東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~中央会館 生態研究室~
――帳面の頁が、二日分だけ白い。
生態研究室の窓は東を向いている。朝の光が硝子越しに差し込み、棚に並んだ標本の管を一本ずつ光らせていた。乾いた鱗、割れた殻、薬液に沈めた小さな牙。どの管にも、理香子の細い字で番号が振ってある。
窓辺の机に、白衣の理香子が一冊の帳面を開いていた。表紙には『東の尾根棲息の火竜の番 観測記録』とある。
――十日ほど前、博麗神社から一枚の報告書が会館に届いた。東の境の外で巣を探し回る雌火竜を、霊夢が見たという。雌火竜は最後に、境の内の東の尾根へ降りた。それから理香子は二日おきに神社の裏手の丘へ通い、遠眼鏡で尾根を見張ってきた。
一日目 雌、尾根の岩棚に枯れ枝を運ぶ。雄の姿なし
三日目 雄、初めて目撃。雌と並んで岩棚に降りる。番と見て間違いなし
五日目 雌、岩棚から動かず。雄が二度、獲物を運ぶ。産卵したと思われる
七日目 雄の見回り三度。雌は終日岩棚の上
九日目 番の姿なし
十一日目 番の姿なし。岩棚に動くもの見えず
「……火竜の番が、卵を抱いてる最中に、二日も揃って巣を空けるかしら」
理香子は、白い二行を指で叩いた。
向かいの椅子で、慧音が帳面を覗き込んでいる。腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
「狩りに出た、というのは考えられないのか?」
「雄が狩りに出るのは分かるわ。でも、雌まで一緒になんておかしい。卵を産んだ雌は、雄が獲物を運んでくるのを巣で待つものよ。昼も夜も、卵の上から動かない」
理香子は丸眼鏡を外し、目頭を揉む。
「九日目に見えなかったのは、霞のせいかもしれないと思ったの。でも、今朝も同じ。尾根の上に、竜の影が一つも無いのよ」
慧音はしばらく黙っていた。それから、研究室の戸口を振り返る。
「――妹紅。お前はどう思う」
戸口の柱に背を預けて、妹紅が立っていた。慧音に呼ばれて、竹林から出てきたばかりだ。もんぺの裾に、朝露に濡れた竹の葉が一枚張り付いている。
「……火竜は、巣からそう簡単には退かない」
妹紅は、短くそう言った。
「火を浴びても、刃を立てられても、巣を背中にしてる限りは退かない。――私の知ってる火竜は、そうだった」
理香子は顔を上げて、妹紅を見た。妹紅の背には、赤黒い甲殻を研ぎ上げた双剣が、対の翼のように負われている。火竜双刃『鳳翼天翔』。火竜の素材で打たれた刃だということは、理香子も知っていた。その火竜がどうなったのかは、知らない。
「……じゃあ、退かない竜が退いたのね。それとも――」
理香子は言いかけて、やめた。
「見に行くしかない、か」
慧音が立ち上がる。
「理香子、尾根の巣まで行ってくれ。卵がどうなっているか、番がどこへ行ったのか。それを確かめるだけでいい。――妹紅は護衛だ。番が戻ってきたら、すぐに引け」
「戻ってきたら、な」
「戻ってこなかったら、どうする?」
理香子が訊くと慧音は、すぐには答えなかった。
「……それを決めるために、見てきてほしいんだ」
依頼票の代わりに、慧音は一枚の書き付けを理香子に渡した。調査の許可と、同行者の名。それだけの紙だった。
~博麗原野 東の尾根の麓~
――尾根の麓の草が、獣の匂いで重い。
『博麗神社』の裏手から東へ半刻。原野がなだらかに登り始めるあたりで、草の丈が急に低くなる。その先に、岩肌を剥き出しにした細長い尾根が、南北に横たわっていた。尾根の中ほどに、張り出した岩棚がある。遠眼鏡で毎日見てきた、あの岩棚だ。
妹紅の少し前をオトモのオキが歩いている。
オキは、さっきから何度も足を止めていた。鼻を地面に近付け、低く唸る。尾は巻いたまま、少しも振れない。
「……落ち着かないな、オキ」
妹紅がオキの首筋を軽く叩く。オキは鼻を鳴らし、尾根の方へ顔を向けた。
空は薄く霞んでいた。風は東から弱く吹き、尾根の方から原野へ下りてくる。竜の匂いを運んでくるには、ちょうどいい風向きだ。
出がけに、妹紅は道具袋を確かめていた。[回復薬]が二つ、[閃光玉]が一つ、それに干し肉を少し。理香子の革鞄はもっと重い。寒暖計、方位磁石、巻尺、標本の管が十本ほど、帳面が二冊。それに、なぜか厚手の毛布が一枚、丸めて括り付けてあった。
「……その毛布は何だ」
「卵が冷えてたら、包むのよ。――使わずに済めば、それが一番いいけど」
理香子はそう言って、毛布の括り紐を締め直した。
原野の草の中には、いつもならアプトノスの群れが寝そべっている。この辺りは、草食竜が昼寝をするのにちょうどいい緩い斜面だ。それが今朝は、一頭も見当たらない。草の上には、古い寝床の跡が丸く残っているだけだった。
「……ここの群れも、居なくなってるのか」
「十日前の、あの群れよ。東の街道を渡っていった」
理香子は、寝床の跡の一つに掌を当てた。草はとうに起き上がりかけていて、温もりも匂いも残っていない。
草の間を、小さな鳥が一羽、低く飛んでいった。尾根の方から逃げてくるのではない。ただ、尾根の方へは飛んでいかない。鳥達は尾根の手前で向きを変え、原野の方へ戻っていく。
――火竜の縄張りは、まだ生きている。
主が居なくなっても、主の匂いが残っている限り、小さな生き物はそこへ近付かない。オキが落ち着かないのも、そのためだろう。
理香子は、尾根の麓の草地にしゃがみ込んでいた。
「――見て」
草の上に、大きな骨が転がっている。草食竜の肋骨だ。片側の肋は一本も欠けずに並んでいるのに、もう片側は根元から引きちぎられていた。肋骨の間には、まだ肉が残っている。腐りかけて黒ずみ、蝿が群がっていた。
「アプトノスね。半分しか食べてない」
理香子は寒暖計を骨の脇に寝かせ、それから、肉の色と蝿のたかり方をじっと見た。
「……少なくとも三日は経ってるわ。四日、それ以上かもしれない」
「雄が運んできた獲物か」
「えぇ。雄は巣の下で獲物を一度降ろして、食べやすいところを千切ってから雌に運ぶの。――その途中で、放り出したみたいね」
妹紅は、骨の脇の草を見た。
焦げた輪が無い。火竜は、獲物を焼いてから食べることがある。妹紅が知っている火竜は、そうしていた。この骨は焼かれる前に、食べかけのまま捨てられている。
「……食い終わる前に、ここを離れたのか」
「そう見えるわね」
理香子は帳面に書き付けて立ち上がる――
――尾根の斜面を登り始めて間もなく、オキが立ち止まった。
斜面の途中に、一本の楢の大木が立っている。幹の高い所に、四本の溝が縦に深く刻まれていた。妹紅は手を伸ばし、溝の縁に触れた。樹皮の内側の白い木肌が、すっかり乾いて茶色くなっている。
「縄張りの印だ。……古いな」
見回すと、同じ爪跡が尾根の斜面に点々と残っている。妹紅はその一本一本に触れていった。どれも乾いている。樹液が滲んでいる新しいものは、一本も無い。
「火竜は、毎日縄張りを見回って印を付け直す。――一番新しい印でも、三日前ってところだな」
「三日前から、見回りをやめたのね」
理香子は、帳面を開いて自分の観測と見比べた。
「七日目の雄の見回りは三度。九日目は、もう居なかった。……八日目のどこかで、番は居なくなったんだわ」
妹紅は答えず、さらに斜面を登る。
岩棚の真下の斜面は、土が剥き出しになっていた。そこに、大きな足跡が二種類、入り乱れて残っている。
一つは、指の跡が太く、踵まで深く沈んだ足跡だ。体の重さを全部、地面に預けて歩いた跡。もう一つは、それより一回り小さく、指の先だけが深い。
「重い方が雌ね」
理香子が、深い方の足跡を指で示した。
「雌火竜は、空より地面を歩いて縄張りを守るの。だから、足が太くて重い。――雄は空から降りるから、指の先から着く」
理香子は巻尺を伸ばし、足跡の長さと歩幅を測った。帳面に数字を書き込み、それから足跡の列を目で辿っていく。
雌の足跡は、岩棚の真下を何度も行き来していた。巣の下を歩き回り、時々立ち止まっては向きを変える。見回りの跡だ。足跡の縁は崩れ、上に細かな砂が薄く積もっている。新しいものではない。
「……雌が最後に歩いたのも、三日前ね。足跡の縁に、二晩分の夜露の跡があるもの」
妹紅は、雄の足跡の方を見ていた。
指の先だけが深い足跡は、雌のものより数が少ない。空から降りては、またすぐ飛び立ったのだろう。そのうちの一つの脇に、赤い鱗が一枚落ちていた。拾い上げると、掌ほどの大きさで、縁が黒ずんで尖っている。
――同じ鱗だ。
あの日、放牧地で拾った鱗と同じ形、同じ重さ。妹紅は指先に小さな炎を灯し、鱗に当てた。鱗は焦げない。少しだけ赤を増し、裏は冷たいままだった。
「……妹紅?」
「何でもない。――雄の鱗だ。剥がれ落ちたばかりってほどじゃないが、そう古くもない」
妹紅は鱗を理香子に渡した。理香子は鱗を標本の管に収め、番号を書き込んだ。
足跡は、岩棚の真下の平らな所で終わっていた。
そこから先は、足跡ではなかった。
土が、扇の形に抉れている。四本ずつの溝が二組、深く地面に食い込み、その周りに小石と土が放射状に飛び散っていた。飛び散った小石の一つ一つが、同じ向きへ跳ねている。
――飛び立った跡だ。
地面を蹴り、翼で風を叩き、空へ上がった跡。それが、二組並んでいる。
理香子は抉れた土の縁に膝を付き、腰の革鞄から方位磁石を取り出した。磁石を溝の上に置き、小石が跳ねた向きと見比べる。針が揺れ、ゆっくりと止まった。
「……戌亥。北西より、少しだけ西寄り」
理香子の声が、少しだけ低くなった。
「二頭とも、同じ向きよ。同じ時に、同じ方へ飛んでる」
「争った跡は?」
「無いわ。血も、鱗も、折れた枝も。……他の大型の匂いは、オキ?」
オキは土の上を鼻で辿り、それから、首を横に振るように鼻を鳴らした。唸りもしない。
――何かに追われたわけではない。
妹紅は、抉れた土を見下ろした。
あの火竜は、焼かれても刺されても、崖の巣を背中にして退かなかった。最後の最後まで、作りかけの巣の方を見ていた。
その同じ竜が、卵を残して、何にも追われずに、自分から飛んでいった。
「……戌亥、ね」
理香子が、ぽつりと呟いた。
「この前のアプトノスの群れも、戌亥へ渡っていったのよ。東の街道を越えて」
「偶々だろ」
「えぇ。偶々でしょうね」
理香子はそう答えた。答えてから、帳面の端に小さな線を一本引いた。その線の向きを、妹紅は見なかったことにした。
――岩棚までは、岩壁を登るしかなかった。
岩棚の下の斜面から先は、人の背丈の三倍ほどの切り立った岩肌になる。火竜なら一羽ばたきで届く高さだ。人の足には、手掛かりを一つずつ探って登るしかない。
妹紅が先に登り、岩の割れ目に足を掛けては、上から手を伸ばす。理香子はその手を掴み、白衣の裾を岩に引っ掛けながら、一段ずつ体を引き上げた。オキは少し離れた所から、岩の段を跳ぶように駆け上がっていく。
「……研究員を、非戦闘員を崖に登らせる依頼なんて、規定に無いわよ」
「慧音は、見てこいって言ったろ」
「言ったわね。……下りる時のことは、何も言ってなかったけど」
岩棚の縁に手が掛かる手前で、妹紅は動きを止めた。
岩棚の上は、こちらからは見えない。番が戻っていないとは限らない。雌火竜は、卵を抱いている間は物音一つ立てずに伏せていることがある。顔を出した途端、目の前に竜の顎があってもおかしくない。
妹紅は、先に岩棚へ上がったオキを見上げた。オキは岩棚の縁で鼻を動かし、それから振り返って、尾を一度だけ下ろした。
――居ない。
妹紅は岩棚の縁に手を掛け、体を引き上げた。
~東の尾根 岩棚の巣~
――岩棚の上に、白い殻が散らばっていた。
岩棚は、尾根の東側に張り出した、畳を十枚並べたほどの平たい岩だった。三方を岩壁に囲まれ、開いているのは東の空だけだ。風が当たらず、朝日が真っ先に差し込む。火竜が巣に選ぶのも分かる場所だった。
岩棚の奥に、枯れ枝と枯れ草を丸く積み上げた巣がある。差し渡しは大人の背丈の倍ほど。縁は高く盛り上がり、真ん中が浅く窪んでいる。
巣の縁には、枯れ枝の間に青い若枝が混じっていた。雌が運んだものだろう。窪みの底には柔らかな枯れ草が厚く敷かれ、その上に、抜け落ちた細かな鱗がいくつも散っている。雌が腹で卵を抱いていた跡だ。
その窪みに、卵が並んでいた。
大人が両腕で抱えるほどの大きさだ。殻は白っぽく、薄い赤茶の斑が散っている。数えると、七つ。
そして巣の縁と岩棚の上には――割れた殻が散らばっていた。
妹紅はその一つを拾い上げた。内側が乾いて、黄色い膜がこびり付いている。殻の割れ口は、何かに叩き割られたように、内側へ向かって砕けていた。
「……食われてるな」
「二つ分ね」
理香子が、散らばった殻を寄せ集めて数えた。
「九つ産んで、二つやられた。――殻の内側がまだ乾ききってないわ。割られたのは、昨夜か一昨日の夜」
妹紅は巣の脇の岩の上を見た。
拳二つ分ほどの石が、一つ転がっている。岩棚の石ではない。尾根の下の河原にあるような、丸く角の取れた石だ。表面に、卵の黄身が乾いてこびり付いていた。
その石の周りの岩肌に、小さな足跡が残っている。三本指で、鳥の足に似ていた。泥の付いた足で岩の上を歩き回った跡だ。
「――卵泥棒だ。石で叩き割って、中身を啜っていったな」
妹紅が言うと、理香子は石を手に取ってしげしげと眺めた。
「河原から石を抱えて、この崖を登ってきたのね。……器用な手のある鳥竜。卵が大好物で、岩を持って振り回す」
「クルルヤックか」
「多分。――親が居ない巣なんて、あの子達にとっては食べ放題の宴会よ」
理香子は石を置き、巣の窪みに屈み込んだ。一番手前の卵に、そっと掌を当てる。
しばらく、そのまま動かなかった。
「……冷たい」
理香子は寒暖計を卵と卵の間に差し入れ、針が落ち着くのを待った。それから、もう一つの卵に耳を押し当てる。
「火竜の卵は、親がずっと温めてないと育たないの。雌が抱いて、腹の熱で温める。――二日も放っておかれたら、普通はもう駄目だわ」
理香子は、耳を卵から離さなかった。
「でも、まだ中で動いてる。……一つだけじゃない。三つ、四つ」
妹紅は、巣の縁に膝を付いた。
卵の殻に手を当てる。冷たい。けれど、その冷たさの奥で、ほんのかすかに、トン、と何かが殻を叩いた。
――生きている。
親に捨てられて、それでもまだ。
「……どうする」
妹紅は、卵から手を離さずに訊いた。
「私に決める権限は無いわ。卵をどうするかは、ギルドマスターが決めること。――ただ、慧音さんが決めるまでに、この子達が全部冷えて死んでたら、決めることも無くなるわね」
理香子は立ち上がり、東の空を見た。日はもう高い。
「――温めないと。今夜、また冷え込んだら、残りも持たない」
「じゃあ、火を焚くか」
「焚き火じゃ駄目よ。熱が強すぎて片側だけ焼けるか、弱すぎて届かないか。リオレイアのお腹みたいに、ゆっくり、満遍なく、ずっと――」
理香子はそこまで言って、言葉を止めた。
妹紅は、もう掌に炎を灯していた。
薄い、橙の炎。風に乗って舞い上がる羽のような火だ。妹紅はその炎を両の掌に広げ、巣の窪みの上にそっと翳した。炎は卵に触れない。卵の殻の上、指一本分の所で、静かに揺れている。
理香子は黙って寒暖計を卵の間に差し入れ直した。針が、ゆっくりと上がっていく。
「……もう少し弱く。――そう。そのくらい」
妹紅は炎を絞った。理香子は針を見つめ、時々、卵に耳を当てる。
岩棚の上に、静かな時間が流れた。オキは岩棚の入り口に伏せて、尾根の下の斜面を見張っている。風が吹くたびに、巣の枯れ草がカサカサと鳴った。
「……妹紅」
理香子が、針から目を離さずに言った。
「さっき、『私の知ってる火竜は』って言ったわね。その刃の火竜?」
妹紅は、しばらく答えなかった。
炎の向こうで、卵の白い殻が橙に染まっている。
「――私が狩ったリオレウスは、巣を作ってる途中だった」
妹紅は、炎を見たまま言った。
「番を迎える前の、作りかけの巣だ。その下を里の街道が通ってた。だから、狩った。……あいつは最後まで、その作りかけの巣の方を見てたよ」
「……そう」
「番が来てたら、こういう卵を産ませてたんだろうな」
炎が、少しだけ揺れた。理香子は寒暖計の針を見て、何も言わなかった。針は揺れなかった。
「――なのに、こいつらの親は、卵を置いて飛んでった。追われもしないで」
妹紅は、ふっと笑った。笑ったのに、声は少しも明るくなかった。
「あいつが聞いたら、怒るだろうな。……いや、怒る前に、分からないって顔をするか」
理香子は、しばらく黙っていた。それから、卵にもう一度耳を当てた。
「……妹紅。一研究者の私には、竜の気持ちは測れないわ。測れるのは、足跡の向きと、卵の温かさだけ」
理香子は顔を上げた。
「でもね。巣を捨てない竜が巣を捨てたなら、それは竜がおかしくなったんじゃなくて、竜の周りの何かがおかしくなったのよ。――私は、それを測りたい」
妹紅は、理香子の顔を見た。丸眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。
「……つくづく思うが、変わった奴だなお前」
「よく言われるわ」
理香子は帳面を開き、寒暖計の目盛りを書き付けた。
「――このまま、日が暮れるまで温めて。私は一度、会館に知らせを走らせるわ。オキ、お使いを頼めるかしら?」
オキは理香子を見て、それから妹紅を見た。妹紅が頷くと、オキは理香子の書き付けを結んだ紐を首に掛けられ、尾根の斜面を一気に駆け下りていった。
~東の尾根 岩棚の巣 夕暮れ~
――日が、尾根の西の肩に沈みかけていた。
オキは日暮れ前に戻ってきた。首の紐には、慧音の短い返事が結んであった。
――『卵はそのまま守れ。明朝、里香と見に行く。夜は無理をするな』
理香子はそれを読み上げ、ほっと息を吐いた。
「里香を連れてくるなら、移すことも考えてるのね、慧音さん」
「何にせよ、一晩
妹紅は、巣の窪みに手を翳したまま答えた。日中ずっと炎を灯していたせいで、額にうっすらと汗が浮いている。卵の殻は、今はほんのりと温かかった。理香子が昼過ぎから三度、卵に耳を当て、そのたびに『動いてる』と言った。
――それから間もなく、オキが立ち上がった。
岩棚の入り口で、オキは尾根の下の斜面を睨んでいた。首の毛が逆立ち、喉の奥で低い唸りが続いている。
「……来たか」
妹紅は炎を絞り、巣の上から手を離した。
斜面の下の方で、小石が転がる音がした。カラ、カラ、と。何かが、岩を登ってくる。
――夕闇の中に、白っぽい影が現れた。
二本の太い後ろ脚で立ち、長い尾を後ろへ伸ばした鳥竜だ。乳白色の鱗に、砂色の斑が混じっている。首は細く長く、その先に大きな嘴。頭の天辺と前脚には、暖かな色の飾り羽が生えていた。そして前脚――鳥竜にしては太く発達した腕の先に、三本の指が揃っている。その指が、丸い石を一つ、抱えていた。
クルルヤックは岩棚の縁で足を止め、首を傾げた。小さな目が、巣の方へ向けられる。昨夜の宴の続きを、楽しみにして来たのだろう。
その目が、昨日は居なかった、巣の前に立つ白い髪の人影と、灰白の大きな犬を捉えた。
クルルヤックは、抱えた石を胸の前で持ち直した。――逃げない。
「――理香子、巣の陰に」
「分かってるわ。……妹紅、石に気を付けて。振りかぶったら、叩きつけてくるわ」
理香子は巣の後ろの岩壁に身を寄せ、帳面を胸に抱えた。
妹紅は、背から双剣を抜いた。
赤黒い刃が、夕日の残りを受けて鈍く光る。振り出しただけで、刃の根元から火の粉が一粒散った。
オキが、妹紅の左に並ぶ。背の鎖が、ジャラリと鳴った。
〈クルルルッ……!〉
クルルヤックが、喉を鳴らして跳んだ。
石を両腕で頭の上に振りかぶり、斜面を蹴って一気に岩棚へ躍り上がる。
「――上だ!」
妹紅は横へ跳んだ。さっきまで立っていた岩に、石がガツンと叩きつけられる。岩の欠片が飛び散り、頰を掠めた。
着地したクルルヤックが、石を抱えたまま首を巡らせる。狙いは妹紅ではない。巣だ。
妹紅は巣の前へ回り込み、双剣を低く構えた。
クルルヤックが首を引く。石を胸の前に掲げたまま、ジリ、ジリと横へ回る。石を盾にしているのだ。妹紅が踏み込めば、刃は石に当たる。
――石を持っている間は、強気だ。
理香子が昼の間に言っていた。手放させれば、臆病に戻る。
妹紅は右へ一歩踏み出した。クルルヤックが石を右へ向ける。その瞬間、左へ跳んだ。刃が鳥竜の左の腕を掠め、乳白色の鱗の上に火の粉が散る。クルルヤックは甲高く鳴き、後ろ脚で蹴り上げてきた。妹紅は身を反らして避け、二歩下がった。
クルルヤックの脚は太く、蹴りは速い。間合いは短いが、懐に入ればそれだけ蹴りも届く。双剣の間合いと、ちょうど同じだった。
「オキ!」
オキが地を蹴った。背の鎖が解け、二振りの鎌が宙を走る。双刃鎖鎌がクルルヤックの脚元を薙ぎ、鳥竜は跳び上がって避けた。避けたところへ、オキがもう一度鎌を振り回す。巣とクルルヤックの間に、鎖の唸る輪ができた。
クルルヤックは苛立ったように嘴を打ち鳴らし、石を振り上げた。オキの頭の上へ。
――叩きつけの前に、肩が沈む。
妹紅はその一瞬に飛び込んだ。右の刃で、石を抱えた腕を下から払い上げる。刃が石に当たり、火花と火の粉が一緒に散った。左の刃で、がら空きになった脇腹を斬る。右、左、右。刃を振るうたびに、火の粉の尾が引かれる。
〈クルァッ!〉
クルルヤックが跳び退いた。脇腹の乳白色の鱗に、赤い筋が三本走っている。
それでも、石は離さない。
鳥竜は、石を両腕で振りかぶったまま、後ろへ大きく跳んだ。跳んだ勢いで体を捻り、石を投げつけてくる。
石は妹紅の頭の上を越えて、巣の方へ飛んだ。
「――理香子!」
理香子が巣の陰で身を伏せる。石は巣の縁の岩壁に当たって砕け、欠片が卵の上にパラパラと降った。理香子が慰てて卵の上に覆いかぶさる。
「……大丈夫、割れてないわ!」
クルルヤックは、もう次の石を探していた。岩棚の隅の、崩れた岩の欠片を三本指で掘り起こしている。爪の先の吸い付くような指で、岩の欠片をしっかりと掴んで持ち上げた。
クルルヤックは嘴を大きく開け、吠えるように首を突き出した。一拍、そのまま動きが止まる。
「――今よ、妹紅!吠えてる間は動けない!」
理香子の声が飛ぶ。妹紅はもう踏み込んでいた。双剣を交差させ、首の付け根を斬り上げる。
クルルヤックが石を振り回した。横薙ぎ。妹紅は身を沈めて潜り、石が髪の先を掠めて通り過ぎる。その石が、巣の縁の枯れ枝を叩いた。枯れ枝が弾け、巣の縁が崩れる。
――卵が、転がった。
巣の縁から、一つの卵が岩棚の上へ転がり出る。ゴロリ、ゴロリと、岩棚の端の方へ。
その先は、尾根の斜面だ。
クルルヤックの目が、転がる卵に吸い寄せられた。抱えていた石を、ためらいもなく放り出す。空いた三本指の手で、転がる卵へ跳び付いた。
卵を抱え上げ、クルルヤックが岩棚の縁へ走る。
「――オキ、行け!」
妹紅が叫ぶより早く、オキは背の巻物の紐を牙で引き千切っていた。薬の匂いがふわりと広がる。[猛速の巻物]だ。灰白の体が、弾かれたように岩棚を駆けた。
クルルヤックが岩棚の縁から跳ぶ。斜面へ――その寸前、オキの体が鳥竜の脚に横からぶつかった。
クルルヤックの体が傾く。腕の中の卵が、宙に浮いた。
妹紅は、もう走っていた。
双剣を放り出す。岩を蹴り、両腕を前へ伸ばして、落ちてくる卵の下へ滑り込む。
ズシリ、と腕に重みが来た。
岩の上を背中で擦り、岩棚の縁のぎりぎりで止まる。腕の中に、白い卵があった。殻に、罅は一つも無い。
その背後で、オキがクルルヤックの尾に食らい付いていた。鳥竜は甲高く鳴き、オキを振り払おうと身をよじる。オキは離さない。唸りながら、鳥竜を岩棚の縁から斜面の下へ引きずり落とそうとする。
――石を失ったクルルヤックは、もう向かってこなかった。
オキの牙を振りほどくと、鳥竜は一度だけ巣の方を振り返った。それから、斜面を転がるように駆け下り、夕闇の雑木林の中へ消えていった。
〈クルル……ルル……〉
遠くで、か細く鳴く声がした。
それきり、尾根は静かになった。
――妹紅は、卵を抱えたまま仰向けに転がっていた。
背中が痛い。岩で擦った肩口がヒリヒリする。空はもう、橙から紫に変わり始めていた。
腕の中の卵が、トン、と鳴った。
「……妹紅!」
理香子が岩壁の陰から駆け寄ってきた。妹紅の腕の中の卵に、まず掌を当てる。それから耳を当て、目を閉じた。
「……動いてる。割れてないわ」
「そりゃ良かった」
妹紅は息を吐き、卵を理香子に預けて体を起こした。オキが駆け戻ってきて、妹紅の頰を鼻先で押す。それから、妹紅の擦り剥けた肩を見て、低く唸った。
「平気だ、オキ。すぐ治る」
オキは唸るのをやめなかった。妹紅の肩口に鼻を押し付けたまま、尾を固く巻いている。
「……分かったよ。悪かった」
妹紅がオキの首を抱くと、オキはようやく尾を一度だけ振った。
理香子は卵を両腕に抱え、そっと巣の窪みへ戻した。崩れた縁の枯れ枝を拾い集め、元の形に積み直す。それから、放り出された石を拾い上げ、岩棚の端から斜面の下へ投げ捨てた。
「――卵泥棒の石は、巣の近くに置いておかない方がいいわ。匂いが残るもの」
理香子は手の泥を払い、寒暖計を卵の間に差し直した。
「……冷えてきてるわ。妹紅、お願い」
「あぁ」
妹紅は放り出した双剣を拾って背に戻し、巣の前に胡座をかいた。両の掌に、また薄い炎を灯す。
~東の尾根 岩棚の巣 夜~
――夜の岩棚に、炎が一つだけ灯っていた。
空には星が出ている。尾根の下の原野は闇に沈み、遠くに博麗神社の灯りが一つだけ小さく見えた。風が岩壁に当たって、低く唸る。
妹紅は巣の前に座ったまま、炎を翳し続けていた。炎は小さく、揺れない。理香子が寒暖計の針を見て、時々『少し強く』『そのまま』と調整を指示する。それ以外に、言葉は無かった。
オキは岩棚の入り口に伏せ、耳だけを斜面へ向けている。
妹紅の肩口の擦り傷は、日が落ちてから一刻もしないうちに乾き、薄い皮が張っていた。理香子はそれをちらりと見て、何も言わなかった。代わりに、鞄から丸めた毛布を取り出し、妹紅の背中に掛けた。
「……何だ」
「夜の岩の上は冷えるわ。炎を出してる本人が冷えたら、炎も弱くなるでしょう」
「卵を包むんじゃなかったのか」
「卵は、あなたが温めてるもの」
妹紅は毛布の端を掴み、少しだけ肩に引き寄せた。
――夜が更けた頃、オキが顔を上げた。
岩棚の入り口から、斜面の闇をじっと見下ろしている。唸りはしない。ただ、首の毛が少しだけ立っていた。
妹紅も闇の方へ目を凝らした。斜面の下の岩陰に、小さな光が二つ、四つ。獣の目が、炎の明かりを返している。
「……ランポスか」
「たぶん。東の森から追い出された群れが、この辺りをうろついてるのかもしれないわ」
理香子は帳面に何かを書き付けながら、声を落とした。
「ランポスは、火竜の卵より小さな獣を狙うの。でも、親の居ない巣なら話は別ね」
光の粒は、しばらく岩陰で揺れていた。妹紅は掌の炎を、一瞬だけ高く燃え上がらせた。橙の光が岩棚の縁を越えて、斜面の闇を一度だけ照らす。
光の粒が、一斉に消えた。小石を蹴散らす音が、斜面の下へ遠ざかっていく。
妹紅は炎を元の大きさに戻した。理香子が寒暖計を見て、小さく頷いた。
「……針は動いてないわ。上手いものね」
「火の加減だけは、長いこと練習してるからな」
オキが鼻を鳴らし、また入り口に伏せた。
「……理香子」
夜半を過ぎた頃、妹紅が口を開いた。
「こいつらが孵ったら、どうなる」
理香子は、帳面から顔を上げた。
「慧音さんが決めることよ。どこか人里から離れた岩山に移して、ギルドで見守るか。研究室で引き取るか。……それとも」
「それとも?」
「――親が戻ってくるか」
理香子は、星空の西の方を見た。尾根の向こう、戌亥の方角だ。
「火竜の親は、卵や巣の異変に敏いの。どこに居ても、卵に何かあれば飛んで戻ってくる。……少なくとも、普通の火竜はね」
卵泥棒が二つも卵を割り、一つを抱えて逃げかけた。それでも、親は戻ってこなかった。
「戻ってこなかったら、こいつらは親の顔を知らずに育つわけだ」
「えぇ」
「……私が温めた卵から孵った火竜が、いつか誰かの刃になるのかもな」
妹紅は、自分の背の双剣に一瞬だけ目をやった。
理香子は答えなかった。答える代わりに、帳面の白い頁に、寒暖計の目盛りを一つ書き足した。
「――妹紅さん。今、その問いの答えを出さなくてもいいんじゃないかしら」
妹紅は、少しだけ目を見開いた。
「……お前、慧音と同じことを言うんだな」
「あら、そうなの?」
「昔な。……答えを出さなくていい、ただ忘れるな、って」
理香子は丸眼鏡を押し上げ、小さく笑った。
「なら、慧音さんの方が先輩ね。私はただ、答えを出すには材料が足りないって言いたいだけよ。――測ってから考えましょう」
妹紅は鼻で笑い、炎を少しだけ強くした。
卵の中で、また何かが殻を叩いた。今度は、隣の卵からも。トン、トン、と、小さな音が岩棚の上で重なった。
~東の尾根 岩棚の巣 夜明け~
――東の空が、白み始めた。
岩棚は東に開いている。一番に朝日が差し込む場所だ。夜の冷えが、岩の上からゆっくりと抜けていく。
妹紅は、まだ巣の前に座っていた。夜通し灯し続けた炎は、明け方には蠟燭ほどの大きさになっていた。それでも、絶えてはいない。オキは妹紅の背中にくっついて、丸くなって眠っている。
理香子は岩壁にもたれ、帳面に最後の書き付けをしていた。
番:八日目のうちに雌雄とも巣を離れたと見る。争った跡、血、他の大型の匂いなし
飛び立った向き:雌雄とも戌亥。同じ時に同じ方へ
卵:九つのうち二つをクルルヤックに割られる。残り七つ、うち少なくとも五つに中の動きを確認
処置:クルルヤック一頭を撃退。卵は藤原妹紅の炎で一晩保温。移送の要否は会館で判断
所見:巣を捨てる理由が見当たらない。火竜の子育ての記録と合わない
理香子は筆を置き、帳面の端を見る。
そこには、二本の短い線が引いてある。一本は、十日ほど前に東の街道で引いたもの。もう一本は、昨日、尾根の麓で引いたもの。
二本は、同じ向きを向いていた。
理香子は帳面を閉じ、何も言わなかった。
――尾根の下の斜面から、話し声が近付いてきた。
朝日の中を、二人の人影が登ってくる。一人は慧音。もう一人は、小柄な体に大きなスパナを担ぎ、背中に巻尺や滑車の見本を山ほど括り付けた、三つ編みの娘だ。人里ギルドで里を守る大型の兵器を造る技術係――『里香』だ。
「おーい!生きてるのですー?卵も、人も!」
里香の大声が、尾根に跳ね返った。オキが目を覚まして顔を上げ、一度だけ吠える。
妹紅は、蠟燭ほどの炎を掌の上で静かに消した。
岩棚に上がってきた慧音は、まず卵を見た。それから、巣の前に胡座をかいた妹紅を見た。妹紅の背には理香子の毛布が掛かっていて、掌にはまだ炎の名残の熱が揺らいでいる。
「……一晩中か」
「卵が冷えるって、理香子がうるさくてな」
「うるさく言ったのは最初だけよ。後は、妹紅が勝手に温め続けたの」
理香子が帳面を慧音に差し出す。慧音は報告の頁に目を落とし、一行ずつ読み進めた。最後の行で、指が止まる。
慧音は顔を上げ、戌亥の空を見た。それから、妹紅の顔を見た。
「――妹紅」
「何だ」
「……いや。よくやってくれた」
慧音はそれだけ言って、帳面を閉じた。妹紅は、慧音が本当は何を言いかけたのか、訊かなかった。
里香はもう、岩棚の縁から崖の高さを巻尺で測り始めていた。
「卵が七つかぁ。この崖から揺らさずに下ろすなら、滑車と吊り籠をちゃんと組まないと無理なのです。下ろした後は、藁を詰めた台車で里まで。……十日はかかるのです、慧音さん」
「十日か」
「急ぐと割れるのです。火薬樽と同じ……こう見えて、大砲の弾より繊細なものを運ぶのは得意なのです」
「揺らさないでね。中で動いてるんだから」
理香子が眉をひそめ、慧音は戌亥の空をもう一度見た。
「……それまで、ここに見張りを立てる。卵泥棒も、もし番が戻ってきた時もだ。――移すかどうかは、その間に決めよう」
朝日が岩棚に差し込み、巣の窪みの卵を照らす。白い殻の赤茶の斑が、朝の光の中で温かな色に見えた。
一番手前の卵が、トン、と鳴った。
「……おはよう」
妹紅は、誰にともなくそう言った。
岩棚の上を、夜明けの風が通り抜けていく。風は東から吹き、尾根を越えて、戌亥の方へ流れていった。
『里香』
所属:人里ギルド
役職:技術係。バリスタや大砲、撃龍槍など、里を守る大型の兵器を設計・整備する