東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~中央会館 受付~
――掲示板の依頼票が、一枚残らず逆さになっていた。
春先の夜明け前の会館は、まだしんと冷えている。広い板の間には、昨夜の墨と乾いた泥と、獣の脂の匂いが薄く残っていた。受付台の上には、昨日の夕方に積んだままの依頼書の束。壁際の長椅子の下には、誰かが置き忘れた泥だらけの草鞋が一足。いつもと同じ朝の、いつもと同じ匂いだ。
夜明けの半刻前。中央会館の受付に灯りを入れた小鈴は、掲示板の前で行灯を掲げたまま呆然として固まっていた。
壁一面の掲示板に、昨日の夕方まで整然と並んでいた依頼票。それが全部――
「……また、かぁ」
小鈴は溜め息を吐き、行灯を受付台に置いた。
季節に一度か二度、こういう朝がある。暖簾が逆さに掛かっていたり、工房の看板が裏返っていたり。人里の誰もが犯人の見当を付けていて、誰も捕まえられない。
――天邪鬼の仕業だ。直接知っている訳ではないものの、かなり大きな異変を起こした存在で、今も妖怪から指名手配を受けていて潜伏しながらこういった悪戯を仕掛けているとは聞いている。
小鈴は袖を襷で縛り、一枚目の依頼票の画鋲を抜いた。依頼票の上下を返して貼り直す。二枚目。三枚目と戻していく。
そして――四枚目に手を掛けた所で、指が止まった。
依頼票の右肩には、小さな色紙の札が貼ってある。区分を示す札だ。白い札は捕獲、朱の札は討伐。字の読めない依頼人でも、遠目にも分かるようにと、小鈴が改善した決まりだった。
その四枚目の札は白だった。
だが、依頼の中身は――
――
例え小型モンスターでも重要な研究対象だと理香子は言うだろうが、それでも小型の牙竜を六頭も生け捕りにして、どこへ運ぶというのか。小鈴は眉を寄せ、白い札を爪の先で撫でる。糊がまだ柔らかい。昨日の昼に自分で貼った札なら、もう乾いて紙に馴染んでいる筈だった。
――貼り替えられてる。
小鈴は掲示板から一歩下がり、並んだ札の色を端から目で追った。白、白、朱、白、朱――
「……朱の札が、一枚足りない」
呟いた声が、誰も居ない広間に響いた。
白い札が一枚、討伐の依頼に紛れ込んでいる。なら、どこかの捕獲の依頼から、白が剥がされた筈だ。そこに貼られたのは――
小鈴は受付台の下から、分厚い帳面を二冊引き出した。
一冊は依頼台帳。依頼人から話を聞き、慧音の許可を得た依頼を一件ずつ書き留めたものだ。もう一冊は受注簿。どのハンターがどの依頼票を持っていったかを、受付で書き付けるための帳簿。
掲示板の依頼票は、台帳の写しに過ぎない。写しは剥がされ、汚され、貼り替えられる。だから、何かあった朝はまず台帳と照らし合わせる。それも小鈴が決めた、受付の決まりだった。
小鈴は台帳を開き、指で一行ずつ辿りながら、掲示板の依頼票と見比べていった。
十一枚目までは、合っている。そして十二枚目――
「……ない」
――掲示板に、十二枚目が無い。
画鋲の跡だけが、板に四つ残っている。依頼票が受注された時は、その跡の下に受注の印の小札を挿しておく。その小札が、確かに挿さっていた。
小鈴は受注簿をめくった。昨日の最後の行。夜番の老爺の、震えた字。
受注者:
依頼:里の東 ガーグァ小屋の卵盗み
区分:討伐(札の色を確認)
小鈴は台帳の十二行目に目を落とした。
対象:クルルヤック一頭。人への害なし
区分:捕獲。原野の奥へ移す
許可:上白沢
――捕獲。
受注簿には、討伐とある。
小鈴の指が、帳面の上で冷たくなった。
昨日の昼、自分はこの依頼票に白い札を貼った。夕方、誰かがその白を剥がし、間引きの依頼の朱と貼り替えた。閉館間際に来た新人の佐吉は、朱い札を見て、夜番の老爺に「討伐ですね」と確かめ、彼は札の色を見て頷いた。
そして夜のうちに、誰かが掲示板の依頼票を全部ひっくり返した。
――逆さの掲示板は、目くらましだ。
朝一番に掲示板を見た者は、逆さの依頼票に目を奪われる。笑って、呆れて、貼り直す。札の色が一枚入れ替わっていることなど、気にも留めずに。
――奥の板戸が、ガタリと開いた。
「おや……小鈴ちゃん、もう来とったかね」
夜番の老爺が、綿入れの襟を掻き合わせながら顔を出す。寝ぼけた目で掲示板を見て、ひっくり返った依頼票に気付き、口をぽかんと開けた。
「なんとまぁ。夜のうちに、また……儂は一晩中、ここに居ったんじゃがなぁ」
「
「あぁ、来た来た。初めての討伐だって、そりゃあ嬉しそうでなぁ。朱い札を指して『討伐ですね』って念を押すもんだから、儂も札を見て、あぁそうだと」
老爺は、そこで言葉を切った。小鈴の顔色に気付いたのだ。
「……違っとったのかい」
「台帳では、捕獲です」
老爺の顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。皺だらけの手が、綿入れの襟を握り締めた。
「佐吉さんは、いつ発つって言ってました?」
「夜明けと同時に、と……あの子は、朝が早いでなぁ」
小鈴は受注簿の佐吉の名を見た。登録して二月の新人。真面目で、朝が早い。
「――夜が明けたら、もう出てる……!」
小鈴が台帳を抱えて立ち上がった、その時だった。
「――朝から大声ね。何か押収する物でもあったのかしら?」
会館の戸口に、小柄な人影が立っていた。
赤い髪に、頭の上で揺れる黄色い大きなリボン。紫と赤の花模様の着物の肩に、白い毛皮の肩掛けを掛けている。腰には小振りの剣と、丸い小盾。――ギルドの監察役の一人、監察官『小兎姫』だった。
その足元から、大きな犬が顔を出す。白い地に、背と耳だけが赤茶に染まったガルクだ。黒い鼻が、受付の匂いを片端から嗅いで回っている。小兎姫のオトモ、『ゴヨウ』である。
小兎姫の腰には、剣と小盾のほかに、革の帳面が一冊と、口を紐で縛った小さな袋が下がっていた。帳面は見回りと押収品の記録。袋の中身は――小兎姫本人にしか分からない。拾った石、変わった色の羽根、誰かが落とした根付け。押収品ではない、と本人は言い張る。中央会館の押収品が必ず二人で確かめる決まりになったのは、この袋のせいだと、職員達は陰で囁いている。
「小兎姫さん!ちょうど良かった、これを――」
小鈴が二冊の帳面を開いて差し出すと、小兎姫は一行ずつ目で追った。追い終えて、顔を上げる。
さっきまでの冗談めかした色が、目から消えていた。
「佐吉くんは、もう出たの?」
「受注簿の通りなら、夜明けと同時に。……真面目な子なんです」
「真面目な子ほど、札の色を疑わないものよ。規則をそのまま信じて従うから」
小兎姫は掲示板の前に立ち、白い札の貼られた間引きの依頼票に顔を近付け、札の縁を指でなぞる。糊の柔らかさを確かめ、それから、札と依頼票の隙間に挟まっていた何かを、爪の先で摘まみ出した。
髪の毛が一本。
黒い。だが、その一本の途中から先が、白と赤に分かれている。
「……あら」
小兎姫の唇が、ほんの少しだけ吊り上がった。
「証拠品、確保よ。――小鈴ちゃん、立ち会いをお願い。押収品は二人で確かめる決まりだから」
「今それどころじゃ――」
「分かってる。だから一息でやるの」
小兎姫は懐から小さな紙包みを出し、髪の毛を挟んで畳んだ。包みの表に日付と場所を書き、小鈴の前に差し出す。小鈴は慌てて筆を取り、立ち会いの名を書き添えた。
小兎姫は包みを開き直し、ゴヨウの鼻先へ差し出した。ゴヨウが鼻を寄せ、長く嗅ぐ。尾がクルリと巻いた。
「覚えた?――いい子。でも今日の獲物はこっちじゃないわ」
小兎姫は包みを懐に仕舞い、受注簿の佐吉の名を指で叩いた。
「ガーグァ小屋は、里の東の外れね。私が追う。小鈴ちゃんは慧音先生に知らせて。――それと、掲示板の札は全部、台帳ともう一度照らし合わせておいて」
「全部、ですか」
「全部よ。あの天邪鬼が、一つしかひっくり返さないとは限らないもの」
小兎姫は踵を返した。ゴヨウがその後を追い、戸口で一度だけ振り返って、小鈴に尾を振る。
白い肩掛けが、夜明け前の通りへ消えていった。
~里の東 ガーグァ小屋~
――ガーグァ小屋の中が、まだ騒がしかった。
里の東の外れ。畑の間にぽつんと建つ板葺きの小屋の中で、丸い体の『ガーグァ』達がグワグワと鳴き交わしている。夜明けの薄明かりの下、小屋の前に腰の曲がった老婆が一人、箒を握って立っていた。
「あぁ、ギルドの方かい。さっきも若いのが来てねぇ」
老婆は箒の先で、東の雑木林の方を指した。
「鉄の大きな剣を背負ってさ。卵泥棒は俺が成敗してやるって、勇んで出ていったよ。止めたんだけどねぇ。あの鳥は、卵を持っていくだけで、うちの子達には指一本触れないんだから」
「いつ頃?」
「うちの子達が鳴き出して、すぐだよ。半刻は経ってないね」
小兎姫は頷き、小屋の周りを歩き始めた。ゴヨウが鼻を地面すれすれに下ろし、その後に続く。
小屋の板壁の下の方に、引っ掻いた跡があった。細い爪で縦に何本も、板の表面を削っている。だが板は破られていない。その横の土が、すり鉢の形に掘り返されていた。
「壁は破ってないのね」
「入る時は、そこの戸の隙間からだよ。器用に嘴で閂を押し上げてさ。出る時はもっと器用だ。卵を両手で抱えて、跳ねるみたいに走っていく」
「両手で、抱えて?」
「そうさ。まるで赤ん坊でも抱くみたいにねぇ」
小兎姫は戸の前にしゃがみ込んだ。
土の上に、足跡が並んでいる。二本足だ。指は三本。細く、長く、指の先の爪の跡が深い。踵の跡は殆ど無い。爪先だけで土を蹴った、跳ねるような足取りだ。
戸の内側へ向かう足跡は浅い。だが、外へ出ていく足跡は、どれも一回り深く沈んでいた。
――重い物を抱えて、出ていった。
小兎姫は指で足跡の深さを測り、腰の帳面に書き付けた。帳面の表紙には、大きく『捕物帖』と書いてある。
戸の脇の板の継ぎ目に、羽根が一枚引っかかっていた。
小兎姫がそれを摘まみ上げる。指の長さほどの、鮮やかな橙色の飾り羽だ。根元の方は淡い砂色で、先に行くほど夕焼けのような色が濃くなる。
「……雄ね」
小兎姫は羽根を朝日に透かした。
台帳に書かれた盗っ人の名は、『クルルヤック*1』。卵が好物の鳥竜だ。雄は頭と前足に、こういう暖かい色の飾り羽を生やしている。
羽根は懐の小袋に仕舞った。証拠品ではなく、ただ綺麗だったからだ。
――後で小鈴ちゃんに見せて、立ち会ってもらえばいいわ。
「ゴヨウ」
呼ぶと、ゴヨウが顔を上げた。小兎姫は戸の前の深い足跡を指で示す。
「これの匂いよ。それと――」
小兎姫は、足跡の上に重なった、もう一つの足跡を指した。
鋲を打った新しい革の長靴の跡だ。爪先がやや外を向き、歩幅が広い。踵の跡が深いのは、背中に重い物を背負っているからだろう。
「こっちの匂いも。……佐吉くんの方が、先よ」
〈ワフッ〉
ゴヨウが短く鳴き、鼻を地面に付けたまま走り出した。
~里の東 雑木林の小道~
――雑木林の小道は、朝露でしっとりと濡れていた。
ゴヨウが小道の真ん中を、鼻を下げて進む。尾は高く上がったまま、迷いが無い。小兎姫はその少し後ろを、足音を殺して歩いた。白兎の毛皮を張った長靴の底は、濡れた落ち葉を踏んでも殆ど音を立てない。
雑木林を抜ける風は、まだ夜の冷たさを残していた。梢の上で、目を覚ましたばかりの小鳥達がチチ、チチと鳴き交わしている。足元の草は露を含んで重く、踏むたびに青い匂いが立ち昇った。その草の葉先が、小道の脇で一筋だけ露を払われ、乾いている。何かが、夜明け前にここを通った跡だ。
鳥竜の足跡は、小道の脇の柔らかい土に点々と続いていた。跳ねるような三本指の跡。その上を、長靴の跡が真っ直ぐ踏んでいく。
三本指の足跡が、小道の曲がり角で乱れていた。
小兎姫は足を止めた。
土の上に、白い殻の欠片が散らばっている。ガーグァの卵の殻だ。殻の内側に、黄身がこびり付いて乾きかけていた。指で触れると、表面だけが薄く固まり、中のまだ柔らかい黄身が指先に付く。
「昨夜の夜更けね。持って帰る途中で、一個落としたんだわ」
殻の周りの土に、三本指の足跡がグルグルと輪を描いていた。落とした卵の周りを、何度も回った跡だ。拾おうとして、割れていることに気付いて、それでも諦めきれずに回っていたのだろう。
小兎姫は少しだけ笑った。
「……食い意地が張ってるのか、律儀なのか」
殻の欠片の先、小道の脇の窪みに、丸い凹みが三つ並んでいた。
小兎姫はしゃがみ込み、指で凹みの縁をなぞった。卵ほどの大きさ。底の土が、丸く撫でたように滑らかだ。その横に二本足の跡が深く沈み、細い尾を引き摺ったような筋が一本走っている。
――ここで、休んだ。
抱えてきた卵を一つずつ地面に置き、腰を落として息を吐いた跡だ。凹みの縁の土には、古いものと新しいものが入り混じっていた。乾いて崩れかけた凹みもあれば、まだ角の立った凹みもある。
「……一晩じゃないわね」
小兎姫は帳面をめくった。出がけに小鈴に読み上げてもらった、台帳の写しが書いてある。依頼人の婆さんの話を思い返す。
――『卵が減り出したのは、七日ほど前から』
「毎晩、少しずつ運んでたのね。ここで一休みして、それからまた運ぶ。――随分と根気のいい泥棒だこと」
ゴヨウが凹みの匂いを嗅ぎ、尾を一度振った。それから鼻を上げ、小道の先へ向けて、低く鳴く。
〈クゥン……〉
匂いがまだ新しい。――この先に居る。
だが、輪の外れの土を見て、笑みが消えた。
土が浅いすり鉢の形に掘り返されている。小屋の脇で見たのと同じ跡だ。その中心に、拳を二つ合わせたほどの窪みが残っていた。何か丸い物が埋まっていて、それを掘り出した跡だ。
窪みの縁に、鋭い爪の掻き跡が幾筋も走っていた。
――掘り出して、それを持っていった。
ここから先の足跡は、また一段と深く沈んでいた。卵より、ずっと重い物を抱えている。
小兎姫は眉を寄せた。
「掻鳥は、岩を掘り出して抱える。盾にも、鈍器にもする。――岩を抱えた掻鳥は、気が大きくなる。自分より大きな相手にも、平気で殴りかかってくる」
〈クゥ……〉
ゴヨウが鼻を鳴らし、主人の顔を見上げた。
「卵を盗むだけの子が、どうして岩なんか持って帰ったのかしらね」
小兎姫は、長靴の跡に目を落とした。新しい長靴の跡は、鳥竜の足跡を真っ直ぐ追っている。足跡が深くなった所でも、歩幅は変わっていない。
――気付いてない。
佐吉は、相手が岩を抱えたことに気付かずに追っている。
小道の先で、雑木林が切れていた。その向こうに、苔むした岩が幾つも転がる、ちょっとした岩場が見える。原野の縁の、陽の当たる斜面だ。
その時、岩場の方から音がした。
――ガツン……!
硬い物と硬い物がぶつかる、鈍い音。一度、二度。三度目の音に、若い男の悲鳴が重なった。
〈クルルルッ!クルルッ!〉
甲高い、喉を転がすような鳴き声が、岩場から響いてくる。
小兎姫は腰の剣の柄を握り、走り出した。ゴヨウが、それより先に駆けていく。
~博麗原野の縁 苔の岩場~
――岩場の真ん中に、若い男が尻もちをついていた。
革の胸当てに、鉄を叩いただけの無骨な大剣。工房で新人に貸し出す、まだ何の素材も打ち込まれていない鉄の剣だ。それが男の手を離れ、苔の上に転がっている。男の額からは血が一筋垂れ、片方の手で肩を押さえていた。
依頼を受けたハンター、そして探していた佐吉だった。
その数歩先に――それは立っていた。
二本の脚で、背を少し丸めて。人の背丈を少し超えるほどの鳥竜だ。体の大部分は淡い乳白色の鱗に覆われ、ところどころに砂色が混じる。細く長い首の先に、先の黒ずんだ大きな嘴。頭の後ろと前足に、夕焼けのような橙色の飾り羽が、ふさふさと逆立っていた。
その前足に、岩を抱えている。
人の頭より一回り大きな、苔の付いた丸い岩だ。赤ん坊でも抱くように、二本の前足で大事そうに胸に抱え込んでいる。
そして、その足元の窪みには――白い卵が三つ、枯れ草の上に寄せ合わされていた。
〈クルルルッ!〉
「うわぁ!?」
クルルヤックが喉を転がして鳴き、岩を頭の上へ振りかぶった。
佐吉が悲鳴を上げて身を竦める。
――間に合わない。
小兎姫は岩場へ飛び込み、佐吉の前へ滑り込んだ。左腕の小盾を斜めに掲げる。
――ガツンッ!
岩が盾を打った。腕の骨まで痺れが走る。小兎姫は打たれた勢いのまま盾を傾け、岩を横へ滑らせて受け流した。苔むした岩が盾の縁を擦り、火花のような苔の欠片が飛び散る。
「か、監察官さん……?!」
「立てる?立てるなら、立ちなさい」
佐吉が大剣を掴み、よろめきながら立ち上がった。
「た、助かりました!こいつ、岩で剣を受けるんです。何度斬っても岩に弾かれて――でも、もう少しで――」
「貴方が請けた依頼は――捕獲よ」
佐吉の言葉が止まった。
「……え?」
「面倒な悪戯者が昨夜忍び込んだみたいでね。札が掏り替えられてたの。台帳には捕獲と書いてある。慧音先生の許しも、捕獲で出てるわ」
「で、でも、朱の札が――夜番にも確かめて――」
「えぇ、知ってる。貴方は悪くない。――悪いのは、札の色しか見ない決まりの方よ。それは後で、小鈴ちゃんと直すわ」
小兎姫はクルルヤックから目を離さずに言った。
鳥竜は岩を胸に抱え直し、首を左右に振って二人を見比べている。足元の卵の前から、一歩も動かない。
――卵を守ってる。
ガーグァの卵だ。盗んできた卵を、自分の巣に並べ、岩を抱えて守っている。
「……大事な餌を、取られまいとしてるのね」
〈グルル……〉
ゴヨウが小兎姫の隣で、低く唸った。鼻を岩場の南へ向けている。風下の草むらの方だ。小兎姫が目を細めると、草の間で黄土色の細い背中が一つ、二つ、動いた。
ジャグラスだ。三頭、四頭。岩場を遠巻きにして、卵の匂いを嗅ぎつけている。
――だから、岩か。
この掻鳥は、卵を狙う小型の群れから、盗んだ卵を守るために岩を掘り出したのだ。そこへ大剣を背負った人間まで来た。気が立つのも無理はない。
「佐吉くん。罠は持ってる?」
「い、いえ。討伐だと思ってたので……」
「なら、私のを使って」
小兎姫は腰の袋から、折り畳まれた[シビレ罠]と、二つの[捕獲用麻酔玉]を取り出した。罠を佐吉の胸に押し付ける。
「あの子は弱ったら、必ず卵の所へ戻ってくる。巣の脇の、あの平たい岩の手前に仕掛けて。――合図したら、すぐよ」
「は、はい!」
佐吉が罠を抱えて岩陰へ下がる。小兎姫は腰の剣を抜いた。
――白兎剣『捕物帖』。白兎獣の凍爪を削り出した刀身が、朝の光の中で青白い冷気を纏う。柄に巻いた白い剛毛が、指に吸い付くように馴染んだ。
「ゴヨウ。脚を止めるわよ」
〈ワウッ!〉
ゴヨウの背の猟犬具が、ジャラリと鳴った。
――[鉄蟲猟犬具*2]を構えてゴヨウが首を振ると、背に収めた鉄蟲が細い糸を吐き、その先の小刃が宙を走る。
小兎姫とゴヨウが、左右に分かれて走る。
クルルヤックが首を振り、ゴヨウの方へ岩を振り下ろす。ゴヨウは跳んで躱した。岩が苔の上にめり込む。その一瞬、鳥竜の背中ががら空きになった。
小兎姫は低く踏み込み、脚の付け根へ斬り付けた。
刃の触れた所から、白い霜がパリパリと広がる。鳥竜の脚が、一瞬だけ強張った。
クルルヤックが振り返りざま、岩を横薙ぎに振るう。小兎姫は小盾で受け、受けた勢いで半歩下がった。盾越しに、岩の重さが腕を軋ませる。
――まずは、あの岩から。
岩を抱えている限り、刃は盾のような岩に阻まれる。そして岩を振るうたびに、この鳥竜は強気になる。
「ゴヨウ、岩を!」
ゴヨウが鳥竜の脇に回り込む。鉄蟲の糸が岩に絡み、小刃が続けざまに岩肌を叩いた。カン、カン、カン。苔が剥げ、岩に白い筋が走る。
小兎姫も同じ所へ刃を重ねた。凍爪の刃が岩を叩くたび、岩の表面の湿りが凍り付き、細かな罅がピシピシと広がっていく。
――その時、ゴヨウが耳を伏せて振り返った。
岩場の南の草むらから、黄土色の影が三つ、低く這い出していた。ジャグラスだ。掻鳥が二人に気を取られている隙に、巣の卵へ忍び寄ろうとしている。先頭の一頭が、窪みの縁に鉤爪を掛けた。
クルルヤックが気付いた。岩を抱えたまま首を巡らせ、喉をクルルと鳴らす。だが目の前には小兎姫の剣がある。動けない。
「佐吉くん!卵を守って!」
「え……た、卵、ですか?!」
「その子の餌を、横取りさせないで!」
「は、はい!――うぉぉお!」
岩陰から、佐吉が大剣を引きずって飛び出した。巣の前に回り込み、重い鉄の剣を横に寝かせて振り回す。剣の腹がジャグラスの鼻先を掠め、草をザッと薙いだ。
〈ギャッ!ギャウッ!〉
ジャグラス達が跳び退る。佐吉は巣の前で足を開いて踏ん張り、大剣の切っ先を草むらに向けた。肩で息をしている。額の傷から、また血が滲んでいた。
「く、来るなよ……来るな……!」
ついさっきまで、この卵を盗んだ鳥を斬ろうとしていた新人が、今はその鳥の巣の前に立っている。
クルルヤックの首が、一瞬だけ佐吉の背中を見た。
――分かってるのかしらね、この子。
小兎姫は小さく笑い、目の前の岩に刃を戻した。
クルルヤックが岩を頭上に振りかぶった。そのまま地面に叩き付ける気だ。
――今。
小兎姫は振り下ろされる岩の真下へ盾を突き上げた。
罅の走った岩が、盾の縁で真っ二つに割れた。
二つに割れた岩が、鳥竜の前足から零れ落ちる。苔の上を転がり、ゴロリと止まった。
クルルヤックは空になった前足を見下ろした。何度か開いては閉じる。それから、小兎姫を見た。
頭の飾り羽が、ブワリと膨らむ。前足の飾り羽も扇のように広がり、橙色の輪が二つ、鳥竜の体を大きく見せた。嘴をカチカチと打ち鳴らし、喉の奥でクルルルと唸る。――怒り状態だ。
鳥竜が跳ねた。
速い。二本の脚で地面を蹴り、一跳びで間合いを詰めてくる。嘴が、小兎姫の顔を目掛けて突き出された。一度、二度、三度。小兎姫は盾で受け、受けきれない一撃を首を捻って躱す。嘴の先が頬を掠め、赤い筋が走った。
鳥竜は止まらない。跳ねて間合いを外し、また跳ねて突っ込んでくる。嘴の連打。盾で受ける。受ける。三つ目で盾が弾かれ、小兎姫の体が後ろへ流れた。
そこへ、鳥竜の脚が上がった。蹴り――
「ゴヨウ!」
――ゴヨウが颯爽と横から飛び込んだ。鉄蟲の糸が鳥竜の脚に巻き付き、蹴りの軌道を逸らす。爪が小兎姫の肩掛けの毛皮を裂き、白い毛が宙に舞った。
小兎姫は転がって間合いを外し、立ち上がりざまに剣を振るった。糸に絡まれて体勢を崩した鳥竜の脚へ、一閃。霜が広がる。
鳥竜が跳び退った。そして――掘り返す。
前足の爪で、苔の剥げた地面をガリガリと掻き始めた。土が飛ぶ。――新しい岩を掘り出そうとしているのだ。
――させない。
小兎姫は腰の袋から[閃光玉]を抜き、鳥竜の頭の前へ投げた。
白い光が弾ける。鳥竜が悲鳴を上げて首を振り、掘りかけの穴の前でよろめいた。
小兎姫とゴヨウが、同時に踏み込む。
右から凍爪の刃。左から鉄蟲の小刃。刃が鳥竜の脚を斬り、糸が脚を絡め、また刃が斬る。小兎姫が剣を振るうたびに、ゴヨウの小刃がその一拍後を追い、同じ所を重ねて斬る。霜が鳥竜の脚を白く覆っていく。
――やがて、鳥竜の跳ねる足取りが重くなった。
霜に覆われた脚が、跳ねるたびに一拍遅れる。嘴の先から、涎が糸を引いて垂れた。飾り羽が膨らみを失い、ぺたりと寝ている。
鳥竜が小兎姫から目を逸らした。首を巡らせ、窪みの中の三つの卵を見る。
――巣へ戻る気だ。
「佐吉くん、今よ!」
巣の前で大剣を構えていた佐吉が、剣を足元に放り出した。巣の脇の平たい岩の手前に、折り畳まれた罠を叩き付けるように置く。留め金を外す。罠の脚が苔に刺さり、中心の鉄の皿がパチパチと青い火花を散らし始めた。
佐吉が転がるように岩陰へ戻る。
クルルヤックが、よろめきながら巣へ向かった。脚を引きずり、卵の匂いのする方へ。小兎姫は追わない。ただ、構えを解かずに見ている。
鳥竜の脚が、罠の皿を踏んだ。
――バチィッ!
青白い火花が、鳥竜の脚から全身を駆け上がった。乳白色の体がビクンと跳ね、そのまま硬直する。嘴が半開きになり、前足が宙で止まった。
小兎姫は捕獲用麻酔玉を掴んで二歩踏み込んだ。
一つ。鳥竜の頭の手前で玉が割れ、白い煙がフワリと広がる。鳥竜の瞼が、重たげに下がった。
二つ。もう一つの玉が、同じ所で弾ける。
罠の火花が消えた。鳥竜の体が、ぐらりと傾く。二本の脚がゆっくりと折れ、乳白色の体が卵の窪みの横に、そっと横たわった。
喉の奥で、クルル……と小さな音がする。それから、深い寝息に変わった。
――捕獲成功。
小兎姫は剣を下ろし、長い息を吐いた。頬の傷から、血が一筋垂れる。
ゴヨウが鳥竜の嘴に鼻を寄せ、寝息を確かめるように嗅いだ。それから振り返り、主人を見上げて尾を一度振る。
草むらの方で、黄土色の背中が引いていくのが見えた。人の匂いと、罠の火花の匂いに怯えたのだろう。ジャグラス達は、こちらを振り返りながら原野の奥へ消えていった。
――佐吉は、大剣を握ったまま立ち尽くしていた。
眠る鳥竜と、その横の三つの卵を見下ろしている。額の血はもう固まりかけていた。
「……俺、殺すところでした」
小さな声だった。
「こいつ、卵を守ってただけなのに。俺、卵泥棒を成敗するんだって、そればっかりで……」
「えぇ、そうね」
小兎姫は否定しなかった。腰の布で頬の血を拭い、眠る鳥竜の横にしゃがみ込む。寝息を確かめ、瞼を指でそっと持ち上げ、また下ろした。
「でも、殺さなかった。岩に弾かれ続けたおかげでね。――この子が持ってた岩にでも礼を言っておきなさい」
小兎姫は、二つに割れた岩の片方を拾い上げた。苔の付いた割れ口を眺め、それから懐の袋に押し込む。
「……それも、証拠品ですか?」
「いいえ。記念品よ」
佐吉が、ぽかんと口を開けた。ゴヨウが小兎姫の袋に鼻を寄せ、苔の匂いを嗅いで小さくくしゃみをする。
「それと、佐吉くん。次からは、札の色を見たら台帳も見せてもらいなさい。受付で頼めば、小鈴ちゃんがすぐ出してくれるわ」
「は、はい。……でも、札を掏り替えたのって」
「さぁ。誰かしらね」
小兎姫は答えず、懐の紙包みを服の上から軽く叩いた。
卵は三つとも無事だった。佐吉が布に包み、両手で抱える。鳥竜は昼までに、ゴヨウが呼びに走った里の運び手達の荷車に乗せられ、原野の奥の、人里から遠い林へ運ばれていった。
目を覚ました時、そこには卵も、岩も無い。代わりに、誰も盗まれて困らない、鳥竜の古い巣がいくつもある。
~里の東 ガーグァ小屋~
――昼過ぎ、佐吉は布に包んだ卵を三つ、両手で抱えてガーグァ小屋の前に立っていた。
小屋の前では、老婆がガーグァ達に向けて粟を撒いていた。丸い鳥達がグワグワと群がり、老婆の足元で押し合っている。
「……あの、お婆さん」
佐吉が包みを差し出すと、老婆は布の端をめくり、目を丸くした。
「おや、まぁ。三つも戻ってきたのかい」
「すみませんでした。俺、あの鳥を斬るところで……」
佐吉は、頭を深く下げた。背中の鉄の大剣が、ガチャリと鳴る。
婆さんは卵を一つずつ手に取り、陽に透かした。それから、小屋の中の藁の籠にそっと戻していく。
「斬らなかったんだろう?」
「……はい」
「なら、謝ることなんかないさね」
婆さんは粟の袋を下ろし、雑木林の方を見やった。
「あの鳥はねぇ、毎朝来てたんだよ。夜明け前にさ、戸の隙間から首を突っ込んで、卵を一つだけ抱えて帰っていく。欲張って二つ持っていったことは、一度も無かったねぇ」
「……一つずつ、ですか」
「律儀な泥棒だろう?」
婆さんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「もう、来ないのかねぇ」
小屋の脇で、小兎姫が帳面に何かを書き付けていた。筆を止めずに答える。
「原野の奥の林に運んだわ。草食竜や鳥竜の古い巣がいくつもある所よ。――あそこなら、誰の卵を盗んでも、誰も困らない」
「そうかい。……そりゃ、良かった」
婆さんはまた、ガーグァ達に粟を撒き始めた。
佐吉は、婆さんの言葉と、巣の前で見た掻鳥の首の動きを、何度も思い返していた。卵を一つずつ抱えて、律儀に運んでいた鳥。それを、札の色一枚で斬ろうとしていた自分。
「……小兎姫さん」
「なぁに?」
「次の依頼を受ける前には、台帳を見せてもらいます。ちゃんと読みます」
小兎姫は帳面から顔を上げ、少しだけ目を細めた。
「えぇ、そうしなさい。――それが一番、命を守るわ。貴方のも、竜のもね」
~中央会館 受付~
――日が暮れる頃、掲示板の依頼票は、一枚残らず正しい向きに戻っていた。
どの依頼票の右肩にも、色の札の横に、小さな字で『捕獲』『討伐』と書き添えてある。札の色だけでなく、字でも分かるように。小鈴が昼のうちに、全部の依頼票に書き足したものだ。
昼過ぎには、慧音も受付に顔を出していた。台帳と受注簿を並べて読み、夜番の源爺から話を聞き、札の色の決まりを作った小鈴を責めることもなく、一言だけ告げた。
「――受注の時は、受付が台帳の行を読み上げること。札はあくまで目印だ。証文ではない」
その日のうちに、受付台の脇に新しい貼り紙が一枚増えた。源爺は筆を握り、自分の字で写しを三枚作って、夜番の机と、受付台と、掲示板の脇に貼った。
「――他には、何も?」
受付台の向こうで、小兎姫が尋ねた。頬には、永遠亭の膏薬を塗った細い布が貼ってある。
「台帳と全部照らし合わせました。掏り替えられていたのは、あの二枚だけです」
小鈴は、受付台の端の筆立てを指で示した。
「あとは、これくらいで」
筆立ての筆が、全部、穂先を上にして挿さっていた。
小兎姫は、思わず吹き出した。
「念入りね」
「念入りなんです。毎回」
小鈴は溜め息を吐き、筆を一本ずつ挿し直した。
「間引きの依頼は、白い札のまま誰も取っていきませんでした。小型を六頭も生け捕りにする依頼なんて、誰も受けたがらないので」
「それで良かったのよ。――あの天邪鬼は、
「分かって、ですか」
「群れの間引きを捕獲にしたって、誰も受けない。誰も怪我をしない。卵泥棒の捕獲を討伐にしても、受けるのは新人一人。相手は人を襲わない掻鳥で、岩を抱えて守るだけ。万が一見逃してしまったとしても――少なくとも大事故にはならない」
小兎姫は受付台に肘を突き、掲示板を眺める。
「困るのは、ギルドの決まりだけ。札の色しか見ない受付と、札の色しか確かめない夜番と、慧音先生の許しの判。……強い者の顔に泥を塗るのが、あの子の流儀だから」
小鈴は、筆を挿す手を止めた。
「……庇ってるんですか?」
「まさか。――捕まえるわ、必ず。監察官の名にかけて」
小兎姫は懐から紙包みを出し、受付台の上に置いた。それから、橙色の羽根と、苔の付いた岩の欠片を、その隣に並べる。
「さぁ、押収品の確認よ。立ち会いをお願い」
小鈴は紙包みを開き、黒い髪の毛を確かめた。台帳に書き付ける。それから、羽根と岩の欠片を見下ろした。
「……小兎姫さん。羽根と岩は、押収品じゃないですよね」
「現場で拾った物よ」
「現場で拾った、記念品ですよね」
「……」
「台帳には、書きませんから」
小兎姫は唇を尖らせ、羽根と岩の欠片を懐に戻した。ゴヨウが受付台の下で、尾をパタパタと床に打ち付けている。笑っているように見えた。
~中央会館 屋根の上~
――会館の灯りが落ちた後。
瓦の上に、誰かが寝そべっていた。
頭巾を目深に被り、上下逆さに結んだリボンの端が、夜風に揺れている。下の通りでは、受付の娘と赤い髪の監察官が、白と赤茶の犬を連れて帰っていくところだった。
白い札の依頼は、誰も取らなかった。朱い札の依頼は、新人が取って、監察官に横から攫われた。誰も死なず、竜も死なず、明日の朝には、札の横に字が書き足されている。
――つまらない。
瓦の上で、小さく舌打ちが鳴った。
頭巾の影は寝返りを打ち、夜空を見上げた。それから、指を一本立てて、空の月を逆さに指差すような仕草をする。
何も起きない。月は、月のままだ。
影は鼻を鳴らし、瓦を蹴って闇の中へ消えた。
掲示板を弄ったのはどこの正邪さんでしょうね?(すっとぼけ)
『小兎姫』
所属:人里ギルド(ギルドの監察役)
役職:監察官(ハンター兼任)
武器:白兎剣『捕物帖』(片手剣)
防具:白兎装【見廻】
オトモ:『ゴヨウ』(ガルク)