記録が全部ある。――狩ろうてして、負けた記録もな」
「――妹紅。一つだけ約束してくれ」
「……何だ」
「『どうせ死なない』で、火球の前に立つな」
妹紅は少し笑ったが、答えはしなかった。
~人里南東 放牧地~
――草の上に、焦げた骨が散らばっていた。
朝の放牧地には、草食竜の姿が一頭も無い。牧童達が三日前から、群れを里の柵の中に入れたままにしているのだ。風は南から吹いている。空は晴れ、雲は高い。空を飛ぶ竜には、よく見える日だ。
遠くの柵の向こうでは、閉じ込められた草食竜達が、落ち着かない声で鳴き交わしている。時々、群れの全てが同時に首をもたげ、空を見上げる。何も無いと分かると、また首を下げる。それを、何度も繰り返していた。
――空から来るものを、群れは覚えている。
妹紅は、骨の前にしゃがみ込んだ。
草食竜の肋骨だ。大きさからすると、一頭分の半分も無い。残りはどこかへ運ばれたのだ。骨の表は黒く焦げ、肉の断片がこびり付いた端は、砂のように崩れる。指で触ると、まだ微かに温かい。
――焼いてから、食った。
獲物を仕留めた後、その場で火を吐いたのだ。焼けた草が、骨を中心に円く黒い輪を描いている。輪の幅は、大人が両腕を広げたほど。炎は一気に燃え上がり、一気に消えたらしい。輪の外の草は、根元が焦げただけで青いままだった。
骨から少し離れた所に、地面を深く抉った跡があった。
四本の筋。三本が前へ、一本が後ろへ伸びている。人の前腕ほどの長さで、土を崖のようにえぐり取っている。筋の周りの草が、なぜかそこだけ黒く萎んでいた。
妹紅は自分の手を広げ、筋の幅に当ててみた。爪一本分の溝に、指が三本、すっぽりと収まる。この爪に掴まれたら、人の胴など一握りだろう。
妹紅は筋の底の土を指ですくい、鼻に近づけた。鉄錆のような、生臭い匂いがする。
――毒だ。
空から落ちてきて、後ろ脚の爪で獲物を押さえ込んだのだ。爪から滲んだ毒が、草の根まで枯らしている。引きずった跡は無い。仕留めて、焼いて、食って、残りを掴んで飛んだ。地面を走る竜なら、跡が残るはずだ。
少し先の草の上で、何かが日を返して光った。
――鱗だ。掌ほどの大きさで、表は深い赤。縁は黒ずんで尖っている。空から落ちてきたのだろう。拾い上げると、鉄の板のように重く、硬い。
妹紅は、その鱗を掌に載せ、もう片方の手の指先に小さな炎を灯した。炎を鱗に当てる。
鱗は、焦げなかった。
炎の当たった所が、少し赤を増しただけだ。裏返すと、裏は冷たいままだった。
「……へえ」
妹紅の炎は、人も妖怪もよく焼く。その炎が、この鱗一枚を通り抜けない。
妹紅は鱗を懐にしまい、空を見上げた。
東の崖の上。晴れた空に、小さな黒い影が一つ、大きな円を描いていた。
~竹林の東 崖下の雑木林~
――高い木の幹に、爪の跡が刻まれていた。
崖へ続く斜面の雑木林は、竹林とは匂いが違う。湿った落ち葉の下から、土の甘い匂いが立ち上る。妹紅はその中を、足音を殺して登っていく。
一本の椎の木の前で、足が止まった。
大人の背丈の三倍ほどの高さ。幹の樹皮が、縦に長く剥ぎ取られている。四本の溝が平行に並び、溝の縁から白い木肌が覗いている。触れると、指先がべたついた。樹液がまだ乾いていない。
見回すと、同じ跡がいくつもある。どれも高い所だ。地面を歩く獣には届かない。空から降りて幹を掴み、引き裂いて、また飛び立った跡だ。
――ここから先は、己の空だ。
妹紅には、そう書いてあるように読めた。
火竜は、縄張りの境に爪跡を残す。慧音の書庫で読んだ古い狩猟の記録に、そうあった。跡を辿れば、縄張りの形が分かる。妹紅は爪跡の木を一本ずつ数えながら、斜面を横へ歩いた。
爪跡は、崖を中心に大きな弧を描いていた。その弧の内側を、人里の街道が通っている。荷車の轍が、焦げた草の間に二筋、くっきりと残っていた。
――通る者は、全部が侵入者だ。
斜面の上の方に、岩が崩れて小さな棚になった所がある。妹紅はそこまで登ると、腹這いになって崖を見上げた。
崖に近付くにつれて、風に混じる匂いが変わった。焦げた肉の匂い。腐った血の匂い。それに、砂の奥に潜むような、黄色い硫黄の匂い。火を吐く竜の息の匂いだ。妹紅は、口元を袖で覆った。
崖の中ほど、人の手の届かない高さに、岩の窪みがある。窪みの縁から、枯れ枝と枯れ草が溢れていた。
――巣だ。
巣の下の岩肌は、白い糞と黒い煤で斑に汚れている。崖の根元には、運び上げきれなかった骨が転がっていた。草食竜の頭骨。ケルビの細い角。それに、焦げた木の板が一枚。ちょうど、戸板ほどの大きさだ。
源三の小屋の物だろう。妹紅は、奥歯を一度だけ噛んだ。
巣に卵は見えない。番の姿も無い。枯れ枝はまだ青みを残していて、組まれてから日が浅い。雌を迎える前の、作りかけの巣だ。
番が揃えば、卵を守る二頭が、この崖の下を通る者を全て敵と見なす。そうなれば、街道は使えなくなる。竹林も、毎晩のように燃える。
――片を付けるなら、今だ。
バサッ――と。風が、上から叩きつけてきた。
妹紅は岩の棚に身を伏せた。頭の上を、赤い影が通り過ぎていく。落ち葉が舞い上がり、枝がザワザワと鳴った。
翼を広げた幅は、民家の屋根ほどもある。赤い甲殻が日を受けて、燃えるように光る。翼の縁は黒く縁取られ、翼の付け根からは鉤のような爪が突き出していた。長い尾の先は、棘を並べた鎚のように膨らんでいる。そして、腹の下に畳まれた後ろ脚。太い爪が、獲物を探すように開いては閉じていた。
火竜は崖の上を大きく一周すると、巣の縁に降り立った。長い首を伸ばし、ゆっくりと辺りを見回す。口の端から、細い煙が一筋立ち昇っていた。
しばらくすると、火竜は巣の縁から首を伸ばし、崖の割れ目に生えた灌木の枝を一本、口で折り取った。それを咥えて巣の中へ置き直す。それから、また別の枝を。崩れかけた縁を、一本ずつ組み直していく。
――番を迎える支度だ。
屋根ほどの翼を持つ竜が、巣を繕う小鳥のように、黙々と枝を運んでいる。その姿は、放牧地で骨を焼いた竜と同じものには見えなかった。
喉の奥が、ほのかに赤く光っている。
あれが、空から降ってきた火の正体だ。
妹紅は、背の双剣の柄にそっと触れた。工房で借りた、名も無い鉄の双剣だ。柄に巻いた革は擦り切れていて、前に誰が使っていたのかも分からない。
柄は冷たかった。
――向こうは、私が死なないことを知らない。
それは、こちらの有利だろうか。それとも――。
妹紅は答えを出さないまま、日が傾くのを待った。火竜は日暮れ前に、もう一度縄張りを見回りに飛ぶ。帰ってきた時、崖の下の河原に、見慣れない者が一人立っていればいい。
待つ間に、妹紅は得物を確かめた。
借り物の双剣を抜き、刃を指でなぞる。前の持ち主が付けたのだろう、片方の刃の根元に、小さな欠けが一つある。研ぎ直してはあるが、硬い物に何度も当てれば、そこから割れるかもしれない。
干し肉を一切れ噛む。塩味が、乾いた口の中にゆっくりと広がる。
崖の上では、火竜が首を丸めて目を閉じている。翼を体に畳むと、赤い甲殻が岩の色に溶け込み、どこに居るのか分からなくなった。
その寝姿を見ながら、妹紅はふと、慧音の顔を思い出した。
――『"どうせ死なない"で、火球の前に立つな』
――立たないさ。立たずに済むなら。
だが縄張りの主は、それを許さないだろう。
~東の崖 崖下の河原~
――日が、西の山の稜線に掛かった。
崖下の河原は、川が大きく曲がる内側に広がった石の原だ。丸い石がどこまでも続き、草はほとんど生えていない。燃える物が無い。だから妹紅は、ここを選んだ。
ただし、河原の西の端は、竹林に続いている。春の風に乾いた竹の葉が、夕日の中でカサカサと鳴っていた。
妹紅は河原の真ん中に立ち、空を見上げていた。腰の袋には、工房で持たされた道具が入っている。[回復薬]が二つ。[解毒薬*1]が一つ。それに、[閃光玉]が一つ。
――東の空に、黒い点が現れた。
点はみるみる大きくなる。翼が空気を打つ音が、遅れて届いた。火竜は河原の上で一度旋回し、妹紅の姿を捉えた。翼を大きく広げ、風を叩きつけながら、河原に降り立つ。石がガラガラと弾き飛んだ。
いや、すぐには降りてこない。火竜は河原の上を、二度、三度と大きく回った。翼の影が石の上を滑り、妹紅の体を通り過ぎていく。見定めているのだ。自分の縄張りに立つ、白い髪の小さな生き物が、獲物なのか、敵なのかを。
火竜が、首を高くもたげる。口の端に、火が熻っている。
咆哮が、河原を叩いた。
空気が壁になってぶつかってくる。耳の奥がキーンと鳴り、足が勝手に止まる。妹紅は思わず両手で耳を塞いだ。
その隙に、火竜が首を後ろへ引いていた。喉が赤く膨らむ。
――来る。
妹紅は横へ跳んだ。さっきまで立っていた所を、橙色の火の塊が通り過ぎる。背後で、ドウッと爆ぜた。焼けた石が砂と一緒に降ってきて、肩を叩く。河原の石が、円く赤々と焼けていた。
火竜は休まない。首を振り、もう一度火球を吐く。妹紅は石の上を転がって避けた。起き上がる前に、足の下の石が揺れる。
火竜が、太い脚で石を蹴散らしながら突っ込んでくる。頭を低く下げ、翼を半ば開いた突進だ。妹紅は横へ跳び、火竜の脇腹を擦るようにして抜けた。熱い。甲殻そのものが、日向に晒した鉄のように熱を持っている。
火竜は河原の端で足を止め、ゆっくりと振り返った。金色の目が、妹紅を見据える。
妹紅は走りながら、背から双剣を抜いた。右手と左手に一振りずつ。鉄の刃が夕日を返す。
腰を落とし、二振りを体の前で低く構える。双剣には盾が無い。受けることは考えない。避けて、潜り込んで、斬る。工房の練習場で、何度もそう叩き込まれてきた。
火竜の足元へ飛び込む。右、左、右。小刻みに刃を振るう。
ガキン、と手が痺れた。
脚の甲殻が、鉄の刃を弾いたのだ。火花が散る。甲殻には、細い線が一本引かれただけだ。
――硬い。
焦げなかったあの鱗を思い出す。炎にも刃にも、この竜の外側は強い。
火竜の体が、グルリと回った。
尾だ。棘の並んだ尾の先が、地面すれすれを薄いでくる。妹紅は身を沈めた。頭の上を尾が通り過ぎ、髪が何本か切れて飛んだ。
回り終えた火竜の腹が、目の前にあった。
腹の皮は、背の甲殻より色が淡い。妹紅はそこへ刃を突き上げた。今度は、刃が肉に入った。暖かい血が、手首を伝う。
火竜が、翼を打った。
風圧で妹紅の体が後ろへ転がる。起き上がった時には、火竜はもう宙にいた。翼をゆったりと大きく打ち、河原の上に浮かんでいる。
空から、火が降ってきた。
一つ、二つ。斜め上から吐き下ろされる火球が、河原に穴を穿つ。妹紅は石の上を転がり、走り、また転がる。砂と煙で、空が見えない。
――煙の向こうで、翼の音が途切れた。
羽ばたきを止めたのだ。
煙を裂いて、赤い影が斜めに滑り降りてくる。翼を広げたまま、音も無く。後ろ脚の爪が、妹紅の頭へ向けて開かれていた。
届かない。そう分かった時には、もう遅い。
左の肩を、爪が抉っていった。
焼けた火箸を押し当てられたような痛みだ。革の手甲の紐が切れ、肩から腕へ血が流れる。妹紅は石の上に転がり、立ち上がろうとして――膝が折れた。
視界が、グラリと揺れる。喉の奥から、酸っぱい物がせり上がってきた。傷の周りが、熱いのに冷たい。
――毒だ。
後ろ脚の爪の毒。河原の草を黒く枯らしたあの毒だ。
妹紅は腰の袋を探り、[解毒薬]の栓を歯で引き抜いた。苦い液を一息に飲み干す。胃の底がカッと熱くなり、それから、視界の揺れがゆっくりと収まっていった。
続けて[回復薬]の栓を抜き、喉に流し込む。青臭い薬草の味。左の肩の傷口から流れ出る血の勢いが、少しずつ弱まっていく。肩を回すと痛む。だが、腕は上がる。刃は握れる。
空を見上げる。火竜はまた高く舞い上がり、こちらを見下ろしていた。
――空に居る間は、届かない。
妹紅は腰の袋から、拳ほどの玉を取り出した。[閃光玉]だ。工房の者は、「火竜は光に弱い。目が潰れれば、空には居られない」と言っていた。
投げるのは、一度きりだ。外せば、もう空の火竜には届かない。妹紅は玉を握ったまま、火竜の顔だけを見つめた。翼の動き。首の向き。喉の光。その全てが、こちらへ向く瞬間を待つ。
火竜の首が、後ろへ引かれる。喉が赤く光る。空から、また火球を吐く気だ。
――その顔の前へ、妹紅は玉を投げ上げた。
パッ――と、夕暮れの河原が一瞬だけ真昂になった。
火竜の翼が、ちぐはぐに空を掻いた。羽ばたきが乱れ、巨体が斜めに傾く。そのまま、河原へ落ちてきた。
ドオン、と地面が揺れる。石が弾け、砂が舞う。火竜は背を下にしてもがき、脚で空を掻いていた。目を潰された飛竜は、飛び方を忘れた鳥と同じだ。
妹紅の足元にまで、石の欠片が飛んでくる。火竜の長い首が、見えない敵を探して右へ左へと振り回される。口から吐き出された炎が、狙いも無く河原の石を舐めていった。
妹紅は走った。
走りながら、息を深く吸う。体の奥に溜めた気を、一気に両腕へ流し込んだ。心の臓が、耳の奥でドクンと鳴った。
――鬼人化*2。
体が軽い。刃が軽い。工房の練習場で何度も試した、双剣のただ一つの奎の手だ。
火竜の頭へ向けて、刃を振り下ろす。右。左。右。左。振り下ろした勢いで体を回し、回った勢いでまた斬る。甲殻に弾かれても、弾かれた所へもう一度刃を叩き込む。
双剣の刃は短い。一太刀ごとの重みは、太刀にも大剣にも及ばない。その代わりに、数を重ねる。十、二十、三十。同じ所へ、刃を何度でも重ねていく。前の持ち主が付けた根元の欠けが、一太刀ごとにキシリと軋んだ。
ガキン。ガキン。ザクッ。
頭の甲殻に、ひびが入った。そこへ刃を重ねる。吐く息も吸う息も、刃の拍子に合わせる。腕が重くなり、肺が焼ける。それでも、振るうのを止めない。
甲殻が割れ、片方の角が折れ飛んだ。
火竜の目に、光が戻る。
起き上がった火竜は、妹紅を覗るように首を低く垂れた。割れた甲殻の隙間から、血が滴っている。口の端から、火がたらりとこぼれた。こぼれた火が河原の石を赤く小さく焼き、煮えるような喉の音が、ゴロゴロと鳴り続けている。――怒り状態だ。
妹紅は、一歩下がって息を整えた。肺が焼けるように痛む。鬼人化で削った力が、足と腕から一度に抒けていく。踏ん張った足が、石の上でわずかに滑った。
目の前の竜は、さっきまでとは別の生き物のようだった。金色の目が血の色に濁り、口の端から溢れる火が、息をするたびに揺らめいている。
――火竜は、空へは戻らなかった。
地を蹴って、突っ込んできた。翼を半分だけ広げ、頭を下げて、真っ直ぐに。妹紅が身を延してかわしたその後ろで、河原の端の立ち枯れが、幹ごとバキバキとへし折れた。
突進。火球。尾。また火球。休む間が無い。妹紅の足はもう鬼人化の拍子を保てず、双剣の重さが、元の鉄の重さに戻りつつあった。
火竜が、首を大きく横へ振った。口から吐き出された炎が、扇のように河原を薙ぎ払う。石の上を炎の波が走り、妹紅の足元まで届く。跳んで避けた靴の底が、ジリッと焦げた。
炎の切れ目から、火竜の尾が回ってくる。身を沈める。尾の棘が肩口の布を掠めて裂き、裂けた布の端が火の粉を吸って燻り始めた。
右の刃を振り上げた時、根元でピシリと嫌な音がした。あの欠けだ。刃に、細いひびが走っている。
――そして、火竜が首を引いた時。
妹紅は、自分の立っている場所に気付いた。
河原の西の端。背中のすぐ後ろで、乾いた竹の葉がカサカサと鳴っている。
ここで横へ跳べば、火球は竹林に落ちる。
喉の赤い光が、膨らんでいく。
「――悪いな、慧音」
妹紅は、跳ばなかった。
二振りの刃を顔の前で交え、右の腕を前に突き出す。その腕を、自分の炎で包む。
火球が、真正面からぶつかった。
音は聞こえなかった。ただ、白い光と熱だけがあった。
――その白い光の中で、妹紅は自分の炎が押し潰されていくのを感じていた。
自分の炎は、軽い。風に乗って舞い上がる、羽のような火だ。だが、この竜の火は重い。腹の奥の袋で練り上げられた、砂と油を含んだような、粘りつく火だった。
――気付くと、妹紅は石の上に仰向けに倒れていた。
空が、茶色い煙の向こうで赤く流れている。髪の焼ける匂いがする。自分の髪の匂いだ。
右の腕を持ち上げようとして、持ち上がらないことに気付いた。視線だけを向ける。
右の手首から先が、黒く炭になっていた。その細い炭の間から、白い物が覗いている。
骨だ。
痛みは、遅れて来た。腕の付け根から頭の天辺まで、熱い釘を打ち込まれたような痛みだった。息が止まり、歯が勝手に鳴る。
――それでも、背中の後ろで、竹の葉はカサカサと鳴っていた。燃えてはいない。
石を踏む重い音が、近付いてくる。
火竜だ。倒れた獲物の元へ、ゆっくりと歩いてくる。放牧地の草食竜にしたのと同じように、後ろ脚で押さえ込んで、運び去るために。
妹紅は、左の手を石に突いた。
左の手には、まだ双剣の片方が握られている。それを杖にして、膝を立てる。膝が震える。それでも、立つ。
焼けた右の手首の奥で、何かがむず痒く蠢いていた。焦げた肉の下から、新しい肉がゆっくりと押し上がってこようとしている。死なない体は、壊れたものを元へ戻そうとする。その治りかけの痛みは、焼かれた痛みよりも、ずっと気味が悪い。
足元には、根元から折れた右の刃が転がっていた。火球を受けた時に、あのひびから割れたのだ。
火竜の足が、止まった。
甲殻に覆われた顔が、わずかに後ろへ引いた。金色の目が、妹紅を見ている。
焼いたはずの獲物が、立ち上がったのだ。
火竜は、後ろへは退かなかった。
咆哮。そして、また首を引く。
この竜は、知らないのだ。目の前の獲物が、何度焼いても立ち上がることを。この崖を守るために、尽きることの無い相手と戦っていることを。
だから、逃げない。
――吐き出された火球は、さっきより小さかった。
妹紅は、今度は横へ転がった。火球は竹林の手前の石の上で弾け、竹までは届かない。
火竜の口から、黒い煙がプスプスと漏れていた。もう一度首を引く。喉が膨らむ。だが、吐き出されたのは火ではなかった。散らばった火の粉と、煙だけだ。
口の端から、涎が糸を引いて垂れる。肩でする息が、ゼェゼェと荒い。
――疲れている。
吐くたびに火を使い、空へ上るたびに体を削る。竜も、尽きるのだ。
火竜が、翼を広げた。崖の巣の方を、一度だけ見上げる。
羽ばたく。体が浮かない。双剣で刻んだ翼の膜が裂け、風を捕えられないのだ。
二度、三度。翼が空を打つたびに、裂けた膜がバタバタと鳴る。巨体はわずかに浮いては、また石の上へ落ちる。
それでも火竜は、崖の巣を見上げていた。枝を一本ずつ組み直していた、あの作りかけの巣を。
妹紅は、左の手の刃を握り直した。
右の手は、もう何も握れない。それでも、片方あれば十分だ。
走る。一歩ごとに、右の手首から頭まで痛みが突き抜ける。息を吐く。吸う。火竜の首の付け根、甲殻が薄くなる、喉の下。
刃が、深く沈んだ。
熱い血が、刃を伝って左の手を濡らす。火竜の喉の奥で、火が一度だけゴウと鳴った。その熱が、刃を通して妹紅の掌にまで伝わってくる。
咆哮というには、あまりにも小さな声だった。
火竜の体が、強ばった。
翼が一度だけ大きく打ち、河原の砂を巻き上げる。それから、巨体がゆっくりと横へ傾いていった。妹紅は刃を抜いて、一歩後ろへ下がった。
火竜が、河原に横たわった。
長い首が石の上に投げ出され、金色の目が崖の方を向いている。巣のある方だ。半開きの口から、小さな火が一つだけこぼれた。火は石の上でしばらく揺れていて、やがて、ふっと消えた。
それきり、火竜は動かなかった。
――妹紅はその場に座り込んだ。
鬼人化の拍子が抜け、体中の重さが一度に戻ってくる。左の肩の傷が疼き、右の手首が焼ける。息を吸うたびに、肺の奥が煙の味がした。
日が山の向こうへ沈む。
夜の気配が、河原の上に降りてくる。どこかで夜鳥が一声鳴いた。川の向こうの茂みで、小さな獣が動く音がする。血の匂いを嗅ぎつけたのだろう。だが、近寄ってはこない。死んでなお、この竜の縄張りに踏み込む獣は居ないのだ。
河原の石が、ゆっくりと赤い色を失っていく。焼けた石だけが、暗がりの中でぼんやりと光っていた。川の音が戻ってきて、その後に、竹林の葉の鳴る音が戻ってきた。
――妹紅は、火竜の顔を見ていた。
角の片方は、双剣で折り取られている。割れた甲殻の隙間で、血がもう黒く固まり始めていた。開いたままの金色の目に、一番星が小さく映っている。
この目で、この竜は空から地上を見下ろしていたのだ。放牧地の草食竜も、炭焼きの煙も、街道を行く荷車も。――そして、河原に立つ白い髪の少女も。
剥ぎ取り用の小刀は、腰にある。それを抜かないまま、長い間、ただ見ていた。
――足音がした。
街道の方から、提灯の灯りが揺れながら近付いてくる。走っているのだ。石に足を取られながら、息を切らして。
「――妹紅!」
慧音だった。
帽子が少し傾き、青みがかった銀の髪が汗で額に張り付いている。竹林の端に住む兎達が、河原から上がる煙を見て里まで知らせに走ったのだという。それを聞いた慧音は、提灯一つを掴んで、里を飛び出してきたのだ。
提灯の灯りが、倒れた火竜を照らし、それから、妹紅の右の手を照らした。
慧音の息が、止まった。
慧音は何も言わずに妹紅の前に膝を突いた。提灯を石の上に置き、背負ってきた包みの結び目を解く。竹筒の水。着物を裂いて作ったような布。それに、永遠亭の印の入った小さな薬壷。
「――手を出せ」
「放っとけば治る。一晩もあれば」
「出せと言っている」
妹紅は、黒くなった右の手を差し出した。慧音はそれを自分の膝の上に載せ、竹筒の水をそっとかけた。ジュッ、と小さな音がして、湯気が立ち昇る。妹紅の肩が、一度だけ跳ねた。
慧音の指が、薬を塗り、布を巻いていく。その指が、少し震えていた。
「――約束を、破ったな」
「後ろが竹林だったんだ。――そうするしかなかった」
「分かっている」
慧音は、布の端をきつく結んだ。
「分かっているから、腹が立つんだ」
妹紅は、何も言い返さなかった。
二人は、しばらく黙っていた。提灯の火が、火竜の赤い甲殻の上で小さく揺れている。甲殻は、灯りを受けてもう燃えるようには光らない。
「――こいつさ」
やがて、妹紅が口を開いた。
「最後まで、逃げなかったんだ。何度焼いても私が立つのを見て、それでも崖の方を背中にして」
「……」
「私が死なないって知ってたら、逃げたと思うか」
慧音は、すぐには答えなかった。火竜の首を、その先の崖の巣を、順に見上げていく。
「……いや。知っていても、この竜は退かなかっただろう。あそこは、この竜の空だった。縄張りを守る竜は、相手が何者でも退かん」
「……そうか」
「だが、妹紅」
慧音は、妹紅の巻かれた手を、両の手でそっと包んだ。
「その問いは、持ったままでいろ。答えを出さなくていい。ただ、忘れるな。――忘れたら、お前はただの火になる」
妹紅は、空を見上げた。
崖の上の空には、もう影は一つもない。星が、少しずつ増えていく。
「……あぁ、忘れないよ」
妹紅は、左の手で剥ぎ取り用の小刀を抜いた。
甲殻の縁に刃を入れる。片手では、思うように入らない。慧音が黙って手を添え、甲殻を押さえた。二人でゆっくりと、一枚ずつ剥がしていく。
[火竜の鱗]。[火竜の甲殻]。翼の付け根からは、鉤のような[火竜の翼爪]。それに、喉の奥に抱えられていた[火炎袋*3]。取り出した袋はまだ温かく、提灯の灯りよりも赤く、内側からぼうっと光っていた。
剥ぎ取りは、夜半までかかった。甲殻を一枚剥がすたびに、妹紅は手を止め、火竜の顔を見た。慧音は、それを一度も急かさなかった。
「――こいつで、刃を作る」
妹紅は、火炎袋を両の手の上に載せて言った。
「借り物の双剣じゃなくて、こいつの刃を。ずっと持っていく」
「……名は、もう決めてあるのか」
妹紅は、少し考えた。それから、火竜が広げたままの、裂けた翼を見た。
「――鳳翼天翔」
「……鳳凰の翼が天を翔ける、か。お前らしいな」
「こいつは、もう飛べないからな。代わりに、刃だけでも飛ばしてやる」
慧音は、少しだけ笑った。それから、剥ぎ取った鱗を一枚、提灯の灯りにかざした。
「防具の名は、私に付けさせてくれ。――『不尽』だ」
「不尽?」
「尽きない、という意味だ。お前の火も、お前自身も。――それにこの鱗は、お前の火でも焦げないだろう」
妹紅は、懐にしまっていたあの鱗の重さを思い出した。放牧地で拾った、焦げなかった一枚。
――それから半月の後。
工房から届いた二振りの刃は、赤黒い甲殻を研ぎ上げた、対の翼の形をしていた。刃の根元には火炎袋の素材が仕込まれ、振るうたびに火の粉を散らす。妹紅が自分の炎を少しだけ寄せると、刃の火は乱れずに、真っ直ぐに立ち上った。
届いた日の夕方、妹紅は竹林の奥の開けた所で、新しい刃を振ってみた。
右、左。振るうたびに、刃の後に火の粉の尾が引かれる。二振りを大きく広げて回ると、対の尾が夕闇の中に、翼の形を描いた。借り物の鉄の双剣よりも、わずかに重い。その重さが、妹紅の手にはちょうど良かった。
――火竜双刃『鳳翼天翔』。
鱗を重ねて仕立てた防具は、妹紅が全身に炎を纏っても、どこも焦げなかった。
――火竜装【不尽】。
妹紅はその日から、借り物ではない自分の刃を、背に負うようになった。
~迷いの竹林 妹紅の家~
――研石の上で、水がまた赤く濁った。
日はもう、竹林の向こうへ沈みかけている。縁側に落ちる竹の影が長く伸び、二人の足元まで届いていた。
縁側の奥の壁には、赤い鱗を重ねた防具が掛けてある。あの日から幾度となく炎を潜り抜けてきたはずの鱗は、今も一枚も焦げていない。ただ、縁の所々が擦れて丸くなり、新しい鱗に張り替えた跡が幾つも残っていた。
慧音は風呂敷の包みを解き、重箱の蓋を開けた。里芋と牛蒡と、大きく切った草食竜の肉。甘辛い出汁の匂いが、竹林の風に乗って立ち昇る。
「――食え。研ぐのは後でいい」
「あと少しだ。――片方だけ研いで止めたら、もう片方が拗ねる」
「刃が拗ねるか」
「拗ねるよ。こいつらは」
妹紅は、もう片方の刃を研石に当てた。シャッ、シャッと、さっきと同じ拍子。刃の根元で、火の粉が一粒ずつ散る。
慧音は箸を持ったまま、その火の粉を眺めていた。
「……妹紅」
「ん」
「まだ、考えているのか。あの日のことを」
研ぐ音が、一度だけ止まる。
「……考えてるよ。答えは、まだ出てないけどな」
そう答えて妹紅はまた刃を押し出す。
「だから研ぐんだ。――こいつを研いでると、あいつが最後に崖の方を見たのを、思い出す。忘れそうになる前に、何度でも思い出せる」
慧音は、何も言わなかった。ただ、煮物の一番大きな肉を、妹紅の小皿に置いた。
妹紅は研ぎ終えた刃を布で拭い、夕日にかざした。赤黒い刃の上を、橙の光が滑っていく。その光の当たった右の手首には、やはり、何も無い。
あの夜、慧音が巻いた布は、翌朝にはもう要らなくなっていた。焦げた肉の下から新しい皮が張り、三日も経つと、どこが焼けたのかも分からなくなった。慧音はその布を、捨てずにどこかへしまったようだった。
傷も、痕も。
「――いただきます」
妹紅は刃を鞘に収め、箸を取った。
竹の葉が、少しだけ鳴った。