東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~人里 茶屋『ふたつ岩』~
――串に刺さった団子が、皿の上で冷めていく。
夕暮れの茶屋は、客がまばらだった。人里の大通りから一本入った路地の奥、暖簾に二つの岩が染め抜かれた小さな店だ。店先の縁台では、近所のご隠居が二人、将棋盤を挟んで唸っている。
奥の小上がりに、一人の少女が正座していた。
――長い桃色の髪に、青い格子柄の上着。喜と哀の顔のような模様の入った、丸く膨らんだ桃色のスカート。肩と前腕と脛には、鈍色の甲殻を重ねた狩りの装備を着けている。頭の横には面が一つ、そして体の周りには、何枚かの面が音もなく浮かんでいた。
人里ギルドに籍を置くハンターにして、本業は能楽師――面霊気『秦こころ』だ。
こころの顔は、何の表情も浮かべていない。ただ、周りに浮かぶ面のうち、皺の深い老婆の面――姥の面だけが、こころの頭の上で、ゆっくりと揺れていた。
装備の裾には、乾いた泥と、紫色の染みがこびりついている。
「……悲しい顔をしとるのう」
帳場から、煙管をくわえた女将が声を掛けた。
茶色の髪に木の葉を一枚載せ、丸眼鏡を鼻にずらしている。割烹着の腰の後ろからは、縞模様の大きな尻尾が、隠す気もなく畳の上に垂れていた。
茶屋『ふたつ岩』の女将にして、人里ギルドのご意見番。佐渡から来た化け狸の親分――『二ッ岩マミゾウ』である。
「顔は、悲しくない」
こころは、表情の動かない顔で答えた。
「面が悲しいだけだ」
「面霊気には同じことじゃろう」
マミゾウは煙管を置き、盆に新しい茶を載せて小上がりへ上がってきた。こころの向かいに腰を下ろし、冷めた団子の皿を脇へ寄せる。
「それで、また逃げられたか」
「……二度目だ」
こころは、膝の上に置いた紙を一枚、マミゾウの方へ滑らせた。
受注の欄には、こころの名と、五日前の日付が書いてあった。
「五日前に請けた。公演の、五日前だ」
「三日前からは請けん、という約束じゃったな。慧音との」
「だから、五日前に請けた。二日あれば終わると思った」
こころの周りで、面が一枚、くるりと入れ替わった。姥の面が退き、代わりに、目を吊り上げた女の面――般若の面が、こころの頭の上に浮かぶ。
「一度目は、目の前で光る実を割られた。何も見えなくなって、気が付いたら木の上に居なかった。二度目は、紫の実の煙を浴びて、膝を付いている間に飛んで逃げた」
「それで、その染みか」
マミゾウが、こころの裾の紫の染みを、煙管の先で指した。
「毒の煙じゃな。よう[解毒薬]が間に合ったのう」
「間に合った。……でも、逃げられた」
般若の面が、ぴくりと震えた。
「公演は、明日の夕方だ」
「知っとる。広場に舞台も組み上がっとる。小鈴が朝から、予定表を三回は見に来とった」
「明日の夕方までに、終わらなかったら」
こころは、まっすぐにマミゾウを見た。
「――我々は、公演に出ない」
マミゾウは、黙って茶を啜った。
受けた依頼は、公演より優先して最後までやり通す。途中で帰らない。――こころが登録のときに、自分から慧音に出した約束だ。三日前から依頼を請けない、というのと同じ紙に、同じ筆で書いてある。
「慧音は、明羅に回そうかと言うとったぞ」
「断った。私が請けた依頼だ。譲りはしない」
「じゃろうな」
マミゾウは、ふっと笑った。
「お主は、どっちも取る気でおるな。狩りも、能も」
こころは答えなかった。般若の面が、少しだけ揺れを弱める。
マミゾウは湯呑みを置き、帳場の方へ顎をしゃくった。
「――おい。出てこい」
帳場の陰から、一人の小僧が、おずおずと顔を出した。
十ほどの年の、丸顔の小僧だった。頬に膏薬を貼り、目の周りが少し赤い。小僧はマミゾウの隣まで来て正座すると、ぺこりと頭を下げた。頭を下げた拍子に、着物の裾から、ふさふさの尻尾がぽんと飛び出す。
「……狸か」
「儂の所の若いのじゃ。三日前、行商人に化けて街道を歩いておってな」
小僧は、膏薬を指で押さえて、悔しそうに唇を噛んだ。
「いきなり、木の上から、紫の実をぶつけられたんです。荷物も、化けた籠ごと持っていかれて」
「化け狸が化かされたわけじゃ。情けないのう」
「親分!」
小僧が顔を赤くする。マミゾウはからからと笑い、それから、こころに向き直った。
「こやつ、逃げたあの獣の後を、こっそり尾けておったんじゃ。転んでもただでは起きん。――のう、言うてみい」
「は、はい。あの獣は、街道から西へ入った窪地の、古い柿の木の林に帰っていきました。崖の下の、昔の庄屋さんの柿畑です。夜は、そこの一番大きな木の上で寝てます」
こころの周りで、また面が入れ替わった。般若の面が退き、目を細めた狐の面が、こころの頭の横に並ぶ。
「……寝床、か」
「うむ、寝床じゃ。お主の二度は、どっちも街道で追っておったじゃろう。あの獣は、街道では遊んどるだけじゃ。帰る場所は別にある」
マミゾウは煙管を取り上げ、火皿に新しい葉を詰めた。
「明日の朝、儂も行こう」
「……マミゾウは、狩りには出ないと聞いた」
「出んよ。儂は狩りはせん」
マミゾウは煙管に火を点け、細く煙を吐いた。
「行商人に化けて、街道を歩くだけじゃ。あの獣は、通りすがりにちょっかいを出さずにおれん性分なんじゃろう?なら、一番おいしそうな通りすがりになってやろう」
「囮か」
「化かし合いじゃよ。化け狸の若いのが化かされたまま、では、儂の名が廃る」
こころは、しばらくマミゾウの顔を見ていた。
それから、小さく頭を下げた。周りの面が、揃って一度、ふわりと上下する。
「――頼む」
「うむ。その代わり、明日の夕方は、ちゃんと舞台に立つんじゃぞ」
「依頼が終わったら」
「終わらせるんじゃよ」
マミゾウは煙管の雁首で、こころの額を軽く小突いた。
~人里の南西 山の手の街道~
――街道に朝靄が低く溜まっている。
人里から南西へ延びる山の手の街道は、雑木林の間を縫うように山裾へ上っていく。明け方の靄が、林の根元を白く埋めていた。鳥の声はまだ少なく、どこかで沢の水の音がする。
こころは街道の脇にしゃがみ込み、土の上の跡を見ていた。
背には、長い柄の太刀を負っている。柄の長さは、刀身とほとんど変わらない。薙刀のようにも握れる、長巻の拵えだ。鍔は面の形をしていて、柄頭からは赤い房が一筋、靄の中に垂れていた。
――泥翁刀『序破急』。泥の中に棲む翁の竜の爪を研ぎ上げた刀身に、黄金色の筋が一本、走っている。
足跡は、街道の土に深く残っていた。
拳ほどの窪みが、二つずつ並んでいる。指を握り込んで、拳の背で地面を突いて歩いた跡だ。その後ろに、もう少し小さな、後ろ脚の跡。
「……牙獣だ」
こころは呟いた。
拳の跡の脇に、もう一つ、奇妙な跡がある。五つの細い溝が、扇のように広がって土を掻いていた。指にしては長く、爪にしては柔らかい。
「尻尾じゃ」
背後で声がした。
振り返ると、街道の真ん中に、一人の行商人が立っていた。
背中に大きな籠を背負い、頬被りをした、日焼けした小男だった。籠からは熟れた柿が溢れそうになっていて、甘い匂いが靄の中に漂っている。
男は頬被りの下で、にやりと笑った。笑った拍子に、丸眼鏡がずり落ちる。
「どうじゃ。誰が見ても、柿売りの親父じゃろう」
「……マミゾウ」
「声を出すと、化けの皮が剥がれるでな。囮の時は、寡黙な頑固親父らしく黙っとるぞ」
そう言いながら、マミゾウは籠を背負い直し、こころの隣にしゃがんだ。尻尾は、さすがに見えない。
「その五つの溝は、あの獣の尻尾じゃ。若いのが言うには、尻尾の先が手のように開いて、物を掴むんじゃと。木の枝にぶら下がるのも、実を投げるのも、尻尾でやる」
「尻尾で投げるのか」
「うむ。それで、腕は空いとる。腕で殴るし、腕で目も覆う。器用な獣よ」
こころは立ち上がり、街道の脇の木を見上げた。
楢の木の幹に、爪の跡が四本、斜めに走っていた。人の背丈の三倍ほどの高さだ。その爪痕のすぐ上に、五つの溝が、扇の形に樹皮を剥いでいる。
「……ここに張り付いて、上から投げた」
「二度目のときか」
「そうだ。私は、下を見ていた」
こころの周りで、般若の面がちらりと浮かびかけ、すぐに狐の面に押し戻された。
二人は、街道を少しずつ上っていく。
道端の草むらに、潰れた実が転がっていた。橙色の、大きな柿だ。拳二つ分はある。皮が裂けて、熟しきった中身が土に染み込み、蟻が列を作っていた。
「ただの柿じゃな」
マミゾウが、指で突いた。
その少し先には、色の違う実の残骸があった。
一つは、紫色に黒ずんだ皮。割れた中身は、腐ったような黒い汁になっていて、周りの草が、そこだけ茶色く萎れている。もう一つは、白っぽい薄黄色の皮。割れた内側が、陶器のようにつるりと光っていた。
こころは紫の残骸を見て、裾の染みに目を落とした。
「紫は、毒の煙だ。黄色いのは、光る」
「会館の理香子曰く、同じ柿でも、腹の中で寝かせ方を変えるとこうなるんじゃと」
マミゾウが、紫の実を木の枝で裏返した。鼻の曲がりそうな、饐えた酒のような匂いが立つ。
「あの獣は、腹に袋を持っとる。採った実を袋に溜めて、中で熟れさせる。熟れすぎると、毒になる。……若いのが、袋の口が開くところを見たそうじゃ」
「腹の袋」
「人の荷を荒らすのも、袋に詰める実を探しとるんじゃろうな」
こころは、紫の実から目を離し、街道の先を見た。
――熟れた実と、毒の実と、光る実。
同じものを、腹の中で別々の武器に変えている。
街道が、雑木林の切れ目で二股に分かれていた。片方は山裾へ上り、片方は西の窪地へ下っていく。
下りの道の入口に、黒い羽根が一枚、落ちていた。
こころは拾い上げた。鳥の羽根にしては短く、硬い。付け根に、獣の毛が少しだけ絡みついている。
「腕の羽根じゃな」
マミゾウが言った。
「腕に、小さな翼が付いとる。滑空に毛が生えた程度で飛ぶのは下手じゃが、逃げるときだけは飛ぶ。……お主の二度とも、それで逃げられたんじゃろう」
こころは羽根を腰の袋にしまった。
窪地へ下る道の先から、甘い匂いが、靄に混じって上ってくる。熟れた柿の匂いと、その奥に、酒のような、腐りかけの匂い。
「――あっちだ」
「うむ。若いのの言うたとおりじゃ」
マミゾウは籠を背負い直し、こころを見た。
「お主は先に下りて、寝床を見てこい。儂は街道に残る。あの獣が下りてきたら、ここで籠を広げて待っとる」
「……一人で、大丈夫か」
「儂を誰じゃと思うとる」
柿売りの親父の顔で、マミゾウはにんまりと笑った。
~山の手の窪地 古い柿畑~
――崖の下、柿の木が並んでいる。
窪地の底に、柿畑があった。誰も手入れをしなくなって久しいのだろう。柿の木はどれも枝が伸び放題で、下草が腰の高さまで茂っている。畑の奥は、苔むした岩の崖になっていた。崖の上から、細い沢の水が糸のように落ちている。
こころは、畑の縁の藪に身を伏せた。
足元の下草に、踏み固められた獣道が一本、畑の奥へ続いている。道の脇には、柿の皮やへたが、点々と捨てられていた。どれも、まだ新しい。
畑の一番奥、崖のすぐ手前に、ひときわ大きな柿の木が一本、立っていた。
その太い枝に――何かがぶら下がっていた。
尻尾で枝を掴んでいる。
逆さにぶら下がった体は、人の背丈の倍以上もあった。背中から腕にかけて、赤茶と黒の毛並み。頭には、山伏の頭巾のような、黒く尖った角。角の付け根から、嘴のような鋭い鼻先が、前へ突き出していた。
前脚の付け根には、小さな翼が畳まれている。そして、枝を掴んでいる尻尾の先は――五つに分かれて、人の手さながらに開いていた。
獣は、逆さのまま、腹の前で何かをいじっていた。
腹の皮が、袋の口のように開いている。獣はその中から柿を一つずつ取り出しては、尖った鼻先で匂いを嗅ぎ、また袋に戻していた。橙の実、紫の実、薄黄色の実。色ごとに、袋の中の別々の所へ仕分けているように見える。
そして一つ、橙の実を取り出した。
獣は鼻先を寄せ、しばらく匂いを嗅いでから、満足そうに鼻を鳴らした。それから、実を丸ごと嘴のような口に放り込み、むしゃむしゃと噛み砕く。甘い汁が、逆さの顔を伝って地面に垂れる。
――食べている。
こころは、息を殺して見ていた。
獣はもう一つ、橙の実を取り出しかけて、ふと手を止めた。首を傾け、崖の上を見上げる。崖の上の林で、小鳥が一羽、枝から飛び立った。
獣は、すっと尻尾を伸ばした。
五つに分かれた尻尾の先で、枝の先の熟れた柿を一つもぎ取り、崖の上の小鳥が居た辺りへ、ひょいと放り投げる。柿は崖の縁の岩に当たって潰れ、橙色の汁が飛び散った。
獣は、それを見て、喉の奥で笑うような声を上げた。
〈ケケッ、ケケケッ……〉
――遊んでいる。
小鳥を狙ったのではない。投げて、潰れて、驚いて逃げる様子を、ただ面白がっている。
ビシュテンゴは、温かく湿った森に棲む牙獣である。腹の袋に溜めた柿を熟れさせ、熟れ具合によって、ただの実にも、毒の実にも、光る実にも変える。好奇心が強く、通りすがりの生き物にいきなり悪戯を仕掛けては、その慌てぶりを楽しむ。
こころは、獣の頭の角を見た。
黒く尖った角は、思っていたより小さかった。片方の先が、少しだけ欠けている。
――若い。
角の小さい天狗獣は、角の大きいものに従う、と小僧は言っていた。山の奥で、角の大きい仲間に追われて、ここまで下りてきたのかもしれない。
こころの周りで、姥の面が、一瞬だけ浮かびかけた。
こころは、それを押し戻した。
――我々は、今、悲しむ時ではない。
狐の面が、頭の横で静かに並ぶ。
こころは藪の中で、作戦を組み立てた。
寝床の木の下は、下草が深い。罠を置くなら、獣道の真ん中、木の根元の手前だ。弱らせるのは、寝床ではなく、街道で。マミゾウの籠に釣られて下りてきたところを、街道で叩く。疲れれば、獣は寝床へ帰る。帰る道の上で、罠に掛ける。
こころは腰の袋から[シビレ罠]を取り出した。
獣が柿を食べるのに夢中になっている間に、藪の陰を伝って木の根元へ近付く。獣道の土を掻き、罠を埋め、上から落ち葉を被せた。息を止めて、また藪の陰へ戻る。
頭上で、獣が二つ目の柿を噛み砕く音がした。
こころは振り返らずに、窪地を出た。
~山の手の街道~
――柿売りの親父が、街道の真ん中で籠を下ろしていた。
靄はすっかり晴れていた。朝の光が、雑木林の梢を金色に染めている。
マミゾウは街道の脇の切り株に腰掛け、籠の蓋を開けて、熟れた柿を並べていた。一つ、二つ、三つ。手拭いで一つずつ磨いては、日向に並べる。甘い匂いが、街道に満ちていく。
こころは、街道の上手の藪に伏せていた。
――来るか。
しばらくは、何も起きなかった。
鳥が鳴き、風が梢を揺らす。マミゾウは柿を磨き続け、時々、退屈そうに大きな欠伸をした。
やがて、窪地の方の林で、枝が鳴った。
バサ、バサ、と下手な羽ばたきの音。続いて、木から木へ、何か重いものが跳び移る音。音は、少しずつ街道へ近付いてくる。
マミゾウは、欠伸をしたまま、手を止めなかった。
街道の脇の楢の木の上で、葉が大きく揺れた。
ビシュテンゴが、尻尾で幹に張り付いて逆さに顔を覗かせていた。鼻先をひくつかせ、マミゾウの並べた柿を、じっと見下ろしている。
マミゾウは、気付かないふりをして、四つ目の柿を磨いた。
天狗獣の腹の袋が、開く。
尻尾の先が、袋の中に差し込まれ、紫の実を一つ、掴み出した。
「――マミゾウ!」
こころが藪から飛び出すのと、紫の実が投げ下ろされるのは、同時だった。
マミゾウの姿が、ぼん、と白い煙に包まれた。
紫の実が、切り株の上で潰れる。毒の煙が、もわりと街道に広がった。けれど煙の中には、もう柿売りの親父は居なかった。切り株の上に残っていたのは、一枚の木の葉だけだった。
ビシュテンゴは木の葉を見下ろして、きょとんと首を傾げる。
「――ほれ、こっちじゃよ」
街道の向こうの杉の上から、マミゾウの声がした。いつの間にか、元の姿に戻っている。縞の尻尾を枝に巻き付けて、煙管をくわえていた。
「化かされた気分は、どうじゃ」
ビシュテンゴが、杉の上のマミゾウを見上げる。
その一瞬の隙に、こころは楢の木の根元まで駆け込んでいた。
背から太刀を抜き放つ。長い柄を両手で握り、下から上へ、幹に張り付いた尻尾の付け根を斬り上げる。
刃が、尻尾の毛を裂いた。
天狗獣が、甲高い悲鳴を上げて幹から剥がれ落ちた。空中で体を捻り、拳を突いて街道に着地する。着地の勢いのまま、こころを睨み据えた。
角の付け根の鼻先が開き、威嚇の声が雑木林を震わせた。
――遊びは、終わりだ。
こころは太刀を中段に構えた。周りの面が、狐の面を残して、すっと背後へ退いていく。
ビシュテンゴが尻尾で立ち上がる。
五つに分かれた尻尾の先を地面に突いて、体を高く持ち上げる。人の背丈の倍の高さから、両腕を大きく広げ、腕の翼を扇のように開いた。
腕が、横薙ぎに振られる。
こころは身を沈め、腕の下を潜った。太刀の柄を短く持ち替え、潜りざまに脇腹を斬りつける。浅い。毛が厚い。
天狗獣は尻尾で跳ね、こころの頭上を越えて背後へ回った。
空中で、尻尾が袋に差し込まれる。
――来る。
橙の実が二つ、尻尾の先に掴まれていた。天狗獣は体を捻り、尻尾をしならせて、二つの実を同時に投げつけた。
実は、真っ直ぐには飛んでこなかった。途中で大きく曲がり、左右から挟み込むように、こころへ迫る。
こころは一歩、前へ出た。
曲がりきる前の実の間へ、体を割り込ませる。右の実が肩を掠め、左の実が背後の地面で潰れた。甘い汁が、裾に跳ねる。
こころは、そのまま踏み込んだ。
太刀を長く持ち直し、薙刀を振るように、遠い間合いから脚を払う。刃が後ろ脚の毛を裂き、天狗獣がよろめいた。
「――今度は、黄色じゃ!」
杉の上から、マミゾウの声が飛んだ。
天狗獣が、腕で自分の目を覆っている。尻尾の先には、薄黄色の実。
――光る。
一度目は、これで何も見えなくなった。
こころは、頭の横の面を掴んだ。
狐の面を、顔の前にかざす。
白い光が、街道を真っ白に塗り潰した。
面の内側は、暗かった。面の目の穴から、白い光が細く差し込むだけだ。こころは面越しに、光の向こうの影を見た。目を覆った腕を下ろしかけている、天狗獣の影。
――我々は、面だ。
光を遮るのは、こころにとって、一番慣れた仕事だった。
光が引く。
天狗獣は、こころがまだ目を押さえて蹲っていると思ったのだろう。腕を下ろし、鼻先を突き出して、のそりと近付いてきた。
こころは面を退け、跳んだ。
面の形の鍔が、陽に光る。踏み込みと同時に、太刀を上段から振り下ろした。刃が、角の欠けた方の付け根を打つ。
――バキン、と乾いた音がした。
黒い角の先が欠け飛び、街道の土に突き刺さった。天狗獣が頭を振り、甲高く喚く。
ビシュテンゴの目が、赤く血走った。
毛並みが逆立ち、腕の翼が大きく広がる。鼻息が荒くなり、口の端から、熟れた柿の汁が泡になって垂れた。――怒り状態だ。
ビシュテンゴは、尻尾で体を捻った。
体を独楽のように回しながら、こころへ向かって転がるように突っ込んでくる。
こころは横へ跳んだ。だが、天狗獣の腕の翼が、跳んだこころの肩を打った。
体が浮き、街道の脇の草むらへ叩きつけられる。
「……っ」
息が詰まった。
起き上がろうとしたこころの目の前に、紫の実が落ちてきた。
実が割れ、黒い煙がモワリと顔を包む。
喉が焼けた。目の奥が熱くなり、指先が痺れる。こころは煙の中で膝を付き、腰の袋を探った。
周りの面が、入れ替わる。
狐の面が退き――目を吊り上げた、般若の面が、こころの頭上に浮かんだ。
――逃がさない。
こころは、解毒薬の瓶を握ったまま、立ち上がっていた。
飲むより先に、太刀を握り直していた。煙の向こうの天狗獣へ、踏み込もうとする。
「――こころ!般若が出とるぞ!」
マミゾウの声が飛び、こころの足が止まった。
般若の面が出たら、組む者は声をかける。――そういう約束だった。般若の面のこころは、攻めが鋭くなる代わりに、退き時を忘れる。
こころは、手の中の瓶を見た。
栓を抜き、一息に呷った。苦い薬が喉を通り、焼けるような熱さが少しずつ引いていく。指先の痺れが、遠のいていく。
般若の面が、ゆっくりと退いた。
代わりに、狐の面が戻ってくる。
「……助かった」
「礼は、舞台で言え」
杉の上で、マミゾウが煙管を振った。
こころは太刀を構え直した。
怒ったビシュテンゴは、街道の脇の崖に飛びついていた。尻尾で崖の岩肌に張り付き、上から次々と実を投げ下ろしてくる。橙、紫、橙、黄色。
こころは、もう下だけを見てはいなかった。
投げる腕と、尻尾の向き。袋に差し込まれる尻尾の、どの指が、どの色を掴んでいるか。こころは見て、躱し、また見る。橙は避ければいい。紫は風上へ。黄色は面で。
――序。
静かに構え、待つ。
天狗獣が、崖の上から体を撓めた。崖を蹴り、回転しながら、こころへ向かって落ちてくる。
――破。
こころは、半歩だけ横へずれた。
回転する体が、こころの鼻先を掠めて街道に突き刺さる。土煙が上がる。天狗獣の体が、回転の勢いを殺しきれずに、一瞬だけ横倒しになった。
――急。
こころは、太刀を振り抜いた。
長い柄の遠心が、刃に乗る。黄金色の筋の走る刀身が、ビシュテンゴの脇腹から腕の翼の付け根へ、深く斬り込んだ。
ビシュテンゴが、悲鳴を上げて転がった。
~山の手の街道~
――投げた実が、木に当たらなくなった。
陽が高くなる頃には、ビシュテンゴの動きは、目に見えて崩れていた。
尻尾で立ち上がっても、すぐに体が傾く。袋から実を取り出しては投げるが、実はこころの頭の上を越え、見当違いの方の藪に落ちて潰れる。紫の煙が、誰も居ない草むらで虚しく広がった。
「……狙いが外れている」
「疲れとるんじゃ」
杉の上から、マミゾウが言った。
「さっきから、腹の袋の口も開きにくそうじゃ。……もうじき、帰るぞ」
マミゾウの言葉どおりだった。
ビシュテンゴは、最後の橙の実を投げ損ねて取り落とすと、くるりと背を向けた。腕の翼を広げ、下手な羽ばたきで、窪地の方へ低く飛んでいく。
こころは走った。
追い付こうとはしない。距離を保ったまま、獣の背中を見失わないように。マミゾウも杉から飛び降り、こころの後ろに続いた。
~山の手の窪地 古い柿畑~
――寝床の木の下で、ビシュテンゴが膝を付いていた。
ビシュテンゴは、獣道を這うように柿畑の奥へ進み、一番大きな木の根元に辿り着いたところで、ぐったりと腹這いになった。荒い息が、背中の毛を上下させている。それでも尻尾だけは、頭の上の枝に伸ばそうとしていた。枝の上の寝床へ、登ろうとしているのだ。
尻尾の先が、枝に届かない。
ビシュテンゴは、もう一度体を起こし、根元の手前の落ち葉を踏んだ。
――バチィッ。
落ち葉の下から、青白い火花が弾けた。
天狗獣の体が、硬直した。尻尾が中途半端に伸びたまま固まり、腕の翼が小刻みに震える。
「マミゾウ!」
こころは[捕獲用麻酔玉]を投げた。
玉は天狗獣の鼻先で割れ、白い煙が広がる。続けてマミゾウが、こころから受け取ったもう一つを、器用に下手投げで放った。玉は首の付け根で割れ、煙が獣の頭を包み込む。
ビシュテンゴは、二度、三度と瞬きをした。
尖った鼻先が、ゆっくりと下がっていく。こわばっていた尻尾から力が抜け、五つに分かれた先が、だらりと地面に垂れた。罠の痺れが解ける頃には、ビシュテンゴは落ち葉の上で、大きな寝息を立て始めていた。
こころは、しばらく太刀を構えたまま動かなかった。
寝息が、規則正しく続く。腹の袋が、寝息に合わせて小さく膨らんでは萎む。
こころは、ようやく太刀を背に納めた。
「――終わった」
「うむ。終わったのう」
マミゾウが、こころの隣に並んだ。煙管に新しい葉を詰めながら、眠る天狗獣を見下ろす。
「角の小さい、若い奴じゃな。山で角の大きいのに追われてきたんじゃろう」
「……多分」
「人の荷を荒らして、化け狸を化かして。獣とて、寂しかったのかもしれんのう」
こころの周りで、姥の面が、ふわりと浮かんだ。
今度は、こころはそれを押し戻さなかった。
陽は、もう真上を過ぎていた。
「……公演は、夕方だ」
こころが呟く。
「移送の手配は、慧音に頼んである。会館の搬送班が、荷車を牽いてくることになっている。――来るまでは、ここを離れない」
「途中で帰らない、じゃったな」
「そうだ」
マミゾウは、空を見上げた。日の傾きを測るように、片目を細める。
「搬送班が来るのは、早くて八つ時じゃろう。それから里まで駆けても、舞台に間に合うかどうか」
「間に合わなかったら、間に合わないでいい」
こころの声は、平らだった。
「受けた依頼は、最後までやり通す。そう約束した」
マミゾウは、しばらくこころの横顔を見ていた。
それから、煙管に火を点け、細く煙を吐いた。
「――なら、儂が先に行く」
「……マミゾウ?」
「舞台は、幕が上がるまでが一番長いんじゃ。客を待たせる間、誰かが場を持たせにゃならん」
マミゾウは、腰の徳利を叩いて、にやりと笑った。
「前座じゃよ。化け狸の、とっておきの前座じゃ。安心せい。――お主が来るまで、客は一人も帰さん」
~山の手の窪地 古い柿畑 昼下がり~
――柿の葉が一枚、眠る獣の鼻先に落ちた。
マミゾウが去った後の柿畑は、静かだった。
こころは寝床の木から少し離れた岩に腰を下ろし、眠るビシュテンゴを見張っていた。太刀は膝の上に横たえてある。麻酔は効いているが、眠りが浅くなれば暴れ出すかもしれない。そのときは、もう一度眠らせなければならない。
ビシュテンゴは、落ち葉の上で丸くなっていた。
尖った鼻先から、すう、すう、と寝息が漏れる。欠けた角の付け根に、乾いた血がこびりついていた。腹の袋の口からは、潰れかけた橙の柿が一つ、半分だけ覗いている。
こころは、それを見ていた。
周りの面は、静かだった。姥の面が一枚、ゆっくりと頭の上を回っている。
――あの竜も、オロミドロも帰る場所を探していた。
田を溶かして住処に変えたオロミドロも、山奥から下りてきた竜だった。捕まえて山へ戻すはずだった。だが捕獲は失敗し、足元に開いた泥の穴の縁で、こころは動けなくなった。止めを刺したのは神子で、こころの前に出たのは白蓮だった。
――あの日、こころの手には何も残らなかった。残ったのは、二人から半分ずつ渡された素材と、舞うことだけだった。
だが今日は、違う。
こころは、膝の上の太刀の柄に、そっと手を置いた。面の形の鍔が、指先に冷たい。
崖の上から、沢の水が落ちる音がする。柿の葉が、また一枚、眠る獣の背に落ちた。
――どれくらい座っていたのか。
窪地の入口の方から、軋む車輪の音が聞こえてきた。
荷車だった。会館の搬送班の男達が四人がかりで牽いてくる。その先頭を、頬に膏薬を貼った丸顔の、化け狸小僧が、ちょこちょこと駆けていた。
「お待たせしましたぁ!……あ、寝てる」
小僧は眠るビシュテンゴを見るなり、こころの陰に隠れた。尻尾が、着物の裾からまたはみ出している。
「親分から、言付けです。『こっちは任せて、早う来い』って」
「……まだだ」
こころは立ち上がった。
「荷車に積んで、窪地を出るまで見届ける」
搬送班の男達が、太い縄と丸太で天狗獣の体を荷台へ引き上げる。こころは尻尾の側に回り、五つに分かれた尻尾の先を一本ずつ畳んで、荷台の縁に縄で留めた。眠っていても、何かを掴もうとするように、指先がかすかに動く。
荷車が窪地の坂を上りきり、街道へ出た。
そこで、こころはようやく、搬送班の男達に頭を下げた。
「――では、後を頼む」
それから、人里の方へ向かって、走り出した。
~人里 広場の能舞台~
――広場の舞台に、篝火が灯り始めている。
人里の広場には、朝から組み上げられた檜の舞台が据えられていた。正面の客席には、茣蓙が隙間なく敷かれ、里の人々が詰めかけている。子供、年寄り、仕事帰りの職人。茣蓙の一番前の列には、受付の小鈴が、こころの公演予定表を胸に抱えて座っていた。
開演の刻は、とうに過ぎていた。
客席が、少しずつざわつき始めた頃だった。
舞台の袖から、ぽん、と木の葉が一枚、舞い上がった。
木の葉は篝火の上でくるりと回り、舞台の真ん中に落ちる。落ちた所から白い煙が立ち、煙の中から、縞の尻尾の女将が現れた。
「――やあやあ、皆の衆。待たせてすまんのう」
客席から、どっと笑いが起きた。茶屋の女将の顔を知らない者は、里には居ない。
「主役は今、ちと野暮用でな。山の手の街道で、天狗のような獣と化かし合いをしておる」
マミゾウは扇子を広げ、舞台の上をゆっくりと歩いた。
「その獣はのう、腹に袋を持っておって、柿を詰め込んでは熟れさせる。橙の柿は、ただ甘い。紫の柿は、毒の煙。黄色い柿は、ぱっと光る」
マミゾウが扇子を振るたびに、舞台の上に木の葉が舞い、木の葉が橙や紫や黄色の柿に化けて、コロコロと転がる。子供達が歓声を上げる。
「さて、ここに一人の化け狸の小僧が居った。こやつ、行商人に化けて街道を歩いておったところ――」
マミゾウは、クルリと回った。
次の瞬間、舞台の上には、頬被りをした柿売りの小男が立っていた。小男は籠を背負い、きょろきょろと辺りを見回してから――突然、頭を抱えて転げ回った。
「わぁっ、紫の柿じゃあ!臭い、臭い!」
客席が、腹を抱えて笑った。小鈴も、予定表を抱えたまま、口元を押さえて肩を震わせている。
マミゾウの前座は、それから半刻も続いた。
ビシュテンゴに化け、行商人に化け、最後には、太刀を構えた面の少女にまで化けてみせた。化けたこころは、無表情のまま、面だけをくるくると入れ替える。その面が、どれもこれも少しずつ間抜けな顔をしていて、客席はまた沸いた。
――その笑い声の中を、一人の少女が、広場の端から駆けてきた。
桃色の髪が、篝火の明かりに揺れる。狩りの装備の裾には、乾いた泥と、紫の染みと、橙色の柿の汁。顔は、何の表情も浮かべていない。
ただ、その周りで、ひょっとこの面と、福の神の面が、くるくると楽しそうに回っていた。
舞台の上のマミゾウが、客席の向こうのこころに気付いた。
化けたこころの姿のまま、マミゾウは扇子をぱちんと閉じた。
「――おっと。本物が来おったわい」
客席が、一斉に振り返る。
こころは、客席の真ん中で足を止めた。何百もの目が、自分を見ている。こころは、その目を一つ一つ見返すように、ゆっくりと首を巡らせた。
それから、深く一礼した。
「……遅くなった。支度をする」
小鈴が、予定表を握り締めたまま、大きく頷いた。
こころは舞台の袖へ消えた。
マミゾウは元の姿に戻り、舞台の真ん中で、客席に向かって深々と頭を下げた。
「前座は、これにて仕舞い。――さあ、ここからが、本物の舞台じゃ。面が織りなす舞、しかとご覧じよ」
篝火が、ぱちりと爆ぜた。
袖の奥で、笛の音が一つ、細く長く鳴った。
~人里 広場の能舞台 袖~
――面を付ける前の顔は、やはり何の表情も浮かべていなかった。
こころは、狩りの装備を脱ぎ、公演用の装束に着替えた。泥と柿の汁の染みた狩りの装備は、袖の隅に畳んで置く。背の太刀も、その隣に立てかけた。
体に結びつけていた紐を、こころは指で確かめた。紐の先には、希望の面が結ばれている。今日一日、一度も外れなかった。
袖の幕の隙間から、マミゾウが顔を覗かせた。
「間に合ったのう」
「……間に合わせてもらった」
こころは、マミゾウを見た。
「礼は、舞台で言う。そう言われた」
「うむ。そうじゃった」
マミゾウは、満足そうに頷いた。
「今日の演目は、何にした」
「『泥翁』だ。予定どおり」
こころは、公演用の面を手に取った。翁の面だった。
「でも――次の演目は、もう決めた」
「ほう」
「腹に袋を持った、若い天狗の獣の話だ。山を追われて、里に下りて、寂しくて、人に柿を投げた」
こころの周りで、姥の面と、ひょっとこの面が、交互に浮かんでは消えた。
「最後は、化け狸に化かされて、眠って、山へ帰る」
マミゾウは、しばらく何も言わなかった。
それから、ふっと煙管の煙を吐いて、笑った。
「――その化け狸の役は、儂に回してもらえるんじゃろうな」
こころは、翁の面を顔に当てた。
面の内側で、何かが静かに定まる。
幕の向こうで、笛が鳴り、鼓が鳴った。
こころは、ゆっくりと、篝火の明かりの中へ歩み出した。
『秦こころ』
所属:人里ギルド
役職:所属ハンター。本業は能楽師
武器:泥翁刀『序破急』(太刀)
防具:泥翁装【面影】
『二ッ岩マミゾウ』
所属:人里ギルド
役職:ご意見番。本業は茶屋『ふたつ岩』の女将