東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第五話:一番まっすぐな子

~迷いの竹林 妹紅の家~

 

――鍋の底が、黒く焦げ付いている。

 

 朝の竹林は霧が深い。竹の葉から落ちる雫の音が、あちこちでポツリ、ポツリと鳴っている。その竹林の奥の小さな家の裏手で、井戸の水を汲む音がした。

 井戸端にしゃがみ込んでいる妹紅は鍋を桶の水に浸け、藁の束子で底を擦る。ガリガリと嫌な音がするが、焦げは殆ど落ちない。

 

「……またか」

 

 溜め息を吐いて、もう一度擦る。

 その背中に、ドスンと重い物――妹紅のオトモ『オキ』が乗りかかる。赤茶の目を細め、妹紅の背中に頭をグイグイと押し付けている。巻いた尾が、千切れそうな勢いで左右に振られていた。

 

「お前のせいだぞ、これ」

〈ワフッ〉

「褒めてないからな」

 

 オキの体が、さらに重くのしかかる。妹紅は前のめりになって、鍋ごと桶に頭を突っ込みそうになった。

 

――昨夜も同じだった。妹紅が竈の前にしゃがんで火を起こすと、オキは必ず背中にくっついてくる。押し返しても、また寄ってくる。それを三度繰り返しているうちに、鍋の中身が焦げる。この家の鍋は、どれも底が黒い。

 焦げ付いた鍋の横には、小さな木の椀が一つ伏せてある。オキの飯椀だ。マヨヒガから一緒に来た椀で、オキの飯だけはこれで量る。この椀で量った飯は減らないという言い伝えがあるらしいが、オキの食べる量を見ていると、とても信じられない。

 

「――あの、妹紅さん……」

 

 竹垣の向こうから、遠慮がちな声が聞こえた。

 霧の中に、薄紫の長い髪と、いつもよりヨレた兎の耳が見える。背中には大きな薬箱。永遠亭の薬師の弟子、鈴仙だ。

 

「置き薬の入れ替えに来たんですけど……」

「おう。入れよ」

「その……」

 

 鈴仙の視線が、妹紅の背中に張り付いている大きな犬に落ちた。

 オキが顔を上げる。立った耳が、ピンと鈴仙の方を向き、鼻がヒクヒクと動く。

 その反応を見た鈴仙は竹垣の向こうで一歩下がる。

 

「……その子が座ってるうちは、入りません」

「まだ怖いのかよ。もう何年になる」

「年数の問題じゃないんですよ!」

 

 鈴仙の耳がピンと立った。それを見たオキの尾が、さらに大きく振られる。鈴仙はもう一歩下がった。

 妹紅は笑いを噛み殺しながら、鍋を桶から上げる。

 

「オキ。座れ」

〈……ワフ〉

 

 オキは妹紅の足元に、渋々と腰を下ろした。しかし尾だけは、まだ地面を掃いている。

 鈴仙は竹垣の木戸を細く開け、薬箱を胸に抱えたまま、一歩ずつ横歩きで入ってきた。歩きながら、オキから目を離さない。オキも鈴仙から目を離さない。

 

――あの日から、ずっとこうだ。

 

 妹紅は焦げた鍋を見下ろした。この家の鍋が焦げ始めたのも、鈴仙がオキを怖がり始めたのも、同じ頃のことだった。

 


~迷いの竹林 妹紅の家~

 

―――あの年の冬の終わり、慧音が縁側に一枚の紙を置いた。

 

「――オトモの申し込みだ。私の名で出しておいた」

 

 紙には、中央会館の朱の判が押してある。申込人の欄に慧音の名。オトモを迎えるハンターの欄に、妹紅の名。

 妹紅はその紙を見下ろし、手に取らずに半目で友人を見やる。

 

「要らないって言っただろ」

「あぁ、言っていたな」

「なら、何で出した」

「竹林の救助に要るからだ」

 

 慧音は、縁側に腰を下ろした。冬の陽が、慧音の青みがかった銀髪を薄く照らしている。

 

「この冬、竹林で迷った子供を見つけるのに、丸一日かかっただろう。お前が見つけた時には、もう足の指が凍えて黒くなりかけていた。――匂いを辿れる鼻があれば、半日で済んだ。見つけた子供を背に乗せて走れる足があれば、永遠亭まですぐだった」

「……」

「お前のためじゃない。竹林で迷う者のためだ」

 

 妹紅は、しばらく庭の竹を見ていた。

 

「――先に死ぬ相棒なんて、もう要らない」

 

 そこから絞り出されたのは小さな声だった。慧音は何も言わずに、その横顔を見つめる。

 

――望まずして蓬莱人(不老不死)となり、千年を超えて生きてきた。その間に隣を歩いた者は、皆、先に居なくなった。人も、妖怪も、獣も。数えるのは、ずいぶん前にやめている。

 

「……分かっている。妹紅の気持ちは、私も少しは分かっているつもりだ」

 

 慧音は紙を縁側に置いたまま、立ち上がった。

 

「――だからこそ、断るなら自分で断りに行け。迎えは三日後に来る」

 


~マヨヒガへの道~

 

――三日後の朝、竹垣の前に一匹の猫が座っていた。

 ただの三毛猫に見える。だが、妹紅が戸を開けた途端に立ち上がり、ついて来いとでも言うように、尾を一度だけ振って歩き出した。

 猫は一度も振り返らない。

 竹林を抜け、名も知らない沢を渡り、霧の濃い山道を登る。木々の形が見覚えのあるものから、だんだん見知らぬものへ変わっていく。どこをどう歩いたのか、妹紅にも後から思い出せない。ただ、前を行く猫の尾だけが、霧の中で揺れていた。

 

――『欲のない者は、迷わないという』

 

 慧音はマヨヒガについてそう言っていた。欲深い者は、案内の猫を途中で見失う。妹紅は、自分に欲が無いとは思わない。ただ、マヨヒガで何かを持ち帰りたいとは、少しも思っていなかった。

 

――そして、霧が不意に晴れた。

 山の斜面に、大きな古い屋敷が建っている。茅葺きの屋根。開け放たれた縁側。誰も居ないのに、座敷の火鉢では鉄瓶の湯がシュンシュンとたぎり、膳には湯気の立つ椀が並んでいる。

 縁側には、猫が何十匹も寝そべっていた。ただの猫も、尾の二つに分かれた猫も、服を着て二本足で立つ猫も、どれがどれだか分からないくらいに混ざり合って、日向で丸くなっている。

――『マヨヒガ』。幻想郷中のハンターに、オトモを送り出す里に妹紅は辿り着いた。

 


~マヨヒガ 帳場~

 

「――いらっしゃい!遠かったでしょ」

 

 母屋の帳場で、小柄な化け猫の少女――マヨヒガのまとめ役の橙が顔を上げて立ち上がる。

 橙は帳場を回り込んでくると、妹紅の前で鼻をクンクンと鳴らした。

 

「えーと、慧音さんが申し込んだ人だよね。『藤原妹紅』さん。――ちょっと、じっとしてて」

 

 橙は妹紅の袖の匂いを嗅ぎ、髪の匂いを嗅ぎ、首を傾げた。もう一度嗅ぐ。また首を傾げる。

 

「……煙の匂い。それと――」

 

 橙の耳が、ペタリと伏せた。

 

「――すごく古い匂い。何だろ、これ……分かんない」

「分からなくていい。断りに来ただけだ」

「え、何で?」

「――先に死ぬ相棒は要らない。そう言いに来た」

 

 橙は、きょとんとした顔で妹紅を見上げた。それから、帳場の台帳をパラパラとめくり、また閉じる。

 

「……妹紅さんの匂いが何の匂いか、私には分かんない。分かんないと、どの子が合うかも分かんないんだよね」

「なら、尚更ちょうどいい。帰る――」

「だからさ――」

 

 橙は帳場から靴を突っかけ、縁側から庭へ飛び降りた。

 

「分かんない時は、一番まっすぐな子にするって決めてるの。――来て!」

 

 橙は返事も聞かずに走り出した。妹紅は暫し呆けて縁側に立っていたが、やがて溜め息を吐いてその後を追った。

 


~マヨヒガ 犬舎~

 

――沢に架かった丸木橋の向こうから、犬の声が聞こえてくる。

 里の外れの犬舎には、大きな犬のような牙獣種の小型モンスターが十数頭居た。人を背に乗せられるほどの体。狼に似た鋭い顔。だが、どの犬も尾を振って橙の周りに集まってくる。

 

――これが『ガルク』か。

 

 人里でも偶に見かける 、アイルーと共にハンターのオトモとして傍に在る存在を見回していると、橙はその中の一頭の首に腕を回した。

 

「この子。犬舎で一番古い子の孫なんだ。――一番まっすぐな子だよ」

 

 灰白の毛並み。耳の先と尾の先だけが、炭のように黒い。赤茶の目が、真っ直ぐに妹紅を見ていた。

 若いガルクは、橙の腕をするりと抜けた。迷いの無い足取りで妹紅の前まで来て――ストンと座る。尾をクルリと巻いて、首を伸ばし、妹紅の手の匂いを一度だけ嗅いだ。

 それから、もう動かなかった。

 妹紅の顔を見上げたまま、じっと座っている。

 

「……おい」

 

 妹紅が一歩下がると、ガルクも一歩前へ出て、また座る。もう一歩下がると、また一歩前へ出て座る。

 橙が、ケラケラと笑った。

 

「ほらね。もう決めちゃったみたい。この子、一度決めたら曲がらないんだよ」

「私は決めてないんだが」

「うん。でもこの子は決めちゃったよ」

 

 橙は母屋から、小さな木の椀を一つ持ってきた。それを妹紅の手に押し付ける。

 

「この子の飯椀だよ。お家に置いといてね。この子が帰る場所の印だから。――名前は『オキ』。熾火の、オキ。火が消えた後も、ずっと赤く残ってる炭のことだよ」

「……熾火、か」

「妹紅さん、煙の匂いがするから。ぴったりでしょ」

 

 橙はオキの背中を叩いた。オキの背と肩には、赤い鱗を綴じた小さな防具が着けられている。妹紅はその鱗に見覚えがあった。

――火竜の鱗だ。自分の武具と同じそれ。

 

「ここの鍛冶小屋担当の子に頼んで、作ってもらったんだ。人里の工房から、妹紅さんの防具の余りの端材を分けてもらってね。――妹紅さんの炎のそばに居ても、熱くないように」

 

 妹紅は、言葉に詰まった。

 断りに来た相手の炎のために、この猫の娘は、とうに防具を誂えていたのだ。

 オキが、首を傾げる。妹紅の手の中の飯椀の匂いを嗅ぎ、それから、また妹紅を見上げた。

 

〈ワウッ!〉

 

 短く、一声吠える。

 妹紅は、長い溜め息を吐いた。

 

「……竹林の救助に、要るだけだからな」

 

 橙が、両手を上げて跳び上がった。

 

「やった!――あ、ガルクはアイルー、メラルーと違って喋らないから。吠えたり、耳とか尻尾とかで話すから、ちゃんと見てあげてね」

 


~迷いの竹林 妹紅の家~

 

――オキが来て最初の夜、妹紅は三度目を覚ました。

 一度目は、背中が熱かったからだ。振り返ると、オキが妹紅の背中にぴったりと体をくっつけて丸まっている。妹紅は肘でその体を押しやり、壁の方を向いて目を閉じた。

 二度目は、また背中が熱かったからだ。押しやったはずのオキが、元の場所に戻っている。もう一度押しやる。オキは薄目を開けて妹紅を見て、それから、のそのそと戻ってくる。

 そして三度目に目を覚ました時、妹紅は観念してもう押しやらなかった。

 竹林の夜は冷える。背中に当たる獣の体は、火鉢よりもずっと温かい。オキの寝息が、ゆっくりと背中を押しては引いた。

 

――勝手にしろ。

 

 そう思って目を閉じると、朝まで一度も目を覚まさなかった。

 次の日から、オキは妹紅の行く所すべてに付いてきた。

 薪を割っていれば、隣で座って見ている。

 井戸で水を汲めば、桶を覗き込む。

 厠の前でさえ、戸の外で待っている。

 妹紅が立ち止まると、必ず背中のすぐ後ろで立ち止まった。右でも左でもない。前でもない。

――いつも自分の背中だ。

 

「……そこが好きなのか」

〈ワフ〉

 

 オキは返事のように一声鳴いて、また背中の後ろに座った。

 困ったのは、飯の支度だった。

 妹紅は竈の前にしゃがみ、指先に小さな炎を灯して薪に火を移す。妹紅の家では、火打ち石を使ったことがない。火を起こすのは、いつも自分の指だ。

 その背中に、オキが寄りかかる。

 重い。押し返してもまた寄りかかる。押し返す。その度に手元が狂い、指先の炎がボウッと膨らんで、鍋の底を舐めた。気付いた時には、粥の底がパチパチと音を立てて黒くなっていた。

 

「……お前な」

 

 オキは焦げた匂いに鼻を鳴らし、それから妹紅の顔を見上げて尾を振った。叱られているとは、少しも思っていない顔だ。

 この家の鍋が焦げ始めたのは、その夜からだ。

 

――そして三日目の夕方。

 妹紅は、筍の皮を剥いていた。小刀が滑って、左の親指の腹をざっくりと切る。血がポタポタと土間に落ちた。

 

「っと」

 

 妹紅にとっては、何でもない傷だった。放っておけば、夕飯を食べ終わる頃にはすっかり塞がっている。妹紅は指を口に咥えようとして――

 

〈ワウッ!ワウワウッ!〉

 

――オキが跳ね起きた。

 土間の血の匂いを嗅ぎ、妹紅の手を嗅ぎ、吠える。妹紅の周りを、グルグルと回る。耳を伏せ、尾を丸め、鼻を鳴らして妹紅の手を舐めようとする。

 

「大丈夫だ。すぐ治る」

〈ワウッ!〉

「治るって。……ほら、見てろ」

 

 妹紅は親指をオキの鼻先に突き出した。

 傷の縁が、ゆっくりと寄っていく。血が止まり、薄い皮が張り、赤い線になり、その線もやがて薄れていく。ほんの数十秒数える間のことだ。

 オキは、その指をじっと見ていた。そして鼻を寄せ、もう一度嗅ぐ。血の匂いはもうしない。オキは顔を上げ、妹紅を見つめる。赤茶の目が、何かを確かめるように、妹紅の顔と指を行き来する。

 それから――オキは妹紅の膝に顎を載せた。

 尾は振らなかった。耳も立てなかった。ただ、妹紅の膝に顎を載せたまま、いつまでもそこから動かなかった。

 

――分からないよな。

 

 治ることは、見せられる。だが、痛くないわけではないことも、それでも治ってしまうことの意味も、この犬には分からない。分からなくていい、と妹紅は思った。

 分からないまま、この犬は、妹紅が怪我をするたびに本気で取り乱すのだろう。

 妹紅は、オキの耳の後ろを掻いてやる。オキは目を細め、それでも顎を退けなかった。

 


~迷いの竹林 南の筍林~

 

――オキの最初の仕事は、春の初めにやってきた。

 

「筍掘りの爺様が、昨日の朝から戻らないそうだ」

 

 竹林の入口で待っていた慧音は、手ぬぐいを一枚、妹紅に差し出した。藍染めの古い手ぬぐいで、端が擦り切れている。

 

「名は与平(よへい)という。里の東に住んでいる爺様だ。毎年この時期は、南の筍林で筍を掘る。昨日も、奥さんが持たせた弁当を提げて、朝早く出たきり帰ってこない。――これは、彼が普段使っている手ぬぐいだ」

 

 妹紅は手ぬぐいを受け取り、足元のオキの鼻先へ差し出した。

 オキは鼻を寄せ、長いこと嗅いだ。鼻がヒクヒクと動き、耳が前へ傾く。それから一度だけ顔を上げて妹紅を見て、竹林の奥へ向かって歩き出した。

 

「……分かったのか」

〈ワフ〉

「慧音。夕方までに戻らなかったら、永遠亭に一報を入れておいてくれ」

「分かった。――妹紅」

 

 慧音が、妹紅の背中に声を掛けた。

 

「その子の初めての仕事だ。無理はするな。……二人とも、必ず帰ってこい」

 

 妹紅は振り返らずに、片手だけを上げた。

 


~迷いの竹林 南の筍林 奥~

 

――竹の根元に、籠が一つ転がっていた。

 筍林は、竹林の中でも竹が若く、間隔の広い場所だ。足元の土は柔らかく、あちこちから筍の頭が覗いている。朝の光が竹の葉の隙間から斜めに差し込み、地面に細い縞を描いていた。

 籠は横倒しになり、掘った筍が三本、土の上に転がっている。鍬が少し離れた所に落ちていた。オキが籠の匂いを嗅ぎ、低く唸る。

 妹紅はしゃがみ込み、籠の周りの土を見た。

 草鞋の跡がある。件の爺様のものだろう。籠の周りを行き来した跡が、ある所で急に乱れ、竹林の奥へ向かって大股に伸びていた。踵が深く沈み、爪先が土を蹴り上げている。

 

――走った跡。何かから逃げた跡だ。

 

 その草鞋の跡の上に、別の足跡が重なっていた。

 大きい。妹紅の掌を二つ並べても足りない幅だ。丸く窪んだ足の裏の跡の先に、太い爪の跡が五本、深く刺さっている。足跡は四つ足で歩いた形をしているが、ところどころで前足の跡が消え、後ろ足の跡だけが二つ並んでいた。

 

――途中で立ち上がった。

 

 四つ足で歩き、時々後ろ足だけで立つ。大きな爪を持つ獣だ。妹紅は筍林の外れで、熊の足跡を見たことがある。だがこれは、熊の倍は大きい。

 少し先の竹に、目の高さよりずっと上の所に、引っ掻いた跡があった。五本の爪の筋が縦に長く走り、竹の青い皮が剥げて、白い肉が覗いている。筋の端に、青い毛が数本引っかかっていた。

 妹紅は手を伸ばし、その毛を摘まんだ。

 青い。空の色を濃くしたような、深い青だ。硬く、太く、根元の方は少し灰色がかっている。鼻に近づけると、獣の脂の匂いに混じって、甘い匂いがした。

 

――蜂蜜だ。

 

 顔を上げる。

 二本先の竹の、人の背丈の倍ほどの高さに、何かが引っかかっていた。灰色の、紙を重ねたような塊――蜂の巣だ。ただし、半分から下がもぎ取られている。もぎ取られた断面から琥珀色の蜜が竹の幹を伝って垂れ、根元の土を黒く湿らせている。蜂が数匹、怒ったように巣の周りを回っている。

 その根元の土には、筍が掘り返され、齧られた跡がいくつもあった。皮ごと噛み砕かれ、白い芯が食い散らかされている。

 

「蜂蜜に筍……食い意地の張った奴だな」

 

 オキが鼻を地面に付けたまま、竹林の奥へ歩いていく。爺様の匂いを追っているのだ。妹紅はその後ろに付いて歩く。

 草鞋の跡と、大きな獣の足跡。二つの跡は、同じ方へ続いていた。爺様が逃げた方へ、獣も歩いている。走ってはいない。急いでもいない。ゆっくりと、何かを嗅ぎながら、後を付けるように。

 

――追っている。

 

 途中で、オキが立ち止まった。

 土の上に、小さな壺の蓋が落ちていた。素焼きの蓋で、縁に琥珀色のものがこびり付いている。オキがそれを嗅ぎ、くしゃみをした。

 妹紅は蓋を拾い上げた。甘い匂いが、ぷんと鼻を突く。

 

「……爺様の弁当か」

 

 彼の嫁がいつものように持たせた弁当。その中に、蜂蜜漬けの何かが入っていたのだろう。逃げる途中で、壺の蓋が外れて落ちた。

 そして獣は、蜂の巣をもぎ取るほど蜜が好きで――その蜜の匂いを、追っている。

 

――爺様じゃない。蜜を追ってるんだ。

 

 だが、蜜を抱えて逃げているのは爺様だ。

 妹紅は立ち上がった。

 

「オキ、急ぐぞ。年寄りの体力じゃ、追いつかれるのは時間の問題だ」

〈ワウッ!〉

 

 オキが走り出す。鼻を低くし、竹の間を縫うように。妹紅はその背中を追って走る。

 竹林の空気が、少しずつ変わっていく。鳥の声が消えた。さっきまで竹の根元を走り回っていた野鼠の姿が無い。風が止まり、竹の葉の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。

――獣の匂いが、濃くなった。脂と、土と、甘い蜜の匂い。

 オキが、急に足を止めた。

 耳を前に倒し、鼻を一点に向けている。竹林の窪地。古い竹が何本も倒れ重なり、その下に、人一人が潜り込めるほどの隙間ができていた。

 隙間の奥で、何かが動いた。

 

「……誰か、居るのかい」

 

 しわがれた、震える声だった。

 妹紅は窪地へ滑り降りた。倒れた竹の下を覗き込む。白髪の痩せた老人が、膝を抱えるようにして潜り込んでいた。右の足首が、紫色に腫れ上がっている。胸に、素焼きの小さな壺を抱えていた。

 

「与平さんか」

「あ、あぁ……よもやギルドの人か……助かった……」

「足は」

「逃げる時に、竹の根に引っかけてな……それで、ここへ這い込んで……」

 

 与平は、胸の壺を見下ろした。

 

「……嫁が持たせてくれた、蜂蜜漬けの梅だ。孫の熱冷ましに、と……。これだけは置いていけんでな……」

 

 妹紅は、その壺を見た。蓋の外れた壺から、甘い匂いが立ち昇っている。

 

――これだ。この中身が原因だ。

 

 オキが、窪地の縁で振り返って低く唸る。背中の毛が、ゆっくりと逆立っていく。

 妹紅は窪地の縁から、そっと顔を出した。

 窪地の向こう、竹がまばらになった小さな空き地に――青く大きな獣が居た。

――熊より遥かに大きい。四つ足で立っていても、妹紅の背丈ほどある。全身が深い青の毛に覆われ、頭と背中は硬そうな甲殻に守られている。前足が太い。腕の甲殻には、鋭い棘が何本も突き出していた。その先に、草刈り鎌を五本並べたような爪。

 青い獣は、竹にもたれかかるようにして、前足の甲殻をペロペロと舐めていた。甲殻にこびり付いた蜜を、長い舌で丁寧に舐め取っている。舐め終わると、もう片方の前足を持ち上げ、また舐める。

 その仕草だけを見れば、どこか間の抜けた、人の好い獣に見えた。

 だが――ふと、獣が舐めるのを止めた。

 鼻をヒクヒクと動かす。それから、ゆっくりと後ろ足だけで立ち上がった。

 立つと、妹紅の倍はある。青い毛の腹が、朝の光を受けて柔らかく光った。

 

――『青熊獣:アオアシラ』

 

 青熊獣は、温かい山や森に棲む牙獣だ。何でも食べる雑食だが、何より蜂蜜を好む。蜜を持つ者を見つければ、奪い取ってでも食べようとする――竹林の兎達が、そう噂していたのを思い出す。

 青熊獣の鼻先が、ゆっくりとこちらへ向いた。

 窪地の方へ。与平の抱えた、蜂蜜の壺の方へ。

 

「――与平さん。そこから出るなよ」

 

 妹紅は窪地の縁で、後ろを振り返らずに言った。

 

「オキ。爺様のそばに居ろ。動くなよ」

〈……クゥン〉

 

 オキは一度だけ鼻を鳴らし、倒れた竹の隙間の前に座った。耳は妹紅の方を向いたままだ。

 アオアシラが四つ足に戻った。竹の間を、まっすぐこちらへ歩いてくる。急いではいない。ただ、蜜の匂いのする方へ、当たり前のように近付く。

――妹紅は、窪地と獣のあいだに飛び降りた。

 背に交差させた二振りの柄を、両手で掴む。押し出すようにして抜き放つと、赤黒い対の刃が竹林の光を返した。刃の根元で、火の粉がチリと散る。

――火竜双刃『鳳翼天翔』 を構える。

 

 アオアシラが足を止めた。鼻先に立ちはだかる白い髪の少女を、不思議そうに見下ろしている。

 それから、後ろ足で立ち上がった。

 両の前足を大きく広げる。腕の甲殻の棘が、朝の光にギラリと光った。

 

〈ゴアァァァァァッ!!〉

 

 咆哮が、竹林を揺らした。竹の葉がザアッと鳴り、鳥が一斉に飛び立つ。

 アオアシラは立ったまま、前足を振り下ろした。右。左。右。大きな爪が空を掛き、妹紅の立っていた土をごっそりと抉り取る。妹紅はその度に一歩ずつ身を引き、三つ目の爪が地面に刺さった瞬間、その腕の内側へ潜り込んだ。

 腹を守っているのは、柔らかい毛だ。

 右、左。二振りの刃が青い毛を裂き、火の粉を散らす。焦げた毛の匂いが立ち昇る。

 

〈グオォッ!〉

 

 アオアシラが身を捩る。妹紅は腹の下を滑るように抜け、背後に回った。

 息を吸う。体の奥に溜めた気を、両腕へ流す。――鬼人化。体が軽くなり、刃の振りが速くなる。フサフサと揺れる青熊獣の尻と後ろ足へ、刃を小刻みに叩き込んでいく。

 いける。そう思った。

 アオアシの巨体が、不意に浮いた。

 跳んだのだ――後ろへ。尻から。

 見上げた妹紅の視界を、青い毛の塊が塗り潰した。

 

――ドスン!

 

 尻もちだった。地面が揺れ、竹の葉が雨のように降る。妹紅は転がってその下から逃れたが、起き上がる前に、太い腕がもう横から伸びてきていた。

――そのまま掴まれた。

 両脇から太い腕が妹紅の体を抱き締める。甲殻の棘が背中に食い込む。青い毛の胸に押し付けられ、息ができない。蜜と脂の匂いが、鼻も口も塞いだ。

 ミシリ、と体の中で音がした。――肋が折れた音だ。

 

「ぐ……っ……!」

 

 妹紅は、抱き締められたまま全身に炎を纏った。火竜の鱗を重ねた防具が、その炎を内側で受け止める。青い毛が一気に焦げ、獣の悲鳴が頭の上で弾けた。

 腕が緩む。妹紅の体が、地面へ投げ出される。

――そこへ、焦げた前足が横薙ぎに飛んできた。

 弾き飛ばされた妹紅の体が、竹の幹に叩きつけられる。竹がしなり、妹紅はその根元にずり落ちた。

 視界が白くなる。左の腕が、変な方を向いている。息を吸おうとすると、胸の奥で何かがギシリと軋んだ。

 

――折れたな。

 

 こんなのは、初めてじゃない。少し寝ていれば、立てる。

 妹紅の目が、ゆっくりと閉じていく。

 

〈アォォオオオオオオン……!!〉

 

――遠吠えが、闇の向こうから届いた。

 窪地の前で、オキが立ち上がっていた。

 待て、と言われた。動くな、と言われた。その主が、竹の根元で動かなくなっている。

 オキは、背の防具の小さな袋を咥えて引き劑がした。袋の中の巻物が破れ、薄荷に似た鋭い匂いが、パッと弾けた。

――[猛速の巻物*1]の効果を纏いらオキの四つの足が土を蹴った。

――速い。一蹴りで窪地を飛び出し、二蹴りで竹の間を縫い、三蹴り目にはもう、アオアシラの足元に居た。

 

 背の甲冑から、鎖が鳴った。

 鎖の両端に大鎌を付けた猟犬具――『双刃鎖鎌』。オキが首を振ると、咥えた柄から鎖が伸び、二つの鎌がヒュンヒュンと円を描いて回る。鎌がアオアシラの後ろ足を捕え、毛を裂き、また回って、もう一度裂く。

 

〈ギャオッ!〉

 

 アオアシラが、足元の小さな獣を振り払おうとする。オキは跳んでそれをかわし、着地したその場所からまた鎌を回す。吠えながら。牙を剥きながら。背中の毛を全部逆立てて。

 妹紅は、その吠え声で目を開けた。

 こんな声は、初めて聞いた。鍋を焦がして尾を振っていた犬の声とは、似ても似つかない。

 

――怒っている。私が、倒れたから。

 

「……馬鹿だな、お前は」

 

 妹紅は、右の手で竹を掴んだ。折れた左腕の奥で、骨が元の形へ戻ろうと蠢いている。息を吸うたびに肋が軋む。それでも、立つ。

 左手の刃を、口で咥えて拾い上げる。刃を右手に持ち替え、もう一振りは、左手に無理やり握らせた。指は、まだ動く。

 

「――オキ!」

 

 オキの耳が、ピンとこちらを向いた。

 次の瞬間には、オキはもうアオアシラの足元を離れ、妹紅のもとへ駆け戻っていた。そして、いつもの場所――妹紅の背中の、すぐ後ろに着いた。

 尾が、一度だけ大きく振られた。

 

「……そこが好きなんだったな」

〈ワウッ!〉

 

 アオアシラが、二人を見下ろしていた。

 焦げた胸の毛から、煙が細く立ち昇っている。鼻息が白く荒い。前足で地面をドン、ドンと叩き、背中の甲殻の間の毛が、山のように逆立っていた。――怒り状態だ。

 青熊獣が、足元の土に前足を突っ込んだ。土ごと、大人の頭ほどの石を掘り起こす。それを、両腕で頭の上に持ち上げた。

 

――投げる気か。

 

 妹紅は走った。続いてオキも走る。妹紅の背中の、半歩後ろを。

 石が飛んできた。妹紅のいた場所に落ち、土を咬んで跳ね、竹を二本まとめてへし折った。

 妹紅は走りながら、双刃を交差させる。折れた腕が悲鳴を上げるが、それを無視してアオアシラの脇腹へ飛び込む。

 右、左。刃が走る。その一拍後を、鎌が追って右、左と鎌が回る。

 妹紅が斬れば、オキがそこへ鎌を重ねる。妹紅が身を沈めれば、オキも身を沈める。迎えてから今まで何も教えてなどいない。一度も一緒に狩ったことも無い。それなのに、背中のすぐ後ろから、刃の拍子が一つもずれずに返ってくる。

 

――そうか。ずっと、背中を見てたんだな。

 

 薪を割る背中を。竈に向かう背中を。竹林を歩く背中を。この一月の間、ずっと。

 

――しばらくして、アオアシラがよろめいた。

 後ろ足の毛が血で黒く張り付き、腹の毛は焦げて縮れている。口の端から、涎が垂れていた。

 それでも青熊獣の鼻は、まだ窪地の方を向いていた。蜜の匂いのする方を。

 

――こいつは、蜜が欲しいだけだ。

 

 妹紅は、窪地へ走った。そして倒れた竹の隙間を覗き込む。

 

「――与平さん。その壺を、貸してくれ」

「こ、これは……孫の……」

「孫には、私が別のを届けさせる。――その壺を抱えてる限り、あいつはどこまでも付いてくるぞ」

 

 与平は壺を見下ろし、それから、震える手でそれを差し出した。

 妹紅は壺を受け取ると、窪地の縁に駆け上がった。窪地の向こう側は、竹林の斜面が沢へ向かって下っている。せせらぎの音が、遠くに聞こえていた。

 

「――ほら。お前の欲しいのは、これだろ」

 

 右の腕を、大きく振りかぶる。肋が悲鳴を上げる。それでも振り抜き――壺を放り投げる。

 壺が竹林の上を弧を描いて飛んでいく。琥珀色の雫が、朝の光の中でキラキラと尾を引く。やがて、遠くの沢の方で、パリンと小さな音がした。

 青熊獣の鼻が、ゆっくりとそちらへ向いた。

 ヒクヒクと鼻を動かす。妹紅を見、オキを見る。それから、また沢の方を嗅ぐ。

 焦げた胸。裂かれた後ろ足。目の前には、立ち上がってくる白い髪の少女と、毛を逆立てた大きな犬。沢の方には、甘い蜜。

 

 アオアシラは四つ足に戻った。そして――二人に背を向けた。竹の間を、重たい足取りで沢の方へ下りていく。一度だけ立ち止まって振り返り、それから、青い背中は竹林の奥へ消えていった。

 

〈ウゥ……ワウッ!〉

 

 オキが、その背中を追いかけようと前足を踏み出す。

 

「――追うな」

 

 オキの足が止まる。

 

「狩りに来たんじゃない。私達は爺様を迎えに来たんだ」

 

 オキは、竹林の奥と妹紅の顔を一度ずつ見た。それから、逆立った背中の毛をゆっくりと寝かせて、妹紅の背中の後ろに戻ってきた。

 妹紅は、その場に座り込んだ。折れた左腕を膝の上に載せる。骨の奥で、まだ再生する力が蠢いている。夕方までには繋がるだろう。

 オキが、その腕に鼻を寄せた。血の匂いを嗅ぎ、耳を伏せる。それから、妹紅の頬を、一度だけ舐めた。

 

「……待てって言っただろ。動くなって」

〈クゥン〉

「……助かったよ」

 

 オキの尾が、千切れそうな勢いで振られた。

 


~迷いの竹林 永遠亭~

 

――永遠亭の門を、灰白の影が風のように駆け抜けた。

 背中には、足を折った与平がしがみついている。その横を、左腕を帯で吊った妹紅が並んで走っていた。竹林の奥から永遠亭まで、一度も足を止めていない。

 庭で薬草を干していた少女が、顔を上げた。

 薄紫の長い髪。ヨレた兎の耳。永遠亭の薬師の弟子、鈴仙はそれに気付く。

 

「――妹紅さん?その大きいのは……」

「怪我人だ。足を折ってる。竹林で一晩、冷えてもいる」

 

 鈴仙の顔が、すぐに薬師の弟子の顔になった。縁側から飛び降り、オキの背中の与平へ手を伸ばす。

 

「――受け取ります。ゆっくり下ろして――」

〈グルルルル……〉

 

 鈴仙の手が、止まった。

――オキが、牙を剥いていた。背中の毛を逆立て、耳を後ろへ伏せ、低く唸っている。主が運べと言ったものを、知らない者が奪っていこうとしている――オキにはそう見えたのだろう。

 

「ひっ……」

「オキ、渡せ。その兎が爺様を治す」

 

 妹紅が言うと、唸り声がピタリと止んだ。オキはその場に伏せ、与平が滑り降りやすいように肩を低くする。

 鈴仙は息を止めたまま、与平を抱え下ろした。後から駆けつけてきた小さな兎達が、担架を運んでくる。

――そこまでは、よかった。

 オキの鼻が、ヒクリと動いた。

 担架を担いできた小さな兎達。その後ろで、与平を抱えたまま屈み込んでいる、耳の長い少女。

 

――兎の匂い。

 

 オキの耳が、ピンと立った。尾が、ゆっくりと左右に揺れ始める。さっきまでの唸り声とはまるで違う、弾むような息づかいが、ハッハッと漏れていた。

 鈴仙が、それに気付いた。

 

「……あの、妹紅さん。この子、何で私を見てるんですか」

「……さてね」

 

 鈴仙が、与平を担架に乗せて立ち上がる。その拍子に、長い耳がピョコンと揺れた。

 瞬間――オキが跳んだ。

 

「きゃあっ!?」

 

 鈴仙が走り、オキが追う。庭に居た小さな兎達が、一斉に四方八方へ逃げ散る。オキはどの兎にも目もくれず、ただ一番大きな兎の背中だけを、尾を振りながら追いかけていく。

 

「な、なんで私だけっ……?!妹紅さん!止めてください!」

 

 鈴仙は庭を三周し、縁側に飛び上がり、そこから薬棚の上によじ登る。オキは棚の下で後ろ足で立ち上がり、前足を棚に掛けて、尾を振り続けている。遊んでもらえると、心の底から思っている顔だ。

 

「――あははっ!犬に追い回される月の兎。こりゃ、いいもの見たよ」

 

 庭の端の簾の陰で、小柄な黒髪の兎が腹を抱えて笑っていた。竹林の兎達の頭のてゐも騒ぎを聞き付けて来た様だ。

 

「笑ってないで助けてよ、てゐ!」

「いんや。そいつ、あんたと遊びたいだけさ。噂みつきやしないよ、多分ね」

「そういう問題じゃないの!」

 

 妹紅は、折れた腕を押さえながら、肋が痛むのも構わずに声を上げて笑った。

 笑いながら、ふと思う。

 

――こんな風に笑ったのは、いつ以来だろう。

 

「……オキ。戻れ」

〈ワフッ!〉

 

 オキは棚から前足を下ろし、一目散に妹紅の背中の後ろへ戻ってきた。そして、何事も無かったかのように、ちょこんと座る。

 しばらくして、鈴仙が棚からそろそろと下りてきた。髪に薬草の葉をくっつけ、肩で息をしている。

 

「……妹紅さんも、腕を見せてください。折れてますよね、それ」

「放っときゃ治る。よく知ってるだろ」

「師匠に叱られるのは私なんです。――手、出して」

 

 鈴仙が、妹紅の折れた腕にそっと触れた。

 

〈グルル……〉

 

 鈴仙の指が、凍り付いた。

 妹紅の背中の後ろで、オキがまた牙を剥いていた。主の折れた腕に触る者は、誰であれ許さないという顔だ。さっきまで尾を振って追いかけ回していた相手だというのに。

 

「……この子、いつもこうなんですか」

「今日からだ」

「……そうですか」

 

 鈴仙は耳をぺたりと垂らした。それから、引きつった笑いを浮かべて、折れた腕に添え木を当て始めた。その間、一度もオキの方を見ようとしなかった。

 


~迷いの竹林 妹紅の家~

 

――縁側に、置き薬の箱が一つ増えている。

 鈴仙は古い薬を引き出しから取り出し、新しい薬を詰め直した。帳面に印を付ける。その間じゅう、一度も縁側の下を見ない。そこには、オキが座っている。座ったまま、尾だけが地面を掃いていた。

 

「――はい。熱冷ましと、打ち身の塗り薬と、火傷の膏薬です。火傷の膏薬だけ、いつも減りが早いんですけど」

「お前用じゃない。救助の時に使うんだ」

「知ってますよ。――あ、そうだ」

 

 鈴仙は薬箱の底から、小さな壺を一つ取り出した。素焼きの壺だ。

 

「与平さんの奥さんからです。今年も蜂蜜漬けの梅が出来たから、って。――毎年、届けてくるんですね」

 

 妹紅は壺を受け取った。

 あの日、竹林の沢へ投げた壺の代わりに、妹紅は里の蜂蜜を買って与平の家へ届けた。それから毎年、この壺が届く。与平はもう筍掘りには出ない。今は代わりに、あの時の孫が筍林に入る。

 

「……そうか」

 

 鈴仙は薬箱を背負い、竹垣の木戸へ向かった。横歩きで。オキから目を離さずに。

 木戸を出た所で、ようやく肩の力を抜く。

 

「じゃあ、また来月――」

〈ワウッ!〉

「ひゃいっ!?」

 

 鈴仙の耳が真っ直ぐに立ち、鈴仙は竹林の霧の奥へと、文字通り脱兎のごとく駆けていった。

 オキは竹垣の内側で、尾を振ってそれを見送っている。吠えたのは、ただの挨拶だ。それが伝わる日は、たぶん、あと百年は来ない。

 

「……お前なぁ」

〈ワフ〉

 

 妹紅は焦げた鍋を抱えて、竈の前にしゃがんだ。指先に小さな炎を灯し、薪へ移す。

 その背中に、ドスンと重い物がもたれかかってくる。

 温かい。しかし重い。だが妹紅は、もう押し返さない。

 

――先に死ぬ相棒は、もう要らない。そう思っていた。今も、その思いが消えたわけではない。この背中の温かさも、いつかは消える。それが分かっていて、それでも――熾火は熾火だ。火が消えた後も、ずっと赤く残っている。

 鍋の底が、またパチパチと鳴り始めた。

 

「……あ、おい。待て、ちょっと退け――」

〈ワウッ!〉

 

――竹林の奥の小さな家では、今日も鍋が焦げる。その背中には、一番まっすぐな熾火が、いつもくっついている。

 

*1:
ガルクが使う巻物の一つ。強い匂いの薬で足が速くなり、攻める勢いが増す。

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