東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~中央会館 受付~
――帳面が、受付台の上で開かれた。
朝の中央会館は、依頼票を剥がしに来たハンター達でざわついている。掲示板の前では若い二人組が報酬の額で揉め、奥の長椅子では老いた荷運びが居眠りをしている。受付台の端の小さな木の箱には、今朝も払えない依頼の票が二、三枚入っていた。
帳面を開いたのは、ギルドの監察官の小兎姫。指先で頁をトン、と叩き、受付台の向かいに立つ人物を見上げる。
「――これ、何だか分かるかしら」
見上げられた方は、返事をしなかった。
赤い短い髪に、青いリボン。口元まで隠れる高い襟の赤いマントを、朝だというのに首の上まできっちりと合わせている。背には、くすんだ桃色の鱗に覆われた重そうな得物。人里の裏長屋に住み、偵察を請け負うハンター――『赤蛮奇』だ。
蛮奇は、出したばかりの偵察の報告書を受付台に置いたまま、帳面の頁から目を逸らした。
「……知らない」
「あら、そう。じゃあ読んであげるわね」
小兎姫は頁の一行目に指を置いた。
五日前の夜 南の門の脇の水路にて、飛ぶ生首を目撃
四日前の夜 魚屋の裏にて、同じく目撃
三日前の夜 寺子屋の裏手にて、同じく目撃
一昨日の夜 豆腐屋の井戸端にて、同じく目撃
昨夜 柳の運河の石段にて、同じく目撃。見た子供三人、泣いて帰宅
「五晩続けて、よ。今月だけで、先月の一年分を越えちゃったわ」
「……私には関係ない」
「関係ないなら、どうして襟をそんなに上げてるのかしら」
蛮奇の手が、ほんの少しだけ襟元から離れた。
受付台の内側で、受付嬢の小鈴が困った顔で二人を見比べている。帳面の中身を、小鈴は知っている。蛮奇が何者なのかも知っている。ギルドには妖怪として登録してあり、登録の中身は表に出さない――それが蛮奇と交わした約束だ。
「小兎姫さん。あの、ここは受付ですので……」
「分かってるわ、小鈴ちゃん。私だって、責めに来たんじゃないのよ」
小兎姫は帳面を閉じ、表紙を指で撫でる。
「頭を飛ばすこと自体は、届け出の要る仕事じゃないわ。偵察のための能力だもの。……でも、里の中で五晩続けて飛ばすなら、話は別。里の中で何かを見張ってるなら、それは治安維持を担う私に届け出てもらわなきゃいけないの」
蛮奇は黙った。黙ったまま、報告書の端を指で揃える。
「何を見張ってたの?」
「……別に」
「別に、で五晩も夜更かしするほど、あなた暇じゃないでしょ」
小兎姫が帳面の別の頁を開いた。目撃帳の続きだ。子供達から聞き取ったことが、細かい字で書き付けてある。
「それにね。子供達の話には、続きがあるの。――『生首の下に、小さい犬が居た』って。五晩とも、よ」
蛮奇の肩が、ピクリと動いた。
――その時、受付台の端で、低い声がした。
「――いや、犬ではないな」
見回りから戻ったばかりの明羅が、背の太刀を下ろしもせずに立っていた。草鞋の泥がまだ乾いていない。
「三日前の朝、南の門の外の泥で、小さな足跡を見た。三本指だった。犬の足は四本指だろう?」
「……三本指?」
小鈴が聞き返した。明羅は頷き、受付台の上で指を三本立てて見せる。
「指の先が尖っていた。爪が深く刺さる走り方だ。大きさは、子供の掌ほど。……門番に言ったが、誰も見ていない。子供の作り話の犬と、同じものかと思ったんだがな」
小兎姫が、蛮奇の顔を覗き込んだ。
「――ねぇ。生首の下の小さい犬って、何なのかしら?」
蛮奇は、長いこと答えなかった。報告書の角を揃え、揃え終えてからもう一度揃える。それから、襟の中で息を吐いた。
「……ジャギィの仔よ」
受付台の周りが、しんと静まった。
「五日前の夕方、魚の荷車にくっついて南の門から入ってきたの。荷台の魚を狙ってたんだと思う。荷車が里の中まで進んで、門が閉まって――出られなくなった」
「それを、五晩も一人で見張ってたの?」
「見つけたのが私なんだから、仕方ないでしょ。里の誰かに見つかったら、子供が噛まれるか、あの子が叩き殺されるかのどっちかよ。……それに、群れが子を探しに里まで来たら、もっと面倒になる」
ジャギィは群れで暮らす小型の肉食竜だ。子が一匹でも欠ければ、群れは探しに来る。群れを束ねる大きな長は、松明くらいでは怯まない。
「じゃあ、捕まえればよかったじゃない」
「頭だけで、どうやって捕まえろと?」
蛮奇の声が少しだけ尖る。
「頭を飛ばしてる間、体は動けないの。体で追えば、頭が無いから見失う。……あの子が寝床に戻るのを見届けて、昼のうちに出ていってくれないかって、毎晩それだけ見てたのよ」
小兎姫は、しばらく黙って蛮奇を見ていた。それから、帳面を閉じて胸に抱え、ふっと息を吐いた。
「――分かったわ。慧音先生の所へ行きましょう。届け出じゃなくて、依頼にするのよ」
「依頼?」
「里の中に迷い込んだ小型モンスターの捕獲。それと、群れへ帰すところまで。――頭一つで追いかけっこするより、ずっとマシでしょ?」
蛮奇が何か言い返そうとした、ちょうどその時だった。
「――蛮奇は悪くないの!」
――会館の入り口から、大きな声が飛び込んできた。
ハンター達が一斉に振り返る。入り口に立っていたのは、黒い長い髪の娘だった。頭には狼の耳。白を基調にした紅白の長いドレスには、花札の『芒に月』の柄が描かれ、袖口から黒い毛が少しのぞいている。迷いの竹林に住む狼女のハンター――『今泉影狼』だ。
影狼は、背中に大きな桶を背負っていた。桶には水が張ってあり、その水の中から、青い髪の娘が顔を出している。耳の代わりにヒレ。緑の着物の裾から、魚の尾が覗いていた。霧の湖に住む人魚のハンター――『わかさぎ姫』だ。
「あ、あの……。蛮奇ちゃんは、悪い妖怪じゃないんです。その、ちょっと首が飛ぶだけで……」
わかさぎ姫が、桶の縁に手を掛けて言った。か細い声だが、会館の静けさの中ではよく通る。
何人かのハンターが、首を傾げて蛮奇を見た。
蛮奇は、襟を顎の上まで引き上げた。
「…………帰りたい」
小鈴が慌てて受付台から身を乗り出す。
「影狼さん、わかさぎ姫さん、ちょっと声を――あの、奥でお話を伺いますので!」
三人で届け出た猟団『草の根妖怪ネットワーク』。団長は居ない。団員は、ここに揃った三人だけだ。
――力が弱い妖怪達のゆるい寄り合いが、昔から里の外にある。噂や危ない場所を、互いに教え合う程度の集まりだ。三人は猟団を届け出るとき、その寄り合いの名を借りた。そして寄り合いの噂好き達は、里の"飛ぶ生首"の話を、とっくに竹林と湖まで運んでいたのだった。
――『蛮奇が、小兎姫に問い詰められているらしい』、と。
それを聞いた影狼は居ても立っても居られず、わかさぎ姫を桶に入れて背負い、夜明け前に竹林を出てきたのだという。
「……何を弁明しに来たのよ、あんた達」
「何をって。蛮奇が悪くないってことを」
「何で悪くないって分かるのよ」
「蛮奇だもの」
影狼が当たり前のように言った。わかさぎ姫も、桶の中でコクコクと頷いている。
蛮奇は、もう何も言い返さなかった。ただ、高い襟の中で、口元が少しだけ曲がった。
~人里 柳の運河~
――夕暮れの運河に、柳の枝が垂れている。
人里を南北へ貫く細い運河は、里の南の川から水を引いている。両岸に柳が並び、ところどころに石段が水際まで下りている。夕方になると、洗い物を終えた女達が引き上げ、通りの灯りが一つずつ水面に映り始める。
石段の一番下で、わかさぎ姫が水に浸かっていた。桶から出られたのが嬉しいのか、尾ビレがゆったりと水を掻いている。
石段の上には、影狼と蛮奇と明羅。小兎姫から借りた里の地図を、石段の上に広げている。
依頼は、慧音がその場で通した。
――『里の外で群れに返すなら、長と鉢合わせる。前に立つ者が要るだろう』
慧音はそう言って、明羅の名を同行の欄に書き足した。
「代表者の欄、また『この依頼を受けた者』なのね」
影狼が依頼票を覗き込む。
「小鈴さん、蛮奇の名前を書きかけて、慌てて消してたわ」
「……私はリーダーじゃない」
蛮奇はそう言って、地図の上に細い炭で印を付けていった。目撃帳の五つの場所だ。
南の門の脇の水路。魚屋の裏。寺子屋の裏手。豆腐屋の井戸端。そして、今四人が立っている柳の運河の石段。
印を付け終えると、明羅が地図の上に身を屈めた。
「……全部、水の近くだな」
「あら、本当ね」
わかさぎ姫が、水の中から首を伸ばして地図を見上げた。
「南の門の脇の水路は、この運河に繋がってる。魚屋さんの裏も、寺子屋の裏手も、豆腐屋さんの井戸も、みんな同じ水の筋の上。この運河の水は、全部南の川から来てるから」
「水を辿って歩いてるってこと?」
「ジャギィは、一匹きりなら魚くらいしか捕れない。……水の近くに居れば、何かしら食える。賢い子だな」
明羅が呟いた。蛮奇は黙って、地図の上の五つの印を見下ろしている。
――目撃帳の通りに、まず歩いてみることになった。
最初は魚屋の裏だった。運河から引き込んだ細い水路が、店の裏の洗い場を通っている。洗い場の脇に、魚の頭とはらわたを捨てる桶が置いてあった。
影狼が桶の前にしゃがみ込んだ。
桶の縁に、細かな歯の跡が並んでいる。噛んだというより、引っ掛けて齧った跡だ。桶の周りの泥には、魚の鱗が散らばり、乾きかけた魚の頭が三つ転がっていた。どれも目玉と頬の肉だけがきれいに無くなっている。
「……柔らかい所だけ食べてるわね。歯がまだ小さいのよ」
影狼が、魚の頭を一つ指で転がした。それから、泥に顔を近付けて鼻を鳴らす。
明羅は、洗い場の脇の泥にしゃがんでいた。
「――ここだ」
泥の上に、小さな足跡が点々と付いている。三本の指。指の先が尖っていて、踵の跡は浅い。明羅は自分の掌を足跡の横に並べた。掌の半分ほどしかない。
「門の外で見たものと同じだな。……縁が崩れていない。昨夜のものだ」
「匂いは?」
蛮奇が、影狼の背中に訊いた。影狼は目を閉じて、しばらく鼻を動かしていた。
「うん、狗竜の匂い。……ドスジャギィの群れの匂いが、まだ体に残ってる。生まれた群れから、そう何日も離れてないわ」
影狼はそこで、鼻をもう一度鳴らした。眉が、少しだけ寄る。
「それと――もう一つ。あんたの匂い袋の匂いがするわ、蛮奇」
蛮奇の赤いリボンには、小さな匂い袋が結んである。頭が迷子になったとき、影狼が辿れるように、と三人で決めた印だ。
「桶の上の、ちょうどこの高さ。ずっと同じ所に留まってた匂いね。……ここで、じっと見てたんでしょ」
「……見てただけよ」
「知ってるわ」
影狼は立ち上がり、膝の泥を払った。
――寺子屋の裏手でも、豆腐屋の井戸端でも、同じだった。
寺子屋の裏手の縁の下には、子供達が脱ぎ捨てた古い草鞋が一足、ボロボロに齧られて転がっていた。草鞋の藁には、子供の足の匂いがたっぷり染みている。
「齧ったけど、食べてはいないわね。匂いが気になっただけよ」
豆腐屋の井戸端には、水を張った盥が置いてあり、その縁にも同じ歯の跡があった。盥の水が、半分ほどに減っている。
そして、どこへ行っても、匂い袋の匂いが同じ高さに残っていた。軒の上。柳の枝の陰。井戸の屋根の上。
明羅は、豆腐屋の井戸端の泥をしばらく見下ろしていた。
「……妙だな」
「何がです?」
わかさぎ姫が、井戸端の脇の水路から顔を出して訊いた。運河から枝分かれした水路を泳いで、ここまで付いてきている。
「足跡の向きだ。魚屋の裏でも、寺子屋の裏手でも、足跡は北へ向いていた。運河の上手へだ。……だが、ここの足跡は南を向いている」
明羅は、泥の上の足跡を指でなぞった。二つの筋が重なっている。古い方は北へ。新しい方は、南へ。
「一度、来た道を戻ろうとしたのか」
「……門の方へ、ですか?」
「門は日が暮れると閉める。昼は人が多くて、門まで近付けない。……門の前まで行って、戻ってきたんだろう」
蛮奇が、小さく息を呑んだ。
「――一昨日の夜に南の門の前まで行ったの。あの子」
蛮奇は、地図の南の門の印を見下ろしていた。
「門の前で、ずっと鳴いてた。門の外に向かって。……群れを呼んでたんだと思う」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「……それで、昨夜は運河の石段なのね」
影狼が言った。
「門が開かないから、水の筋を辿って、また北へ戻ってきた。水の近くなら、とりあえず餌は食べられるもの」
「寝床は分かってるのか?」
明羅が訊いた。蛮奇は、運河の上手を指差す。
「この先の石の橋の下。橋桁と土手の間に、隙間があるの。夜明けになると、そこへ戻って丸くなる」
「なら、話は早いな」
明羅は地図を畳み、運河の上手を見やった。
――石の橋は、運河の上手の、通りが一番狭くなる所に架かっていた。
明るいうちは、近付かないことにした。寝床を荒らせば、子は別の場所へ移る。そうなれば、また一から探し直しになる。
代わりに、橋から少し離れた土手を調べた。
土手の草が、一筋だけ寝ている。草の先が橋の方を向いて倒れていた。橋桁の脇の石の上に、白っぽい糞が一つ。影狼がそれを木の枝で割ると、外は乾いているのに、中はまだ湿っていた。
「今朝のものね。……今も、あの隙間の中に居るわ」
影狼は、橋の方へ鼻を向けたまま、ゆっくりと言った。
「寝息は聞こえる?」
蛮奇が訊くと影狼は耳をピクリと動かし、首を横に振った。
「水の音で分からない。……でも、匂いは動いてない」
作戦は、石段の上で決めた。
草の根の決まり事は、話し合いで決める。意見が割れたら、一番怖がっている者の意見を通す――それが弱い妖怪の長生きのやり方だ。
「夜になって、あの子が橋の下から出てきたところを捕まえるわ。寝床の中に手を突っ込むと、噛まれるもの」
影狼が言った。
「――私が頭を飛ばして、先に見る。あの子が出てきたら合図する」
蛮奇が言った。
「私は、運河の中に居るわ。水に逃げたら、私が捕まえる」
わかさぎ姫が言った。
「なら、私は橋の向こう側の通りに立とう。通りへ逃げたら、そこで止める」
明羅が言った。
それから、四人は顔を見合わせた。
「……一番怖がってるのは、誰?」
影狼が訊いた。わかさぎ姫がそっと手を挙げかけ、それより早く、蛮奇が言った。
「――子供よ」
三人が、蛮奇を見た。
「昨夜、子供が三人、石段の所に居たの。肝試しよ。目撃帳に書いてあったでしょ。泣いて帰った子達。……あの子達、たぶん今夜も来る。怖いもの見たさって、そういうものだもの」
蛮奇は、襟の中で言葉を切った。
「だから、子供が来たら、まず子供を下がらせる。あの子を捕まえるのは、その後」
――一番怖がっているのは、ここに居ない子供達だった。
草の根の決まりからすれば、少しずるい。それでも、誰も反対しなかった。
~人里 柳の運河 石の橋の袂~
――夜の運河に、通りの灯りが揺れている。
石の橋の手前の路地の奥。古い樽の陰に、蛮奇が腰を下ろしていた。
その膝の上に、背から下ろした得物が横たわっている。くすんだ桃色の鱗に覆われた銃身。銃身の上には、獣竜の鼻骨を削った折りたたみの照準が伏せてあり、銃床には黒く硬い毛が巻き付けてある。魔法の森の縁で、蛮奇の頭ではなく体の方を匂いで先に見つけた蛮顎竜――その素材で組んだヘビィボウガンだ。蛮奇の得物――蛮顎重弩『柳ノ下』。
路地の入り口には、影狼が立っている。両の手には、内側へ反った二振りの湾刀。刀身は狗竜の爪を削り出したもので、影狼自身の長い爪と並べると、同じ曲線を描く。片方の刀身の腹には、芒の穂と満月が細く彫ってあった。狗竜の双剣――狗竜双刃『芒ニ月』。
「……ねぇ、影狼。それ、抜いておく必要ある?相手は子供よ」
「ジャギィの子でも、歯はあるわ。それに――」
影狼は、狼の耳を通りの方へ向けた。
「あんたの体を守るのは、私の役目でしょ」
蛮奇は何も言わなかった。代わりに、マントの襟元の留め具を外す。
運河の水面では、わかさぎ姫が橋の下流に浮かんでいた。頭だけを水の上に出し、残りは暗い水の中だ。背には、人魚竜の甲殻を土台にした盾。縁には、湖で拾い集めてきた綺麗な石や貝殻が嵌め込まれ、通りの灯りを受けて小さく光る。盾の陰に、穂先の長い槍が沈んでいた。人魚竜の素材で組んだランス――人魚槍『湖ノ子守唄』。今夜は、その穂先を一度も使わないつもりだった。
橋の向こう側の通りには、明羅が立っている。背の太刀に手を掛けず、腕を組んで橋の下を見ていた。
――蛮奇が、首を傾げた。
首の付け根に、細い切れ目が走る。赤いリボンを結んだ頭が、音もなく体から離れ、ふわりと宙に浮いた。
頭を失った体は、樽にもたれたまま動かない。両手は膝の上のヘビィボウガンに置かれたまま、指一本動かさない。
影狼は、その体の前に一歩、位置を変えた。
頭は、路地の軒の高さまで浮かび上がり、通りの灯りの影を縫うように、ゆっくりと橋の方へ流れていった。高くは飛ばない。夜の空は暗く、高く上がれば何も見えなくなる。それに、小さく飛ぶ頭は、上から見れば獲物の小鳥に見える。
頭が、橋の欄干の陰で止まった。
――それから、どれくらい経っただろうか。運河の水音に、別の音が混じった。
カリ、カリ、と、石を爪で引っ掻く音。
影狼の耳が、ピクリと動いた。
「……出てきた」
橋桁と土手の隙間から、小さな影が這い出してきた。
影狼の膝ほどの丈。橙と薄紫の鱗の境目が、灯りの中でぼんやりと浮かぶ。頭の両脇の扇のような耳は、まだ小さく、畳んだ紙のように頼りない。尻尾をピンと立て、首を伸ばして、通りの方の匂いを嗅いでいる。
ジャギィの子だった。
子は、まず運河の水を飲んだ。それから、水際の石の間に鼻先を突っ込み、何かを探し始める。小さな魚が一匹、石の間から逃げ出した。子は跳び付いたが、魚は水の中へ消えていった。
子は、しばらく水面を見つめていた。それから、細い声で鳴いた。
〈キュウ……キュルル……〉
欄干の陰の頭が、小さく揺れた。
――飛ぶ頭から、合図の匂い袋が一つ、ポトリと路地の方へ落とされた。
それを見て、影狼が双剣を握り直した。
「――行くわよ」
頭が体に戻るまで、狩りを始めない。三人の一番固い約束だ。
頭は、橋の欄干の陰から灯りの影を縫って、路地へ戻ってくる。影狼は、その頭が体の首の上に収まるのを待っていた。
――その時、通りの向こうから、小さな灯りが近付いてきた。
提灯だ。それも、子供の背丈の高さで揺れている。
「……ほんとに出るのかよ」
「出たって。昨日、ここで見たんだって」
「生首、まだ居るかなぁ」
ヒソヒソ声が三つ、橋の方へ近付いてくる。
――子供だ。
蛮奇の頭が、宙で止まった。体へ戻る途中の、ちょうど橋と路地の真ん中。通りの灯りのど真ん中だった。
子供の提灯が、ふいと上を向いた。
灯りの中に、赤い髪と青いリボンの、首から下の無い頭が浮かんでいた。
一瞬の静けさが満ち――
「「「――出たぁあああっ!」」」
――刹那、三つの悲鳴が運河の上で弾けた。
提灯が地面に落ちて転がる。子供達はてんでばらばらに逃げ出そうとして、一人が石段の縁で足を滑らせた。
ジャギィの子が、悲鳴に跳ね上がった。
〈ギャウッ!〉
子は、闇雲に駆け出した。逃げる先は、橋の向こうの通り――転んだ子供の方だった。
小さな体が、跳ね回るようにして子供の足元に迫る。歯を剥いている。怯えた小型は、目の前の動くものに噛みつく。
――明羅は、もう走っていた。
太刀は抜かない。背の鞘ごと肩越しに柄を引き抜き、鞘に納めたまま、子供とジャギィの子の間に差し込んだ。
ガチン、と硬い音。小さな歯が、黒い鞘に食い込んだ。
「――下がれ。走らなくていい。ゆっくりだ」
明羅は、転んだ子供の前に膝を付いたまま、低く言った。子供は泣くのも忘れて、明羅の背中を見上げている。
ジャギィの子は鞘を離し、跳び退いた。尻尾を左右に振り、明羅の周りを回り込もうとする。小さくても、群れの狩りのやり方だ。死角から噛みつこうとしている。
明羅は、子が回り込む方へ、膝を付いたまま鞘の先だけを向け直した。一歩も退かない。
「影狼!」
「分かってる!」
影狼が路地から飛び出した。双剣は抜いたまま、刃を寝かせて振らない。ジャギィの子の進む先へ回り込み、低く構えて道を塞ぐ。
子は、明羅と影狼に挟まれて足を止めた。首を左右に振り、逃げ道を探す。
――残っているのは、運河だけだ。
子は、石段を跳び下りた。
水の中へ飛び込み、ザブンと小さな水音が聞こえる。
――すぐに運河の水が僅かに盛り上がった。
水の中から、青い髪が浮かび上がる。わかさぎ姫は、水の中で子の小さな体を両腕に抱き込んでいた。
〈ギャウッ、ギャウゥッ!〉
子が暴れる。小さな爪がわかさぎ姫の腕を掻き、歯が貝殻の形の籠手に食い込んだ。わかさぎ姫は少しだけ顔をしかめた。それでも、腕を緩めない。
「――大丈夫。大丈夫よ」
水の中なら、わかさぎ姫は別人のように強い。子がどれだけ暴れても、水が全部受け流してしまう。尾ビレを一つ打つと、わかさぎ姫の体は子を抱いたまま、ゆっくりと水の上を滑った。
子は、しばらく暴れ続けた。そのうちに、だんだん動きが鈍くなる。水に浸かった小さな体は、思うように跳ねられない。水の中で暴れるのは、陸で走るよりずっと疲れる。
わかさぎ姫は、子を抱いたまま、小さな声で歌い始めた。
ジャギィの子は歌を聞いていない。聞いているのは、石段の上で震えている子供達の方だった。湖の水面を渡るような、細く柔らかい声。泣きかけていた子供が、ひくっとしゃくり上げたまま、口を開けて人魚を見下ろしている。
〈キュウ……〉
やがて子は、わかさぎ姫の腕の中で、ぐったりと首を垂れた。
わかさぎ姫は、歌を止めずに石段の下まで泳いでいった。影狼が、魚籠を一つ差し出している。魚屋で借りてきた、蓋付きの大きな籠だ。わかさぎ姫は、子をそっとその中へ下ろした。影狼が蓋を閉め、紐を結ぶ。
「――捕まえたわ」
影狼が、籠を抱えて息を吐いた。
――路地の奥で、蛮奇の体がピクリと動いた。
頭が、首の上に戻っていた。蛮奇はマントの留め具を留め直し、襟を顎の上まで引き上げる。それからヘビィボウガンを背に回し、路地からゆっくりと出てきた。
石段の所では、明羅が子供達に話しかけていた。子供達は三人とも、泣き止んでいる。
「……今のは、迷子の子だ。群れに返してやる。お前達は、家に帰れ」
「お、お姉さん。生首は?」
一人の子が、明羅の袖を引いた。
「さっき、そこに居たんだよ。赤い髪の、首から下の無い……」
子供の目が、通りに出てきた蛮奇の方を向いた。
赤い髪。青いリボン。
蛮奇の足が、ピタリと止まった。
子供は、蛮奇の顔をじっと見上げている。見つめられるのが、蛮奇は一番苦手だ。
「……お姉さんも、生首見た?」
蛮奇は、襟の中で一度だけ息を吸った。
「……見てない」
「ほんと?」
「本当よ。――生首なんて、居るわけないでしょ」
子供は、しばらく蛮奇の首の辺りを見ていた。それから、こっくりと頷いた。
「そっかぁ」
子供達は、落とした提灯を拾い、三人で手を繋いで帰っていった。一人が一度だけ振り返り、明羅とわかさぎ姫に、小さく手を振った。
蛮奇は、その背中が角を曲がるまで見送っていた。
「……居るわけない、ね」
影狼が籠を抱えたまま小さく笑い、蛮奇は影狼の脛を軽く蹴って抗議した。
~人里の南東 竹林の縁の小川~
――東の空が、白み始める。
人里の南東、野と竹林の境を、細い小川が流れている。里の南の川へ注ぐ支流の一つだ。岸には芒が揺れ、竹林の縁の土は朝露でしっとりと濡れていた。
門番に頼んで、夜明け前に南の門を開けてもらった。わかさぎ姫は、里の南の川から支流を泳いで上り、一足先に小川で待っている。影狼は魚籠を背負い、蛮奇と明羅が両脇を歩いた。籠の中の子は、運河で疲れきったのか、時々かすかに鳴く以外は静かだった。
小川の岸に着くと、影狼が魚籠を下ろし、鼻を鳴らした。
「――群れの匂いが濃いわ。ここ、あの子の群れの水飲み場よ」
明羅は、岸の泥にしゃがみ込んだ。
泥の上は、足跡で埋まっていた。三本指の小さな足跡が、何十と重なっている。その中に、指の幅がもう一回り広い足跡が混じる。雌のジャギィノスだ。
そして、群れの足跡の真ん中に、ひときわ大きな足跡が一つ。三本の指が深く泥にめり込み、爪の先が鋭く刺さっている。明羅は、掌を広げてその横に並べた。掌二つ分ある。
「長のものだな。……縁が湿っている。昨夜のうちに、ここへ来ている」
影狼は、岸の脇の竹の幹に近寄った。竹の皮に、人の腰の高さで、三本ずつの爪の筋が何組も刻まれている。
「縄張りの印ね。……古いのと、新しいのが重なってる」
影狼は、古い方の爪痕を指でなぞった。それから、新しい方を。新しい爪痕の方が、少し高い所に付いている。
「――三年前の長じゃない」
影狼が、ぽつりと言った。
三年前、竹林の縁に住みついた狗竜の群れを、影狼は草の根の二人と一緒に追い払った。子分を散らした後、群れの長と一対一でやり合った。若い頃に群れを離れて一匹で生き、戻ってきて長になった竜だった。影狼の双剣は、その長の爪で出来ている。
「その後に、別の雄が戻ってきて、新しい長になったのよ。……あの時の群れの、子分の誰かかもしれないわね」
「分かるのか?」
明羅が訊いた。
「匂いが少しだけ似てるもの。……狼だから、こういうのは分かるのよ」
影狼はそう言って、竹の幹から手を離した。
岸の芒の根元には、魚の骨が散らばっていた。小川で捕った魚を、群れで分けて食べた跡だ。骨は、どれもきれいに肉がこそげ取られている。
――魚籠の中で、子が鳴いた。
〈キュウ……キュルル……!〉
さっきまでより、ずっと大きな声だった。群れの匂いが、籠の中まで届いたのだ。
蛮奇が、首を傾げかけた。頭を飛ばして、先に竹林の中を見るつもりだった。
「――待って」
影狼が、蛮奇の腕を押さえた。
「もう居るわ。竹林の中。……こっちを見てる」
竹林の暗がりの奥で、竹の葉が鳴った。一つ、二つ、三つ。低い位置で、何かが竹の間を動いている。
明羅が、ゆっくりと立ち上がった。背の太刀の柄に、肩越しに手を掛ける。抜かない。鯉口を、ほんの少しだけ切る。
蛮奇が、ヘビィボウガンを背から下ろす。銃床を腰に当て、両手で銃身を支える。腰だめの構え。鼻骨の照準が、獣竜が匂いを嗅ぐようにカチリとせり上がった。
わかさぎ姫は小川の真ん中に立ち、水の中で盾を構えた。
影狼は魚籠の紐に手を掛け、そのまま動かない。
竹林の縁から、まず小さな影が三つ、四つ、跳ねるように出てきた。ジャギィだ。籠の中の子と同じ橙と薄紫の鱗。ただ体は、子の倍以上ある。それより少し大きな、喉の太い一頭が続く。ジャギィノスだ。
群れは、小川の岸の手前で止まった。首を伸ばし、魚籠の方の匂いを嗅いでいる。
――そして、その奥。
竹が一本、根元から押し退けられるように撓んだ。
朝の薄明かりの中に、がっしりとした体が現れた。青と橙の鱗。太い後ろ脚で地面を踏みしめ、尻尾を長く後ろへ伸ばしている。頭の両脇で、子分達の小さな耳とは比べ物にならない大きな襟巻きが、扇のように広がっていた。眉のような模様の下で、黄色い眼が四人を見ている。
群れの長は、四人を見た。それから、岸の魚籠を見た。
低い唸り。子分達が、一斉に姿勢を低くした。
「……若いわね」
影狼が呟く。
長の襟巻きは大きいが、縁にまだ傷が少ない。三年前の長の襟巻きは、縁が古い傷でギザギザに裂けていた。
「――影狼。開けろ」
明羅が、長から目を離さずに言った。
影狼は頷き、魚籠の紐を解いた。蓋を外し、籠を横に倒す。
中から、ジャギィの子が転がり出た。
子は、一度だけ四人の方を振り返った。わかさぎ姫の顔を、少しの間見ていた。それから、群れの方へ駆け出した。小さな足が泥を蹴る。
〈キュルルルッ!〉
子分達の間を潜り抜け、長の足元へ。長が首を下げ、鼻先で子の体を一度だけ押した。匂いを確かめるように。
――その時だった。
〈ギャウッ!〉
子分の一頭が、地を蹴った。
四人の匂いと、群れの子を籠に入れていた匂い。それを、子分は怒りとして受け取ったのだ。跳ね回るように岸を回り込み、影狼の死角から飛び込んでくる。
影狼は、振り向かなかった。
鼻と耳で、もう分かっている。体を半分だけ捌き、左の湾刀を寝かせて差し出す。子分の歯が、狗竜の爪の刀身に当たって滑った。ギィン、と高い音。影狼は右の刃の峰で、子分の首筋を打った。
〈キャウンッ!〉
子分が転がる。それを合図にしたように、残りの子分達が一斉に動き出した。跳ね回りながら左右へ広がり、四人を囲もうとする。群れの狩りだ。
「――囲ませるな!」
明羅が声を上げ、太刀を背から抜き放った。
身の丈に迫る長い刀身が、朝の光を一筋撥ね返す。明羅は斬り込まない。太刀を低く構え、跳び込んできた一頭の鼻先へ、切っ先をピタリと置く。子分は止まりきれずに跳び退き、尻尾を振って体勢を立て直した。
小川の方へ回り込んだ一頭は、わかさぎ姫の盾に頭からぶつかった。ガツン、と鈍い音。水の中で踏ん張る人魚は、小型の体当たりくらいではびくともしない。
蛮奇は、腰だめのまま、銃口を岸の泥へ向けていた。
「――撃つわよ。影狼、耳!」
影狼の耳は良すぎる。仲間が音の大きなものを使うときは、必ず先に声を掛ける。それも三人の決まりだった。影狼が狼の耳を伏せる。
蛮奇は、引き金を引いた。
[火炎弾*1]が、子分達の足元の泥に突き刺さった。
着弾して弾殻が弾け、ボウッと炎が立ち上がる。濡れた泥の上で、炎は低く広く這い、芒の穂先を焦がした。腰から背へ抜ける反動を、蛮奇は足を開いて受け止める。
子分達が、悲鳴を上げて跳び退いた。
〈ギャッ、ギャウッ!〉
ジャギィは火を嫌う。尻尾を巻くようにして、竹林の縁まで一斉に下がっていく。
――ただ一頭、長だけが動かなかった。
長は、炎を見ていた。燃える泥の向こうの、蛮奇の銃口を見ていた。子分達のように怯まない。松明くらいでは、群れの長は退かない。
長の足元で、子が鳴いた。
〈キュウ……〉
長は首を下げた。子の体を、鼻先でもう一度だけ押す。それから、顔を上げた。
長と、明羅の目が合った。
明羅は、太刀を構えたまま動かなかった。斬り込みもせず、退きもしない。その後ろには蛮奇とわかさぎ姫が居て、さらに後ろには人里がある。
――止める太刀だ。斬るためではなく、通さないために構えている。
長は、明羅の切っ先をしばらく見ていた。
――長が、大きく吼えた。
竹林の縁まで下がっていた子分達が、その声で一斉に向きを変えた。竹の間へ、一頭、また一頭と駆け込んでいく。ジャギィノスが子の首筋を軽く咥え、竹林の奥へ運んでいった。
長は、最後まで残っていた。四人を一度だけ振り返り、それから、ゆっくりと竹林の奥へ歩み去った。
〈グワォォ……〉
遠くで、もう一度だけ長が吼えた。
それきり、竹林は静かになった。
――明羅が、太刀を背の鞘へ戻した。
影狼は、双剣を下げて息を吐いた。蛮奇は銃口を上げ、照準の鼻骨を畳む。小川の中で、わかさぎ姫が盾を下ろし、水の中へゆっくりと沈んでいった。
泥の上の炎は、朝露に湿った芒を少し焦がしただけで、もう消えかけていた。影狼が足で土を被せ、最後の火種を踏み消す。
「……群れに帰した。で、いいのよね」
影狼が言った。
「依頼票の上では、な」
明羅が頷いた。
わかさぎ姫が、水の中から顔を出した。籠手には、子の歯の跡がいくつも付いている。
「……あの子、最後に私の方を見てたわね」
「睨んでたんでしょ。籠に入れたの、あんただもの」
蛮奇が言った。わかさぎ姫は小さく首を傾げた。
「そうかな……ちょっとだけ、お礼を言われた気がしたんだけど」
「竜はお礼なんて言わないわよ」
「でも、蛮奇ちゃんも、お礼を言われるのは苦手でしょう?」
蛮奇は、黙って襟を引き上げた。
影狼は竹林の縁の竹の幹を、もう一度だけ見上げた。新しい長の爪痕は、古い長の爪痕より、少しだけ高い所にある。
――あの子も、いずれ群れを離れて一匹で生き、戻ってきて、長の座を争う日が来るのだろうか。
影狼は、狗竜の爪で出来た双剣を、そっと鞘に納めた。
~中央会館 受付~
――昼の会館に、目撃帳が戻ってきた。
小兎姫は、受付台の上に帳面を開き、最後の頁に筆を走らせた。その脇で、蛮奇が報告書に判を押している。
影狼は、受付台の端の長椅子に腰掛けていた。背中の桶の中では、わかさぎ姫が水面から顔だけ出して眠っている。夜通し泳ぎ続けた後で、桶に入った途端に寝てしまったのだ。
小兎姫が、筆を置いた。
五晩の目撃は、里の中に迷い込んだ小型の見張りと判明
小型一匹、草の根妖怪ネットワークが捕獲し、群れへ返還済み
届け出の義務なし
「……『届け出の義務なし』なんて、書くのね」
蛮奇が、帳面を覗き込んで言った。
「だって、義務は無いもの。――次からは、先に一言だけ相談してくれればいいわ」
「次なんて無いわよ」
「あら、そう」
小兎姫は、帳面を閉じて胸に抱えた。それから、受付台の内側の小鈴に、ニコリと笑ってみせる。
「小鈴ちゃん。今月の生首の目撃は、もう増えないと思うわ」
「それは……良かったです。子供達が、毎晩怖がってましたから」
小鈴はそう言ってから、受付台の上の依頼票に目を落とした。草の根の三人の依頼票だ。代表者の欄には、相変わらず『この依頼を受けた者』と書いてある。
「……あの、蛮奇さん。報酬は、猟団宛てに三等分でよろしいですか?」
「どうして私に訊くのよ」
「えっと、いつも窓口になってくださるので……」
「私はリーダーじゃない」
蛮奇は、いつも通り訂正した。小鈴は、いつも通り困ったように笑った。
受付台の端の長椅子で、影狼がくすりと笑う。
「今夜は飲みましょう。蛮奇の長屋で」
「勝手に決めないで」
「鍵は開いてるでしょ?」
「……」
蛮奇は答えなかった。報告書を受付台に置き、ヘビィボウガンを背に回して、さっさと会館の出口へ向かう。
その背中に、小兎姫が声を掛けた。
「――ねぇ、蛮奇。一つだけ、訊いていいかしら」
蛮奇の足が止まった。
「どうして、五晩も一人で見張ってたの?一人じゃ何も出来ないと理解していたなら、二人に声を掛ければ一晩で済んだでしょう」
蛮奇は振り返らなかった。高い襟の中で、しばらく黙っていた。
「……門の前で、ずっと鳴いてたのよ。あの子」
それだけ言って、蛮奇は会館を出ていった。
小兎姫は、閉じた帳面の表紙を、指でトン、と一度だけ叩いた。
~人里 柳の運河 裏長屋~
――その夜、柳の運河沿いの裏長屋に、灯りが一つ入っていた。
戸の鍵は、やっぱり開いていた。
狭い土間に、徳利が三本。運河に面した裏の戸は開け放してあり、石段の一番下で、わかさぎ姫が水に尾を浸けたまま盃を傾けている。影狼は上がり框に腰掛け、狗竜の双剣の刃を布で拭っていた。
蛮奇は、部屋の奥の壁にもたれて、黙って盃を舐めていた。
「……ねぇ、蛮奇ちゃん」
わかさぎ姫が、石段の下から声を掛けた。
「あの子、群れでちゃんとご飯もらえてるかしら」
「知らないわよ。……獲物はまず長が食べて、次が雌で、最後が雄の子分。子供なんて、もっと後でしょうね」
「じゃあ、今頃お腹を空かせてるわね」
「……魚屋の桶を齧ってた時よりは、マシでしょ」
影狼が布を置いて盃を取る。
「あんた、詳しいわね。ジャギィの食べる順番まで」
「……五晩も見てれば、色々考えるのよ」
蛮奇は、盃の縁から目を上げなかった。
運河の水面に、通りの灯りが揺れている。柳の枝が、風もないのにかすかに揺れた。
「――ねぇ、蛮奇」
影狼が、盃を置いた。
「次は、最初の晩に呼びなさいよ。頭が迷子になった時みたいに」
「……迷子になんて、なってない」
「同じことよ」
蛮奇は、しばらく黙っていた。それから、盃を一息に空けた。
「――仕事仲間を、夜中に呼び出すほど暇じゃないのよ。あんた達も」
「「暇よ」」
二人が、同時に言った。
蛮奇は、高い襟を顎の上まで引き上げた。わかさぎ姫がくすくすと笑い、影狼が徳利を傾けて、蛮奇の盃に黙って酒を注ぎ足した。
裏の戸の向こうで、柳の枝が水面を撫でた。
『今泉影狼』
所属:人里ギルド、および猟団『草の根妖怪ネットワーク』(住まいは迷いの竹林)
役職:ハンター。匂いと音で獲物を読む「鼻」。偶に永遠亭の手伝い
武器:狗竜双刃『芒ニ月』(双剣)
防具:狗竜装【遠吠】
『わかさぎ姫』
所属:人里ギルド、および猟団『草の根妖怪ネットワーク』(住まいは霧の湖の南岸)
役職:ハンター。水中から獲物を追う「水」。潜り狩りの指南役
武器:人魚槍『湖ノ子守唄』(ランス)
防具:人魚装【淡水】
『赤蛮奇』
所属:人里ギルド、および猟団『草の根妖怪ネットワーク』(住まいは人里の柳の運河沿いの裏長屋)
役職:ハンター。頭を飛ばして先に見る「目」。偵察を請け負う
武器:蛮顎重弩『柳ノ下』(ヘビィボウガン)
防具:蛮顎装【赤套】