東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
第一話:中央会館の朝
~中央会館 受付広間~
人間の里でいちばん早く灯りが点くのは、豆腐屋でも寺子屋でもない。
東の空にまだ藍色が残るうちに、『本居小鈴』は鍵束を鳴らして中央会館の戸を開けた。蝶番がきいと鳴る。夜の冷えを溜めこんだ広間から、墨と油と乾いた革の匂いが流れ出してきた。かすかに混じるのは、獣の匂いだ。
小鈴は、この匂いが嫌いではない。
「よし、と」
前掛けの紐を締め直すと、髪飾りの鈴がチリンと鳴った。市松模様の着物の袖には、受付係の腕章。本業は貸本屋の看板娘でも、この広間に居る間は人里ギルドの受付嬢である。
――『幻想郷中央狩猟会館』。里の者は、ただ『中央会館』と呼ぶ。依頼の受付から素材の鑑定、密猟の取り締まりまで、狩りにまつわることなら大抵ここで片が付く。
行燈を一つずつ灯して回り、掲示板の前で足を止めた。昨日貼った依頼票が、隙間なく並んでいる。
竹林の縁での筍の採取。
通りに出た[ブナハブラ*1]の駆除。
『香霖堂』までの荷車の護衛。
『霧の湖』の北岸に残った、正体不明の足跡の調査。
――その下に、朱で『腕前の確認あり』と書き入れた札が何枚か混じっていた。昨日、氷の妖精『チルノ』が『竜をやっつける依頼をよこせ』と胸を張りにきた名残だ。先日の雷狼竜の一件以来、チルノは三日に一度はこうして掲示板の前に陣取っていると上司から聞いている。
「今週も、ちゃんと止められたし」
小鈴は満足げにうなずき、受付台の端の小箱を覗いた。依頼料をほとんど払えない人のために、自分で作った箱だ。入れておいた三枚の紙のうち、一枚の角が小さく折られている。誰かが受けた印だった。
「……また、夜のうちに持っていったんだ」
小さく笑って、蓋を閉める。
表の通りを、ゴトン、ゴトンと重い音が過ぎていった。戸口から覗くと、朝靄の中を『アプトノス』が荷車を引いていく。板を並べたような背の甲殻に、のんびりと揺れる太い尾。荷台には朝市へ運ぶ大根と葱が山と積まれ、御者台の男があくびを噛み殺していた。竜の方も、どこか眠たげな目をしている。
――見慣れた朝の景色だった。草を食む竜に荷を引かせ、空を渡る竜の影で天気を占う。山に大物が出たと聞けば、戸締まりを確かめる。この郷の人々は、ずっと昔から竜と暮らしてきたのだ。
奥の階段から、コツコツと足音が降りてきた。
「――おはよう、小鈴。今日も早いな」
「――おはようございます、慧音先生」
『上白沢慧音』は、青みがかった銀髪の上に、屋根のような形の帽子を載せていた。そして――胸元には"ギルドマスター"の記章。脇に抱えた書類入れは、朝からもう膨らんでいる。寺子屋の先生で、里の守り手で、この会館の長。三つの肩書きを持つこの人は、誰よりも朝が早い。
「昨日の報告書は、机に積んでおきました」
「あぁ、見たよ。妹紅の分が、また一行だったな」
「『竹林、異常なし。猪を一頭追い返した』。あれで全部だそうです」
慧音は額に手を当て、長い溜め息をついた。小鈴は笑いを噛み殺す。
――その時、通りの方から草鞋の足音が駆けてきた。
戸口に飛びこんできたのは、野良着姿の年配の男だった。肩で息をして、顔は真っ赤に上気している。
「た、頼む!出た、出たんだよ、うちの畑に!」
小鈴はすぐに小走りで受付台の向こうへ回り、帳面と筆を取った。――慌てている人の前でこそ、こちらは落ち着いて応対する。受付に立った日に、慧音から最初に教わったことだ。
「承ります。まずは息を整えてくださいね。お名前と、畑の場所を」
「東の外れの
「[ジャギィ*2]ですね。大きい個体は混じっていましたか?」
「あぁ、居た!首にでっかい襟巻きのある親玉が、畑のど真ん中で『オッオッオッ……!』って鳴いてやがった。婆さんが腰を抜かしちまって……いや、怪我はねえんだが」
筆が帳面の上を走る。場所、時刻、頭数、大型の有無、怪我人の有無。茂吉の言葉を書き写しながら、要所に丸を付けていく。
「群れが来たのは、いつ頃からですか?」
「三日前だ。最初は二、三匹がうろつくだけで、夜には帰っていった。それが今朝見に行ったら、ごっそり居着いてやがった」
「作物は、食べられていましたか?」
茂吉は、そこで初めて言葉に詰まった。
「……いや。言われてみりゃ、芋も大根もあんまり齧られちゃいねえな。踏み荒らされちゃいたが」
小鈴は『食害、少』と書いて、二重丸で囲んだ。顔を上げると、慧音が腕を組んでこちらを見守っていた。口は挟まない。聞き取りは、受付の仕事だからだ。
「茂吉さん。この依頼はすぐに会館で検めます。半刻だけ待っていただけますか。お茶を淹れますから」
「半刻?そんな悠長な――」
「大丈夫です」
慧音が静かに言った。
「夜明けに入りこんだ群れは、日が高くなるまで動きません。長が様子を見ますから。その間に、こちらは間違いのない手を打ちます」
里の守り手の言葉に、茂吉の肩からフッと力が抜けた。
~中央会館 記録室~
―――受けた依頼は、すぐには掲示板に貼られない。最初にするのは、過去の記録との照らし合わせだ。
小鈴は帳面を抱えて廊下を小走りに抜け、突き当たりの重い引き戸を開けた。天井まで届く棚に、巻物と綴じ本がぎっしりと詰まっている。紙の匂いは、広間よりずっと濃い。
「阿求、居る?」
「居ますよ。小鈴の足音は、廊下の手前から聞こえますから」
文机の向こうで、『稗田阿求』が顔を上げた。花の髪飾りに、緑の着物と赤い袴。手元には朱の印と、書きかけの巻物がある。
「東の外れの溜め池の畑に、狗竜の群れ。二十匹以上で、親玉つき。三日前から出入りしてて、今朝居着いたの。作物はほとんど齧られてない」
帳面を受け取った阿求は、目を細めて読み終えると、すぐに立ち上がった。迷いのない足取りで棚の一角へ向かい、背伸びをして一冊を抜き取る。表紙には『人里南東部 小型鳥竜種記録』とあった。
「狗竜なら、これが最新の記録です」
細い指が頁をめくり、ある記述の上で止まる。
「三年前の秋、人里南東の野と竹林の縁に、狗竜の群れが住みつきました。筍掘りの人や竹林の兎が、何度も囲まれたそうです。駆除を受けたのは草の根妖怪ネットワーク。群れの長は、『今泉影狼』さんが一対一で討っています」
「影狼さんの双剣になった、あの狗竜だね」
「ええ。残った雌と若い雄は、竹林の奥へ散った。それから――」
阿求は、もう一枚めくった。
「――去年の冬に、竹林の兎達からの聞き取りがあります。大きな雄が、散った雌たちを呼び集める声を聞いた、と」
「……呼び集める?」
「狗竜の雄は、若いうちに一度群れを離れて、一匹で暮らす生態です。そして力をつけたら戻ってきて、長の座を争う。――散った群れの跡に、新しい長が立ったのでしょう」
「じゃあ、茂吉さんの畑に居るのは――」
「新しい長の、新しい群れ。それも、まだ若い長だと思います」
阿求は綴じ本を帳面の上に重ね、朱の付箋を挟んだ。
「理香子さんの所へどうぞ。今の生き物の様子を確かめるのは、私ではなくあの人の仕事ですから」
~中央会館 生態研究室~
『生態研究室』は記録室の隣にある。小鈴は戸を叩いて中に入った。
――隣とはいえ、中の様子はまるで違う。
棚に並ぶのは硝子の瓶と標本箱、それに用途の分からない測定道具ばかりだ。机の上には、足跡を写した石膏の型と乾いた糞の欠片が、番号札をつけて行儀よく並んでいる。
「――作物を食べていない。茂吉さんは、確かにそう言ったのね?」
「うん」
『朝倉理香子』が、丸眼鏡の奥で目を光らせた。白衣の袖をまくり、首元には黄色いリボン。帳面と綴じ本を見比べる手つきは、ほとんど検分だ。
「当然よ。狗竜は肉食。芋や大根には見向きもしないでしょう」
「じゃあ、どうして畑に?」
理香子は答えずに、壁の大きな地図の前へ立った。里の周りの地形が細かく描きこまれ、色付きの針があちこちに刺さっている。その指が、東の外れの溜め池をトンと叩いた。
「――この溜め池にはね、今の季節の夜明け前、『ケルビ』が水を飲みに来るの。小さな鹿みたいな草食獣よ。今は豊穣期の入り口。竹林の縁の下草がよく伸びてる。ケルビの数は、私の観測票だと先月より三割増し」
「ケルビを追って、狗竜が畑まで……?」
「そう考えるのが一番自然かしらね。畑を踏み荒らしたのも、追われて逃げ回ったケルビの方かもしれない。新しい長は群れを食べさせなきゃいけないから、獲物の多い場所へ縄張りを広げたがるのよ。でも」
理香子は眼鏡を押し上げた。
「"一番自然"というのは、そうだった、という意味じゃないわ。現場の足跡と糞と食べ残しを見るまで、私は何も言い切らない。……誰か、ついでに持って帰ってきてくれないかしら」
小鈴は苦笑して、帳面の端に書き足した。
――『理香子さん、足跡と糞と食べ残し希望』。
~中央会館 ギルドマスター室~
―――書類がひと束になったところで、ようやくギルドマスター室の扉を叩く。
慧音は窓際の机で、帳面と付箋と走り書きを順に読んでいった。紙をめくる音だけが部屋に響く。いつの間にか、阿求と理香子も小鈴の後ろについてきていた。
最後の一枚を伏せると、慧音は三人を見回した。
「――本当に、狩る必要があると思うか?」
この会館で、何度となく繰り返されてきた問いだ。倒せるかどうかより先に、まずそれを考える。
「群れは作物を荒らしに来たわけじゃない。人も襲っていない。若い長が、獲物を追って縄張りの外へはみ出しただけだ。ここで長を討てば、どうなる?」
「群れが散るわ」
理香子が即答した。
「長を失った狗竜は小さな群れに割れて、あちこちの畑や街道に出る。三年前の駆除の後、竹林の縁で小さな被害が続いたのも、たぶんそのせいよ」
「あぁ、そうだな。長が子分を束ねている限り、群れは決まった縄張りの中で暮らす」
慧音は筆を取り、依頼の書式に一行ずつ書きこんでいった。
「区分は、誘導とする。群れを溜め池の畑から、南東の竹林の縁へ帰す。もとの縄張りだ。長は討たない。それから、長の襟巻きにはなるべく傷を付けないこと」
「襟巻き……ですか?」
首を傾げた小鈴を、理香子が見る。
「襟巻きは長の印なの。壊されたら長は威厳をなくす。そして子分が言うことを聞かなくなって、結局は群れが割れる。討ったのと同じことよ」
慧音は小さくうなずき、承認の印を押した。朱の色が、紙の上でくっきりと映える。
「人の前に立つのが得手の者と、竹林の縁に詳しい者がいい。――小鈴。明羅と妹紅に声をかけてくれ」
「はい!」
「それから」
慧音は少しだけ声を落とした。
「妹紅には、今日の報告書は三行以上書くように、と。報告の体を成していない癖は改めさせねばな」
~中央会館 工房~
―――工房の炉には、朝から火が入っていた。
ふいごの息と金槌の音が、規則正しく重なる。壁際には修理待ちの武具が並び、天井からは乾かし中の竜の皮が吊るされていた。
『明羅』は研ぎ台の脇に立ち、刃の仕上がりを待っていた。
研いでいるのは、水色の髪の娘。傍らには茄子色の唐傘が立てかけてある。大きな一つ目と、だらりと垂れた赤い舌。
「うらめしや~……って言いたいところだけど、今は手が離せないの。ごめんね」
工房の主である鍛冶職人『多々良小傘』は顔も上げずに言った。赤と青、左右で色の違う瞳が、砥石の動きだけを追っている。人を驚かせる事が生きがいの、だがその手段や容姿で碌に成功した試しがない付喪神も、刃を前にしたときだけは悪戯の気配が消える。明羅は、この職人のそういうところを信用していた。
「刃こぼれはどうだ」
「平気だね。根元に一か所だけだけど、電竜の翼爪は硬いぶん、欠けるときは小さく欠けるから」
小傘が刀身を炉の明かりにかざす。翼爪を研ぎ上げた刃に、細い翠色の筋が一本走っていた。斬るたびに雷を溜めこみ、緑に光る刃――電竜刀『守刀』。先日の雷狼竜との一戦で、同じ雷の竜の前脚を叩いた刃だ。根元には、小傘が刻んだ銘が細く彫られている。
「はい、お待たせ。――今日はどこまで?」
「東の外れの畑だ。狗竜の群れを、竹林まで送り届けると」
受け取った太刀を鞘に収めると、カチリと鍔が鳴った。
「送り届ける、か。明羅さんらしい言い方だね」
「誰も斬らずに済むなら、それがいい」
身じろぎすると、肩と籠手と脛の甲殻がわずかに軋んだ。黒と金の電竜の殻を、緋色の紐で綴じた防具だ。羽織の裏には、光にかざすと色硝子のように透ける翼膜を張ってある。
工房の戸がガラリと開いたのは、その時だった。
「おーい。小鈴に叩き起こされたんだけど、今日は何だって?」
明羅と同様人里のハンターである『藤原妹紅』が、呑気に大あくびをしながら入ってきた。背中まで届く白髪に、大きな赤白のリボン。白いシャツと赤いサスペンダーのズボンの上から、肩と前腕と腰に赤黒い鱗を着けている。[火竜*3]の素材で仕立てた防具だ。
その足元を、大きな灰白の影がすり抜けた。
犬と呼ぶには大きすぎる。人ひとりなら背に乗せて走れそうな、狼に近い牙獣――『マヨヒガ』育ちのガルク、『オキ』だ。耳の先と尾の先だけが炭のように黒く、目は赤茶色。体には、妹紅と揃いの火竜の余り鱗で仕立てた軽い防具を着けている。オキは工房をぐるりと見回してから、小傘の唐傘の一つ目とじっと見つめ合った。
「わ、わわ。この子、また私の傘とにらめっこしてる……」
「気に入られてるんだよ」
妹紅が笑う。
「で、狗竜だっけ。慧音曰く、長は斬るなって話だが」
「襟巻きにも傷を付けるな、とのことだ」
「注文が多いなあ」
明羅が答えると、妹紅は肩をすくめた。
妹紅が研ぎ台に置いた双剣は、火竜の翼の先の爪を研ぎ上げた二振りだった。――火竜双刃『鳳翼天翔』。対の翼のように反った刃を小傘が軽く打ち合わせると、根元からパチリと赤い火の粉が散る。
「炎の通りは良好。……でも妹紅さん、火炎袋の継ぎ目がちょっと焦げてるね。また自分の火で煽ったでしょ」
「煽ってない。勝手に出たんだ」
「勝手に出たら、それはそれで製作者としては困るんだけどなぁ」
小傘は唇を尖らせ、継ぎ目に竜の脂を塗り直した。
刃に炎を宿すのは、あくまで火竜の素材の方だ。妹紅の炎は、その勢いを整える手助けに過ぎない。大元を焦がしては元も子もない――小傘がそう言い聞かせる声を、明羅はもう何度も聞いている。
「はい、お手入れはおしまい。それと、これ」
放られた布袋を、明羅は片手で受け止めた。中で何かがカチャリと鳴る。
「工房謹製の砥石と、松明の芯。狗竜の子分は火を嫌うからね」
「親玉は嫌わないけどな」
妹紅はボソリと補足する。
「親玉は、私が引き受けよう」
明羅が言うと、妹紅はチラリと明羅を見て口の端を上げた。
電竜と火竜。手合わせをすれば、互いに一歩も引かない間柄だ。だが人を守る仕事で組むなら、これほど背中を預けやすい相手もいない。
「じゃ、行くか。オキ、仕事だ」
〈ワウッ!〉
オキがひと声高く吠えた。梁から吊るされた皮が、ぱらりと揺れる。
戸口をくぐる背中に、小傘の声が追いかけてきた。
「いってらっしゃーい!ちゃんと、得物と一緒に帰ってきてねー!」
~人里東の外れ 溜め池の畑~
―――溜め池の水面が、朝日を受けて鈍く光っていた。
里の東の木戸を出て、田の畦を半里ほど歩くと、溜め池の土手が見えてくる。茂吉の畑は、その土手と竹林の縁に挟まれた、細長い斜面にあった。
明羅は、畑へ降りる手前で足を止めた。
「先に、足元を見ていこう」
「ああ。慧音にも理香子にも、うるさく言われるからな」
妹紅が笑って、街道から畑へ降りる細い道にしゃがみこんだ。オキは主の隣で鼻を地面すれすれに下げ、行ったり来たりしている。
道の土には、三本指の足跡がびっしりと重なっていた。
明羅も膝をつき、一つを指でなぞった。指の先は鋭く尖り、踵の跡はほとんど残っていない。爪先で土を蹴って走る、鳥竜の足だ。縁はまだ崩れておらず、窪みの底がしっとりと湿っている。
――新しい。夜明けの露が降りた後に付いた跡だ。
「大きさが、三つあるな」
妹紅が、並んだ足跡を指で順に示した。
「この小さいのが子分のジャギィ。一回り大きいのが雌。で――」
指が止まったのは、道の真ん中に一つだけ深く沈んだ跡だった。明羅が掌を広げても、まだ余る。
「これが長のものだ」
明羅は足跡の列を目で追った。小さな跡は道の両脇の草むらに散り、ばらばらに畑へ降りている。大きな跡だけが、道の真ん中を真っ直ぐに進んでいた。長が先に立ち、子分が左右に広がる。狗竜の群れが狩りに出る時の並びだ。
「数は」
「足跡だけじゃ分からんな。重なりすぎてる」
妹紅は立ち上がり、畑の手前の休耕地に目をやった。枯れ草が、ところどころ丸く押し倒されている。犬が寝床を作る時のような、浅い窪みだ。明羅は窪みを数えた。十、十五……土手の陰まで続いて、二十を少し越えた。
「昨夜は、ここで寝たのか」
「寝床を作ったってことは、居着く気になってるってことだ。
窪みの一つに手を当てると、枯れ草の下に、まだかすかに温もりが残っていた。
――その時、オキが短く鼻を鳴らした。
灰白の体が、休耕地の向こう、竹林の方へ数歩進んで振り返る。巻いた尾が、ゆっくりと一度揺れた。こっちだ、という合図だ。
ついていくと、竹林の縁から畑へ向かって、草が一筋だけ踏み分けられていた。人の通る道ではない。草の倒れた向きは、どれも畑の方を向いている。途中の竹の根元には、橙色の皮の切れ端が引っかかっていた。
「群れが来た道だな。竹林の縁から、真っ直ぐ畑に降りてる」
「帰る道も、ここだ」
明羅が言うと、妹紅は踏み分け道の先――竹林の縁の、薄暗い入口を見やって頷いた。
追い払うのではない。来た道を、そのまま帰ってもらう。慧音が依頼票に書いた『竹林の縁へ帰す』の一行が、ようやく地面の上の形になった。
明羅は指を舐めて、風にかざした。風は竹林の方から畑へ、ゆるく吹き下ろしている。
「溜め池の土手を、東から回ろう。この風なら匂いは届かない」
「了解。オキ、静かにな」
オキは返事の代わりに、耳を伏せて身を低くした。二人と一匹は、溜め池の土手を大きく回りこんでいった。
明羅は妹紅と並んで、畑の端の土手に伏せた。畝の間に、橙色の背中がいくつも見え隠れしている。人の膝ほどの丈で、扇のような耳をした小さな肉食竜――『ジャギィ』だ。その間を、ひと回り大きな雌の『ジャギィノス』がノシノシ歩いている。耳のように垂れた襟巻きが、歩くたびに揺れる。数えてみれば、確かに群れの総数は二十は下らない。
そして――畑の真ん中に、ジャギィノスより大きなそれが居た。
掘り返された土の上で、一頭の竜が首をもたげている。子分たちよりはるかに大きく、がっしりとした体つき。橙色の皮には濃い紫の縞が走り、尾の両脇に棘が並んでいる。何より目を引くのは、頭の大きな襟巻きだった。扇を開いたように張った、群れの長の印。
狗竜の長である。
「若いな」
妹紅が呟き、明羅が彼女を見る。
「分かるのか」
「襟巻きがきれい過ぎる。年季が入った長なら、あちこち欠けてるもんだよ。それに、落ち着きがない」
言われてみれば、長はしきりに首を振り、鼻を鳴らしていた。溜め池の方を、何度も気にしている。
明羅は土手の下の柔らかい土に目を落とした。三本指の足跡に混じって、小さな蹄の跡がばらばらの向きに散っている。慌てて逃げ惑った跡だ。
「ケルビの足跡だ。理香子殿の見立ては当たりかもしれん」
「じゃ、それも持って帰ってやらないとな」
オキが低く鼻を鳴らし、風上を嗅いだ。立った耳がピクリと動き、巻いた尾がゆっくりと一度だけ揺れる。
――その時、溜め池の向こう岸の葦が揺れた。
細い脚の獣が一頭、恐る恐る水際へ降りてくる。小さな角に、白い尻。ケルビだ。首を伸ばして水を飲みかけ――ぴたりと顔を上げた。
畑の真ん中で、長の首も止まっていた。
子分達が、一斉に動きを止める。雌が二頭、音もなく畝を離れ、溜め池の両脇へ広がっていく。長は動かない。喉の奥で、ごく短い声を一つ鳴らしただけだ。
〈クルッ〉
雌の一頭が、葦の陰から跳び出した。ケルビが甲高く鳴いて身を翻す。
〈ピィッ!〉
逃げた先には、もう一頭の雌が待っていた。ケルビは直角に跳ねて、畑へ飛びこむ。畝を蹴散らし、大根の葉を撒き散らしながら、土手の下を跳ねるように抜けて――竹林の方へ消えた。
雌達は、畑の端で足を止めた。追わない。長がもう一声鳴くと、二頭は大人しく群れへ戻っていった。
――畑を荒らしていたのは、あれか。
明羅は、蹴散らされたばかりの畝を見た。齧られた跡ではない。踏まれ、蹴られ、ひっくり返された跡だ。茂吉の畑の荒れ方と、そっくり同じだった。
「狩りの稽古だな」
妹紅が、声を落として言った。
「若い長が、雌に追い込みをやらせてる。本気で仕留めるなら、長が自分で出る。今のは、獲物がどっちへ逃げるかを確かめただけだ」
「逃げた先は、竹林だったな」
「ケルビの寝床は竹林の縁にある。……群れが本当に欲しい物は、向こうにあるのさ」
だから、長は溜め池ばかりを気にしているのだ。水を飲みに来る獲物を待ち、追い込み、逃げる先を覚える。畑は、その通り道にたまたま広がっていたに過ぎない。
明羅は、理香子の地図に刺さっていた色付きの針を思い出していた。あの人は、ここへ来ずにここまで見通していたのか。
畑の向こうの農家では、柱の陰から茂吉と彼の老いた妻がこちらを覗いていた。明羅は二人を一瞥してから、畑と農家を結ぶ畦道を確かめた。
あそこが、自分の立つ場所だ。
「――手筈を確かめよう」
明羅は、土手の草に指で線を引いた。溜め池、畑、茂吉の家、そして竹林の縁へ続く踏み分け道。
「群れは北から追う。火を見せて、踏み分け道の方へ流す。逃げ道は一つだけ開けておけば、狗竜は自分からそこを選ぶ」
「子分は私とオキでやる。三日前から出入りしてた道だ。迷いはしないさ」
「長は、子分が追われれば、追う者の前に出てくる。私は家の前の畦に立つ。長の足を、ここで止める」
「止まらなかったら?」
「止める。必ず」
明羅が短く答えると、妹紅は呆れたように笑った。
「それが言えるのは、お前くらいだよ。……オキ、聞いたな。子分を一頭でも家の方へ行かせたら、お前の晩飯は抜きだ」
オキは耳をピンと立て、真面目くさった顔で妹紅を見上げた。
「では、手筈どおりに」
「ああ。子分は私とオキで竹林へ追う。親玉は任せた」
妹紅が松明の芯を指先で弾くと、ボウッと小さな火が灯った。焚き付けほどの、ささやかな火だ。
一人と一匹が、土手を北へ回りこんでいく。明羅は畦道へ下り、太刀の柄に手を添えて真っ直ぐに立った。
先に気付いたのは、長の方だった。
首がこちらを向き、黄色い目が明羅を捉える。長は胸を反らして、喉を震わせた。
仲間を呼び集める声だ。畑中の子分がいっせいに顔を上げ、甲高く鳴きながら明羅の方へ集まりかける。
その瞬間――北の土手で、赤い火が大きく弧を描いた。
「ほらほら、こっちだ!」
松明を振り回しながら、妹紅が畝の間へ飛びこんでいく。
火を嫌う子分たちが、悲鳴を上げて散った。散った先へ、灰白の影が回りこむ。オキが背の双刃鎖鎌*4の鎖を鳴らし、刃を地面すれすれに振り回して吠えたてた。斬りはしない。鎖の音と吠え声だけで、群れの逃げる向きを竹林の方へ揃えていく。
〈ギャアッ!〉
〈ガル……!〉
一頭のジャギィノスが、オキへ体当たりを仕掛ける。オキはひらりと跳んでかわし、妹紅がその鼻先へ松明を突き出す。ジャギィノスは首を振って、子分たちの後を追っていく。
――長が、大きく吼えた。
今度は腹の底から絞り出すような、長く尾を引く声。攻撃の合図だ。だが子分たちは、もう竹林の方へ流れ始めていて、合図に応える者はいない。
長の目が、ギロリと明羅に向いた。
――来る。
頭を低くした長が、二歩、三歩と踏み込んでくる。大きく開いた口が、目の前で閉じた。一度目の噛みつきを、半歩引いてかわす。すかさず二度目。さらに深い踏み込みで、牙が着物の袖をかすめた。
明羅は退かなかった。足の裏で畦の土を掴み、体を開いて、その脇をすり抜ける。
背中の向こうには、茂吉たちの家がある。ここから先へは、一歩も通さない。
長が体をひねった。尾が鞭のようにしなり、まず左を薙ぐ。体勢を戻して、返す動きで右。棘の並んだ尾が、風を裂いて唸った。一度目は身を沈めてくぐり、二度目は鞘で受け流す。腕の骨に、ずしりと重い衝撃が響いた。
苛立ったように地面を掻いて、長が間合いを取る。その体が、グッと真横を向いた。
体当たりだ。
狗竜の長が持つ、いちばん重い一撃。新米の付き添いをするたびに、明羅は口を酸っぱくして教えてきた。あれを正面から受けるな。防具の揃っていない体なら、たやすく吹き飛ばされる、と。
長が地を蹴った。
間の抜けた、それでいて腹に響く掛け声。橙と紫の巨体が、真横から迫ってくる。
明羅はまだ動かない。
動くのは、ぶつかるその一瞬だけだ。
かわした後に斬るのでは遅い。かわすその瞬間に、反撃はもう始まっていなければならない。体を半身に滑らせる。巨体が着物の裾をかすめて通り過ぎる。それと同時に、手の中で『守刀』が鞘走った。
刃ではない――峰だ。《
翠の筋を走らせた峰が、長の肩口をパシンと打った。刀身に溜まっていた雷が弾け、緑の火花が散る。
〈キャウンッ?!〉
犬のような声を上げて、長が飛びのいた。肩を打たれて怯んだのだ。襟巻きには、かすり傷一つない。
だが、長は退かなかった。
飛びのいた先で首を高く上げ、もう一度、喉を膨らませる。
呼び声に応えて、竹林へ流れかけていた群れの端から、三頭のジャギィが引き返してきた。若い個体なのだろう。妹紅の松明を大きく避け、畝の陰を這うようにして、明羅の左右へ回りこんでくる。
――囲む気だ。
長が獲物の足を止め、子分が横と後ろから噛みつく。土の道で見た足跡の並びと、同じやり方だった。
右の一頭が先に跳んだ。明羅は鞘ごと太刀を振り、その鼻面を打ち払う。
〈ギャンッ!〉
転がった子分の向こうから、左の一頭が来る。体を回して、肘で押し返した。三頭目は――
畦を蹴って、明羅の脇を走り抜けようとしていた。その先には、茂吉の家がある。
「オキ!」
北の土手から、妹紅の声が飛んだ。
灰白の影が、畝を三つまとめて跳び越えてくる。[猛速の巻物*5]の煙を尾に引いたオキが、家の手前で子分の前へ回りこみ、鎖を鳴らして吠え立てた。
〈ワウッ!ワウッ!〉
子分はたたらを踏み、くるりと向きを変えて竹林の方へ逃げていく。残る二頭も、慌ててその後を追った。
オキは追わなかった。家の前に四肢を突っ張ったまま、子分の背中が畝の向こうへ消えるまで、じっと見送っている。主の言いつけを、よく分かっている子だった。
長の喉が、低く鳴った。呼んでも、子分は戻らない。
睨みつけてくる長を、明羅は太刀を下げたまま見返す。畦道の真ん中から、一歩も動かずに。
竹林の方から子分たちの鳴き声が聞こえてきたのは、その時だった。群れが、竹林の縁へ着いたのだ。
長が首を巡らせる。
長に子分が居るのではない。子分が居るから、長は長でいられる。その子分たちが、向こうで長を待っていた。
長はもう一度だけ明羅を見ると、喉を短く鳴らした。
鼻で笑うような、妙に人間くさい声だった。長はくるりと背を向け、ドスドスと畑を横切っていく。朝日を受けた襟巻きが、誇らしげに揺れていた。
竹林の縁で、妹紅が手を振っている。その足元で、オキが尾を千切れんばかりに振っていた。
明羅はゆっくりと太刀を収めた。カチリと、短い音が鳴る。
「……行ったのか」
振り向くと、茂吉が柱の陰から出てきていた。彼の母親なのであろう媼もその後ろで目を丸くしている。
「群れは竹林の縁へ帰した。あそこがもとの縄張りだ。しばらくは、溜め池の方へは来ないだろう」
「狩らねぇのか?あの親玉、また来るかもしれねぇぞ」
明羅は少し考え、言葉を選んだ。
「親玉を斬れば、群れは小さく割れて、あちこちの畑に散る。あの長が生きている限り、群れは竹林の縁で暮らす。それに――あの長は、あなたの畑の芋には見向きもしなかった。追っていたのは、溜め池に水を飲みに来る鹿の方だ」
茂吉はしばらく黙りこみ、やがて長い息を吐いた。
「……そうかい。荒らされた畝は、耕し直しゃいいか」
戻ってきた妹紅が、ひょいと畝の間にしゃがみこんだ。
「よし。足跡と、糞と……お、これはケルビの骨か。食べ残しだな。全部持って帰るぞ。理香子がうるさいからな」
袋に糞を詰める妹紅を見て、茂吉の老妻が口元を押さえてクスクス笑った。
――帰り際、茂吉は二人に漬物の包みを押しつけた。
「ウチの婆さんが漬けたやつだ。ありがとよ、お侍さん。それと、白い髪のお嬢ちゃんも」
「お嬢ちゃん、ね」
包みを受け取った妹紅は、何とも言えない顔をしていた。千年を超えて生きてきた身に、その呼び名はくすぐったいのだろう。オキだけが、包みの匂いを熱心に嗅いでいた。
―――畑を出る前に、明羅はもう一度だけ、竹林の縁まで足を運んだ。
踏み分け道の入口には、新しい足跡が重なっていた。どれも竹林の奥を向いている。朝に畑へ降りてきた道を、群れはそっくり引き返していた。大きな足跡が一つ、最後に入口をくぐっている。長は、群れを全部先に行かせてから帰ったのだ。
入口の脇の、ひときわ太い竹の根元が、三筋えぐれていた。まだ土が乾いていない。
「縄張りの印だな」
妹紅が、えぐれた跡を覗きこんで言った。
「ここから先は自分の場所だ、ってな。……ちゃんと、帰るべき所に帰ったよ」
竹林の奥の暗がりで、〈オッ、オッ〉と短い声が一度だけ聞こえた。オキが耳を立て、それから興味をなくしたように大きな欠伸をした。
明羅は腰の矢立を取り出し、懐紙に書き付けた。足跡の向き、寝床の数、踏み分け道の場所、印の付いた竹。理香子が欲しがるのは、きっと糞だけではない。
「……私より報告書が長くなりそうだな」
「三行では、足りないと」
妹紅は鼻を鳴らしたが、懐紙を覗きこむ目は、まんざらでもなさそうだった。
~中央会館 受付広間~
――昼を回ると、広間はいちばん賑やかになる。
朝に依頼を受けて出立したハンター達が、ぽつぽつと帰ってくるからだ。採取の籠を背負った者。駆除の数を指折り数える者。護衛の礼金を懐に、ほくほく顔の者。小鈴は帳面をめくりながら報告を聞き取り、素材の受け取りに印を押していく。
妹紅が漬物の包みと重そうな布袋を台に置いたのは、ちょうどそんな頃だった。
「ただいま。狗竜は竹林の縁に帰した。長も襟巻きも無傷。こっちは理香子への土産」
「おかえりなさい!……あの、その袋の中身って」
「痕跡だ。足跡の型と、糞と、ケルビの食べ残し」
小鈴は、そっと一歩下がった。
「それと、報告書だ」
懐から出てきた紙には、こう書かれていた。
溜め池の脇にケルビの蹄の跡が多数、狗竜はケルビを追っていたと思われる。
茂吉さんの奥さんの漬物は美味
「……三行、ですね」
「三行以上って言われたからな」
胸を張る妹紅の後ろで、明羅がほんのわずかに口元を緩めた。
――入口の方が急に騒がしくなったのは、その時だ。
「どいたどいた!大荷物のお通りだぜ!」
人混みをかき分けて現れたのは、大きな黒い魔女帽子。黒白の魔女服の上に、革帯と弾薬帯をたすき掛けにしている魔理沙が屯するハンターや職員達を掻き分けていく。
足元には、黒い猫――オトモの『クスネ』がちょこちょことついてきている。
さらに、その後ろから――
「失礼致します。大荷物を通しますので退避願います」
薄緑色の髪に、赤いリボンと青白のメイド服。背負子のような運搬架に木箱を何段も積んだ娘が、丁寧に頭を下げながら入ってきた。どの箱にも、几帳面な字の番号札が貼ってある。猟団"魔狩の集い"の協力員、『る~こと』だ。狩りには加わらないが、記録と運搬と標本の管理を一手に引き受けている。
「――お、妹紅に明羅じゃないか。そっちも今帰りか?」
魔理沙はボウガンをドスンと床に下ろし、台に肘をついた。
「ほらよ小鈴、報告だ。森の小道に居着いてたババコンガ、追っ払ってきたぜ」
「おかえりなさい。……追い払い、ですか?討伐じゃなくて」
「討伐しようとしたら、アリスに止められた。夢美にもな。森の奥のキノコを食い尽くして、小道まで出てきただけなんだと。ちっとも悪くないってさ」
魔理沙は、台をバンと叩いた。
「――悪くないわけあるか!私のキノコ場を、ひとつ残らず食いやがったんだぞアイツ!」
『ババコンガ』は、桃色の長い毛をした森の『牙獣種*6』だ。キノコを好んで食べ、尻尾に一本握って持ち歩く。食べたキノコによって吐く息が変わるという、厄介な特性まである。
「あの野郎、毒キノコを食ったと思ったら、紫の息を吐きかけてきやがった。避けたら避けたで、今度は――」
「今度は、ご自身の糞を投げてまいりました」
る~ことが静かに言い添える。
「十四時十二分、北北西の倒木の陰からです。魔理沙さんの帽子の右上、三寸の所を通過しております」
「言わなくていい!」
広間のあちこちで、ハンター達が吹き出した。
る~ことは気にする様子もなく、運搬架から木箱を一つずつ下ろしていく。
「こちらがババコンガの体毛、こちらが唾液です。食べ残しのキノコは、種類ごとに分けてあります。こちらが通り道の土と水。それから、こちらが――」
「糞、ですね」
遠い目をする小鈴に、る~ことはにっこりと微笑んだ。
「はい。採取の時刻、位置、気温、湿度、すべて番号札に記録しております」
気付けば受付台の上には、妹紅の持ち帰った狗竜の糞と、る~ことのババコンガの糞が、仲良く並んでいた。
廊下の奥から、白衣の裾を翻して理香子が飛んでくる。その後ろを、筆を持ったままの阿求がうんざり顔でついて来ている。
「糞ね!それも二種類も!」
「理香子さん、受付台に糞を並べないでください。それから、喜ばないでください」
阿求がたしなめる。
「そりゃ喜ぶわよ。見なさい、この番号札。時刻も位置も全部揃ってる。妹紅、あなたも少しは見習って――」
「私は三行書いた」
「三行は記録じゃなくて感想よ」
理香子は番号札を一枚ずつ確かめ、満足げにうなずいた。
「『ちゆり』の観測とあなたの標本番号があれば、森のどこで何が起きたか、後でいくらでも突き合わせられる。ありがとう、る~こと。助かるわ」
「お役に立てて光栄です」
る~ことがペコリと頭を下げた。その背中へ、魔理沙がするりと回りこむ。手には、いつの間にか小さなねじ回しが握られていた。
る~ことは半歩だけ横へずれ、魔理沙に向き直った。
「恐れ入ります、魔理沙さん。教授より、工具を持った魔理沙さんに背中を向けてはならないと申しつかっておりますので」
「……ちぇっ。中の炉がどうなってるか、見たかっただけなんだぜ」
「それが一番いけないそうです」
口を尖らせる魔理沙の所へ、工房の方から小傘が顔を出した。
「魔理沙さーん、重弩の点検、今日やっちゃう?この前、照準器の継ぎ目が――あれ?」
小傘は前掛けのポケットを探り、それから足元をきょろきょろと見回した。
「私の砥石、どこに……?」
全員の目が、一匹の黒猫に集まった。クスネはネコピックを抱えたまま、すました顔で天井を見上げている。腹の毛のあたりが、四角く膨らんでいた。
「……借りてるだけニャ。返すのはいつか、ニャ」
「今返しなさーい!この泥棒猫ー!」
唐傘を振り上げた小傘が追いかけ、クスネが受付台の下をくぐって逃げる。
オキが面白がって吠え立てて煽る。ギルドマスター室の扉がわずかに開き、広間の騒ぎを見渡した慧音が、またそっと閉めるのが見えた。
~中央会館 記録室~
―――夕刻。広間がようやく静まった頃、阿求は記録室の文机に向かっていた。
今日の報告を一つずつ、正式な記録として書き写していく。東の畑の狗竜、竹林の縁へ誘導。長は無傷。溜め池にケルビの蹄跡、多数。魔法の森の小道のババコンガ、森の奥へ追い払い。標本は、る~ことの番号札のとおり。
漬物の一行は、さすがに省いた。
最後に、いつもの欄へ、いつもの言葉を書き入れる。
朱の印を押して筆を置いた。窓の外では、里の家々にひとつ、またひとつと灯りが点り始めている。
~居酒屋 鯢呑亭~
「いらっしゃいませー!狩りの帰りの皆さんですね。奥のお座敷、空いてますよ」
暖簾をくぐるなり、桃色の髪の娘がパッと顔を輝かせた。鯨を思わせる青い帽子に青い上着、白から青へ染め分けた前掛け。緑の瞳が、くるくるとよく動く。
――居酒屋『鯢呑亭』の看板娘、『奥野田美宵』。ギルドの施設ではないが、中央会館とは長い付き合いのお店である。狩りの前に腹を満たし、狩りの後に疲れを落とす。そんなハンター達で、今夜も店は賑わっていた。
店内の奥の座敷に、小鈴は明羅と妹紅と魔理沙と並んで腰を下ろした。オキとクスネは軒先で、美宵がこしらえた残り物の皿を前に、微妙な距離を取って座っている。
「今日のおすすめは、アプトノスのすね肉の煮込みと、『ガーグァ』の卵の厚焼きです。狩りの後には、精のつく根菜の汁物もどうぞ。熱々ですよ」
次々と並ぶ皿から、湯気が立ちのぼった。煮込みは箸で押すだけでほろりと崩れ、厚焼きからは出汁がじゅわりと滲む。妹紅が漬物の包みを開けると、美宵は「あら、いい漬かり具合」と目を細め、小皿に取り分けてくれた。
「いただきます!」
真っ先に煮込みへかぶりついた魔理沙が、熱さに目を白黒させた。
「あっつ!……でも美味いな!キノコ場の恨みが、ちょっと薄れたぜ」
「ちょっとだけなんですね」
小鈴が笑うと、魔理沙は「ちょっとだけだ」と真顔で返した。
「おっと、そうだ。――帰りに博麗神社の前を通ったんだけどさ。霊夢のやつ、留守だったんだよ」
汁をすすっていた明羅の手が、一瞬だけ止まった。小鈴はそれに気付いたが、何も言わない。
「紫さんのご用事ですか?」
「いや、あれは居留守だな。あの仙人に修行をつけられそうになって、逃げてるんだろうな。縁側に湯呑みが二つ出しっぱなしでさ。片方はまだ温かかったぜ」
「霊夢さんらしいですね……」
明羅は黙って椀を置き、漬物をひと切れつまんだ。その様子を横目で見た妹紅が、自分の煮込みの皿を、明羅の方へ少しだけ押しやる。明羅は小さく「かたじけない」と言い、それきりいつもの顔に戻った。
隣の座敷では、すっかりできあがった里の男衆が、大声で狩りの話をしていた。
「俺はなあ、見たんだよ!裏山の向こうで、首が三つある竜を――」
「三つもあるかよ。お前、去年は五つって言ってたじゃねえか!」
ドッと笑い声が弾ける。徳利を運んできた美宵が、クスリと笑う。
「酔っ払いのお話って、明日の朝には本人も覚えていないものなんですよね」
「慧音先生も言ってました。噂は調べるきっかけにはなっても、証拠にはしないって」
「ええ。それが、うちとギルドの約束ですから」
美宵は空いた皿を手際よく下げ、男達の座敷に新しい徳利を置いていった。二本目が空く頃には、三つ首の竜の話は、なぜか誰の口にも上らなくなっていた。
暖簾がまた揺れた。
「……やっぱり、ここに居たか」
慧音だった。記章は外し、書類入れも持っていない。寺子屋の先生としての顔で座敷の端に腰を下ろすと、美宵がすぐに猪口と熱燗を運んできた。
「お疲れ、慧音。報告書読んだ?」
妹紅が声をかける。
「読んだとも。三行は書いたな」
「だろ」
「三行目が漬物の感想だったのは報告とは見做さんぞ」
座敷に笑いが広がった。慧音は猪口に口をつけてから、明羅と妹紅に向き直る。
「理香子が喜んでいたよ。溜め池のケルビの数と群れの出入りを照らし合わせれば、来年は群れが畑に出る前に手を打てるかもしれない、と。……長を討たずに済ませてくれて、ありがとう。二人とも、よくやってくれた」
明羅は黙って頭を下げた。妹紅は照れくさそうに頭を掻く。
「オキが頑張ったんだよ」
軒先の方へ顎をしゃくると、名前を呼ばれたのが分かったのか、オキの耳がピンと立った。
――狩りを終え、腹を満たしたハンター達も家や宿へ散っていき、夜が更けていく。
魔理沙は煮込みを三杯おかわりしながら、明日はアリスに文句を言われつつキノコ場の跡を調べに行くのだと言った。明羅は香霖堂までの荷車の護衛。妹紅は竹林の見回り。慧音は寺子屋の授業があるからと、二杯目の熱燗を断った。小鈴は、朝いちばんに掲示板を貼り替えなければならない。
明日もきっと、今日と同じような一日が来る。
朝に受付の灯りが点り、誰かが困りごとを抱えて駆けこんでくる。記録を照らし合わせ、生き物の様子を確かめ、本当に狩る必要があるかを考えて、ハンター達が出かけていく。夕方には皆が帰ってきて、記録が一行増え、鯢呑亭の暖簾が揺れる。
店を出ると、空には星が瞬いていた。里の屋根の向こう、妖怪の山の方角の高い空を、大きな翼の影が一つゆっくりと渡っていく。足を止める者は誰も居なかった。
小鈴は鈴をチリンと鳴らし、大きく伸びをした。
「さて。明日も早起きしなきゃ」
『朝倉理香子』
所属:人里ギルド(幻想郷中央狩猟会館)
役職:生態研究室の研究員
『多々良小傘』
所属:人里ギルド(幻想郷中央狩猟会館)
役職:工房の鍛冶職人(職人頭)
『藤原妹紅』
所属:人里ギルド
武器:火竜双刃『鳳翼天翔』(双剣)
防具:火竜装【不尽】
オトモ:『オキ』(ガルク)
『る~こと』
所属:猟団"魔狩の集い"
役職:常駐協力員(記録・運搬・標本管理。ハンターではない)
『奥野田美宵』
所属:居酒屋『鯢呑亭』(中央会館の協力店)
役職:看板娘