東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~人里 鯢呑亭~
――バサリと、帳面がおもむろに卓の上に置かれた。
分厚い帳面だった。表紙は油と醤油の染みで飴色に焦げ、角は丸く擦り切れている。置かれた拍子に、卓の上の徳利が小さく揺れる。
――夜の『鯢呑亭』は、狩りから帰ったハンター達で埋まっている。小上がりでは五人組が今日の獲物の大きさを競い合い、奥の卓では老いたハンターが一人、黙って焼き魚の骨を外している。厨房からは点った油の音と、生姜を焼く匂いが流れてくる。
帳面を置いたのは、この店の看板娘の『奥野田美宵』である。
「――女苑さん。そろそろ、こちらのお話をしましょうか」
彼女の言葉を受け、卓の向かいで少女が一人、盃を口元で止めた。
茶色の髪を縦ロールの二つ結びにして赤いリボンを結び、頭にはサングラスとシルクハット。盃を持つ指には、指輪が幾つも光っている。人里ギルド所属のハンターにして、疫病神の『依神女苑』だ。
「……何よ、美宵。今お酒を飲んでるところなんだけど」
「ええ。そのお酒のお話ですよ」
美宵は帳面を開き、細い指で一行ずつなぞっていく。
「先々月の三日、大吉醸を一升。十日、同じく一升と、鍋を三つ。十五日、これは店中のお客さんに一杯ずつ振る舞った日ですね。……先月は、二日と七日と十一日と――」
「分かった、分かったわよ。何も読み上げなくていいでしょ」
「合わせて、こちらです」
美宵の指が、最後の頁の一番下で止まった。
女苑はサングラスを少しだけずらし、その数字を覗き込んだ。それから、何事もなかったようにサングラスを戻した。
「……それなら、来月の報酬で。一回目を全部こっちに回すわ」
「先月も、先々月も、そう伺いましたが」
「……」
女苑の口が、少しだけ曲がった。
――女苑の報酬は、記録室の阿求の帳面を通して三回に分けて支払われる。財を浪費させる疫病神の性で、一度に受け取るとその日のうちに使い切ってしまうからだ。その対策としてギルドマスターの慧音と結んだ約束の一つで、女苑が一番嫌がった約束でもある。そしてその一回目は、大抵この店の卓の上で消える。
女苑の隣では、もう一人の少女が、黙々と茶碗を抱えて食事を進めていた。
青く長いボサボサの髪に、青白く細い首。煤けたパーカーのあちこちに、『請求書』『差し押さえ』と、貧乏を彷彿とさせる張り紙が何枚も貼り付いている。卓の端には、ひび割れたお椀が一つ。女苑の双子の姉にして、貧乏神。そして同じく人里ギルド所属のハンター『依神紫苑』だ。
紫苑の茶碗の中身は、大根と菜っ葉の煮物を乗せた麦飯だ。一口ずつ、大事そうに口に運んでいる。
「……美宵さん。この大根、美味しいね」
「ありがとうございます。紫苑さんが今日持っていらした大根ですよ」
卓の下で、小さな声がした。
「……紫苑さん。大根、オコゲの分も残しておいてほしいニャ」
紫苑の足元で、黒い毛玉が丸くなっていた。鼻先から足の先まで真っ黒なアイルー。少し垂れた耳に、短い尻尾。青い目だけが、行灯の灯りを映して光っている。身に着けた青白い防具は、紫苑の盾と同じ化け鮫の端材製で、直しても直しても、どこかの縫い目がほつれていた。マヨヒガから紫苑の下へやって来たオトモ――『オコゲ』である。
オコゲの前には、小さな飯椀が一つ置いてある。紫苑のひび割れたお椀とは違い、欠け一つ無い塗りの椀だ。オコゲを送り出す日に、マヨヒガのまとめ役の『橙』が手渡したものだった。紫苑はこの椀を、正直に言えばオコゲよりも大事にしている。
「うん。半分こね」
紫苑は大根を箸で二つに割り、大きい方を卓の下の飯椀へ落とし……少し考えてから、小さい方と取り替えた。
「……今、取り替えたニャ」
「気のせいだよ」
美宵はくすりと笑うと、通りがかった手伝いの娘の盆から煮物の鉢を取り、飯椀にだけ大根を一切れ足した。オコゲの短い尻尾が、ぴん、と立つ。
「……オコゲの方が、多い」
「オトモさんの分は、少し多めにと決めているんです」
紫苑のツケは、この帳面には一行も無い。紫苑が受けるのは、依頼料を払えない人の依頼だけだ。報酬は米か野菜か、一食分のごはん。その野菜や米をこの店に持ち込んで、美宵に料理してもらう。それが、紫苑の狩りの報酬の全てだった。
「……姉さんはいいわね。ツケが無くて」
「ツケにできるほどの信用が無いもの」
紫苑は大根を飲み込んでから、ボソリと言い返す。女苑はムッとして何か言い返しかけ、口を閉じた。事実であるが故に何も言い返せない。
美宵は帳面を閉じると、女苑の向かいの椅子にちょこんと腰を下ろした。厨房の奥から、手伝いの娘の『焼き魚、上がりまーす!』という声がする。美宵はそちらへ『対応お願いしますねー!』と応え、また女苑に向き直った。
「女苑さん。うちはツケを断ったりはしません。ハンターの皆さんが、狩りから帰ってきて空きっ腹のまま寝るのは、一番良くないことですから」
「でしょう。だから私は――」
「ですが、ツケは、踏み倒さず返すものです」
美宵は、笑顔のまま言った。声は少しも強くない。だが、女苑の指が盃を置く。
「そこで、一つご提案です。――今日から女苑さんが受ける依頼を、十件。その十件の報酬の一回目を、阿求さんの帳面からそのままこちらへ回していただきます。女苑さんの手を通さずに。十件終わったら、この帳面は終わり。いかがですか?」
「……十件?」
「十件です。女苑さんは、高い依頼を受けられる方ですから。十件もあれば、お釣りが出るくらいですよ」
女苑は、頭の中で算盤を弾いたようだった。それから、口の端を持ち上げる。
「……悪くないわね。高いのを十件なんて、一月もかからないわよ。――いいわ、乗った」
「約束ですよ」
「疫病神に二言はないわよ」
女苑は胸を張って、盃の残りを飲み干した。それから、空の盃を美宵に差し出す。
「……じゃあ、成立のお祝いにもう一杯」
「それは、十一件目になりますけれど」
女苑の手が、宙で止まった。
紫苑が、茶碗の底の最後の一粒をつまんでから、ボソリと言った。
「……私も、手伝うよ」
「結構よ。姉さんが付いてきたら、道具代で赤字が増えるだけじゃない」
「そうね。……でも、十件は十件でしょう?」
紫苑は、空になった茶碗を丁寧に卓に戻した。ひび割れたお椀の隣に、並べるように。
卓の下で、オコゲが飯椀の縁から顔を上げた。
「……オコゲも、数に入ってるニャ?」
「うん。二人と一匹」
「……女苑さん、まだ何も言ってないニャ」
女苑は、何も言わなかった。言わないまま、空の盃を手の中で一度だけ回した。
~中央会館 受付~
――一件目は、翌朝の一番に決まった。
「これと、これ。それから、それもよ」
掲示板の前で、女苑は依頼票を三枚、立て続けに剥がした。どれも報酬の欄に、偶にしか見ない桁の数字が書かれている。女苑は三枚を扇のように広げ、受付台に叩き付けた。
「小鈴。全部私が受けるわ」
「えっと……女苑さん、三件一度にですか?」
受付嬢の小鈴が、依頼票と女苑の顔を見比べた。
「一度にじゃないわよ。疫病神とて身体は三つに分けられない。一つずつ、片付けていくの。残りの二つは私の名前を登録して残しておいてちょうだいな」
「……どうしたんですか。女苑さんが朝から依頼を取りに来るなんて」
「美宵と、ちょっとした取引をしたのよ」
受付台の奥で、筆を動かしていた阿求が顔を上げた。記録室の帳面とは別に、一冊の薄い帳面を手元に置いている。
「美宵さんから、今朝早くに使いが来ました。女苑さんの報酬の一回目を、十件分、鯢呑亭の口座へ。……そのための帳面です」
阿求は、薄い帳面の表紙を女苑に向けた。
「……帳面にそんな題を付けないでよ」
「こうして題でも付けないと、後でどの帳面だか分からなくなりますので」
阿求はそう言って、一枚目の頁に一件目の依頼の名を書き入れた。
小鈴が小さく笑い、受注の判を押す。それから、ふと女苑の背後に目をやった。
――受付台の端に、小さな木の箱が一つ置いてある。小鈴が自分で作った箱で、依頼料を払えない人の依頼票がそこに入っている。その箱の前に、紫苑がしゃがみ込んでいた。一枚ずつ依頼票を指で捲り、ゆっくりと読んでいる。
そんな紫苑の肩越しに、黒い耳が二つ、箱の縁を覗き込んでいた。オコゲは紫苑がめくる依頼票を一枚ずつ目で追い、時々、小さく鼻を鳴らしている。字は読めないが、依頼票に染みた匂いで、どこの誰の依頼なのかは大抵分かるらしい。
「……紫苑さんも、今日はそちらからですか?」
「うん。女苑の付き添いは、断られちゃったから」
「それは……そうでしょうね」
小鈴は、『紫苑と組む者には必ず不運のことを伝える』という慧音との約束を思い出したように、女苑の依頼票の同行者の欄を確かめた。成程、そこは空欄だった。
――それからの九日間、女苑はよく働いた。
一件目は、呉服屋の大旦那の荷の護衛。街道で『ジャグラス』の群れに出くわしたが、女苑が一頭を盾で殴り飛ばしただけで、残りは散っていった。大旦那は、女苑の指輪の話ばかりした。女苑は一つずつ得意そうに詳しく答えた。届け先に着く頃には、大旦那は女苑をお得意様のように扱っていた。
二件目は、置き屋の庭に入り込んだ『ケルビ』の追い出し。三件目は、大商人の別荘の池に居着いた魚の群れ――と聞いて行ったら、ただの大きな鯉だった。だが、これも一件は一件だ。
四件目と五件目は、依頼料の催促だった。狩りが済んでから支払いを渋っている豪商の屋敷へ、慧音が女苑を行かせたのだ。能力は使わない約束なので、女苑が使えるのは口と目つきだけだ。それでも、二軒ともその日のうちに金を出した。戻ってきた女苑を見て、慧音は礼を言おうとして、結局何も言えなかった。
六件目は、金貸しの蔵に巣を作った、羽ばたく虫の駆除。
七件目と八件目は、南の峠を越える商人の荷車の護衛を、行きと帰りの二件に分けて受けた。『行きと帰りは別の依頼票じゃない。なら別の依頼でしょ』と、女苑は一歩も引かなかった。阿求は、二枚の依頼票を並べてしばらく眺め、それから黙って二行書き入れた。
九件目は、九日目の夕方に片付いた。里の西の滝へ素材を採りに行く薬屋の弟子の付き添い。女苑は一日中、『地味よ、地味すぎるわ』と言い続け、それでも最後まで付き添った。
――阿求の薄い帳面には、九つの行が並んだ。
その九日の間、紫苑も毎朝受付に来て、払えない依頼の箱から一枚ずつ依頼票を取っていった。
井戸に落ちた蛙の大きなものを汲み上げる仕事――汲み上げた蛙を紫苑がじっと見つめていると、オコゲが横から取り上げて『食べちゃだめニャ』と窘めた。
長屋の屋根裏に居着いた小さな羽虫を追い出す仕事。
寺子屋の帰り道に野犬が出るというので、子供達の送り迎え。
いずれも報酬は、ある日は大根が一本、ある日は干し柿が三つだった。紫苑はそれを毎晩鯢呑亭に持ち込み、美宵に料理して貰い、オコゲと分けながら女苑の隣で食べた。女苑はその度に『貧乏が伝染る』と言い、しかしそれでも別の卓には移らなかった。
――そして、十日目の朝。女苑は、掲示板の前で立ち尽くしていた。
掲示板には、依頼票が三枚しか貼られていなかった。
一枚は、妖怪の山の麓での調査の同行。守矢ギルドとの合同で、女苑は下位の護衛としてしか入れない。
もう一枚は、遠い西の湿地での十日がかりの張り込み。
そしてもう一枚は、『記録室の書庫の虫干しの手伝い』
「……小鈴。高い依頼、もう無いの?」
「この十日で、女苑さんが全部取っていっちゃいましたから……」
小鈴は申し訳なさそうに笑った。
「新しい依頼は、少し待てば入りますよ。三日もあれば――」
「三日も待ってたら、私の財布が持たないわよ。今の報酬は全部、美宵のところへ行くんだから」
女苑は、受付台に肘をついて額を押さえた。――九日間で、二回目と三回目の報酬はまだ一つも入っていない。入っているのは、美宵の帳面を削っていく一回目だけだ。高い宿には、もう五日も泊まっていない。昨夜は命蓮寺の客間の畳の上で寝た。
――その時、受付台の端で、紫苑が一枚の依頼票を持ち上げた。
「……女苑。これはどう?」
払えない依頼の箱から取り出した依頼票だった。紙は粗く、字は小鈴の代筆だ。
女苑は、報酬の欄を二度読んだ。
「……芋、三つ」
平らな声だった。
「そうだね。三つ」
「姉さん。これは依頼ですらないわよ。お使いよ」
「でも、依頼票だよ。小鈴さんが判を押してる」
紫苑は、依頼票の角の受付の判を指差し、それから阿求の方を振り返る。
「阿求さん。美宵さんとの約束は、『依頼を十件』だったよね?」
「……ええ。使いの方はそう申していました。報酬の額については、何も」
阿求は、薄い帳面の十行目の空欄を、筆の尻でそっと叩いた。
「必要なのは、件数ですので」
女苑は口を開けて、閉じた。紫苑と阿求と小鈴の顔を順に見て、最後に依頼票の『芋 三つ』を、もう一度だけ見た。
「……十件は、十件ね」
あの夜、鯢呑亭で紫苑が言った言葉を、女苑は苦い顔で繰り返した。そして、紫苑の手から依頼票をひったくるように取る。
「小鈴。同行者の欄、私の名前も書いておいて」
「……女苑さん。紫苑さんと組む方には、一応お伝えする決まりなのですが――」
「知ってるわよ。姉さんと組む時の問題点なんて、生まれた時からよーく知ってるわ」
小鈴は少しだけ迷ってから、同行者の欄に女苑の名を書き込んだ。そして依頼票の端に、小さな字で書き添える。
――『不運のこと、伝達済み(ご本人より)』
~人里 南の外れ 竹藪の下の芋畑~
――芋畑は、半分が掻き返されていた。
人里の南の外れ、竹藪が急な斜面を下りきった所に、猫の額ほどの畑がある。畝は五本。そのうち竹藪に近い三本が、根元から掻き返されている。花を付けかけた芋の葉が踏みにじられ、黒い土の上で無情に干からびていた。
そんな畑の端に、小さな茶屋よりも更に小さな小屋が建っている。その縁側に、腰の曲がった老婆が座っていた。依頼人の
「……あれまぁ。本当に来てくれたんだねぇ」
老婆は、紫苑の姿を見るなり、皺だらけの手を合わせた。張り紙だらけのパーカーも、素足の足も、少しも気にしていない。老婆自身の着物も、袖口が擦り切れて繕い目だらけだった。
それから、紫苑の足元に目を落とした。黒いアイルーが、紫苑の脚の陰に半分だけ隠れている。
「おや、黒い猫さんも来てくれたのかい。縁起がええのう」
「……黒くて縁起がいいって言われたの、初めてニャ」
オコゲは垂れた耳を更に垂らして、紫苑の脚の陰に引っ込む。――マヨヒガでは、黒い毛並みのせいで縁起が悪いとからかわれてばかりいたのだ。それでも尻尾の先だけは、小さく揺れていた。
「田舎の婆の依頼なんぞ、誰も来やしないと思っとったよ。芋三つじゃねぇ……」
「芋三つで、十分だよ」
紫苑は、お種婆さんの前で小さく頷いた。その後ろで、女苑が腕を組んで畑を眺めている。
「……十分なわけないでしょ。こっちは道具代だけでも赤字よ」
小声で吐いたつもりだったらしい。お種婆さんは耳が遠いのか、にこにこと女苑にも手を合わせた。
「そちらのお嬢さんも、ありがたいねえ。立派な指輪だこと」
「……ふん。これは本物よ」
女苑は、それ以上何も言わなかった。ただ、指輪の光る指で、サングラスを少しだけ押し上げた。
お種婆さんの話は、こうだった。
――十日ほど前から、夜になると竹藪の上から何かが下りてくる。朝には畑が掻き返され、芋が無くなっている。初めは一畝。次の夜は二畝。一昨日の夜には、小屋の壁を何かが一度、ドンと叩いた。婆さんは布団を被って、朝まで動けなかった。
「竹藪の上には、昔から猪の群れが住んどる。じゃが、ここまで下りてきたことは一度も無いんじゃよ。それが今年はなんでか、東の方から、よう下りてくるらしいんじゃ」
「東から?」
紫苑が首を傾げた。お種婆さんは、竹藪の斜面の更に上、霞んだ東の山々の方を、曲がった指で示した。
「街道の筋の猪が、こっちへ押し出されとるんじゃと、里の者は言うとるよ。……年寄りには、理由は分からんがのう」
女苑は、その話を半分聞き流しながら畑に入っていた。
掻き返された畝の縁にしゃがみ、土を一つまみつまむ。薄い黒い土の下から、新しい赤土が覗いている。切り口のように一方向に抉れた穴。牙で土を掻き上げた跡だ。
「……牙で掻いてるわね。鼻先で匂いを嗅ぎつけて、後は力任せ。上品じゃない食べ方」
畝の間の柔らかい土には、蹄の跡がびっしりと付いている。二つに割れた、小さな蹄。重なり合って数は分からない。ただ、大きさはどれも同じぐらいだ。
その脇で、オコゲが鼻をひくつかせながら畝の間を歩き回っていた。
「……猪の匂いがするニャ。たくさん。……それと、もう一つ、もっと濃い匂いがするニャ」
「もっと濃い?」
「奥の方ニャ。……オコゲは、あんまり行きたくないニャ」
女苑は眉を寄せ、オコゲの鼻先が向いている竹藪の方へ目をやった。
紫苑は、畑の端で素足のまま立ち止まっていた。
瞳を閉じ、足の裏を土に押し付けるようにして、ゆっくりと畑の中を歩いていく。一歩、また一歩。掻き返された畝を越えるたびに、少しだけ立ち止まる。
「……姉さん。いい加減に履き物を履きなさいよ」
「足の裏で地面を聞く方がいいの。……ここ、まだ少し温かい」
紫苑が足を止めたのは、畑の一番奥、竹藪との境の窪みだった。土が丸く押し潰され、泥が平らにふやけている。窪みの縁には、茶色い剛毛が何本も紛れ込んでいた。
「泥を浴びたところだね。ここで寝てたのかな」
「ヌタ場。猪の泥浴び場。体の虫を落とすの」
女苑は、剛毛を一本つまみ上げ、陽に翳した。茶色で硬く、先が二つに裂けている。小型の猪――『ブルファンゴ』の毛だ。猪の形をした牙獣で、群れで暮らし、何も考えずに真っ直ぐ突っ込んでくる。畑を荒らす獣としては、里で一番よく知られた相手だ。
「ブルファンゴの群れね。五つか六つ。……それだけなら、太鼓でも叩いて追い払えば済む話じゃない」
「ううん。――それだけじゃ、ないみたい」
紫苑が、窪みの反対側を指差した。
そこに、蹄の跡が一つだけ、深く刻まれていた。形は同じ二つ割れ。だが大きさが、周りの蹄の倍以上ある。踏み込んだ重さで、縁の土が盛り上がっている。その跡の脇に、白っぽい長い毛が一房、竹の根に引っ掛かって風に揺れていた。
女苑は、その白い毛を指で弾いた。
「……鬣。群れの親分が居るわね」
女苑は立ち上がり、竹藪の斜面を見上げた。竹の幹の何本かに、人の腰ほどの高さで、皮が大きく剥がれた跡がある。剥がれた縁はまだ青く、乾いていない。太い牙を力任せに擦り付けた、縄張りの印だ。
そして――お種婆さんの小屋の板壁にも、同じ高さに、一筋の長い窪みが付いていた。
――一昨日の夜、壁を叩いたのは、この牙だ。
「……ドスファンゴね。間違いなく」
女苑は、苦い顔でその名を口にした。ブルファンゴの群れを率いる大猪――『ドスファンゴ』。人の背丈を優に越える巨体に、弧を描いて反り返った二本の大牙。頭から背へ、白っぽい鬣をなびかせている。一度走り出したら、竹でも壁でも構わずに突き破る。
「大きいの?」
「この小屋程度なら、一突きで解体できるくらいにはね」
女苑は、腕を組み直した。それから、小屋の縁側で心配そうにこちらを見ているお種婆さんに、ちらりと目をやった。
「……芋三つで、大猪の相手。合わないにもほどがあるわよ」
「でも、誰かがやらないと、お種さんの畑も、小屋も無くなっちゃう」
紫苑は、泥浴び場の窪みの縁にしゃがみ込んだ。そして、背の無骨な銃槍をゆっくりと下ろした。
「……来るのは、夜だね。それまで、少し寝てもいい?」
「うん。寝てていいニャ。……オコゲは、竹藪の縁で薬草を摘んでおくニャ」
オコゲは背のブーメランを背負い直し、竹藪の縁へ駆けていった。採取は、マヨヒガで教わったオコゲの得意の仕事だ。日が傾くまでに、オコゲの背負い籠には[薬草]が山ほど溜まった。もっとも、そのうちの半分は、竹藪の夜露ですっかり湿気ていたが。
~人里 南の外れ 芋畑 夜~
――月が、竹藪の梢に引っ掛かっていた。
畑は青白い光の中に沈んでいる。竹の葉がさらさらと鳴り、どこかで蛙が一匹だけ鳴いている。お種婆さんは、女苑に言われて里の親類の家へ移っていた。小屋にはもう、誰も居ない。
――女苑は、小屋の影に背を預けて片膝を立てていた。
左の腕には、炎のように反り返った赤い盾。右の手には、細身の剣。どちらも地底の油の涌く谷に棲む赫猿獣の甲殻を打ち直したもので、甲殻にこびり付いた金属の筋が、月明かりに金色に光っている。女苑が自分で銘を付けた片手剣――赫猿剣盾『大盤振舞』。盾の裏の握りには、指輪を外さずに握れるように窪みが彫ってある。
紫苑は、小屋の戸口の前で、立てた盾にもたれて眠っていた。
女苑より一回り大きな、半ば透けた青白い盾。縁が棘のように尖り、氷の鎧を写したような形をしている。その脇に立て掛けられた槍には、太い砲身が抱き合わせられていた。槍と大砲を一つに合わせた『ガンランス*1』だ。凍った湖の下に棲む化け鮫の背ビレを槍にした、紫苑の銃槍――化鮫銃槍『素寒貧』。名付けたのは女苑で、紫苑は『ぴったりね』と言ってそのまま採った。
盾の裏には、ひび割れたお椀が括り付けてある。
小屋の屋根の上には、オコゲが丸くなっていた。自分の背丈ほどもある大きなブーメランを、両手でしっかりと抱きかかえている。眠ってはいない。青い目だけが、竹藪の暗がりをじっと見ていた。
「……よく眠れるわねぇ、こんな所で」
女苑は小声で吐き、腰の道具袋を確かめた。[回復薬]が三つ。[砥石]が二つ。[閃光玉]が二つ。紫苑と組む日は、いつもの倍を持って出る。何かが壊れるのも、何かが落ちるのも、始めから勘定に入れておく。それが、生まれた時からこの姉の隣に居る女苑のやり方だった。
女苑は砥石を一つ取り出し、剣の刃を当てた。
その瞬間、砥石がつるりと指から滑った。畑の土の上を二度跳ねて、泥浴び場の泥の中へ、ポチャンと消える。
「……」
女苑は、空の指先をしばらく見つめていた。それから黙って、二つ目の砥石を取り出した。
――姉さんが眠っていても、これなのよね。
――その時、紫苑の瞳が開いた。
「……女苑。地面が、音を立ててる」
紫苑の素足の足の裏が、畑の土を押さえている。女苑も耳を澄ました。竹藪の上の方から、乾いた竹の葉を踏みしだく音が、幾つも重なって近付いてくる。
〈ブヒィッ、ブヒィィッ!〉
――竹藪の縁が割れた。
茶色い影が、一つ、二つ、三つ。背の毛を揺らして斜面を駆け降りてくる。腰の高さほどの猪だ。短い足で土を蹴り、反り返った牙を前に突き出している。先頭の一頭が畑に飛び込むなり、鼻先を土に突っ込んで芋を探し始めた。
「――姉さん、小屋の前!」
「うん」
紫苑が盾を取り、小屋の戸口を塗りつぶすように立てた。女苑はもう、畑の中へ飛び出している。
芋を探していた一頭が顔を上げた。その鼻先へ、赤い盾が横から叩き込まれる。ガツンと鳴って、ブルファンゴが畝の上に転がった。女苑はそのまま、盾で殴った勢いを死なせずに剣を返す。殴る。斬る。また殴る。喧嘩の拳の流れそのままの、極端に近い間合いだ。
屋根の上で、オコゲが跳ね起きた。
「――メガブーメラン、ニャ!」
小さな体を一回転させて、大きなブーメランを投げ放つ。ブーメランは月光を切って唸りを上げ、畝の端を駆けていた一頭の鼻面をガツンと打った。ブルファンゴが目を回してひっくり返る。
ブーメランはそのまま大きな弧を描き――戻ってこなかった。竹藪の奥へ、カサカサと葉を鳴らして消えていく。
「……戻ってこないニャ」
オコゲは、空になった両手をしばらく見つめていた。それから黙って、腰に差した小さな予備のブーメランを抜いた。
〈ピギィッ!〉
群れの残りが、いっせいに向きを変えた。
女苑ではない。小屋の前に立つ、動かない影の方へ。三頭が一線に並んで、何も考えずに真っ直ぐ突っ込んでいく。
紫苑は、盾を低く構えたまま腰を落とした。一頭目の牙が、盾の真ん中に突き刺さる。氷のような殻が、ギィンと高く鳴った。二頭目。三頭目。紫苑の素足が、毎度拳一つ分ずつ後ろへ滑る。それでも、小屋の戸口までは下がらない。
紫苑は、空いた手で盾の縁を二度叩いた。
――コン、コン。
「――女苑、下がって」
女苑が跳び退くのと同時に、紫苑の銃槍の砲口が、盾の脇から低く突き出された。
――ドン!という重い音。砲口から広がった白い冷気が、扇の形に畑の上を薙いだ。拡散する砲撃だ。盾の前に固まっていた三頭が、まとめて弾き飛ばされる。その牙と鼻先に、うっすらと霜が下りていた。
「……姉さんの砲撃、広がりすぎなのよ」
「だから、ちゃんと叩いたでしょう?」
女苑は、袖に付いた霜を払いながら舌打ちした。それから、不意に顔を上げた。
竹藪の上から、音が聞こえる。
竹の幹が、一本ずつ押し倒されていく音だった。バキリ、バキリと、重い何かが斜面を一直線に下りてくる。
――竹藪の縁が、大きく割れた。
――月光の下に、小屋より大きな影が立っていた。
ブルファンゴの何倍もある巨体。山のように盛り上がった肩から、白っぽい鬣が背に沿ってなびいている。鼻の両脇から、弧を描いて天を向いた二本の大牙。その片方の先に、竹の皮が一枚、まだ引っ掛かっていた。
大猪は、畑を見た。それから、弾き飛ばされて唸っている群れを見た。最後に、小屋の前の青白い盾を見た。
――前脚が、土を掻き始めた。
「――来るわよ!」
女苑の叫びと、大猪の突進が同時だった。
地面が揺れる。畝が踏み潰され、掘り返された黒い土が弾ける。大猪はまっすぐに紫苑へ――小屋へ向かっていた。
紫苑は、盾を構えて動かない。
――大牙が盾に突き当たった。
重い。ブルファンゴの突進とは比べ物にならない。紫苑の素足が畑の土の上を二本の溝を刻んで滑り、背が小屋の板壁にドンと当たった。
――そして、紫苑の踵の下の石が、崩れた。
小屋の土台に使われていた古い石が、狙い済ましたようにその瞬間だけ、ゴロリと転がって紫苑の体が傾き、それにより盾が斜めにずれる。
――姉さんの、
女苑は、もう走っていた。走りながら盾の縁で剣の刃を擦る。ギャリリと割れた音がして、刃の上を火花が走った。もう一度。もう一度。擦るたびに、赫猿獣の甲殻が熱を帯び、刃が暗い赤から明るい橙へと色を変えていく。
大猪が、傾いた盾を牙で押しのけようと首を振り上げた。
その牙の根元へ――熱を溜めた剣が、横から叩き込まれた。
「――大盤振舞よ!余さず持ってけ!」
溜めた熱が、一太刀で吐き出される。刃が牙を打った瞬間、火の粉が金貨のように周りへ散った。月光の中で、それは女苑がばら撒いた金のように光り、そして一瞬で消えた。
〈ブフォッ……!〉
大猪が、頭を振って三歩下がった。牙の根元の毛が焦げ、焦げ臭い匂いが漂う。紫苑はその隙に、盾を立て直していた。
大猪の鼻息が、月の下で白く噴き上がった。前脚で何度も土を掻き、鬣を逆立て、首を低く垂れる。小さな目が、赤く血走っていた。――怒り状態だ。
屋根の上で、オコゲの毛が一斉に逆立った。
「……怒ったニャ。オコゲは、もう駄目ニャ」
オコゲは屋根から転げるように飛び降りると、小屋の脇の柔らかい土に頭から潜り込んだ。前足で土を掻く。掻く。あっという間に、黒い尻尾の先まで見えなくなる。
<「……お薬、置いてくニャ〜……」
穴の縁には、湿った[薬草]が一束と、小さな瓶が一つ転がっていた。[応急薬*2]だ。
女苑はそれを横目で見ただけで、何も言わなかった。臆病なオトモが潜るのも、紫苑と組む日には始めから勘定のうちだった。
「……姉さん。次のは、さっきのより重いわよ」
「そうね。気を付ける」
紫苑は、小屋の前から動かなかった。ただ、盾の脇から銃槍の砲口を前へ向け、槍の紐に結んだ黒猫のぬいぐるみを、そっと背の方へ回した。
砲身の付け根が、わずかに膨らんだ。化け鮫の体の中の、膨らむ袋を写した仕掛けだ。紫苑が力を入れるたびに、砲身がぶくり、ぶくりと膨らんでいく。砲口の奥で、青白い光が渦を巻き始めた。
大猪が、走った。
紫苑は、空いた手を高く上げた。
「――女苑、撃つよ」
女苑が畑の端へ跳ぶ。大牙が盾まで、あと三歩。二歩。
紫苑は、盾ごと体を前へ投げ出すようにして、砲口を大猪の牙の根元へ押し付けた。
溜め込んだものを、一度に吐き出す。力を溜め、至近で一度に爆ぜさせるガンランスの奥の手――竜撃砲*3だ。
青白い光が、月よりも明るく畑を照らした。
冷気を帯びた爆風が、大猪の突進を真正面から受け止める。大牙の片方が、先から三寸ほどの所でバキンと欠け飛んだ。巨体が横ざまに傾き、畝の上に重い音を立てて尻もちをつく。牙と鬣に、白く霜が張り付いていた。
紫苑の体も、撃った反動で後ろへ弾かれた。背が小屋の板壁に当たり、そのままずるずると座り込む。砲身の付け根が、しぼむように元の太さへ戻っていく。
大猪は、しばらく畑の上で身を強張らせていた。
欠けた牙の先から、霜の粒がパラパラと落ちる。それから、大猪は紫苑ではなく、竹藪の斜面の上を振り返った。
〈ブモォォォォ……!〉
長く尾を引く声だった。群れのブルファンゴ達が、弾かれたように畑を蹴って斜面へ駆け出す。大猪はその最後を、ゆっくりと、重たげに登っていった。竹の幹を押し倒す音が、だんだんと遠ざかっていく。
〈ブモォ……〉
――それきり、竹藪は静かになった。
女苑は、熱の抜けかけた剣を下げたまま、しばらく斜面を眺めていた。それから、小屋の板壁にもたれて座り込んだ姉の前に立った。
「……生きてる?」
「……お腹すいた」
「うん、生きてるわね」
女苑は気の抜けた顔でそう言って、道具袋の中を確かめた。[回復薬]は、三つのうち一つの瓶にひびが入って中が漏れている。[砥石]は一つが泥の中。[閃光玉]は、二つとも湿気ていた。
女苑は舌打ちして、小屋の脇の穴の縁に目をやった。湿った薬草の束の隣に、オコゲが置いていった[応急薬]の瓶が、割れずに転がっている。女苑はそれを拾い上げ、姉の膝へ放った。
「飲んでおきなさい。私の[回復薬]は、割れてるから」
紫苑は瓶の栓を抜き、一息に飲み干した。それから、少しだけ顔をしかめる。
「……オコゲの薬、苦いね」
「贅沢言わないの」
女苑は空の瓶を取り上げ、道具袋の口をきつく縛った。
「……赤字よ、赤字。芋三つじゃ、砥石一つにもならないわ」
「うん」
紫苑は、板壁に頭を預けたまま、月を見上げた。そして、いつもより少しだけはっきりした声で言った。
「……でも、小屋は残った」
女苑は、何も言い返さなかった。ただ、姉の隣に並んで座り、同じ月をしばらく見ていた。
――ふと、足元の土がモコリと盛り上がった。
穴の中から黒い耳が二つ、続いて土まみれの顔が覗く。
「……終わったニャ?」
「終わったよ。オコゲ、お薬ありがとう」
「……ブーメラン、戻ってこなかったニャ」
オコゲは顔の土を払いながら、竹藪の方をしょんぼりと見上げた。その足元で、潜った穴の縁がぽろりと崩れた。
――やがて、夜が明けた。
竹藪の隙間から差し込む朝の光の中を、お種婆さんが杖をついて畑へ戻ってきた。踏み荒らされた畝と、二本の深い溝と、霜の溶けかけた畑を見て、婆さんはしばらく言葉を失っていた。それから、小屋がそこに建っているのを見て、膝からその場にしゃがみ込んだ。
「……あれまぁ。小屋が、残っとる」
「残ってるわよ。姉さんが、一晩中その前に立ってたんだから」
女苑は、そっけなく言った。お種婆さんは、何度も二人に手を合わせた。それから小屋の中へ入り、竹で編んだ籠を一つ抱えて出てくる。籠の中には、土の付いた芋が三つ、きちんと並んでいた。
「約束の芋じゃ。……本当に、これだけでええのかね」
「うん。十分だよ」
紫苑は、盾の裏からひび割れたお椀を外した。お種婆さんがそこへ芋を一つずつ、そっと入れる。三つ入れると、お椀は芋でいっぱいになった。紫苑はそれを両手で受け取り、深く頭を下げた。
「それから、黒い猫さんにもね」
お種婆さんは、懐の紙包みから小さな干し魚を一匹取り出して、オコゲの前に置いた。オコゲは紫苑の顔と干し魚を三度見比べてから、両手でそっと受け取った。
「……ありがとうニャ」
干し魚は、そのまま背負い籠の一番底にしまわれた。食べるのは、帰ってからにするらしい。
その間、女苑は小屋の戸口の前にしゃがんでいた。
一昨日の夜、大猪の牙が叩いた板壁。その下の戸が、蝶番の釘を一本失って斜めに傾いている。女苑は腰の道具袋から、罠の留め具に使う細い釘を一本取り出した。盾の縁を金槌代わりにして、コン、コンと打ち込む。指輪が釘の頭に当たって、小さく鳴った。
戸は、真っ直ぐに戻った。
「……あんれ、お嬢さん。そんなことまで」
「釘が一本余ってただけよ。……道具袋が重いのよ、余り物ばっかりでさ」
女苑は立ち上がり、盾を背に回した。お種婆さんの方を一度も見ずに、竹藪の斜面の上を見上げる。大猪が押し倒していった竹の筋が、朝の光の中で斜面の上へ、更にその上の東の方へと、一本の道のように続いていた。
女苑は、その道の先をしばらく見ていた。それから、興味の無い顔に戻って言った。
「それじゃ帰るわよ、姉さん。……お腹すいたんでしょ」
「うん。とっても」
紫苑は、芋の入ったお椀を胸に抱いて、妹の後ろを歩き出した。
その後ろを、オコゲがとぼとぼとついていく。竹藪の入り口で一度だけ振り返ると、例のブーメランが、人の背丈の倍ほどの高さで竹の幹に深々と刺さっているのが見えた。
「……あとで、取りに来るニャ」
「うん。一緒に来ようね」
~人里 鯢呑亭~
――芋の煮える匂いが、店の入り口まで漂っていた。
翌日の夕刻。鯢呑亭の奥の卓に、女苑と紫苑は向かい合って座っていた。卓の真ん中には、阿求の薄い帳面が開いたまま置いてある。十行目には、端正な字でこう書かれていた。
報酬 芋三つ 一回目 鯢呑亭へ届け済み
「……阿求も、よくこんなのを真面目な顔で書くわね」
女苑は、頬杖をついて帳面を眺めていた。『一回目』と書かれてはいるが、芋に二回目も三回目も無い。三つまとめて、今朝お種婆さんが紫苑のお椀に入れて渡した。紫苑はそのまま、お椀ごとこの店に持ち込んだのだ。
厨房の暖簾が揺れ、美宵が盆を捧げて出てきた。
「――お待たせしました。お種さんのお芋の煮っころがしですよ」
卓の上に、小さな鉢が二つ置かれた。甘辛い煮汁を絡めた芋が、小さく切り分けられて積まれている。三つの芋を、二人と一匹で分けた分だ。湯気の向こうで、煮汁の表面がつややかに光っていた。
それから美宵は、卓の下にも屈み込んだ。オコゲの飯椀に、鉢よりも少しだけ高く、芋をよそう。
「……やっぱり、私の鉢より多い」
「オトモさんの分は、少し多めにと決めていますから」
オコゲは飯椀を両手で抱え込み、紫苑をちらりと見上げた。紫苑は、オコゲよりも飯椀の方を、大事そうに見つめていた。オコゲの耳が、少しだけ平らになった。
紫苑は、鉢を両手で包むようにして引き寄せた。
「……いただきます」
一つ口に入れ、目を閉じる。それから、ほう、と長い息を吐いた。
「……美味しい。お種さんの畑の味がする」
「それは良かったです。土の良い芋ですね、これは。竹藪の落ち葉を、何年もかけて畑にすき込んでいるのでしょう」
美宵は嬉しそうに頷き、それから前掛けのポケットから、あの分厚い帳面を取り出した。
女苑の肩が、わずかに強張る。
「……美宵。先に言っておくけど、十件目は芋三つよ。帳面の数字は、一文も減ってないわよ」
「ええ、存じていますよ」
「それに、九件分の一回目じゃ、全部は埋まってないでしょう。計算はしたのよ。ちゃんと二度も」
「ええ。あと少し、足りませんね」
美宵は、帳面の最後の頁を開いた。女苑が数字を睨んでいた、一番下の行だ。
そして、その行の上に、筆ですっと一本、横線を引いた。
「……ちょっと、美宵?」
「お約束は、依頼十件でしたから」
美宵は、筆を置いて帳面を閉じた。笑顔は、初めに帳面を置いた夜と少しも変わらない。
「それに、うちは料理屋です。土の良いお芋は、立派なお代ですよ」
女苑は、口を開いたまま美宵を見ていた。それから、卓の上の小さな鉢を見た。煮汁のつやの中で、芋がそこにある。
「……芋三つの代わりに、あの数字を消すなんて。商売が下手なのね、あんた」
「よく言われます」
美宵は、くすりと笑った。それから、盆を胸に抱えて、一つだけ付け加える。
「それに――お種さんの畑には、うちも昔から芋を分けていただいているんですよ。あの畑が無くなったら、秋の煮っころがしは作れませんでした。……ですから、うちにとっても十分なお代です」
美宵はそう言って会釈し、他の卓に呼ばれて厨房の方へ戻っていった。
女苑は、しばらく黙っていた。
向かいでは、紫苑が芋を一つずつ、大事そうに口に運んでいる。店の入り口の方では、狩りから帰った五人組が、今日も獲物の大きさを競い合っていた。小上がりの端では、厨房を手伝う娘が、煮物の鍋を捧げて行き来している。
女苑は、指輪の光る指で箸を取った。芋を一つつまみ、口に放り込む。
甘い。そして、土の匂いがする。
「…………」
女苑は、何も言わずに二つ目を口に入れた。
厨房の方から、美宵の声が飛んでくる。
「女苑さん、お酒はいかがしますか?今日は大吉醸の新しい樽が開いたんですよ」
女苑は、箸を止めた。
――大吉醸。新しい樽。先々月の三日も、十日も、帳面の一番上にあった名前だ。
女苑は、かなり長い間、厨房の暖簾を見ていた。それから、窓の外の暗くなりかけた通りを見て、最後に、向かいの姉の鉢を見た。紫苑の鉢には、芋があと一つだけ残っている。
「……今日はいいわ」
小さな声だった。美宵が「はい」と応えたのが、聞こえたのかどうかは分からない。
紫苑が、箸を止めて女苑を見た。
「……女苑。どこか痛いの?」
「うるさい。どこも痛くないわよ。……ただの気まぐれよ。気まぐれ」
女苑は、サングラスを少しだけ下げた。そして、自分の鉢に残った芋を一つ、箸でつまみ上げると、黙って姉の鉢へ移した。
紫苑は、その芋をしばらく見つめていた。それから、何も言わずに、ゆっくりとそれを口に運んだ。
「……今日は、いい日ね」
卓の下で、オコゲが飯椀から顔を上げた。
「……女苑さんにも、いい日ニャ?」
女苑は、答えなかった。ただ、卓の下で、二人おそろいの腕輪が、行灯の灯りを受けて小さく光っていた。
窓の外では、人里の通りに一つずつ灯りが入り始めている。
――そのもっと向こう、東の山々の稜線は、もう夜に溶けかけていた。
竹藪の上に縄張りを持つ猪達が、なぜ東から下りてきたのか。それを考える者は、この卓には一人も居なかった――
『依神女苑』
所属:人里ギルド
役職:ハンター。疫病神。高い依頼料の依頼と、依頼料の催促を請け負う
武器:赫猿剣盾『大盤振舞』(片手剣)
防具:赫猿装【泡沫】
『依神紫苑』
所属:人里ギルド(住まいは博麗神社の軒先)
役職:ハンター。貧乏神。依頼料を払えない人の依頼を請け負う
武器:化鮫銃槍『素寒貧』(ガンランス)
防具:化鮫装【一灯】
オトモ:『オコゲ』(アイルー。武器はブーメラン)