東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~人里 工房~
――鉄を打つ音が、雨の音に混じっている。
梅雨の終わりの人里には、朝から細い雨が降り続いている。軒から落ちる雫が石畳に小さな輪を幾つも描く。中央会館の裏手にある『工房』では、炉の火が雨の湿りを押し返すように赤々と燃えていた。
炉の前で槌を振るうのは、水色の髪の少女。工房の主である鍛冶職人『多々良小傘』だ。
カン、カンと槌が鳴る。打っているのは刃ではない。小さな金具だ。小傘は火箸で摘まんだ金具を水桶に落とし、ジュッと上がる湯気に目を細める。
「――邪魔をする」
――戸口で低い声がした。
濡れた番傘を畳んで立っていたのは、紫の長い髪を後ろで一本に結った女だ。裾と袖に炎の模様が入った着物を着て、背には長い太刀を負っている。人里ギルド所属のハンター『明羅』の凛々しい顔立ちは、遠目には若い侍と見違えるほどだ。
「あ、明羅さん。いらっしゃい。――今日は刀? それとも防具の方?」
「両方を頼む」
明羅は背から太刀を下ろし、鞘ごと作業台に置いた。黒と金の甲殻を張った鞘。鍔には、刃のように薄い冠の欠片が嵌め込まれている。
続けて肩当てと籠手を外す。緋色の紐で板を綴じた、古い鎧の作りだ。その紐の所々が擦り切れ、ほつれた糸が垂れている。羽織の裏地に張った半透明の膜が、炉の火を受けて、蝶の翅のような筋を浮かび上がらせた。
「うわぁ、だいぶ擦れたなぁ。この前の護衛?」
「荷車の殿を三日。……峠で一度、ドスジャギィの群れと揉めた」
「三日も紐を張りっぱなしじゃ、そりゃ擦れるよ」
小傘は籠手を受け取り、ほつれた紐を指先で摘まんだ。それから太刀を鞘から抜く。
刃が、雨の薄明かりの中で光る。
金色を帯びた白い刀身に、翠色の筋が一本、真っ直ぐに走っている。小傘が刃を傾けると、筋の中を細い緑の光がチリチリと這った。
――電竜刀『守刀』
電竜の翼爪を研ぎ上げた太刀だ。斬るたびに電気を溜め、溜めた分だけ緑に光る。
「刃は良いね。欠けも無いし、反りも狂ってない。……明羅さんは、ほんとに刀の手入れを欠かさないなぁ」
「刃を見るのは、最早癖だ」
「電竜みたいだね。あの竜も、自分の翼爪を研いでは眺めるって言うから」
明羅は答えず、作業台の端に腰を下ろした。
小傘は籠手の古い紐を一本ずつ解き始める。解いた紐を脇に置き、新しい緋色の紐を板の穴に通していく。指の動きは速いのに、一つも穴を飛ばさない。通しては引き、引いては締める。紐が板を擦るシュッ、シュッという音が、雨の音に重なる。
「ねぇ、明羅さん」
「何か」
「この刀の銘、明羅さんが付けたんだよね。私は刻んだだけで」
「そうだ」
「なんで『守刀』だったの? 電竜の刀なら、もっとこう――強そうな名前だって付けられたのに。言いそびれてたんだよね」
小傘の指が、紐を引いたまま止まる。
雨の音が、少しだけ強くなった。
明羅はしばらく、刃の上を這う緑の光を見ていた。
「……あの竜を狩った夜も、雨だった。長くなるが、それでも良いなら話そう」
「いいよ。紐を全部替えるまで、どうせ半日かかるから」
小傘はそう言って、また紐を引いた。
~中央会館 受付~
―――あの頃の明羅は、一人の背中ばかりを見ていた。
博麗神社の主、当代"博麗の巫女"『博麗霊夢』。大きな赤いリボンと、肩の開いた紅白の巫女服。ハンターでもあり、背には泡狐竜の素材で打った太刀を負う。
明羅はかつて"博麗の力"を求めて霊夢に挑み、敗れた。その後ハンターになってからも、難しい依頼の先にはいつも霊夢の名があった。霊夢より先に。霊夢より危ない依頼を。明羅が受注票を重ねるたび、受付の少女は票の端に小さく書き添えた。
――『再考を』
――その朝も、雨だった。
「――東の峠道です。山里へ塩と薬を運ぶ荷車の列が、昨日の夕方に襲われました」
中央会館の受付で、受付嬢『本居小鈴』は依頼票を帳場に広げた。鈴の髪飾りが、首を傾けるたびにチリンと鳴る。
「荷車が一台、曳いていた草食竜ごと焼かれています。残りの三台と人は、峠の茶屋に逃げ込んで足止め。使いに走ってきた荷主の話では――」
小鈴は、書き留めた言葉を指で辿った。
「――『緑に光る竜が、低く飛んできた。羽ばたくたびに、空がパチパチ鳴った』。……雷は鳴っていなかったそうです」
「依頼の中身は」
「茶屋の荷車と人を、里まで連れ帰る護衛です。竜は、荷車を守るために必要なら、討伐も可。――でもこの件、慧音先生が霊夢さんに声を掛けていて――」
「私が行こう」
明羅は、小鈴が言い終える前に受注票を引き寄せていた。
「霊夢はまだ来ていない。待つ間に、荷車の者達はもう一晩、竜の怒える峠で過ごすことになる」
小鈴は何か言いたそうに口を開き、それから閉じた。
「……承ります」
小鈴の筆が、受注票に明羅の名を書き入れる。そして一度、筆先を止め、票の端に小さく書き添えた。
明羅はその一行を見なかったふりをして、会館を出た。
背には、工房で打ってもらった鉄の太刀。着物の上に着けているのは、かつて狩った小型の皮を縫い合わせた胸当てと、鉄の籠手だけだった。
~東の峠道~
――峠へ続く森の道は、雨に煿って白く霎んでいた。
荷車の轍が二筋、泥の中に深く刻まれている。その轍を辿って半刻ほど登った所で、明羅は足を止めた。
道端の欅の大木が、裂けている。
幹の天辺から根元に向けて、一筋。裂け目の内側が黒く焦げ、その奥に白い木肌が覗く。剥がれた樹皮が、周りの草の上に散らばっていた。裂け目に手をかざすと、雨に濡れているのに、まだわずかに温い。
――落雷の跡だ。
そう思って、すぐに打ち消す。昨日は雷が鳴らなかった。それに、落雷なら一番高い木を打つ。この欅より高い杉が、すぐ奥に何本も立っている。
裂けたのは、人の肩ほどの高さから下だけだった。
明羅はしゃがみ込んだ。欅の根元から、道の上へ、黒い筋が伸びている。一本ではない。木の根のように枝分かれし、細く分かれながら、泥の上を扇の形に広がっていた。筋の上の草は、焦げて縮れている。
――電気が地面を走った。
空から落ちたのではない。地面の上で生まれて、地面を這い、木を登ったのだ。
筋の扇の要に当たる所に、一つだけ深い穴が穿たれていた。穴の縁の土は焦げて硬くなり、重い物が叩きつけられたように、周りへ乱れて飛び散っている。穴の幅は、明羅の腕の長さほど。細長い形が二つ、左右に並んでいた。
――翼だ。
竜が翼を拳のようにして、地面を殴ったのだ。そこから電気が溢れ、地面を走って欅を裂いた。
鼻をつく匂いがした。金気のような、生臭いような、雷雨の後にだけ匂うあの匂いだ。雨に洗われても、焦げた土の奥にまだ残っている。
少し先の道端に、荷車が一台、横倒しになっていた。
荷台の半分が黒く焦げ、輪の鉄の箍が溶けて歪んでいる。積み荷の塩の俵が破れ、白い粒が泥に溶け広がっていた。轅の先には、荷車を曳いていた草食竜が横たわっている。大きな背の皮に、羊歯の葉のような赤黒い模様が、肩から腹へと広がっていた。
雷に打たれた者の肌に、こういう模様が残ると聞いたことがある。
――草食竜の肉は、一口も食べられていなかった。
明羅は、そこで初めて眉を寄せた。食うために襲ったのなら、肉を残していくはずがない。
さらに峠へ登ると、道の脇の沢に、もう一つの亡骸があった。
――大きな嘴と、扇のような耳を持つ竜だ。桃色の甲殻が雨に濡れて黒ずみ、片方の耳は付け根から裂けている。森に棲む鳥竜、『イャンクック*1』だ。人里の近くの森では、一番よく見る大型の一つでもある。
――その怪鳥が、沢の石の上で首を折って死んでいる。
首の付け根に、深い傷が二つ並んでいた。左右から挟み込んだように、向かい合っている。二股の鋏で一度に挟んだような傷だ。傷の周りの皮が、草食竜と同じ羊歯の模様に焼けている。
こちらも、食べられた跡は無い。
――縄張りに居たから、殺した。
食うためでも、追い出すためでもない。ただそこに居たからだ。怪鳥は竜としては大人しい方だ。その怪鳥が、逃げる間もなく首を挟まれて殺されている。
沢を越えた先に、平らな大岩が一つあった。
その表に、長い引っ掻き傷が何十本も刻まれている。全部が同じ向きに、同じ長さで。傷の底には、金色と黒の片が粉になって溶まっていた。明羅は指先に一つを拾い上げる。薄く、硬く、金と黒の縞が入っている。
甲殻の削り屑だ。竜がこの岩で、自分の爪を研いだのだ。
明羅は、記録室で読んだ古い狩猟の記録を思い出していた。縄張りに入った者には、空の王にさえ挑みかかる飛竜。翼で殴り、二股の尾で挟み、電気で焼く。そして自分の翼爪を地面で研ぎ、眺めては噛んで整える。
――電竜だ。
明羅は、拾った甲殻の片を懐紙に包んだ。岩の傷の向きをもう一度確かめる。傷は、峠の上の岩場の方へ向かっていた。
~峠の茶屋~
――茶屋の軒先に、荷車が三台、身を寄せ合うように並んでいる。
峠の頭に建つ茶屋は、茅葉きの屋根の小さな店だった。軒下に繋がれた草食竜達が、落ち着かない様子で足踏みを繰り返している。尾を打ちつけるたびに、泥がピシャリと跳ねた。
店の中には、荷主と車曳きが合わせて六人。それに茶屋の婆と、その孫らしい小さな男の子がいた。男の子は婆の裾を掴んだまま、明羅の背の太刀をじっと見上げている。
「――人里ギルドの者だ。荷車を里まで連れ帰る」
明羅が名乗ると、店の中の空気がふっと緩んだ。荷主の番頭が、濡れた手ぬぐいを握りしめて頭を下げる。
「助かります。……あの竜は、夕べも山の上を飛んでおりました。緑に光って、それで、羽ばたくたびに空がパチパチと。本当に、雷が生きているようで……」
「荷は」
「塩と、山里への薬です。薬は、熱のある子供が待っているとかで……。山里へは、もう行けぬとしても、せめて里へ戻って、別の道を」
明羅は頷いた。それから、軒先に出て空を見上げる。
西の空が、黒く重い。山の稜線の向こうから、雲が壁のようにせり上がってきていた。遠くで、ゴロゴロと空が鳴る。
「……今夜は、雷になるな」
いつの間にか隣に立っていた婆が、小さく言った。
「この峠で雷の夜を過ごすのは、若い頃から慣れとる。だが今度のは、山の雷とは違うよ。地面を這ってくる雷じゃ」
明羅は、峠の上の岩場を指した。
「あの岩場へは、どう登る」
「裏の獣道を行けば一刻もかからん。……行くのかい」
「見るだけだ。――見ずに斬るのは、性に合わぬ」
~峠の上 岩場~
――獣道の終わりは、苔むした岩の割れ目だった。
明羅は岩に腹這いになり、割れ目からそっと顔を出した。雨が帽子も無い頭を叩き、髪を伝って首筋へ流れ込む。
岩場の奥に、平らな黒い岩が屋根のように突き出している。その上に、居た。
金と黒の竜だ。
大きさは、荷車三台を並べたほど。全身を覆う甲殻が、金色と黒の縞に彩られている。そのどれもが研ぎ澄ました刃物のように尖り、雨に濡れて鈍く光っていた。頭には、大刀を立てたような鶏冠が一枚。赤い目が、その下で燻っている。――いや、燻っているのではない。目そのものが、熾火のように赤いのだ。
長い尾の先は、二つに分かれていた。太い鋏のような形だ。沢の怪鳥の首の傷を、明羅は思い出した。
電竜は、翼を片方だけ前へ伸ばしていた。
翼の先には、人の胴ほどもある大きな爪が生えている。その爪を岩に押し当て、ゆっくりと引く。ギリリ、という音が、雨音を通して明羅の耳にまで届いた。もう一度。もう一度。岩の上で、金と黒の削り屑が雨に流されていく。
研ぎ終えると、電竜は翼を目の前へ持ち上げた。
頭を傾け、爪を角度を変えて眺める。それから口を開け、爪の先をそっと噛んだ。形を整えるように。削りすぎた所が無いか、確かめるように。
明羅は、息を止めてそれを見ていた。
――刀の手入れをする侍と、同じ手つきだ。
電竜が、翼を大きく広げた。
翼の膜が、透けている。蝶の翅のような細い筋が何本も走り、その筋の中を、緑の光がゆっくりと流れていく。緑はやがて翠になり、翠は白い光を帯び、翼の縁でパチパチと小さな火花が弾けた。雨粒が翼に当たるたび、ジッと鳴って湯気に変わる。
美しい、と明羅は思った。そして、そう思った自分に少し驚いた。
電竜は、西の空を見上げていた。
雷雲が近付いてくる。稜線の向こうで、稲妻が一つ光った。その光に応えるように、電竜の鶏冠が緑に瞬く。喉の奥から、低い音が漏れた。
喉を鳴らしながら、電竜は首を峠道の方へ向けた。
茶屋の屋根が、岩場からはよく見える。軒先に並んだ荷車も、足踏みする草食竜も。
――見ている。
あの竜にとって、峠はもう自分の縄張りなのだ。そこに居座る荷車も、草食竜も、人も。全部が、あの怪鳥と同じ
明羅は、岩の割れ目からそっと身を引いた。
霊夢を待つべきか。一瞬だけ、そう考えた。だが、雷雲は霊夢より先に着く。それに――霊夢が着く前に片を付けたいという気持ちが、胸の底に無かったとは言えない。
茶屋へ戻ると、明羅は番頭に告げた。
「今から発つ。雷雲が峠を覆う前に、下り坂に入る」
「しかし、あの竜が――」
「私が殿に立つ。――振り向かずに、走らせろ」
~東の峠道 下り坂~
――雨が、横から叩きつけてくる。
荷車の列は、峠の下り坂を急いでいた。先頭に番頭の荷車、その後ろに二台。三台目の荷台には、茶屋の婆と男の子も乗っている。置いていけば、あの竜の縄張りに二人きりで残すことになるからだ。
明羅は、列の一番後ろを歩いていた。
時々振り返り、峠の上の岩場を見る。雨と夕闇で、もう岩場の形もはっきりしない。雷雲が峠の真上まで来ていた。稲妻が光るたび、森の木々が白く浮かび上がり、すぐに闇へ沈む。
――そして、光の中に、影が一つ。
岩場から、何かが飛び立った。
稲妻とは違う、緑の光だった。光は闇の中で翼の形に広がり、真っ直ぐに荷車の列へ降りてくる。羽ばたくたびに、空がパチパチと鳴った。
「止まるな! 走らせろ!」
明羅が叫ぶのと、電竜が道に降り立つのが同時だった。
ズシン、と地面が揺れる。泥が跳ね、草食竜が悲鳴を上げて棹立ちになった。電竜は列の最後尾――明羅の目の前に降りていた。
鶏冠が、緑に燃え上がる。
咆哮が、雷鳴を掻き消した。
耳の奥が裂けるように痛む。明羅は歯を食いしばり、背の太刀の柄を握った。肩越しに、鉄の刃を一息に抜き放つ。
――前へ。
考えるより先に、足が出ていた。
霊夢より先に。霊夢が来る前に。この竜の首を、自分の手で。
踏み込み、斬り上げる。鉄の刃が電竜の胸の甲殻を叩き、火花が散った。浅い。返す刀でもう一太刀。それも甲殻に弾かれる。
電竜の片方の翼が、大きく後ろへ引かれた。
来る。明羅は身を沈めた。頭の上を、翼が薙いでいく。拳のように握り込まれた翼の爪が、雨を裂いて通り過ぎた。
躱した――そう思った時、背後で悲鳴が上がった。
振り返る。翼の先が、最後尾の荷車の幌を引き裂いていた。ちぎれた幌が雨の中を舞い、荷台の上で、男の子が老婆にしがみついている。
明羅が前へ出た分、電竜も前へ出ていた。明羅を追った翼の届く先に、荷車があったのだ。
息が止まる。
――私が躱せば、後ろへ通る。
電竜が、二つ目の翼を振りかぶる。
明羅は、前へは出なかった。一歩下がり、荷車と電竜のあいだへ身を入れる。足を開き、泥の中に踵を沈めた。
翼が来る。
躱さない。否――躱すのは、半歩だけだ。翼の爪が着物の袖を裂いて通り過ぎるのと同時に、明羅の太刀が、その翼の付け根を斬り下ろしていた。
ガキン、と手が痺れる。それでも、刃は甲殻の継ぎ目に食い込んだ。
電竜の翼が跳ね上がる。その勢いで巨体がわずかに傾いた。
「――行け!坂を下りきるまで止まるな!」
番頭が鞭を鳴らし、荷車がガタガタと走り出す。電竜の赤い目が、遠ざかる荷車を追った。
明羅は、その目の前に立った。
――ここから先は、通さない。
雨の中で、明羅の刃と電竜の翼爪がぶつかり合う。
明羅は斬り込まなかった。追わなかった。電竜が荷車の方へ首を向けるたびに、その鼻先へ半歩だけ踏み込み、刃を見せる。電竜が明羅を薙ぎ払おうとすれば、半歩だけかわして、かわしたその場所から斬る。
一歩も、後ろへは下がらない。一歩も、前へは出すぎない。
電竜の鶏冠が、鮮やかな翠に光った。
頭を振る。鶏冠から迸った電気が、刃のように長く伸び、横一文字に宙を薙いだ。明羅は泥に伏せる。緑の光の刃が頭の上を通り、道端の若木が三本、まとめて焦げて倒れた。
電竜の口が開く。喉の奥が白く光った。
吐き出された雷光は、真っ直ぐには来なかった。地面に落ちて跳ね、蛇のようにうねりながら、泥の上を這ってくる。明羅は横へ跳んだ。足のあった場所を光が抜け、泥がジュウッと沸き立った。
雷光は止まらない。泥の上を走り、遠ざかった荷車の轍の方へ――
――轍の手前の水溜まりで、光はパッと散った。届かない。荷車は、もう坂の曲がり角の向こうだ。
明羅は肩で息を吐く。
電竜の両の翼が、緑から翠へ、翠から白へと色を変えていく。翼の膜を走る筋の一本一本が、雨の中で燃えるように光っていた。翼の縁で、パチパチと火花が弾ける。
電竜が、地を蹴った。
巨体が真上へ跳び上がる。翼を広げたまま、空中で一瞬止まり――落ちてきた。
翼が二枚、拳のように地面へ叩きつけられる。
光が爆ぜた。翼の落ちた所から、緑の雷が四方八方へ走る。木の根のように枝分かれし、泥の上を扇の形に広がっていく。峠道で見た、あの黒い筋の形だ。
明羅は、跳んだ。足の下を雷光が抜け、草鞋の底が焦げる匂いがした。着地した泥の中で、膝が笑う。全身の毛が逆立ち、指先がビリビリと痺れていた。
電竜の背の甲殻が、逆立つように持ち上がっていた。赤い目が、さらに赤く燃える。鶏冠と両の翼と二股の尾、その全てに、緑の光が溜まっては溢れ、溜まっては溢れていた。――怒り状態だ。
尾が来た。
見えなかった。二股の尾の先が、雨の中から真横に伸びてきて――明羅の胴を、両側から挟んだ。
――鋏だ。
尾に溜まっていた雷が、一度に流れ込んでくる。
「っぐ……!」
声が出ない。体中の筋が、勝手に縮み上がる。歯が鳴り、指が開いて、太刀が泥の中に落ちた。電竜が尾を振り、明羅の体を道の脇へ放り投げる。
泥の中に転がる。起き上がろうとする。腕が動かない。脚も動かない。目だけが動いた。
電竜が、明羅から目を離した。
首を回し、坂の下の、荷車が消えた曲がり角を見ている。鶏冠が、また緑に灯った。
――行かせるな。
動かない体の中で、明羅は叫んでいた。声にはならない。泥の中で、指が一本だけ、ピクリと動いた。
電竜が、一歩を踏み出す。
その時だった。
雨の帳を裂いて、紅白の影が一つ、坂の上から滑るように降りてきた。
「――明羅さん、そこで寝てて」
――霊夢だった。
霊夢は地面に降り立つと同時に、背の太刀を抜いていた。電竜の首が霊夢の方へ振られ、翼が薙ぐ。霊夢はそれを見ていない。見ていないのに、翼の来る場所から、一歩だけ外れている。
鶏冠の光の刃が、横一文字に走る。霊夢はその下を、首を傾げただけで潜った。潜りながら、太刀を振るう。泡狐竜の薄紅の刃が、翠に光る鶏冠に食い込んだ。
――明羅は、それを泥の中から見ていた。
稲妻が光る。電竜の雷が光る。そのどれもが、霊夢の居ない場所ばかりを焼いていく。まるで、雷の方が霊夢を避けているかのようだった。
霊夢の刃が、鶏冠に、翼に、少しずつ傷を広げていく。一太刀ごとに刃が赤く光を帯び、刃の勢いが増していく。
だが、電竜は退かなかった。
霊夢を相手にしながら、首が時折坂の下へ向く。荷車の消えた曲がり角へ。あの竜にとって、縄張りから逃げていく獲物は、まだ獲物のままなのだ。
――明羅の指が泥を掴む。
痺れが、少しずつ抜けていく。腕が上がる。膝が立つ。泥の中を手探りし、太刀の柄を握った。
電竜が、霊夢の刃を振り払うように、大きく跳び退いた。着地する。そして、坂の下へ向けて駆け出した。
――霊夢から逃げるのではない。荷車へ向かったのだ。だが、その進む先に――明羅が立っていた。
足を開く。泥の中に踵を沈める。太刀を、下段に構える。
電竜の巨体が、真っ直ぐに迫ってくる。頭を低く下げ、鶏冠を槍のように前へ突き出して。
――躱すのは、半歩だけだ。
鶏冠が、明羅の胸に届く寸前。
明羅は半歩、横へずれた。鶏冠が着物の胸元を裂いて通り過ぎる。その瞬間、下段から跳ね上げた刃が、電竜の前脚を深く斬り裂いていた。
電竜の脚が、折れた。
巨体が前のめりに倒れ込み、泥の上を滑る。明羅の脇を、金と黒の甲殻が擦るように過ぎていき――坂道の真ん中で、止まった。
荷車の消えた曲がり角まで、あと十歩。
電竜が首をもたげる。その頭の上に、紅白の影が落ちてきた。
霊夢の太刀が、罅の入った鶏冠を、真上から断ち割った。
割れた鶏冠から、緑の光がこぼれ落ちる。光は雨の中で一度だけ大きく瞬き、それから、ゆっくりと消えていった。
電竜の体から、力が抜けていく。
翼が泥の上に広がった。膜を走っていた緑の筋が、一本ずつ暗くなっていく。最後に残った光が翼の縁でパチリと弾け、それきり、雨の音だけになった。
――電竜は、雨の中で光を失った。
明羅は、太刀を下段に構えたまま立っていた。
膝が震えている。痺れが抜けきっていないのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からない。雨が髪を伝い、顎の先から滴っていた。
「――明羅さん」
霊夢が、太刀を背に納めながら近付いてきた。息一つ乱れていない。肩口が少し濡れているくらいで、泥もほとんど跳ねていない。
「怪我は?」
「……無い。痺れただけだ」
「そ。なら良かった」
霊夢はそれだけ言って、倒れた電竜の傍らにしゃがみ込んだ。割れた鶏冠に手を触れ、まだ微かに温かいのを確かめる。
明羅は太刀を下ろした。
――届かなかった。
自分が命を張って斬り結んだ竜を、霊夢は息も乱さずに沈めた。雷の来る場所を知っているかのように。あれは勘なのか、才なのか。どちらにせよ、明羅がどれだけ刃を研いでも、同じ所には立てない気がした。
「荷車は?」
「坂の下まで逃がした。……だから、来たのは間に合った」
「うん。坂の途中ですれ違ったわ。男の子が、『侍のお姉ちゃんが一人で残ってる』って泣いてた」
霊夢は立ち上がり、剥ぎ取りの小刀を腰から抜いた。
「手伝って。この雨じゃ、朝まで置いとくと鱗が水を吸っちゃうから」
二人で、黙々と剥いだ。
金と黒の[電竜の甲殻]。翼の先から外した、人の胴ほどもある[電竜の翼爪]。割れた鶏冠の欠片――[電竜の冠甲]。蝶の翅のような膜は、慎重に骨から外して丸める。二股の尾の先は、霊夢が太刀で切り落とした。
剥いだ素材を、霊夢は二つの山に分けた。
ちょうど半分ずつ。翼爪も一本ずつ。
「はい。こっちが明羅さんの分」
「……受け取れない」
明羅は首を振った。
「仕留めたのは霊夢だ。私は、尾に挟まれて泥の中で寝ていただけだ」
「何言ってるの」
霊夢は、きょとんとした顔をした。本当に、何を言われたのか分からないという顔だった。
「明羅さんが荷車の前から動かなかったから、私が好きに動けたのよ。私一人じゃ、荷車を守りながらあの竜とやり合うなんて無理だったわ。――それに、脚を折ったのは明羅さんでしょ。あれが無かったら、あの竜、荷車まで届いてたもの」
「……」
「だから半分。はい、決まり」
霊夢は素材の山を明羅の方へ押しやると、自分の分を手早く括って背負った。
「じゃ、私は先に帰るわ。慧音に報告しとくから、明羅さんは荷車の方をお願いね。山里への薬、明日には別の道で届けたいって言ってたし」
紅白の影は、来た時と同じように、雨の中へふっと消えていった。
明羅は、残された素材の山の前に一人で立っていた。
翼爪を拾い上げる。雨に濡れた爪の先に、翠の筋がうっすらと残っている。研いでは眺め、噛んで整えていた、あの竜の自慢の爪だ。
――『明羅さんが荷車の前から動かなかったから』
霊夢は、何でもないことのように言った。慰めではない。霊夢は慰めを言わない。見たままを言っただけだ。
明羅は、自分がどこに立っていたかを思い出していた。
前へ出たいと思っていた。霊夢より先に、霊夢より深く斬り込みたいと。だが、最後まで明羅が動かなかったのは、荷車の前だった。人の前だった。そこから一歩も退かなかったことだけは、霊夢にも出来なかった。
――それで、良いのではないか。
雨が、少しだけ弱くなった。
明羅は素材を括り、背の太刀の下に負った。それから坂を下り、荷車の列に追いついて、また一番後ろを歩いた。
夜が明けるまで、一度も振り返らなかった。
~人里 工房~
――持ち込まれた翼爪を見て、小傘は目を丸くした。
「うわぁ……電竜の翼爪、こんなに綺麗なの初めて見たよ。研ぎ跡まで揃ってる」
「あの竜が、自分で研いでいた」
「へぇ……手入れ好きの竜かぁ。――じゃあ、刀にしよう。武器種は太刀でいいんだよね」
「頼む」
小傘は翼爪を作業台に載せ、指で刃筋をなぞった。それから顔を上げる。
「銘はどうする?明羅さんの刀だから、明羅さんが決めて。私が刻むから」
明羅は、しばらく黙っていた。
強い名前なら、いくらでも浮かぶ。雷を斬る刀。竜を討つ刀。霊夢の背中を追いかけていた頃なら、迷わずそういう名を選んだだろう。
「……『守刀』、と」
「まもりがたな?」
「身を守るために持つ刀のことだ。――私の身ではないが」
小傘は少し首を傾げ、それから、ニコリと笑った。
「いい名前だね。……じゃあ、防具の方は私が付けてもいい?」
小傘の視線が、明羅の着物の裾に落ちる。炎の模様。
「――『緋縅』。緋色の紐で板を綴じた、昔の鎧の名前なんだって。明羅さんの着物の炎と同じ色の紐で、電竜の甲殻を綴じるの。――侍の鎧って感じでしょ」
「……緋縅」
明羅は、その名を口の中で一度だけ転がした。
「良い名だ」
――電竜刀『守刀』、電竜装【緋縅】。
それから明羅は、霊夢の名が書かれた依頼に、自分から手を伸ばさなくなった。代わりに受けるようになったのは、旅人の護衛。荷車の殿。避難の列の最後尾。
受付の小鈴が、受注票の端に『再考を』と書き添えることも、いつの間にか無くなっていた。
~人里 工房~
――最後の紐が、板の穴を抜けた。
小傘は緋色の紐の端を二度巻いて結び、余りを小刀で切り落とす。籠手を炉の明かりにかざすと、新しい紐が板と板のあいだに真っ直ぐ並んで、着物の裾の炎と同じ色に光った。
「――はい、出来上がり。肩当ての方も、ついでに締め直しといたよ」
「助かる」
明羅は籠手を受け取り、手首に当てて紐を締めた。指を握り、開く。板が鳴らない。紐が擦れない。
外の雨は、いつの間にか小降りになっていた。軒の雫の間隔が長くなり、雲の切れ目から薄い日が差して、濡れた石畳を白く光らせている。
「……そっかぁ。霊夢さんに、半分押し付けられたんだ」
小傘は道具を片付けながら、ぼそりと言った。
「私、ずっと明羅さんが一人で仕留めたんだと思ってた。だって、この翼爪、二本とも明羅さんが持ってきたから」
「二本?」
「うん。刀に一本、鎧の籠手の芯に一本。……あれ、もしかして」
明羅は答えなかった。
あの雨の夜、霊夢は素材をちょうど半分に分けた。翼爪も一本ずつ。――だが、明羅が工房に素材を持ち込んだ翌朝、もう一本の翼爪が風呂敷に包まれて、工房の戸口に置かれていたのだという。書き付けは何も無かった。小傘はそれを、明羅が後から届けたものだと思い込んだまま、刀と籠手に打ち込んでいた。
明羅がそれを知ったのは、今が初めてだ。
霊夢は今でも、そのことを一言も口にしない。
「……霊夢らしいな」
明羅はそれだけ言って、作業台の上の太刀に手を伸ばした。
鞘に収める前に、一度だけ刃を見る。翠色の筋の中を、細い光が這っている。斬るたびに溜まる、電竜の光。あの竜が研いでは眺め、噛んで整えていた爪だ。
「そういえば、さっき小鈴ちゃんが言ってたよ。霊夢さん、昨日また大きいのを一人で片付けたんだって。紫さんの頼まれ事で、どこかの山奥まで行ってたとか」
明羅の手が、ほんの少しだけ止まった。
ほんの少しだけだ。小傘が気付かないくらいの。
「……そうか」
明羅は太刀を鞘に収め、背に負った。紐を締めた籠手が、肩越しに柄を握る手首を、しっかりと支えている。
「明日からまた護衛?」
「山里まで、薬の荷車を。――あの峠を越える」
「そっか。……いってらっしゃい、明羅さん」
明羅は小さく頷き、番傘を手に取った。開かないまま戸口に立ち、雲の切れ目を見上げる。
東の山の稜線の上に、薄く虹が掛かっていた。
――人の前に立つ刀は、今日も背にある。雷の竜が研いだ爪は、誰より先へ届くためではなく、誰も後ろへ通さないために。