東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
第一話:季節外れの渡り
~博麗原野 南の窪地~
――草の露が、まだ乾いていない。
なだらかな丘に囲まれた窪地を、朝の霧がゆっくりと這っている。一歩踏み出すたびに草鞋が濡れ、着物の裾に露が染みる。丘の上には、崩れた石組みの遺跡が一つ、霧の中から頭だけを出している。
窪地の真ん中で、白衣の裾を露で濡らした理香子がしゃがみ込んでいた。
「――居ないわね」
理香子は丸眼鏡を指で押し上げ、窪地をぐるりと見回した。
「一頭も居ないなんて」
その数歩後ろで、明羅が足を止める。背の太刀の柄が、肩越しに薄い朝の光を返した。
「居ない、とは?」
「『アプトノス』よ。毎年、春先にはここで仔を産むの。生まれた仔が群れの足に付いて行けるようになるまで、ひと月はこの窪地から動かない。――少なくとも、去年までは」
理香子が指で示した先の草が、丸く押し潰されていた。人が三人寝転べるほどの楕円の跡だ。それが窪地のあちこちに、幾つも並んでいる。草食竜の寝床の跡だった。
理香子は、一番近い寝床に掌を当てた。
「冷たい。それに、露が降りてるでしょう」
「確かに」
「温かい体が寝ていれば、その下の草に露は降りないの。寝床が乾いていれば、昨夜までは居たってこと。――でも、ここは周りの草と同じだけ濡れてる」
理香子は腰の革鞄から帳面を出し、何かを書き付けた。それから寒暖計を草の上に寝かせ、針が落ち着くのを待つ。
明羅は、寝床の数を目で数えた。大きな寝床が十四。その間に挟まるようにして、小さな寝床が九つ。小さな方は、大人の寝床の半分もない。
「仔の寝床か」
「そう。九頭。まだ生まれて十日も経ってない仔よ。足がふらついて、群れの真ん中で守られていないと歩けもしない頃」
――それが、居ない。
理香子は立ち上がり、窪地の縁へ歩いていく。草の間に、黒っぽい塊が幾つも転がっている。草食竜の糞だ。理香子は落ちていた枯れ枝を拾い、一番大きな塊を二つに割った。
外側は乾いて罅が入り、白っぽく粉を吹いている。だが割った断面の内側は、まだ黒く湿っていた。青臭い草の匂いが立ち昇る。
「外が乾いていて、中が湿ってる。この陽気なら……丸二日ね。昨日の朝なら、中はもっと柔らかい。三日経てば、芯まで固くなる」
理香子は割った糞を、小さな硝子の管に摘まみ入れた。管の栓に番号を書き、帳面にも同じ番号を書く。その手つきは、薬師が薬を量る時のように迷いが無い。
「二日前に、ここを発ったのだろうか」
「えぇ。仔が生まれて十日足らずでね。――あり得ないのよ。春のアプトノスが動くのは、大型に巣を見つけられた時くらい。でも、それにしては――」
理香子は窪地を見回した。
「――争った跡が無い。血の一滴も、蹴り散らかした土も。皆、寝床から起きて、そのまま歩いて行ってる」
理香子の言う通りだった。窪地の草は踏まれてはいるが、荒れてはいない。慌てて逃げ出した群れなら、仔の寝床を踏み潰し、窪地の縁の土を蹄で抉っていく。ここにあるのは、静かに起き上がり、静かに列を作った跡だけだ。
明羅は窪地の北西の縁へ回った。そこから先の草が、一筋の帯になって倒れている。幅は荷車二台分ほど。草食竜の群れが、一列ではなく、塊になって歩いた跡だ。
明羅はしゃがみ込み、帯の中の足跡を見た。
丸い。人の頭ほどの大きさの、柱を土に押し付けたような足跡が、深く沈んでいる。爪先も踵も無い。太い足が、真っ直ぐ上から下りて、真っ直ぐ上がった跡だ。その大きな足跡の間に、掌ほどの小さな丸い跡がちょこちょこと散っていた。
――仔の足跡が、大人の足跡の内側にある。
群れは仔を真ん中に挟んで歩いている。外側の大人が、壁になって。
「理香子」
「見てるわ」
理香子は帯の横に立ち、胸元から真鍮の方位磁石を出した。蓋を開け、針が止まるのを待つ。それから足跡の帯の向きに磁石を合わせ、目盛りを読んだ。
「――戌亥。北西より、ほんの少し西寄り」
理香子は帳面に数字を書き、顔を上げた。霧が晴れかけている。倒れた草の帯は、窪地の縁から丘を越え、その向こうの原野へ真っ直ぐに伸びていた。
――曲がらずに、真っ直ぐ。
「草食竜の群れはね、普通、真っ直ぐ歩かないの。草を食みながら、水の匂いを辿って、うねうねと進む。目指す先があっても、寄り道をする」
理香子は、方位磁石の蓋を閉じた。
「だから、行ってみましょう。この帯がどこで曲がるのか」
明羅は頷き、立ち上がった。背の太刀の重みを肩で確かめる。
――昨日の夕刻。人里の東の外れの炭焼きが中央会館に駆け込んできた。『東の街道で、草食竜の群れが道を塞いでいる。春に草食竜が街道を渡るのは、四十年炭を焼いていて初めて見た』――と。
受付に入ってきたその話を、生態研究室の理香子が拾った。調べに出る、だからハンターの護衛を一人付けてほしい。理香子がそう頼んだ時、名を挙げたのが明羅だった。
――『獲物を見ると追いかけたくなる人は困るのよ。今日は、追わない人がいいの』
それが理由だった。
――追わない。それなら、得手だ。
明羅は草の帯の先を見据え、理香子の半歩前に出た。
~博麗原野 草食竜の道~
――原野の草は、膝の高さまで伸びていた。
春の若草だ。柔らかく、甘い匂いがする。風が渡るたびに丘の斜面が波打ち、白い小花がチラチラと光った。草食竜にとっては、一年で一番のご馳走の筈だ。
そのご馳走の中を、倒れた草の帯が真っ直ぐに貫いていた。
理香子は帯の脇を歩きながら、時折しゃがんで草の先を摘まむ。摘まんでは捨て、また摘まむ。
「食べてないわね」
「分かるのか」
「草の先が、どれも揃ってるでしょう。食みながら歩いたなら、帯の両脇の草が噛み千切られて、先がギザギザになる。仔を連れた群れなら尚更よ。母竜は乳を出すために、いつもより沢山食べるんだから」
理香子は、摘まんだ草の先を明羅に見せた。切れ口の無い、真っ直ぐな若草の先だった。
「お腹を空かせたまま、それもお構いなしに歩き続けてる」
――食うより、行くのが先か。
明羅は帯の先へ目をやった。丘を一つ越えるたびに、帯は同じ向きのまま次の丘へ消えていく。理香子は丘の頂に着くたびに方位磁石を開き、目盛りを読んだ。三つ目の丘でも、四つ目の丘でも、針は戌亥を指して動かない。
帳面の数字が、同じ並びで縦に増えていく。
――四つ目の丘を下った所で、小川が原野を横切っていた。
浅い流れだ。明羅の脛ほどの深さで、底の小石が透けて見える。帯は小川の縁まで来て、そのまま向こう岸へ渡っていた。
理香子は岸辺に膝を付く。
「……水も、殆ど飲んでないわね」
「なぜ分かる」
「水を飲む群れは、岸に並ぶの。首を下ろして、前脚を踏ん張って、順番に。そうすると岸の土がグズグズに踏み荒らされる」
理香子は、岸の土を指で押した。蹄の跡が幾つか沈んでいるが、どれも向こう岸へ向かって斜めに並んでいる。踏ん張った跡ではない。渡るついでに首を下ろし、一口か二口含んだだけの跡だ。
明羅は対岸の土手を見る。
大きな丸い足跡の列の脇に、別の足跡がある。
細い。四つ足で、指の先に鉤のような爪の跡が刺さっている。一つ一つは明羅の掌ほどの大きさしかないが、数が多い。帯の両側の草の中を、点々と縫うように続いていた。
「――理香子。こちらに別の足跡がある」
理香子が飛び石を伝って渡ってきた。足跡の一つにしゃがみ込み、眼鏡を押し上げる。巻尺を出して、足跡の幅を測る。歩幅を測る。帳面に書く。
「小型の牙竜ね。爪の跡が深い。――群れの両側を、付かず離れず歩いてる」
「狙っているのか」
「えぇ。群れの外側の大人には手が出せない。でも、遅れる仔が出れば」
理香子は言葉を切り、帯の先を見た。
明羅も同じ方を見る。
小川を渡った先の帯は、草の倒れ方が違っていた。さっきまでの帯は、草が全部同じ向きに寝ていた。だがこの先は、所々で草が渦を巻いたように乱れている。
――遅れた仔が、居る。
二人は無言で帯を辿った。
草の乱れはだんだん大きくなる。小さな丸い足跡が、群れの帯の外へはみ出している。よろけた跡だ。一度はみ出して、また帯の内へ戻る。またはみ出す。その小さな足跡の周りを、細い牙竜の足跡が取り囲み、輪を描いていた。
そして、小高い塚の手前で――帯の真ん中の草が、大きく踏み荒らされていた。
土が抉れ、草が根こそぎ引き抜かれている。大人のアプトノスの丸い足跡が、ここだけは真っ直ぐではなかった。グルリと輪になって何度も踏み直し、土を深く掻いている。仔を囲んで、外へ向かって尾を振り回した跡だ。草の上に、棘で裂けたような細い傷が幾筋も走っている。
草の根元に、黒ずんだ染みがあった。
理香子は、その染みに鼻を近付けた。
「血ね。乾いてる。昨日の、日の高い内に流れた」
明羅は周りを見回した。
血の跡はある。争った跡もある。だが、それだけだ。
骨が無い。皮も無い。蹄の欠片一つ落ちていない。小型の牙竜が群れで仔を襲ったのなら、食い散らかした跡が残る筈だった。肉を引き千切り、取り合い、骨を咥えて草の中へ持ち去る。原野の獣の食事は、いつも散らかっている。
「……何も、残っていない」
「えぇ」
理香子は、血の跡の向こうへ歩いていった。そこで足を止め、しゃがみ込む。
「――明羅。これを見て」
草の上に、太い溝が一筋走っていた。
足跡ではない。幅は大人が両腕を広げたほど。草が根元から一様に押し潰され、土の表面が滑らかに均されている。何か重くて丸い物を、引き摺っていった跡だ。溝の両脇に、太い爪を持つ四つ足の足跡が並んでいる。さっきの小型の足跡より、二回りも三回りも大きい。
溝は血の跡の所から始まり、群れの帯の後を追うように、戌亥の方へ続いていた。
――引き摺っている。何かを。
明羅は溝の縁に指を這わせた。土に、細かい鱗が一枚めり込んでいる。親指の爪ほどの、黄緑色の鱗だ。
理香子が、その鱗を鑷子で摘まみ上げた。陽に透かす。
「腹の鱗ね。擦れて剥がれたんだわ」
「腹を、引き摺っているのか」
「そう。――骨も皮も残さず食べて、腹を地面に擦りながら歩くほど膨れるモンスターが居るの」
理香子は鱗を硝子の管に落とし、栓をした。
「呑み込んだのよ。仔を丸ごと。一口で一呑み」
風が、丘の草を揺らす。
明羅は、背の太刀の柄に手を掛けなかった。ただ肩越しに、柄の位置だけを確かめる。
溝は真新しい。縁の土がまだ崩れていない。理香子が溝の底の土を摘まみ、指先で擦った。
「押し潰されて、下の湿った土が出てる。なのに、その上に露が降りてない。――露が乾いてから通ったのよ。半刻か、一刻前」
「近いな」
「えぇ、近いわね。それに、この先は――」
理香子は顔を上げ、溝の向かう先を見た。丘の向こうに、細い土の道が横たわっているのが見える。
人里と博麗神社を結ぶ、東の街道だった。
――鳥が、鳴いていない。
明羅は、ふと気付いた。さっきまで丘のあちこちで囀っていた雲雀の声が、いつの間にか消えている。代わりに、風に乗って遠くから低い声が聞こえてきた。
〈ブォォ……ブォォォ……〉
草食竜の鳴き声だ。一頭ではない。何頭もが、互いを呼び合うように鳴き交わしている。
そして、その声に混じって――甲高い、引っ掻くような声。
〈ギャッ、ギャウッ!ギャギャッ!〉
明羅は、理香子の前に出た。
~博麗原野 東の街道~
――丘の頂から、街道が見下ろせた。
轍の刻まれた土の道が、原野を東西に横切っている。その道の上を、灰褐色の大きな背中が幾つも、ゆっくりと北へ渡っていくところだった。
――アプトノスの群れだ。
頭の後ろから鶏冠のような角が反り返り、背には板のような突起が並んでいる。尾の先には太い棘。柱のような四本の脚が、轍の上にドスン、ドスンと下ろされる。大人の背丈は、人の倍ほどもあった。
その大人達の脚の間に、小さな影がちらちらと見え隠れしている。仔だ。大人の膝ほどの背丈しかない。足を縺れさせながら、母竜の腹の下に潜り込むようにして付いていく。
「……八つ」
理香子が、丘の上に腹這いになって呟いた。
「仔が、八つ。窪地の寝床は九つだった」
明羅は頷き、理香子の隣に伏せる。
群れの両側の草むらが、ザワザワと揺れている。草の間から、黄土色の細い背中が覗いた。人の腰ほどの背丈の、蜥蜴を大きくしたような牙竜――『ジャグラス*1』だ。鉤のある爪で草を掻き分け、群れの外側を付かず離れず走っている。一頭が群れに近付き過ぎると、大人のアプトノスが尾を振り回し、棘が風を切った。牙竜は飛び退き、また草の中へ潜る。
〈ギャウッ!ギャッ!〉
――あれが、輪を描いていた足跡の主か。
「ジャグラスね。群れで暮らす小型の牙竜よ。――でも、あの子達だけじゃ、大人のアプトノスの壁は破れない」
「なら、長が居る」
「居るわ。ほら」
理香子が顎で示した先――街道の南側の土手の、日当たりのいい草地に、それは寝そべっていた。
――大きい。
まず目に入ったのは、腹だった。
丸い。巨大な瓢箪を横に寝かせたように、腹だけが不釣り合いに膨れ上がっている。張り詰めた腹の皮が薄く伸び、その下に何かの輪郭が透けて見えそうだった。膨れた腹を地面にべったりと付けたまま、その獣は目を細めて日に当たっている。
腹から先は、引き締まった牙竜の体だった。黄と緑の鱗が、陽を受けてぬらりと光る。首から背にかけて、獣の毛のような鬣が波打って覆い、背筋に沿って朱色の小さな棘が一列に並んでいた。頭は大きく、顎が太い。口の端から、鋭い牙が覗いている。
あの顎なら、仔一頭くらい、丸呑みにできる。
ジャグラスの群れを率いる長だ。大食らいで、獲物を仕留めれば一呑みにして腹に収める。腹が膨れているうちは動きが鈍く、大人しい。だが腹が空けば気が荒くなり、自分より大きな相手にも見境なく噛み付く――理香子はそう言って、帳面に何かを書き足した。
「満腹で日向ぼっこ。消化が済むまでは、動かないでしょう」
「消化が済めばどう動く?」
「また群れを追う。仔があと八つも居るんだもの。あの子にとっては、歩く食糧庫よ」
明羅は、街道の東へ目をやった。
群れの最後尾から少し離れた所に、荷車が一台止まっている。荷台には炭俵が山と積まれ、その前に繋がれているのは――一頭のアプトノスだった。人里で荷を牽くよう慣らされた、年寄りの雄個体。
荷車の脇で、手拭いを頭に巻いた男が、困り果てた顔で手綱を引いていた。
「――あれは」
「昨日会館に来た炭焼きの人ね。
理香子の声に、苦いものが混じった。
明羅は丘を滑り降り、草の中を低く走った。理香子が後に続く。
~博麗原野 東の街道 荷車の前~
「――伊助殿」
明羅が荷車の陰に滑り込むと、伊助は飛び上がらんばかりに驚いた。
「う、うわっ、ギルドの……!あぁ、侍の姐さんか。助かった、助かったよ……!」
「――静かに。土手に、大型モンスターが寝ている」
伊助の顔から血の気が引いた。明羅の指した土手の方を見て、それから口を両手で押さえる。
「荷車を、東へ戻してほしい。群れが渡り切るまで、ここには居ない方がいい」
「そ、それがよ……」
伊助は、手綱の先のアプトノスを情けない顔で見上げた。
「こいつが動かねぇんだ。なんでか朝からずっとこうでな」
年寄りのアプトノスは、首を北西へ向けていた。
群れの渡っていく方だ。伊助が手綱を引いても、頭を振ってそれを嫌がる。前脚で轍をドン、ドンと踏み鳴らし、鼻から太い息を吐く。手綱を緩めると、荷車ごと群れの後を追おうとして、轍から車輪を外しかけた。
〈ブォォ……〉
年寄りのアプトノスが、低く鳴く。そして――群れの方から、誰かがそれに応えるように鳴き返す。
「二十年、俺の炭を牽いてきた奴なんだ。こんな聞き分けのねえこと、一度も無かったのに。――仲間の声に、釣られちまったのかねぇ」
理香子は荷車の陰にしゃがみ、年寄りのアプトノスを見上げていた。耳の向き。鼻の動き。踏み鳴らす前脚。帳面を開き、何かを書き付けかけて――手を止める。
「……怯えてはいないわね」
小さな声だった。
「大型の匂いがすれば、普通は群れも荷牽きも、反対へ逃げようとするの。なのに、この子は」
理香子はそれ以上言わず、帳面に短く何かを書いて閉じた。
――怯えていない。ただ、行きたがっている。
明羅は、北西の空を見た。春の霞が、遠くの山々を薄く覆っている。そこに何があるのか、明羅には分からない。
分かっているのは、目の前の荷車が動かないということだけだ。
「理香子。あの長が起きるまで、どれほどだ」
「腹の張り具合からすると……昼過ぎかしらね。もう少し早いかもしれないけど」
「群れが渡り切るのは」
「仔の足だと、まだ半刻はかかるわ」
明羅は考える。荷車は動かない。荷牽きのアプトノスは、群れと同じ匂いがする。腹を空かせて起きた長が、最初に見つけるのは――轍の上で足を止めた、繋がれたままの一頭だ。
「――手綱を外す。荷車から解く」
伊助が目を剥いた。
「解いちまったら、群れに付いてっちまうよ……!」
「繋がれたままでは、逃げることもできない。――逃げられる方が、生き残る」
伊助は口を開け、閉じ、もう一度開けて、それから黙って頷いた。震える手で、荷牽きの胸帯の留め金を外しにかかる。
その時だった。
土手の方で、何かが大きく息を吐いた。
――起きた。
明羅が振り返ると、ドスジャグラスが首をもたげていた。鬣が逆立っている。鼻先をヒクヒクと動かし、太い顎を半開きにして、こちらを見ていた。
――荷車の方を。荷牽きのアプトノスの方を。
「……早いわね」
理香子が、乾いた声で言った。
「呑んだのが小さな仔だったから。腹の足しにもならなかったのかもしれない」
ドスジャグラスが、のそりと身を起こした。膨れた腹を引き摺り、短い四本の脚で土手を這い上がってくる。腹が土の上を滑り、草を押し潰す。――あの溝の跡そのものだ。
ジャグラス達が、草むらから一斉に顔を出した。長の動きに合わせて、群れの外側からこちらへ、じりじりと輪を縮めてくる。
明羅は、荷車の前へ出た。
「理香子。伊助殿と荷車の陰に」
「分かったわ。――明羅。満腹のドスジャグラスは、腹で押し潰しに来る。横へ転がることもあるわ。腹の鱗は薄いけど、まともに受けたら骨が持たないわよ」
「承知した」
明羅は右手を肩越しに伸ばし、背の柄を掴んだ。親指で鍔を押し、刃を鞘から浮かせる。
――電竜刀『守刀』
身の丈に迫る長い刀身が、背の鞘から弧を描いて抜け出た。刃に走る翠色の筋が、春の陽を受けて淡く光る。
ドスジャグラスが街道の土を踏んだ。荷車と、その前に立つ紫の髪の侍とを、交互に見る。邪魔な物がある。そう言いたげに、太い首を低く下げた。
鬣が、ブワリと逆立つ。
吠え声が、原野の丘に跳ね返った。街道の向こうで、渡りかけのアプトノス達が一斉に鳴き交わす。荷牽きの年寄りが、留め金の外れかけた胸帯の中で暴れた。
ドスジャグラスが、腹を引き摺ったまま突っ込んでくる。
速くはない。だが重い。膨れた腹が轍の土を削り、小石を弾き飛ばす。短い四肢が地面を掻くたび、腹の中の重さが左右に揺れた。
明羅は動かない。太刀を右の脇に引き、切っ先を下げたまま、迫る鼻先だけを見ている。
――後ろには荷車がある。
退けば、あの腹は荷車に届く。
ドスジャグラスが、あと五歩の所で前脚を突っ張った。膨れた腹を持ち上げ、上体を起こす。
「――上から来るわ!」
理香子の声と同時に、黄緑の巨体が伸し掛かってきた。
明羅は、半歩だけ左へ躱した。それ以上は退かない。腹が明羅の肩先を掠め、街道の土にドスンと落ちる。地面が跳ね、草鞋の裏が浮きかけた。
その腹の横腹へ、太刀を振り下ろす。
薄い。張り詰めた腹の鱗は、刃を弾かずに受け入れた。一太刀、返してもう一太刀。刃の翠の筋が、斬るたびにジジッと鳴り、淡い緑の光を帯びていく。
ドスジャグラスが身を捩る。太い尾が横薙ぎに飛んでくる。明羅は屈んで尾をやり過ごし、立ち上がりざまにまた腹を斬った。
――荷車の陰で、ジャグラスの吠え声が上がった。
長の吠え声に勢いづいたのか、ジャグラスが三頭、草むらから街道へ躍り出ていた。荷車を回り込み、胸帯の外れかけた荷牽きのアプトノスへ牙を剥く。年寄りの荷牽きが後脚で立ち上がり、棘のある尾を振り回した。
「伊助さん、目を閉じて!」
理香子が革鞄から小さな玉を掴み出し、荷車の向こうへ放った。
白い閃光が、街道を真昼より明るく塗り潰した。[閃光玉]だ。ジャグラス達が悲鳴を上げ、目を押さえるように頭を振って、方向も分からずに草むらへ転がり込んでいく。
その光の中で、伊助が最後の留め金を外した。
「――行けっ!」
胸帯が外れた。
年寄りのアプトノスは一度だけ伊助を振り返り――それから轍を蹴って、北西へ駆け出した。群れの最後尾が渡っていった方へ。重い体が、驚くほど速く草の中を遠ざかっていく。
伊助は空の手綱を握ったまま、その背中を見送っていた。
――閃光の白が退いていく。
ドスジャグラスもまた、光に目を焼かれて頭を振っていた。だが鼻は生きている。明羅の居る方へ、正確に顔を向けた。
膨れた腹が、ぐらりと横に傾いた。
「転がるわ!」
理香子の叫びと、巨体が横倒しに転がり出すのが同時だった。腹を軸にした丸太のような体が、轍の上をゴロゴロと迫ってくる。荷車の方へ。
――否。躱すのは、半歩だけだ。
明羅は転がる巨体に向かって踏み込んだ。迫る背の棘の列の、そのすぐ脇へ身を滑り込ませる。体が擦れ違う。その刹那に、太刀が走った。
――斬った手応えと、躱した感触が、一つになる。
刃の翠が、一気に濃くなった。溜まった電気が刀身の上でパチパチと弾け、明羅の籠手の緋色の紐を青白く照らす。
ドスジャグラスは荷車の手前で転がるのを止め、腹を上にしてもがいた。張り詰めた腹が、明羅の目の前に晒されている。
明羅は、太刀を大上段に振りかぶった。溜めた気を、刃へ流し込む。
――今。
気刃斬り。緑の光の尾を引いて、刃が腹を三度、縦に、横に、斜めに走った。
ドスジャグラスが跳ね起き、首を大きく反らせた。喉が波打つ。顎が限界まで開き――
何かが、街道の土の上に吐き出された。
ぐっしょりと濡れた、灰褐色の小さな塊だった。四本の短い脚。頭の後ろの、まだ反り返りきっていない小さな鶏冠。
――窪地の、九つ目の寝床の主だった。
理香子が、荷車の陰で息を呑んだのが分かった。
明羅は、その小さな亡骸から目を逸らさなかった。そして、ドスジャグラスからも。
腹の萎んだ牙竜は、別の獣のように見えた。だらしなく弛んだ腹の皮の上で、黄緑の鱗が逆立っている。鬣が背中から首筋まで一斉に立ち上がり、朱色の背の棘が擦れ合ってカチカチと鳴った。顎の端から、涎が糸を引いて垂れる。――怒り状態。
「空腹状態よ、明羅。――ここからが、本気のドスジャグラスよ」
理香子の声が、低くなった。
ドスジャグラスが地を蹴った。
さっきまでの鈍さが嘘のように、速い。四肢で街道を蹴り、低く、地面を這うように飛び込んでくる。大きな顎が、明羅の脚を狙って開いた。
明羅は跳び退き、着地と同時に斬り下ろす。牙竜は顎を閉じながら首を振り、刃を鬣で受け流した。そのまま前脚の爪が横から薙いでくる。
――速い。
躱しきれない。爪の先が明羅の左の肩当てを掠め、緋色の綴じ紐が数本、ブツリと切れて飛んだ。肩の骨に、鈍い衝撃が走る。明羅の体が横に流れ、荷車の車輪にぶつかって止まった。
「明羅!」
「――大事ない」
明羅は車輪に背を預けたまま、腰の袋から[回復薬]の小瓶を抜き、歯で栓を噛み切って苦い薬を一息に呷る。肩の痺れが、ゆっくりと引いていく。
ドスジャグラスは、荷車の前で足を止めていた。
低く頭を下げ、鼻先を荷車に向ける。炭俵の匂いを嗅ぎ、その後ろに隠れた二人の人間の匂いを嗅いでいる。腹を空かせた牙竜にとって、荷車の陰にあるのは――逃げ足の遅い、柔らかい肉だった。
明羅は、空の小瓶を捨てた。
車輪から背を離し、荷車と牙竜のあいだに立つ。太刀を正眼に構える。
――ここから先へは、通さない。
ドスジャグラスが顎を開いた。飛び掛かる。
明羅は動かなかった。牙が届く、その寸前まで。
そして、半歩。
右へ半歩だけ身を外し、すれ違う首筋へ、下から斬り上げる。返す刃で、伸び切った前脚を斬る。牙竜が着地でよろめいた所へ、もう一太刀。斬るたびに刃の緑が明るさを増し、刀身全体が若葉の色に燃え立った。
ドスジャグラスが跳び退った。首を振り、また飛び込む。明羅はまた半歩だけ躱し、斬る。跳び退く。飛び込む。躱す。斬る。
荷車は、一寸も動いていない。明羅の足も、荷車の前から一歩も離れていない。
――やがて、ドスジャグラスの足が鈍って来た。
飛び込みが浅くなる。顎を閉じる音が遅れる。前脚の傷から血が滴り、街道の土に黒い点を描いた。口の端の涎は泡になり、荒い息が胸を大きく上下させている。
ドスジャグラスは、明羅から三間ほど離れた所で足を止めた。
明羅を見る。荷車を見る。それから――街道の上に横たわる、自分が吐き出した小さな亡骸を見た。
ドスジャグラスはのそりと歩み寄り、その亡骸を顎で咥えた。
明羅は、構えを解かなかった。だが、斬り掛かりもしなかった。
ドスジャグラスは亡骸を咥えたまま後ずさり、明羅から目を離さずに街道の土手を下りていく。草むらから、目の眩みの醒めたジャグラス達が這い出し、長の後に続いた。
黄緑の背中は、群れの去った北西ではなく、南の丘陵の方へ――窪地のさらに奥の、雑木の茂る方へと、草を揺らして遠ざかっていった。
――それきり、振り返らなかった。
明羅は、長いあいだ南の丘を見ていた。草の揺れが収まり、雲雀がまた一羽、二羽と鳴き始める。
それからようやく、太刀を肩越しに背の鞘へ納めた。緑に燃えていた刀身の光が、鞘の中でスウッと消える。
~博麗原野 東の街道~
――街道の上に、黄緑の鱗が何枚も散らばっていた。
理香子はそれを一枚ずつ鑷子で拾い、硝子の管に分けて収めていく。吐き出された仔が横たわっていた所の土も、匙で掬って一つの管に入れた。帳面に番号を書く手が、窪地に居た時より、ほんの少しだけ遅い。
「追わないのね」
「腹は満たした。群れからも、道からも離れた」
明羅は肩当ての切れた紐を摘まみ、結び直そうとして、諦めた。小傘の工房へ持っていくしかない。
「――追う理由が無い」
「そう」
理香子は帳面を閉じ、立ち上がった。それから方位磁石を開き、群れの渡っていった方へ向けた。
街道の北の草の上に、倒れた草の帯が続いている。帯は丘を一つ越え、春の霞の中へ消えていた。もう、灰褐色の背中は一つも見えない。年寄りの荷牽きの姿も。
理香子は、目盛りを読んだ。
「……戌亥」
窪地で読んだ数字と、同じだった。
伊助は、空の手綱を手に巻き付けて、荷車の轅に腰を下ろしていた。炭俵の山を見上げ、溜め息を吐く。
「二十年だぜ……。炭を牽かせて、二十年。あいつが一番、この道を知ってたのによ」
明羅は伊助の前に立ち、荷車の轅を両手で掴んだ。
「――里まで牽くぞ」
「へ?いや、姐さん、これ、炭が三十俵――」
明羅は答えずに轅を持ち上げ、足を踏ん張った。荷車が軋み、車輪がゴトリと轍から外れて、ゆっくりと西へ――人里の方へ転がり始める。
伊助は口を開けたまま、それを見ていた。理香子が、小さく笑った。
「ハンターは[大タル爆弾]を一人で抱えて転がせる怪力を持つものよ。あれ位は余裕よ。……頼んだ甲斐があったわ。――追わない人で、よかった」
~中央会館 記録室~
――記録室の灯りは、日が落ちてもまだ消えていなかった。
壁一面の棚に、巻物と帳面がぎっしりと詰まっている。墨と古い紙の匂い。文机の上で、行灯の火が小さく揺れていた。
文机の前に座った阿求が、筆を置いて顔を上げた。
「お帰りなさい、理香子さん。――東の街道の件ですね。明羅さんが荷車を一台、里まで牽いてきたと、小鈴が大騒ぎしていましたよ」
「工房に寄ってるわ。肩当ての紐が切れたの。小傘さんに怒られてる頃でしょう」
理香子は文机の向かいに腰を下ろし、革鞄から帳面を出した。昼のうちに清書しておいた一枚を、阿求の前に置く。
調査地:南の窪地(アプトノスの子産み場)より東の街道まで
対象:アプトノスの群れ。成体十四、仔九
所見:二日前、子産みの途中で窪地を発つ。争った跡なし
道中、採食・飲水ほぼなし。進む方位は戌亥。窪地より街道まで変わらず
遭遇:ドスジャグラス一、ジャグラス数頭。仔一頭の捕食を確認
対処:撃退(明羅)。牙竜は南の丘陵へ退く
被害:人なし。荷牽きのアプトノス一頭、群れを追い行方知れず
備考:荷牽きの個体、大型を前に怯えた様子なし
阿求は報告を一行ずつ目で追った。追い終えると、もう一度、頭から読み直す。
「子産みの途中で、ですか」
「えぇ。生まれて十日足らずの仔を連れて」
「記録にはありませんね。春のアプトノスが子産み場を捨てるのは、大型に巣を見つけられた時だけ。それも、逃げる方向はばらばらになるのが常です。――群れが散るから、全部は食べられずに済む。そういう生態です」
阿求は細い指で、所見の行をなぞった。
「なのに――一つの向きに、纏まって移動とは」
「それも食べもせず、飲みもせずにね」
理香子は眼鏡を外し、目頭を揉む。
「……でも、一つだけよ。一つの群れが、一つの春に、変わったことをした。それだけなら、偶々ということもあるでしょう。若い長が、他所の子産み場を見つけて移ったのかもしれない。草の育ちが、向こうの方が早かったのかもしれない」
「そうかもしれません」
阿求は頷き、立ち上がった。
壁の棚から、一本の巻物を抜き出す。文机の上に広げると、行灯の火に、墨で描かれた地図が浮かび上がった。博麗原野だ。なだらかな丘、崩れた遺跡、小川、東の街道。南の窪地には、小さな字で『子産み場』と書き添えてある。
阿求は硯の脇の小皿に、朱の墨を溶いた。
細い筆に朱を含ませ、窪地の上に、筆先をそっと置く。
そこから、戌亥の向きへ――街道を越え、丘を一つ越えた辺りまで、真っ直ぐに一本、線を引いた。線の先に、小さな鏃の形を描き足す。
「偶々かどうかは」
阿求は筆を置き、乾きかけた朱の線を見下ろした。
「矢印が、二本目になってから考えましょう。――記録は、そのためにあるんですから」
理香子は答えなかった。ただ、帳面の端に、その矢印と同じ向きの線を一本、小さく引いた。
行灯の火が、ジジッと鳴る。
地図の上で、朱の矢印は、原野の北西の端を指していた。その先には、まだ何も描かれていない。
――矢印は、まだ一本きりだった。
アプトノスの群れは一体何から逃げていたのか……