東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~中央会館 ギルドマスター室~
――朝一番の書類の山は、いつも慧音の机の上で同じ高さになる。
夜のうちに受付へ届いた依頼票。昨日の狩りの報告書。記録室から回ってきた写し。小鈴がそれを束ね直し、阿求が目を通した印を押し、最後にこの部屋の机へ積み上げる。
慧音が一束ずつ紐を解き、判を押すか、突き返すかを決める。人里ギルドの一日は、大抵そこから始まる。
窓の外では、人里の通りがようやく目を覚まし始めている。豆腐売りの呼び声が遠くで響き、井戸端で桶がカタンと鳴る。寺子屋の子供達が来るまで、まだ一刻ほどある。
慧音は二つ目の束の紐を解き、一枚目の依頼票に目を落とした。
――その時、窓の格子をコツコツと叩く音がした。
顔を上げると、二階の窓の外に大きな甲羅が浮かんでいる。皺だらけの長い首が伸び、鼻先で格子を突いていた。
「――玄爺殿か。朝から珍しいな」
慧音が窓を開けると、玄爺は甲羅を斜めに傾け、器用に部屋の中へ滑り込んできた。背負い具の革帯がギシリと鳴る。床に降りると、短い前脚で背負い具の口を開け、帳面を一冊取り出して首で机の上へ押しやる。
「御主人様から、会館へ届けるよう言い付かって参りました。東の境の観測記録ですじゃ」
「……霊夢が、自分から観測を?」
慧音は帳面を手に取った。表紙の端が少し折れている。月に一度の東部境界地帯の観測は、『博麗神社』の巫女務めとして取り決めてある。だが、その帳面が会館に届くのは、慧音が催促の文を三度出してからと決まっていた。
「月に一度の見回りの報告を、催促なしで受け取るのは初めてだぞ。……何があった?」
「中を見て頂ければ分かるかと」
慧音は椅子に掛け直し、帳面を開いた。
字は丁寧ではない。筆の勢いに任せて、行が右へ傾いでいる。だが、一つも省かれていなかった。結界に異常なし。三つ目の祠の前が荒れた。ランポスの群れが東の森より西へ逃げ、街道の茶屋に迫った。長の脇腹に焼け跡を確認。境の外の草地に焼け跡、食い残し、大きな足跡、毒の棘の跡を確認。
そして――リオレイア一頭、目撃。境の内の東の尾根に降りる姿を目撃。
慧音の指が、その一行の上で止まった。
「……陸の女王が、東の境の内にか」
「左様。儂もこの目で見ました。翼を畳んで、重たげに尾根へ降りていきましたぞ」
慧音は帳面の最後まで目を通した。備考の行には、縄張りの外で巣の場所を探している様子、と玄爺の見立てが書き添えてある。その下に、一行だけ字の大きさの違う書き足しがあった。
――『勘:何かに追われてる』
慧音は、その一行を笑わなかった。
霊夢の勘は、記録には残せない。証拠にもならない。だが、慧音がこの部屋に座るようになってから、あの巫女の勘が外れた記録を、阿求の帳面の中に見たことがなかった。
「玄爺殿。リオレイアは何かを襲ったか?人や家畜に手を出した跡は?」
「今のところは、ランポスを一頭食べただけですな。人里の方には、まだ近付いておりませぬ」
「なら区分はまず見張りだ。尾根に居着くのか、また移るのか。卵を抱える気があるのか。まずは、それを見る」
慧音は引き出しから依頼票の用紙を一枚抜き、筆を取った。
「東の尾根なら、神社から歩いて半日だったな。見張りは霊夢に頼むのが一番早い。地の利もある。昼過ぎにでも、会館へ顔を出すよう伝えてくれないか?」
玄爺は、すぐには答えなかった。長い首をゆっくりと甲羅の方へ引き、困ったように目を細める。
「それが……御主人様は今朝早くに出かけられましてな」
「出かけた?何処へだ?」
「夜明け前に、縁側の上に
慧音の筆が止まった。
――またか。
穂先から墨が一滴、依頼票の上に落ちる。慧音は黙って筆を置き、落ちた墨を紙の端で吸い取った。
――『博麗霊夢』は人里ギルドの所属ハンターである。依頼は人里の受付で受け、報酬も人里で受け取る。だが同時に、あの巫女は全ギルドを纏め上げるグランドマスター『八雲紫』から、直に仕事を頼まれる事もある特任を併せ持つ。
紫の用件が入れば、
「……あの子は、うちの所属なのか。それとも、境界の賢者の手駒なのか」
慧音は、半ば独り言のように呟く。
「御主人様は、どちらとも思っておられませぬよ。人里の依頼は仕事、紫様のご用は異変の始末。どちらも巫女の務めじゃ、と」
「それが一番困るんだ」
慧音は額に手を当て、長い息を吐いた。玄爺は申し訳なさそうに首を竦める。
「ですがな、慧音殿。御主人様は出かける前に、帳面だけは儂に託していかれました。夜のうちに、行灯の下で書き上げて。……『面倒だけど、流石にアレは報告しなきゃまずい』、と」
慧音は、机の上の帳面に目を戻した。傾いだ字の列。一つも省かれていない項目。最後の一行の、少しだけ大きな字。
「……分かっている。帳面がここにあるだけ、まだマシだ」
「いつ戻られるかは、儂にも分かりませぬ。紫様のご用は大抵唐突な上、いつも長さが読めませんでな」
「だろうな」
慧音は依頼票の用紙を脇へ退け、帳面を閉じた。
「――玄爺殿。この帳面は記録室へ回す。阿求に写しを作らせるから、下で少し待っていてくれ。霊夢が戻ったら、真っ先に会館へ来るよう伝えてほしい。見張りの依頼は、それまで私が預かっておく」
「心得ました」
玄爺が窓の方へ向き直った時、階下の受付の方から、ぱたぱたと板張りの階段を駆け上がってくる足音がした。
『慧音先生!夢幻館のエリーさんがお見えですよー!』
小鈴の声だった。
慧音は顔を上げ、もう一度だけ長い息を吐いた。
「……今日は、そういう日か」
~中央会館 受付~
――朝の受付は、いつものように騒がしい。
掲示板の前では、新人らしい若いハンターが三人、額を寄せ合って依頼票を端から読んでいる。壁際の座敷では、夜通し狩りから戻ったらしい二人組が、泥の付いた脚絆を解きながら大欠伸をしていた。素材の預け入れの列には、木箱を抱えた荷運びの男が並ぶ。広間の空気には、墨と泥と、焼きたての佐巾の匂いが混じっている。
慧音が階段を降りると、受付台の向こうで小鈴が手を振った。
「あ、慧音先生。こちらです」
――受付台の前に、背の高い影が一つ立っている。
赤いリボンを巻いた白い広つばの帽子。その下から、金の巻き髪が肩に落ちている。白襟の付いた深紅のワンピースは、朝の街道の土埃を裾に少しだけ貰っていた。太陽の畑に建つ洋館を預かる猟団『夢幻館』の副団長――『エリー』だ。
その背には、大きな鎌を担いでいる。
外向きに反った三日月の刃。青鈍色の硬い殻を打ち付けた刃の背が、一枚一枚、蟹の脚の節のように重なっている。柄は赤い。山の岩場に棲む鎌蟹の爪を打ち直した剣斧――鎌蟹剣斧『留守居ノ大鎌』。斧と剣の二つの形を持つ『スラッシュアックス*1』だが、納刀状態で畳んだ姿は、どう見ても死神が担いでいそうな大鎌だった。
エリーの腕には、風呂敷に包んだ分厚い束が抱えられている。
「おはようございます、慧音さん。月末の届け出をお持ちしました」
「あぁ、ご苦労。今月も時間どおりだな」
「それが私の仕事ですから」
エリーは風呂敷を受付台の上に置き、結び目を解いた。中から出てきたのは、整えられた書類の山。それぞれに色の違う紐が掛けてあり、表には細い筆で中身が書いてある。
小鈴が一つずつ取り上げ、読み上げていく。
「素材庫の出し入れの記録。『太陽の畑』の見回りの報告。『無名の丘』の危険素材台帳の写し。……あ、これは小兎姫さんに回す分ですね」
「えぇ、そうです。それから、永遠亭への毒の納品が二件。受け取りの札は、今度こそ鈴仙さんに正しく書いてもらいました」
「それから……こちらは、始末書ですか?」
小鈴が、赤い紐の束を持ち上げた。他の束より、明らかに分厚い。
エリーの笑みが、ほんの少しだけ引きつった。
「……夢月さんが、西の滝の上の縄張りへ無断で入りまして。幻月さんが『規定では、追跡中の対象が縄張りを跨いだ場合は』と、規則の条文を掲げて加勢した件も一緒に。二人とも無事です。素材は、獲った分をすべて届け出てあります」
「しかも、わざわざ条文付きですか」
「幻月さんは、規定通りに動く方なんです。規定の穴まで、規定通りに」
小鈴が、吐息とも笑いともつかない声を漏らした。慧音は赤い紐の束を受け取り、その重さを確かめるように少しだけ揺らした。
それから、いつもの問いを口にした。
「……それで。団長はどこ?」
「花のところです」
エリーは、一拍も置かずに答えた。
広間のあちこちで、小さな笑い声が上がる。座敷の二人組は脚絆を解く手を止めて顔を見合わせ、掲示板の前の新人達だけが、何のことか分からずに振り返っている。
「……出たぞ、夢幻館の『花のところ』だ」
「今月は何て言うか、賭けてたんだけどな。外れだな」
座敷の二人組が、声を落として笑い合う。一人が、掲示板の前できょとんとしている新人達に、顔だけ向けて教えてやる。
「あの姉ちゃんが回してる、『夢幻館』の団長はな、里のハンター連中は誰も顔を見たことがねぇんだよ。会館の帳面にも名前はある。『太陽の畑』には、確かに団の名前と同じ名の館もある。でも、本人だけが居ねぇのさ」
「……それ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃねぇから、毎月あんな風になるんだろうよ」
新人の一人が、恐る恐る慧音の顔を盗み見た。眉間に寄った皺は、確かに毎月同じ形をしているのかもしれない。
「……どこの花だ?」
「さぁ。先月のお手紙は、南の方の山からでした。その前は、西の方の湿地から」
「その前は?」
「花のところです」
小鈴が、受付台に額を伏せて肩を震わせた。
「……慧音先生。そのやり取り、私が受付に座ってから何度目でしたっけ?」
「数えていない。……数えたら負けな気がする」
慧音は眉間を揉んだ。
――猟団『夢幻館』の団長は『風見幽香』という。届け出の書類にはそう書いてあるし、登録の帳面にも名前がある。だが慧音は、この会館のギルドマスターになってから、その団長の顔を一度も見たことがない。届け出を出したのも、報告を上げる事も、始末書を書く事も、全部今目の前に居る副団長が行っている。
「ですが今日は、花の他にもお届け物があります」
エリーが、風呂敷の一番底から薄い封筒を取り出した。淡い黄色の和紙で、封はされていない。封筒の端から、押し花にした小さな躯躅の花びらが一枚、ちらりと覗いていた。
「団長――幽香様からの、植物の記録です。理香子さんの分と、慧音さんの分。……それと、今回は一筆だけ、慧音さん宛てのものが。中でお話ししても?」
慧音は封筒を受け取り、階段の方を顔で示した。
「上がってくれ。……小鈴、玄爺殿が写しを待っている。阿求にこの帳面を渡してくれ」
「はい、承ります」
小鈴が霊夢の帳面を抱えて、広間の奥へ駆けていく。その背中を見送ってから、エリーは帽子のつばに指を当てた。
「……今のは、博麗の巫女の帳面ですか?」
「あぁ。本人は今朝から居ないんだがな」
慧音の声の底に、少しだけ棘が残っていた。エリーはそれを聞き止め、小さく首を傾げる。それから何も言わず、慧音の後に続いて階段を上った。
~中央会館 ギルドマスター室~
――始末書の字は、惚れ惚れするほど綺麗だった。
慧音は赤い紐の束を解き、一枚ずつめくる。いつ、どこで、誰が、何をしたか。獲物は何で、素材はどれだけ取れて、どこへ預けたか。縄張りの主には何を詫び、次は何を守らせるか。一つも抜けていない。幻月が掲げたという条文まで、章と節の番号を添えて書き写してある。
「……幻月の言うとおりだ。この条文では、追跡中の獲物が縄張りを跨いだ場合、引き返せとは書いていないな」
「えぇ、書いていませんでした。私も三度読みましたので」
「次のギルド内会議で直そう。阿求に書き留めさせておく」
慧音は始末書の端に印を押し、紐を掛け直した。エリーは椅子に浅く腰掛け、帽子を膝の上に載せている。背の大鎌は、部屋の入り口の壁に立て掛けてあった。
窓の外で、寺子屋へ向かう子供達の声が通り過ぎていく。
慧音は棚の急須を取り、湯呑みを二つ並べた。朝に小鈴が入れておいてくれた茶は、もうすっかりと温くなっている。エリーは礼を言ってそれを受け取り、一口だけ含んだ。
「館の朝は、もう少し早いんです」
「そうなのか?」
「夜明けに、くるみが塔から降りてきます。夜番の申し送りを、オレンジが畑の入り口で受け取ります。申し送りと言っても、『東の畑、ケルビ二頭。追ってない』『分かった、おやすみ』で終わってしまうんですけれど。その間に私は厨房で、くるみの夜食と、双子の朝食を一緒に作ります」
「夜食と朝食を、一緒に?」
「同じ鍋です。寝る子と起きる子が、同じものを食べるんですよ。メディスンは食べませんが、卓には座ります。そういう決まりにしたんです」
慧音は、その食卓を思い浮かべようとして、上手くいかなかった。帽子を置いた門番と、眠そうな吸血鬼と、種の話ばかりする庭師と、メイド、天使の姿をした悪魔が二人。そして、何も食べない人形。その上座に、空いた椅子が一つ。
「……騒がしそうな食卓だな」
「ええ。でも、幽香様の椅子だけは、誰も座りません」
「成程な……それで、受付での話の続きだが」
慧音は、幽香の封筒を机の上に置いた。
「この手紙は、どうやって館に届くんだ?飛脚でも立てているのか?」
「いいえ。――ある朝、館の門の脇の花壇に挿してあるんです」
「……挿してある?」
「花の茎に結んで。大抵は、その季節に館の花壇で咲いていない花に。夢月さんは『花が郵便を運んでくる』と言っていますけれど、私の見立てでは、夜の内に――幽香様がご自分で挿しに来ているんですよ」
「帰ってきているのに、顔も出さないと?」
「花壇には顔を出しています。翌朝には、花壇の土が少しだけ湿っていますから」
エリーは当たり前のことのように言った。慧音は何か言いかけ、それから封筒を開いた。
中には、紙が三枚入っている。二枚は、細かな字と小さな絵で埋め尽くされた植物の記録だ。咲いていた場所。花の数。葉の色。土の湿り気。近くで食べられていた草と、食べられていなかった草。理香子がこの紙を何より有り難がる理由が、一目で分かる。
三枚目は、紙の端に二行だけだった。
花が可哀想。 ――幽香
慧音は、その二行を二度読んだ。
「……東の尾根、か」
呟いた自分の声が、思ったより硬い。慧音は紙を机に置き、引き出しから幻想郷の地図を引っ張り出した。博麗神社の印。その東。原野と森と、山の斜面。指で辿った先に、細い尾根の線が一本走っている。
霊夢の帳面にあった尾根だ。リオレイアが翼を畳んで降りた、境の内の尾根。
「エリー。この手紙は、いつ花壇に挿してあった?」
「三日前の朝です。届け出に紛れないよう、今日まで預かっていました」
「三日前。……霊夢が尾根で陸の女王を見たのは、一昨日だったな」
エリーの金の瞳が、地図の上の慧音の指先を追う。
「幽香様は、その竜より先に尾根を通られたんですね。……いえ。足跡を見たのなら、竜はもう、その前からそこに居たことになりますか」
「そういうことになるな。縄張りの外で巣を探して歩き回る雌が、一日や二日のことではないということだ」
慧音は筆を取り、地図の尾根の脇に小さな印を二つ付けた。一つには『博麗 観測』、もう一つには『風見 手紙』と書き添える。
「この二行、写しを取って記録に加えてもいいか?」
「どうぞ。幽香様は『可哀想』まで記録に残されるとは思っていないでしょうけれど」
慧音は少しだけ口の端を上げ、それから筆を置いた。椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
「……皆、一番大事なことだけ紙に書いて、本人はどこかへ行ってしまうな」
「博麗の巫女のことですか?」
「あの子も、お前のところの団長もだ。……すまない。愚痴を聞かせる相手ではなかったな」
「いいえ。愚痴なら、館でも毎晩のように聞いていますから」
エリーは膝の上の帽子のリボンを、指でつまんで整えた。
「夢月さんは『幽香が居れば強いのとやれたのに』と不満。オレンジは『新しい種、まだかな』と能天気。メディスンは……『私には手紙なんて、一枚も書いてくれない』と拗ねる。皆、幽香様が居ないことに少しずつ拗ねています」
「お前は拗ねないのか?」
エリーは、少しだけ考える表情を浮かべる。
「幽香様は、館のことを何も聞きません。私も、何も報告しません。お互いにそれで困ったことがないんです。幽香様が帰ってこられた時、館が出ていった日と同じ姿でそこにあれば、それが一番の報告になりますから」
「……それで、不安にはならないのか?」
「なりますよ。双子の始末書を三枚書く夜などは、特に」
エリーは、さらりと言ってのけた。
「ですが、留守を預かる者が、留守にしている人を責め始めたら、館は回りません。幽香様は花がある場所で、花を見ている。花を見るのは、幽香様にしかできない仕事です。だから私は、私にしかできない仕事をしていればいい。……そう、思うことにしています」
慧音は答えなかった。
机の上には、霊夢の帳面の写しを待つ依頼票の用紙が、墨の染みを一つ付けたまま載っている。その隣に、幽香の二行。そして、一つも省かれていない、傾いた字の帳面の記憶。
――花を見るのは、花を見る者にしかできない。
だとしたら、境の外の足跡を読むのも、境を見回る者にしかできない。
「……耳の痛い話だな」
「失礼しました」
「いや。私には一番効く薬だ」
慧音がそう言って始末書の束を脇へ寄せた――その時。
階下の広間が、不意にざわめいた。
戸が乱暴に開く音。誰かが息を切らして叫ぶ声。椅子を引く音が続けざまに重なる。
「――北の畑に、青い竜が出たぞ!鶏小屋がやられてる!」
慧音とエリーは、同時に立ち上がっていた。
~人里 北の外れ 鶏小屋の前~
――畑の畝を、白い羽根が風に舞っていた。
人里の北の外れは、畑と雑木林が入り混じる土地だ。町並みが途切れた先に、農家が三軒並んでいる。その一番奥の家の裏手で、竹を編んだ鶏小屋が半分倒れていた。
鶏が畑中を逃げ惑っている。羽をばたつかせ、尾羽を土に引きずりながら、町の方へ転がるように走っていく。その後ろを、青い影が二つ、跳ねるように追っていた。
「『ランポス』……二頭ですね」
エリーが、畑の端で足を止めた。走りながら背の大鎌を外し、柄を横に構えている。息は乱れていない。
その少し後ろで、慧音が農家の人達を振り返った。
「皆、家の中へ入れ!子供は奥の部屋だ。雨戸を立てて、竜が去るまで開けるな!」
寺子屋で子供達に言うよりも、少しだけ声が低い。その声に押されるように、畑に出ていた女達が子供の手を引いて戸口へ駆けていく。鍬を握ったまま立ち尽くしていた老人を、息子らしい男が脇から抱えて屋内へ引っ張り込んだ。
雨戸がガタガタと立てられていく。
「エリー。……狩るのか?」
「いいえ。まずは――見ます」
エリーは大鎌を構えたまま、二頭のランポスを目で追った。
一頭は、畑の畝に頭を突っ込み、鶏小屋から転がり出た鶏の卵を嘱で割っている。もう一頭は、逃げた鶏を追いかけて畑の端まで来て、そこで不意に足を止めた。首をぐるりと回し、畑の端に立つ深紅の服を見る。
――痩せている。
青い鱗の下で、肋の形が浮いて見える。尾の付け根には、塞がりかけた細い刃の傷が一筋走っていた。もう一頭は尾の先が千切れかけ、片脚を少し引きずっている。
「……群れからはぐれた子ですね。お腹を空かせて、狩りの形も作れない。だから人の家の裏まで来てしまった」
慧音も、尾の付け根の傷を見ていた。
霊夢の帳面の一行が、頭の中で読み上げられる。――ランポスの群れ、北の林へ追い払う。
――あの刃の傷は、太刀の傷だ。
影が動いた。
〈ギャアッ、ギャアッ!〉
尾に傷のある一頭が、畑を蹴って跳んだ。尾で釣り合いを取り、鉤爪を前に揃えて、エリーの胸元へ降ってくる。
エリーは下がらない。大鎌の柄を斜めに立て、爪を柄で受ける。ガチリと硬い音がして、ランポスの重さが柄に乗った。その重さを、柄ごと横へ流す。ランポスが畑の上に転がり落ちた。
エリーはそのまま、大鎌を大きく引く。腰を沈め、体ごと回すように、三日月の刃で畑の上を横に薙いだ。重い斧の形の一振りが、ブゥンと風を切る。刃はランポスの鼻先の、拳一つ分手前を通り過ぎた。
当てていない。当てなかったのだ。
ランポスが跳び退いた。もう一頭も畑の奥で卵から顔を上げ、低く唸る。
「ここは、あなた達の狩り場ではありません」
エリーは大鎌を抱え直し、一歩前へ出た。そして、二頭の間に立つように弧を描いて歩き、町の方を背にした。畑の北、雑木林の方だけを、わざと空けておく。
だが、卵を割っていた一頭が、引かなかった。
畝の奥で短く鳴く。尾に傷のある一頭がそれに応え、左右に分かれる。一頭が正面で気を引き、もう一頭が横から回る。群れからはぐれても、狩りの形だけは体が覚えているのだ。
「……仕方ないわね」
エリーの口から、小さな声が漏れた。
大鎌の柄を握り直す。刃の根元の留め金を親指で弾く。重なっていた青鈍色の殻が、蟹の脚が節を伸ばすように一枚ずつずれ、三日月の刃が真っ直ぐに伸びていく。鎌のような斧の形から、細身で長い剣の形へ。
横から回った一頭が跳んだ。その瞬間、形を変え終えた刃が、上から叩き付けるように畑へ振り下ろされた。
刃はランポスの足元の土を深く割った。畑の土が弾け、土塩がランポスの顔を打つ。跳び掛かりかけた脚が空を掻き、青い体が横ざまに転がった。
エリーは剣の形のまま刃を引き抜き、切っ先を正面の一頭へ向けた。伸びた刃は、さっきの斧の形よりもずっと遠くまで届く。
「さぁ、北へ。――林の方へお帰りなさい」
正面の一頭が、後ずさる。一歩。二歩。エリーはその分だけ前へ出て、切っ先で林の方を空けたまま、町の方を塞ぐ。
「――えぇ、あなた達が行くべきはそちらですよ」
〈ギャウ……ギャウッ!〉
転んだ一頭が跳ね起き、林の方へ駆け出した。正面の一頭も、引きずった片脚でその後を追う。二つの青い影が、畑を踏み越え、畑の端の石垣を飛び越え、雑木林の下草の中へ消えていく。
――尾に傷のある一頭だけが、林の縁で一度だけ振り返った。
町の方を見たのではない。その向こうの、更にずっと東の空を見ていた。
やがて、下草の揺れも止んだ。
エリーは刃を下ろし、留め金を元に戻した。伸びていた刃が節ごとに畳まれ、大鎌の形へ戻る。大きな帽子のつばを片手で直し、ふうと一つだけ息を吐いた。
「……館の外でこの子を振るうのは、少々久しぶりでした。いつもはくるみが、全部済ませてしまうので」
「一頭も斬らなかったな」
「狩る必要は、ありませんでしたでしょう?」
エリーは、慧音の顔を見て小さく微笑んだ。
「観察。誘導。撃退。狩るのはその後。……うちのくるみに、毎晩のように言って聞かせている順番です。元は、
慧音は、何も言い返せなかった。
エリーは大鎌を背に戻すと、畑の北の端まで歩いていった。そして、畑と雑木林を分ける石垣の前でしゃがみ込んだ。
「慧音さん。こちらを」
石垣の足元の柔らかい土に、三本指の足跡が並んでいた。前に向いた細い指と、その先に刺さった鉤爪の跡。一つの列は歩幅が揃っている。もう一つの列は、片方の足跡だけが浅く、引きずったように縁が崩れている。
「さっきの二頭です。林の方から来て、ここで石垣を越えています。……それと、これ」
エリーは、石垣の隙間に挟まっていたものを指先でつまみ出した。細かな青い鱗が数枚。その中に一枚だけ、縁が黒く縮れた鱗が混じっている。
焼け焦げた鱗だった。
「……霊夢の帳面にあった。群れの長の脇腹に、焼け跡があったと」
「この子達も、何かに焼かれたんですね。長と一緒に……いえ、長を庇って、かしら」
エリーは鱗を掌に載せたまま、しばらく黙ってそれを見ていた。それから、帽子の内側から小さな紙包みを取り出し、鱗をそっと包んだ。
「これも、理香子さんにどうぞ。館の素材庫にしまうより、その方が役に立つでしょう」
「……帽子の中に、紙包みを入れているのか?」
「留守居の心得です。いつ、何を拾って帰らなければならないか、分かりませんから」
――雨戸が一枚、そろそろと開いた。
さっきの老人が、息子に支えられて顔を出す。腕に、細い引っ掻き傷が三本走っている。鶏小屋を守ろうとして、竜の爪に掛けられたのだという。
エリーは腰の小袋から、掌に収まるほどの小さな壺を取り出した。蓋を取り、中の乾いた草の粉に、水筒の水を少しだけ注ぐ。蓋を戻して壺を軽く振ると、粉が緑の粘りのある膏に変わった。それを指で掬い、老人の腕の傷に薄く塗る。
「ちょっとだけ沁みますよ。……はい、おしまい。竜の爪は汚れています。今夜は必ず包帯を替えてくださいね」
「へぇ……あぁ、すまんねぇ、お嬢さん」
老人が何度も頭を下げる。その後ろで、雨戸の隙間から子供が二人、顔を重ねてエリーの大鎌を見ている。慧音と目が合うと、慰てて引っ込んだ。寺子屋の子だ。
それから半刻、二人はそのまま鶏小屋の前に留まった。
倒れた竹の小屋を起こし、編み目の解けた所を縄で縛り直す。慧音が柱を押さえ、エリーが縄を回す。畑に散った鶏を、息子と近所の女達が一羽ずつ抱えて戻してくる。割れた卵は七つ。鶏は十二羽のうち、十一羽が戻った。
「……一羽、足りないね」
近所の女が、指折り数えて肩を落とした。
エリーは、畑の端の石垣の影を、黙って指差した。そこに、羽を膨らませた雌鶏が一羽、石と石の隙間に首を突っ込んで身を縮めていた。
「……隠れるのが上手な子も、居るものです」
女が、声を上げて笑った。
慧音は縄の結び目を確かめながら、雑木林の方を見た。下草はもう動かない。その上の春の空を、鳥が一羽、西へ渡っていく。
霊夢は、群れを北へ追い払った。茶屋も、街道の人達も、それで守られた。その群れからはぐれた二頭が、二日かけてここまで来た。誰が悪いわけでもない。
――ただ、誰かがその先を見ていなければならない。
「……以前なら、私は霊夢を責めていただろうな」
慧音は、独り言のように言ちる。
「追い払ったなら、その先まで見届けろ、と。……だが、あの子はちゃんと帳面に書いていた。北の林へ追い払う、と。書いてあったから、私はあの尾の傷の意味が分かった」
「留守の間のことは、留守を預かる者が見ておく。――そういうことです。あの巫女も、ものぐさに見えて理解しているのでしょう」
エリーが、縄の端を慧音に差し出した。慧音はそれを受け取り、固く結んだ。
~中央会館 ギルドマスター室~
――夕刻。西の窓から差し込む陽が、机の上の地図を橙色に染めている。
地図には、印が三つに増えていた。東の尾根の脇に『博麗 観測』と『風見 手紙』。そして人里の北の雑木林に、『はぐれ 二頭』と書き加える。
阿求が作った霊夢の帳面の写しは、一刻前に記録室から届いている。端正な字で書き直された観測の最後に、阿求は一行だけ、小さな字で書き添えていた。――最後の一行は、原本のまま写す。
慧音は、預かっていた依頼票の用紙を引き寄せた。朝に落とした墨の染みが、左上の隅に小さく残っている。書き直そうかと一瞬迷い、そのまま筆を入れた。
受注の欄にその名を書き入れてから、慧音はしばらく筆先を浮かせていた。
期日の欄は、空けておく。特任のことは、何も書かない。帰ってきた巫女がこの紙を見て、面倒そうに頭を掻いて、それでも受ける。それで十分だと、今は思えた。
――階段を上る静かな足音がした。
『慧音さん。原本をお返しに上がりました』
戸口に立っていたのは、記録室の阿求だった。胸に霊夢の帳面を抱え、もう片方の手に小さな鱗の紙包みを持っている。エリーが北の畑で拾った、焦げた鱗だ。
「理香子さんから、伝言が一つ。『焦げ方が、境の外の草地のランポスと同じ』だそうです。明日、自分で草地を見に行きたい、とも」
「……一人では行かせるなと伝えてくれ。境の外だぞ」
「そう申し上げたら、『じゃあ明羅さん辺りを借りるわ』と。もう受付で護衛の依頼を書いていましたよ」
慧音は、思わず額に手を当てた。だが、その口元は少しだけ緩んでいた。
阿求は帳面を机の端に置き、最後の頁を開いてみせた。傾いた字の一行。
――『勘:何かに追われてる』
「この一行。写しでは、書き直さずにそのまま写しました。記録の体裁としては、本当は残すべきではないのですが」
「なぜ残した?」
「私の帳面の中に、あの人の勘が外れた記録が一つもないからです」
阿求は、何でもないことのように言った。慧音が朝、この帳面を開いた時に思ったことと、一字一句同じだった。
「……それでいい。原本は玄爺殿に返してくれ」
「承知しました。……それと、慧音さん」
阿求は、机の上の依頼票の受注の欄に、ちらりと目を落とした。
「その指名。記録室としても、異存はありませんので」
それだけ言うと、阿求は会釈して階段を下りていった。
――戸口で、軽く叩く音がした。
『慧音さん。そろそろお暇を』
エリーが、帽子を被り直して立っていた。背には、畳んだ大鎌。午後は小兔姫の監察室で危険素材台帳の照らし合わせに付き合わされていたはずだが、疲れた様子は少しもない。
「小兔姫には、素直に帰してもらえたか?」
「一件だけ、札の日付が逆になっていると言われました。……鈴仙さんには、また書き直してもらいます」
「そうか。引き止めて悪かった。館は遠いだろう」
「遠いのは構いません。ただ、夢月さんと幻月さんには、門限を破ったら晩ご飯は抜きだと言ってあるので。その晩ご飯を作る私が遅れる訳にはいきません」
慧音は、思わず小さく笑った。それから、引き出しから小さな紙を一枚取り出した。
「エリー。これを、館の花壇に挿しておいてくれないか?」
「花壇に、ですか?」
「宛て先がないなら、手紙をもらった所へ返すしかないだろう。……読んでくれるかは、分からんがな」
慧音は、紙に三行だけ書いた。
大きな足跡をまた見たら、花壇へ知らせてほしい。
花は、こちらでも可哀想だと思う。 ――慧音
エリーはその紙を受け取ると、丁寧に二つに折って、帽子のリボンの内側にそっと挟んだ。
「確かに、お預かりしました。……花壇には、今の季節に咲いていない花の茎を立てておきますわ。その方が、幽香様の目に留まりますから」
「花のことは、お前に任せる」
「留守を預かるのが、私の仕事ですから」
エリーは会釈し、戸口の外へ一歩出た。それから、ふと思い出したように振り返る。
「――そういえば、慧音さん。博麗の巫女が帰ってきたら、何と尋ねるおつもりで?」
「……何と、とは?」
「受付では、いつも私に『団長はどこ?』と尋ねるでしょう。ですから、あちらには何と言うのかしら、と」
慧音は、すぐには答えなかった。机の上の依頼票を見下ろし、墨の染みを指先で一度だけ撫でる。
「……どこへ行っていた、とは聞かないだろうな。『帳面は受け取った。続きを頼む』――そう言うだけだ」
「ふふ、それでよろしいかと」
エリーは、今度こそ本当に笑った。金の巻き髪が扇のように揺れ、深紅の裾が廊下の角を曲がって消えていく。階段を降りる足音が、ゆっくりと遠ざかった。
入れ替わりに、小鈴が戸口から顔だけを覗かせた。
「慧音先生。玄爺さんが記録室の縁側で、甲羅に首を引っ込めてお昼寝しちゃってますけど……起こしますか?」
「寝かせておけ。霊夢が戻るまで、あの庭に居てもらう。……それと小鈴。この依頼票は掲示板に貼らなくていい。受付台の引き出しに、一番上にしまっておいてくれ」
「指名ですね。承ります」
小鈴が依頼票を受け取り、受注の欄を見て、少しだけ眉を上げた。それから何も言わずに、階段を下りていった。
――部屋が、静かになった。
慧音は立ち上がり、西の窓を閉めに行った。そのついでに、反対側の東の窓を開ける。
人里の屋根の向こうに、東の空が広がっている。日が落ちかけた空は、西から東へ、橙から藍へゆっくりと色を変えていく。その一番奥に、東の山の稜線が、墨で引いたように細く横たわっていた。
あの尾根のどこかに、
そして――その竜を追ったものが、もしも居るのなら。
慧音は、窓枠に手を置いたまま、しばらくその稜線を見ていた。
空の一番高い所に、一番星が一つ、灯る。尾根はもう、闇に溶けかけていた。
あの巫女は今夜、どの空の下に居るのだろう――
東方幻想郷よりエリーの登場です。
『エリー』
所属:人里ギルド、および猟団“夢幻館”
役職:猟団“夢幻館”副団長。不在がちな団長に代わり、館と太陽の畑の留守を預かる
武器:鎌蟹剣斧『留守居ノ大鎌』(スラッシュアックス)
防具:鎌蟹装【館守】