東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~博麗神社 境内~
――箒の先が、石畳の上で止まった。
春の朝の博麗神社は、桜の花びらで埋まっている。境内を一度掃いても、風が吹けばまた降ってくる。掃いても掃いても、終わりが来ない。
縁側に腰掛けた霊夢は、箒を膝に立て掛けて、湯呑みを両手で包んでいた。
「……今日は、もういいわよね」
「まだ三回しか掃いていませんよ、霊夢さん!」
鳥居の脇から、元気な声が飛んできた。
狛犬の娘――あうんが、石段の上で両手を腰に当てている。朝の見回りを終えたところらしく、緑の髪に花びらが二、三枚くっついていた。
「三回掃けば十分よ。どうせまた降ってくるんだから」
「それを言ったら、一生掃かなくてよくなっちゃいます」
「そうよ。だから、一生掃かなくていいの」
霊夢は湯呑みを傾けた。あうんは何か言い返そうとして口を開き、それから首を傾げた。
ふと、あうんの顔から笑みが引いた。
鳥居の方を振り返る。それから、境内の奥の、本殿の方を見る。鼻をヒクリと動かし、頭の一本角を風上へ向けた。
「……霊夢さん」
「何よ。掃除なら、午後にやるわ」
「そうじゃなくて、です。――境内の空気が、少しざわざわしてます」
霊夢は湯呑みを置いた。
あうんの『神仏を見つけ出す程度の能力』は、竜の居場所を言い当てる類いのものではない。ただ、神社や祠の空気が乱れると、あうんにはそれが分かる。誰かが祠の前で慌てて手を合わせた時。参道の石が一つ欠けた時。神様が落ち着かない時。
「どっちの方?」
「東です。境の祠の方。……何かに、驚いてるみたいな」
――東の境。
霊夢は縁側から立ち上がり、鳥居の向こうを見やった。博麗神社は、幻想郷の東の端に建っている。その更に東、原野が森に変わり、森が山の斜面に変わるあたりに、幻想郷の境がある。目には見えない、『博麗大結界』の縁だ。
境に沿って、古い祠と標石が点々と並んでいる。月に一度、霊夢はそれを見て回る。結界に綻びがないか、祠が荒れていないか、境の向こうから何かが紛れ込んでいないか。
中央会館の言葉で言えば――東部境界の観測、というやつだ。
「……来月の分、来週に回そうと思ってたんだけど」
「じゃあ早めましょう!」
「あんたは元気でいいわね」
――その時、頭の上から影が差した。
霊夢が見上げると、桜の枝のさらに上を、大きな甲羅がゆっくりと横切っていくところだった。甲羅の下から、短い四本の脚と、皺だらけの長い首が覗いている。首の先の老いた顔が、霊夢を見下ろして目を細めた。
博麗神社の古くからの同居人、空を飛ぶ老いた亀――玄爺だ。
「御主人様。おはようございます」
玄爺は境内の真ん中に、フワリと降り立った。甲羅に括り付けた背負い具の革帯が、ギシリと鳴る。
「早いわね、玄爺。どこ行ってたの」
「東の空を、少しばかり。……儂も、何やら落ち着きませんでな」
玄爺の声は、いつもの間延びした調子のままだった。だが、その目は笑っていなかった。
「東の森から、鳥が皆、西へ飛んでおりました。夜明け前から、ずっとですじゃ」
霊夢は、あうんを見た。あうんは、こくこくと頷いた。
玄爺は、首を巡らせて東の空を見やる。
「鳥だけではありませぬ。森の縁の草地では鹿の群れが落ち着きなく首を上げておりましたし、兎どもは巣穴から一匹も出てきませなんだ。風下に何か居る時の、獣の顔ですじゃ」
「竜?」
「さて。……この老いた眼もあり、空からは何も見えませなんだ。見えぬのが、かえって気にかかりますな」
霊夢は、桜の枝越しに東の空を見上げる。雲一つない、霞んだ春の空だ。鳥の影は一つも無い。いつもならこの時分には雀が境内の石畳に降りてきて、こぼれた米粒を突きに来る。今朝は、その雀の声すら聞こえない。
あうんの角は、まだ東を向いている。
「――分かったわ」
霊夢は湯呑みを縁側に置き、母屋の方へ歩き出した。
「行くわよ、二人とも。東の境の見回り。今日やる」
「はいっ!」
「御意ですじゃ」
~博麗神社 狩具小屋~
――狩具小屋の棚の上で、小さな針が光っていた。
母屋の裏手の、板張りの小屋。壁際の棚には、砥石、罠、回復薬の小瓶、救難符の束が並んでいる。その一番上の段に、お椀を伏せたような小さな仕事場があって、そこから小さな声がした。
「――出るの?」
小人の針妙丸が、針を持ったまま顔を上げた。
「東の境の見回り。昼過ぎには戻るわ」
「そう。……背中の帯、昨日縫い直しといたから。ほつれたら承知しないよ」
「はいはい」
霊夢は壁の掛け金から、長い太刀を外した。鞘ごと肩に回し、背中の革帯に通す。身の丈に迫る長さの刀が、背中にずしりと収まった。
あうんは、小屋の隅に立て掛けてあった大盾とランスを抱え上げた。岩の塊のような、ごつごつした大盾。岩竜の岩殻を打ち付けた重い槍。小柄な体で軽々と背負う。
玄爺は、背負い具の中身を一つずつ確かめていた。救難符、回復薬、砥石、遠眼鏡、[閃光玉]が二つ。それから、地図の巻物。
霊夢は棚から砥石を一つ取り、小屋の縁台に腰を下ろした。太刀を半ばまで抜き、刃に砥石を当てる。シャッ、シャッ、と乾いた音が小屋に響く。泡狐竜の刃は、研ぐたびに微かな泡のような光を散らす。
「切れ味、落ちてた?」
「念のためよ。この前の牙竜で、ちょっと欠けたから」
「欠けたなら、言ってくれれば鍛冶に回したのに」
針妙丸は呆れたように針を置き、仕事場の縁から身を乗り出した。小さな手で霊夢の背の革帯をつまみ、縫い目を一つずつ確かめていく。最後の縫い目まで辿り着くと、満足げに頷いた。
「……うん。これなら、竜に引っ張られても切れない」
「引っ張られる予定は無いわよ」
「予定に無い時に引っ張られるのが、狩りでしょ」
霊夢は答えず、刀を鞘に戻した。
「萃香は?」
「縁の下で寝てますよ。昨日、里で飲みすぎたそうです」
「……まぁ、神社の留守番くらいにはなるか」
その声が聞こえたのか、母屋の縁の下から、くぐもった声が返ってきた。
「んぁ……霊夢ぅ。どこ行くのさ」
「東の境。留守番、頼むわよ」
「留守番ねぇ……酒を置いてってくれるなら、考えてもいいよぉ」
「置いてかない」
「けちだねぇ……」
それきり、縁の下は静かになる。代わりに、大きな寝息が聞こえてくる。あうんがくすりと笑い、玄爺はやれやれと首を振る。
霊夢は小屋の戸を開けた。春の風が、桜の花びらと一緒に吹き込んでくる。
その風の中に、ほんの微かに――焦げ臭い匂いが混じっていた。
――気のせい、ね。
霊夢はそう思うことにして、石段を下りた。
~博麗原野 東の境~
――境の標石は、苔に半分埋もれていた。
神社の裏手から細い獣道を半刻ほど辿ると、原野の草がだんだんと低くなり、代わりに背の高い楢や櫟の木が増えてくる。そのさらに先、森が山の斜面へ登りかける手前に、膝ほどの高さの石が立っていた。表面に彫られた文字は、雨風に削られて殆ど読めない。
森に入ると、空気がひやりと変わる。楢の若葉が陽を透かし、足元の苔を淡い緑に染めている。
だが、静かすぎる。
春の森なら、梢のあちこちで鳥が鳴き交わしているはずだ。幹を叩く啄木鳥の音。藪で囀る鶯の声。それが今朝は一つも聞こえない。聞こえるのは、風が若葉を揺らす音と、あうんが大盾を背負い直す革帯の軋みだけだ。
「……鳥さん、いませんね」
「玄爺が言ってたでしょ。皆、西へ飛んでったのよ」
あうんは梢を見上げたまま歩く。足元の木の根に躓きかけ、慌てて大盾の重さで踏みとどまった。
霊夢は石の前にしゃがみ、掌を当てる。
ひやりとした石の冷たさの奥に、張り詰めた糸のような手応えがある。博麗の結界の縁だ。目には見えないが、触れれば分かる。糸は今日も、緩まずに張っている。
霊夢は目を閉じ、糸の先を辿るように意識を伸ばす。北へ、南へ。標石から標石へと張り渡された見えない糸は、どこも切れていない。綻びがあれば、そこだけ糸が弛み、冷たい隙間風が吹き込むような感触がある。今日は、それが無い。
「……結界は、いつも通りね」
「なら良かったです」
あうんが、ほっと息を吐いた。
境の標石は、ここから北へ、南へ、森の縁に沿って点々と続いている。石と石の間には、ところどころに小さな祠が建っている。屋根の苔むした、子供の背丈ほどの祠だ。誰が建てたのか、霊夢も知らない。霊夢の何代も前からあった。
玄爺は、梢の上の高さを、ゆっくりと北へ飛んでいた。時折首を伸ばし、遠眼鏡で森の奥を覗いている。
霊夢とあうんは、標石を一つずつ辿りながら、南へ歩いた。
一つ目の祠は、何事もなかった。屋根の苔の上に桜の花びらが二、三枚乗っているだけで、供えの土器も石の狐もきちんと並んでいる。あうんは祠の前でぺこりと頭を下げ、両手を合わせた。
「おはようございます。お変わりありませんか?」
返事は無い。だが、あうんは満足げに頷く。
「大丈夫だそうです」
「あんた、祠と話せるの?」
「話せはしません。でも、機嫌が良いかどうかは分かります」
二つ目の祠も同じだった。屋根の端が少し欠けているが、それは去年の冬に雪の重みで欠けたもので、今日の話ではない。
三つ目の祠へ近付くにつれて、あうんの足取りが重くなっていく。頭の一本角が、また東を向いた。
――三つ目の祠の前で、あうんが足を止めた。
「霊夢さん。……ここです。ざわざわしてたの」
祠の前が、荒れていた。
供えてあった小さな土器の皿がひっくり返り、中の米粒が土の上に散らばっている。祠の脇の小さな石の狐が、横倒しになっていた。祠の板壁の下の方に、細い爪で引っ掻いたような筋が幾つも走っている。
あうんが駆け寄り、石の狐を抱き起こした。泣きそうな顔で、狐の耳に付いた土を指で払う。
「……ごめんなさい、狐さん。痛かったですよね」
霊夢は、祠の前の土を見下ろした。
足跡が、びっしりと付いている。
二本足だ。指は三本。前に向いた三本の指の先に、鉤のように曲がった爪の跡が深く刺さっている。一つ一つは霊夢の掌ほど。それが十も二十も、重なり合い、踏み荒らし合い、祠の前の土を掻き乱していた。
足跡は皆、同じ方を向いていた。
――西だ。森の奥から出てきて、祠の前を突っ切り、原野の方へ向かっている。
「鳥竜の群れね」
霊夢は呟いた。足跡の一つに指を当てる。爪先が深く、踵が浅い。歩幅が広い。
「走ってる。それも、相当慌てて」
「慌てて、ですか?」
「祠を避けてないもの。普段の獣なら、こういう物の前はちょっと避けて通るのよ。石の狐なんか、蹴っ飛ばしていかない」
あうんは石の狐を抱いたまま、足跡の向かう先を見た。西。原野。その先には、神社と、街道と、人の住む所がある。
霊夢は立ち上がり、祠の脇の草むらに目をやった。
草の葉に、黒っぽい点が付いている。指で擦ると、赤黒く滲んだ。血だ。まだ乾ききっていない。点々と、草の上を西へ続いている。
その血の跡の横に、青い鱗が一枚落ちていた。爪の先ほどの、つやのある青。縁に黒い縞が一本走っている。
「……ランポスね」
霊夢は鱗を摘まみ上げた。
青い体に黒い縞を走らせた、小型の鳥竜――『ランポス*1』。森や原野で群れを作って暮らし、群れで獲物を囲んで狩る。この東の森の奥にも、一つ群れが居着いていることを、霊夢は知っていた。森の奥で鹿を追い、たまに原野の縁まで出てくる程度の群れだ。境の祠まで降りてきたことは、これまで一度も無い。
血の跡は、一頭分ではなかった。少し離れた所にも、別の点々が続いている。
――怪我をして、逃げてきた。
「何かに、追われたのよ」
そう呟く霊夢の隣であうんの耳が、ピクリと震えた。
「御主人様!」
頭の上から、玄爺の声が降ってきた。いつもの間延びした声ではない。
玄爺が梢の上から、斜めに降りてくる。遠眼鏡を首に掛け直し、霊夢の頭の高さで止まった。
「群れが居ります。青い鳥竜の群れ、八つか九つ。原野を西へ。――その先は、街道の茶屋ですじゃ」
霊夢は眉を寄せた。
街道の茶屋。人里と神社を結ぶ東の街道の、ちょうど中ほどにある小さな店だ。参拝客が足を休め、荷車の馬子が茶をすする。この時間なら、もう店を開けている。
「群れの長は居る?」
「一頭、大きいのが居りますな。頭に赤い冠を戴いた奴が、群れの殿を走っております。……しきりに、後ろを振り返りながら」
「後ろ?」
「東の、森の方をですじゃ」
玄爺は、首を東へ巡らせた。森の向こう、山の斜面の方へ。霊夢もつられてそちらを見る。
春の霞が、山の麓を白くぼかしている。その霞の中に、一筋――細い煙のようなものが、立ち昇って消えた。
霊夢は、狩具小屋で嗅いだ焦げ臭い匂いを思い出した。
――気のせいじゃなかったわね。
「先に茶屋の方。群れを止めるわ」
霊夢は背の太刀の柄を、肩越しに一度だけ確かめた。
「あうん、走れる?」
「走れます!――狐さん、ちょっと待っててくださいね」
あうんは石の狐を祠の前にそっと据え直し、大盾を背負い直した。
「玄爺は上から群れの頭を押さえて。茶屋に近付いたら、教えて」
「心得ました」
玄爺が、梢の上へ舞い上がる。霊夢は地面を蹴った。
足が地を離れ、体がフワリと浮く。原野の草の上を、膝の高さで滑るように飛ぶ。その後ろを、大盾を背負ったあうんが、草をかき分けて全力で駆けてくる。
~東の街道 街道の茶屋~
――茶屋の軒先で、葦簀が風にカタカタと鳴っていた。
街道沿いの小さな茶屋だ。藁葺きの屋根の下に縁台が二つ。店先の竈で湯が沸き、軒には干した川魚が何匹も吊るしてある。縁台には、荷車を止めた馬子が一人と、参拝帰りらしい母子が腰掛けて、団子を頬張っていた。
霊夢が街道へ降り立った時、茶屋の親爺はちょうど団子の皿を運んでいるところだった。
「おや、巫女様。お早いお参りで――」
「親父さん。皆を店の中に入れて。戸を閉めて、閂を掛けて」
茶屋を営む男は皿を持ったまま、きょとんと霊夢を見た。それから、霊夢の背の太刀と、その後ろから土埃を上げて駆けてくる大盾の娘を見て、顔色を変えた。
「ま、また何か出たんですかい?!この前の牙竜の群れなら、ギルドに頼んで――」
「別の群れよ。早く」
親爺は団子の皿を放り出し、縁台の客を店の中へ追い立てた。母親が子供を抱き上げ、馬子が慌てて荷車の牛の綱を解く。
〈ギャアッ、ギャアッ!〉
原野の方から、甲高い鳴き声が近付いてくる。
草が揺れる。一筋、二筋、三筋――草の海を割って、青い影が幾つも走ってくる。
霊夢は街道の真ん中に立った。その斜め前に、追い付いたあうんが滑り込む。大盾を地面に突き立て、ランスを盾の縁に添えて構えた。岩殻の大盾が、茶屋の戸口を背に、どっしりと壁を作る。
「と、通しませんよ……!」
あうんの声が、少しだけ上擦っていた。
――来た。
草むらから、ランポスの群れが飛び出してきた。
人の背丈ほどの、細身の鳥竜だ。青い鱗に黒い縞。長い尾で釣り合いを取りながら、二本の脚で跳ねるように走る。頭の上に、小さな赤い鶏冠がちょこんと立っている。嘴のような口には、細かな牙がびっしりと並んでいた。
どの個体も、息が荒い。脇腹に浅い傷を付けた個体。片脚を庇って跳ねる個体。尾の先が千切れかけた個体。群れ全体が、どこか擦り切れていた。
霊夢は、群れの動きを目で追う。ランポスは群れで狩る竜だ。正面の一頭が獲物の気を引き、左右の数頭が回り込み、獲物が背を向けた瞬間に後ろから跳びかかる。長は群れの後ろで鳴き声を上げ、輪を狭める合図を出す。
だが、今日の群れはその形を作り切れていない。輪の一角が、傷ついた個体のせいで崩れている。回り込む足が揃わない。
――狩りをしに来たんじゃない。逃げてきて、行き場が無いだけ。
そして、群れの最後尾から――一回り大きな影が、街道の土を蹴って現れた。
頭に、朱色の大きな鶏冠。ランポスより頭一つ高い背丈。足の鉤爪は赤みを帯びて大きく発達し、踏み込むたびに街道の土を深く抉る。
だが、霊夢の目が留まったのは、その脇腹だった。
青い鱗が、黒く焦げていた。
掌を二つ広げたほどの範囲が、炭のように黒ずみ、鱗が縮れて剥がれかけている。焦げ跡の縁はまだ赤く爛れ、そこから微かに煙の匂いがした。
――炎に焼かれている。
ドスランポスが、霊夢とあうんに気付いた。茶屋の前に立ち塞がる二人を見て、首を低く下げる。それから、一度だけ――東を振り返った。
長の鳴き声で、群れが一斉に向きを変えた。
ランポスが三頭、四頭、左右に散って霊夢を囲む。正面から一頭が跳んだ。鉤爪を前に揃え、霊夢の胸を目掛けて降ってくる。
霊夢は半身だけずらした。爪が袖を掠める。その脇腹へ、肩越しに抜いた太刀の鞘尻を叩き込む。ランポスが悲鳴を上げて転がった。
右から一頭。左から一頭。二頭が同時に跳ぶ。
霊夢は袂から御札を二枚抜き、宙へ放った。札が淡い光の壁になり、右のランポスの跳躍の線を斜めに逸らす。逸れた一頭が、左から跳んだ一頭とぶつかった。二頭が絡まり合って街道に落ちる。光の壁は竜の重さに耐えきれず、硝子のように砕けて消えた。
「霊夢さん、後ろ!」
霊夢は振り返らない。足を地から浮かせ、体を横へ滑らせる。後ろから跳んだランポスの爪が、さっきまで霊夢の頭があった空を切った。
――着地ざまに、斬る。
霊夢は着地と同時に、背の鞘から太刀を引き抜いた。身の丈に迫る薄紅の刀身が、春の陽の中で弧を描く。空振りして着地したランポスの尾を、根元から浅く斬った。
〈ギャウッ!〉
――浮く。
また体を浮かせ、群れの輪の外へ抜ける。
茶屋の前では、あうんが二頭を相手に盾を構えていた。ランポスが盾に跳びかかる。ガツン、と岩殻が鳴る。あうんは一歩も下がらず、盾ごと体を押し出した。ランポスが弾き返され、街道に尻もちをつく。もう一頭が盾の脇から回り込もうとすると、あうんはランスの柄で鼻先を叩く。
「ここは、通しません!」
だが、ランポスは諦めない。
一頭が盾の正面で鳴き声を上げ、あうんの気を引く。その隙に、もう一頭が盾の死角から低く跳んだ。あうんの足首を狙う牙だ。
「わっ……!」
あうんは咄嗟に盾を傾けた。岩殻の縁が地面を擦り、ランポスの牙が盾の下の端に噛み付く。ギリ、と嫌な音。あうんは歯を食いしばり、盾ごとランポスを持ち上げるように押し返した。
そのまま、盾の脇からランスを突き出す。岩竜の殻を打ち付けた重い穂先が、ランポスの肩を浅く掠めた。
〈ギャッ!〉
ランポスが跳び退る。あうんは突き出したランスを引き戻し、また盾の陰に身を沈めた。息が荒い。だが、足は茶屋の戸口の前から一歩も動いていない。
ドスランポスが、群れの後ろで地面を掻いた。
赤い鉤爪で、街道の土をガリガリと抉る。首を低く下げ、口から白い息を吐く。鶏冠が、血の色に染まっていくように濃くなった。――怒り状態だ。
長が跳んだ。
――速い。ランポスの比ではない。一跳びで群れの頭を越え、霊夢の真上から降ってくる。鉤爪が、陽を遮った。
霊夢は太刀を立てて受けた。刃と爪がぶつかり、腕に重さがのしかかる。長の脚の力が、霊夢を地面に押し付けようとする。膝が沈む。
長の顔が、すぐ目の前にある。牙の間から、生臭い息が吹きかかる。焼けた脇腹から漂う焦げた匂いが、鼻を突く。長の目は血走り、霊夢を睨んでいながら、どこか別のものに怯えているように見えた。
――重い。
霊夢は押し合わず、太刀の角度だけを変えた。爪が刃の上を滑り、長の体が横へ流れる。霊夢はその隙に、浮くように後ろへ下がった。
長が着地し、すぐさま向き直る。もう一度跳ぶ気だ。
「――御主人様!目を!」
頭の上から、玄爺の声が聞こえる。霊夢は目を閉じ、袖で顔を覆う。
瞼の裏が、真っ白に灼けた。玄爺が梢の高さから落とした[閃光玉]だ。ランポス達が一斉に悲鳴を上げる。目を眩まされた長が、跳ぶ寸前で足を縺れさせ、街道の上でたたらを踏んだ。
霊夢は目を開けた。
長が、頭を振っている。その頭の上で、朱色の鶏冠が揺れている。
――狙うのは鶏冠。
霊夢は踏み込んだ。足を着き、腰を落とし、身の丈ほどの刀を大きく振りかぶる。刀身の淡い青の筋に、霊力が細く流れ込む。
気刃斬り。
薄紅を帯びた刃が、長の鶏冠の先を斬り飛ばした。
飛ばされた朱色の鶏冠の欠片が、街道の土の上に落ちる。
長が、後ずさった。眩んだ目を何度も瞬かせ、欠けた鶏冠を振る。群れのランポス達が、長の周りに寄り集まった。どの個体も、怯えたように長を見上げている。
「あうん!」
「はいっ!」
あうんが大盾を構えたまま、前へ出た。一歩。二歩。盾の縁で地面を擦りながら、群れを押すように進む。霊夢がその横に並び、太刀の切っ先を群れに向けた。
――東じゃない。北へ行け。
霊夢は、わざと群れの東側に回り込んだ。茶屋のある西と、群れが来た東を塞ぐ。開いているのは北だけ。北の森は、人の住む所から遠い。
長が、霊夢を見た。それから、東を見た。東には霊夢が立っている。その向こうの、霞んだ森を。
長が、鳴いた。
〈クワァッ……クワァッ!〉
群れが、北へ走り出した。
傷ついた個体を真ん中に挟み、長が殿を務める。草の海を割り、北の雑木林の方へ。長は一度だけ振り返り、霊夢を見た。それから、東の森を見た。
青い影が、林の中へ消えていった。
――それきり、鳴き声は戻ってこなかった。
霊夢は太刀を肩越しに背の鞘へ納め、長い息を吐いた。
あうんが、大盾を地面に下ろしてへたり込む。
「……ふぅ。通しませんでした」
「えぇ。通さなかったわね」
茶屋の戸が、そろそろと開いた。親父が顔だけ出し、街道を見回す。それから、母子と馬子が恐る恐る出てきた。子供が、あうんの大盾を見て目を輝かせる。
「お姉ちゃん、すごい!」
「えへへ……あ、ありがとうございます」
あうんの頬が、赤くなった。
茶屋の親父が、手拭いで額の汗を拭いながら近付いてきた。
「いやぁ、助かりましたよ巫女様。あんな数じゃ、店ごと持ってかれるかと」
「戸を閉めてくれたから、守りやすかったわ。しばらくは店を早めに閉めて。北の林には、旅の人を近付けないように」
「へぇ、承知しました。……あの、これ、少ないですが」
親爺が差し出したのは、竹の皮に包んだ団子だった。みたらしが三本、草餅が二つ。
霊夢は一瞬だけ迷い、それから素直に受け取った。
「……お賽銭の方がありがたいんだけど」
「団子もお賽銭のうちってことで、ここはひとつ。巫女様も嫌いじゃないでしょう?」
親父はニヤリと笑う。霊夢は肩を竦め、団子の包みをあうんに放った。あうんが嬉しそうに、両手で抱え込む。
霊夢は街道に落ちた鶏冠の欠片を拾い上げた。朱色の、鋸の歯のような縁。断面はまだ温かい。
それから、群れが去った北ではなく、群れが来た東を見た。
霞の中の細い煙は、もう見えなかった。
~博麗原野 東の境の外れ~
――境の標石を越えた所で、森の匂いが変わった。
若葉と湿った土の匂いの中に、焦げた匂いが混じっている。最初は微かだったそれが、森の奥へ進むにつれて濃くなっていく。
「御主人様。この先は、境の外ですじゃ」
梢の上から、玄爺が低い声で言った。
「分かってる。見るだけよ」
霊夢は標石の脇をすり抜け、楢の木立の間へ踏み込んだ。あうんが大盾を背負ったまま後に続く。
境の外――と言っても結界、
ランポスの足跡を逆に辿る。乱れた三本指の跡が、森の奥から真っ直ぐに伸びてくる。群れはここを、脇目も振らずに逃げてきたのだ。
足跡の脇で、細い若木が何本も折れている。逃げる群れが体ごとぶつかったのだ。枝の折れ口はまだ青く、樹液が滲んでいる。
少し進むと、藪の陰に、枯れ草を丸く敷き詰めた窪みが幾つも並んでいた。ランポス達の寝床だ。窪みの縁には齧りかけの骨が転がり、抜け落ちた細かな鱗が散らばっている。
寝床は、どれも空だった。慌てて飛び出したように、敷き草が蹴散らされている。
「ここで寝てたところを、叩き起こされたのね」
「夜中に、ですか?」
「えぇ。それで、そのまま帰ってこなかった」
あうんが、空っぽの窪みを覗き込む。それから、不安そうに森の奥を見た。焦げた匂いは、そちらから流れてきている。
――木立が、不意に開けた。
森の中に、ぽっかりと空いた草地だった。
その草地の真ん中が、黒く焼けていた。
大人が五人寝転べるほどの円い範囲で、草が根元まで焼け焦げている。焦げ跡は真ん中ほど濃く、外へ向かって放射状に薄くなっていた。真ん中の土は、焼き物の釉のように黒く艶を帯び、指で押しても凹まない。
「……火の塊が、ここに落ちたのね」
霊夢は焦げ跡の縁にしゃがみ込んだ。草の灰が、指先でサラサラと崩れる。灰はもう冷えている。だが、その下の土に掌を当てると、まだほのかに温かい。
「昨日の夕方か、夜ね。――火を吐く何かが、ここで何かを焼いた」
霊夢は焦げ跡の周りを、ゆっくりと一周した。
焦げ跡は、正確な円ではない。東の側が僅かに細く、西の側が扇のように広がっている。東の側の草は、根元から一方向に薙ぎ倒されていた。
「東から、真っ直ぐ飛んできた火ね。低い所から、地面を這うように吐いてる」
「空からじゃないんですか?」
「空からなら、もっと真上から落ちて丸く焼けるはずよ。これは、地面に立ったまま吐いた形」
あうんは焦げ跡の東の端に立ち、そこから東の木立を見た。木立の幹の何本かが、人の背より高い所で黒く煤けている。火を吐いたものの頭は、それほど高い所にあったのだ。
焦げ跡の縁に、青い鱗が散らばっていた。さっき祠の前で拾ったのと同じ、黒い縞の入った青。それから――ランポスが一頭、草の上に横たわっていた。
――いや、ランポス
胴の半分が無い。強い顎で一噛みに食い千切られたように、肋の骨が覗いている。残った体の鱗は、半分が黒く焼けていた。
あうんが息を呑み、思わず目を逸らした。
霊夢は目を逸らさなかった。食い千切られた断面の大きさを見る。顎の幅。歯の跡の間隔。――ランポスの長の比ではない。もっと、ずっと大きい個体のそれ。
「霊夢さん……これ……」
あうんが、草地の向こう側を指差していた。
焦げ跡の向こうの、柔らかい土の上に――足跡があった。
大きい。霊夢がその中に膝を抱えて座っても、まだ余る。前を向いた三本の太い指と、後ろに伸びた一本の指。指の先には、地面を深く抉った爪の跡。踏み込んだ重さで、土がぐしゃりと潰れて縁が盛り上がっている。
足跡と足跡の間は、霊夢の歩幅で七、八歩もあった。
そしてその足跡の列の真ん中を、太い溝が一筋、蛇のようにうねって走っていた。引き摺った尾の跡だ。溝の両脇の草が、何か鋭い物で刺されたように、点々と破れている。
――大型の飛竜。
霊夢は立ち上がり、足跡の列が向かう先を目で追った。
列は、草地の端の大きな櫟の木の方へ伸びている。霊夢は足跡を跨ぎながら、その木へ近付いた。
櫟の幹に、穴が空いていた。
拳ほどの穴が、幾つも。何か太い棘を力任せに叩き込んだように、幹の皮が裂け、白い木肌が抉れている。そして――穴の周りの樹皮が、紫がかった黒に変色し、ぐずぐずに腐り始めていた。
鼻を近付けると、ツンと刺すような匂いがした。
「触ってはなりませんぞ」
玄爺が、梢から降りてきた。霊夢の肩の高さに止まり、皺だらけの首を伸ばして、幹の穴を覗き込む。
「毒ですじゃ。尾の棘に、毒を持つ竜の仕業。……そして、この足跡の大きさ。この焦げ跡」
玄爺は、霊夢の足元の草の間に鼻先を向けた。
そこに、鱗が一枚落ちていた。
霊夢の掌ほどもある。厚く、硬く、縁が鋭い。色は、苔のような深い緑だった。陽に翳すと、緑の奥に土のような茶色がうっすらと透ける。
「――『雌火竜』ですな」
玄爺の声が低く推測を挙げる。
雌火竜――『リオレイア*3』。空の王と呼ばれる雄の火竜と番になり、雄が空から獲物を探すのに対して、雌は地上を歩いて縄張りを守る。空の王に対する陸の女王、とも呼ばれる飛竜だ。
「この辺りに、居るものなの?」
「居りませんな」
玄爺は、すぐに答えた。
「火竜の番は、山の中腹の岩棚に巣を構えるもの。儂が知る限り、この東の境の森まで降りてきたことは、一度もありませなんだ。この森はランポスの群れの縄張りで、それより大きな竜の縄張りではないのですじゃ」
玄爺の声は穏やかだが、皺だらけの首は、落ち着きなく東を向いたり戻ったりしている。長い年月を幻想郷の空で過ごしてきた亀が、見たことがないと言う。霊夢には、それが何より気に掛かった。
霊夢は、足跡の列を振り返った。
列は、草地を真っ直ぐ横切ってはいなかった。櫟の木から、草地の北の岩陰へ。岩陰から、南の倒木の下へ。倒木の下から、また別の岩の窪みへ。行っては戻り、戻っては別の所を覗き込むように、草地の中をうろうろと歩き回っている。
岩陰の地面が、大きく掻き払われていた。枯れ枝が除けられ、土が平らに均されかけて、途中で放り出されている。倒木の下にも、同じような跡がある。
霊夢は岩陰に屈み込んだ。均されかけた地面に、太い爪の筋が何本も平行に走っている。掻き寄せた枯れ枝が、岩の根元に小山を作っていた。その小山の上に、苔の切れ端と、引き抜かれた若い羊歯がまとめて置かれている。
食べる為に集めたものではない。何かを敷く為の、柔らかいものだ。
「……何をしてるのかしら」
「巣を、探しておるのでしょうな」
玄爺が、ぽつりと言った。
「卵を産む前の雌は、こうして巣の場所を選びますじゃ。地面を均してみて、気に入らなければまた次へ。……ただ」
「ただ?」
「縄張りの外で巣を探す雌など、儂は見たことがありませぬ。巣は、縄張りの中の、一番安心な所に作るものです故に。――縄張りから出ねばならぬ訳でも、あったのでしょうかな」
霊夢は答えなかった。
焼けた草地。半分になったランポス。逃げてきた群れ。焦げた長の脇腹。追い払われた小さな縄張りの主。そして、自分の縄張りの外で、巣を探して歩き回る大きな竜。
――縄張りを追われた?生態系の上位に立つ存在が?
そんな言葉が浮かんだ。だが、陸の女王を追い出せるようなものが、この幻想郷のどこに居るというのか。
霊夢は首を振り、その考えを頭から払った。勘が何かを告げている。だが、それが何なのかは、まだ分からない。
その時、あうんが顔を上げた。
「……霊夢さん」
――遠くで、何かが鳴いた。
低く、長く、喉の奥を震わせるような声。森の木々の向こう、山の斜面の方から、風に乗って微かに届いてくる。鳥が一斉に梢から飛び立ち、西の空へ散っていった。
霊夢は、木立の切れ目から東の空を見上げた。
――霞んだ山の斜面の上を、大きな影が一つ、ゆっくりと横切っていく。
広げた翼。長い尾。陽を受けて、鱗が深い緑に光った。影は斜面の向こうの尾根に、翼を畳んで降りていく。重たげに、疲れたように。
遠眼鏡を借りるまでもない。距離があっても、その大きさは分かる。尾根の岩と比べれば、翼を広げた幅は茶屋の屋根を三つ並べたほどもある。太い後脚。翼の先の鉤爪。背から尾へ、棘の列が鋸の歯のように並んでいる。尾の先は棍棒のように膨らみ、そこにも太い棘が生えている。櫟の幹に穴を穿ったのは、あの尾の棘だ。
緑の鱗の所々に、黒ずんだ傷の跡が見えた気がした。古い傷か、新しい傷か。この距離では分からない。
尾根の向こうへ、陸の女王の緑の影が消えた。
――森が静かになった。
あうんが、大盾の革帯をぎゅっと握り締めている。玄爺は遠眼鏡を目に当てたまま、長い間動かなかった。
「……玄爺。あの尾根は、境の内側?」
「内側ですじゃ。神社から歩いて半日ですな」
「そう」
霊夢は背を向けた。
「――帰るわよ。今日は、ここまで」
「よろしいので?」
「見るだけって言ったでしょ。あれは、一人で行く相手じゃない。……それに」
霊夢は、焼けた草地を振り返った。
「あれは、まだ何もしてない。ランポスを一頭食べただけ。竜が竜を食べるのは、こっちの知ったことじゃないもの」
あうんが、少しだけ肩の力を抜いた。玄爺は、遠眼鏡を首に掛け直した。
「ただ、会館には知らせる。――あうん、狐さんの所に寄って帰りましょう」
「はいっ!」
――帰り道、三人は三つ目の祠に立ち寄った。
あうんは散らばった米粒を拾い集め、ひっくり返った土器の皿を元に戻した。霊夢は懐から御札を一枚取り出し、祠の板壁の引っ掻き傷の上に貼り付ける。札が淡く光り、すぐに木肌に馴染んで見えなくなった。
「これで、少しは落ち着くでしょ」
「狐さん、もう大丈夫ですよ」
あうんが石の狐の頭を撫でる。玄爺は、その様子を梢の上から黙って見下ろしている。
東の山の方で、また一群れ、鳥が飛び立った。
~博麗神社 母屋~
――その夜、母屋の行灯の下で、霊夢は珍しく筆を握っていた。
縁側の外では、萃香が瓢箪を枕にして寝息を立てている。棚の一番上から、針妙丸が身を乗り出して霊夢の手元を覗いていた。
行灯の脇には、親爺の団子の包みが開いたまま置いてある。みたらしは帰り道で二本消え、残りは夕餉の後にあうんと分けた。今は竹の皮に、蜜の跡だけが残っている。
あうんは囲炉裏の傍で、大盾の岩殻に付いた牙の跡を布で拭っていた。牙が噛んだ縁が、白く削れている。
「霊夢さん。この傷、針妙丸さんに直してもらえますか?」
「盾は鍛冶に回しなさい。針妙丸が縫えるのは、革と布だけよ」
「縫えなくはないけどね。岩なんか縫ったら、針が折れる」
針妙丸が、棚の上から肩を竦めた。
「霊夢が帳面を書いてる……明日は雨だね」
「うるさい。会館に出すのよ。……面倒だけど、流石にアレは報告しなきゃまずい」
霊夢は、普段は滅多に開かない観測の帳面に、一行ずつ書き付けていった。字は丁寧ではない。だが、一つも省かなかった。
結界:異常なし
境の祠:三つ目の祠の前が荒れる。石の狐が倒れる被害(あうんが直した)
ランポスの群れ:東の森より西へ逃げ、街道の茶屋に迫る。北の林へ追い払う。長の脇腹に焼け跡を確認
境の外の草地:焼け跡、ランポスの食い残し、大きな足跡、毒の棘の跡を確認
リオレイア一頭、目撃。境の内の東の尾根に降りる
備考:縄張りの外で、巣の場所を探している様子(玄爺の見立て)
霊夢は筆を置き、最後の一行を読み返した。
それから、しばらく考えて、もう一行だけ書き足した。
「……それ、記録に書いていいの?」
針妙丸が首を傾げた。
「いいのよ。どうせ阿求が書き直すわ」
霊夢は帳面を畳み、縁側の外に声を掛けた。
「玄爺。明日の朝一番で、これを会館に届けて」
庭の暗がりで、甲羅がもぞりと動いた。
「心得ましたじゃ。……御主人様。あの雌火竜、ギルドは討伐に動きますかな?」
「さぁね。まだ何もしてないもの。見張るだけになるか、追い返すことになるか。決めるのは会館よ」
「ですな」
玄爺の首が、甲羅の中へゆっくりと引っ込んでいく。
霊夢は帳面を文机に置き、行灯を吹き消した。
縁側の向こうの夜空に、春の星が瞬いている。東の尾根は、闇に沈んで見えない。
その闇の向こうで、緑の竜は、まだ巣を探しているのだろうか――