東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

25 / 31
第十話:雨の日のマヨヒガ

~マヨヒガ 母屋の縁側~

 

――雨が、母屋の屋根を叩いている。

 山奥の迷い家に、朝から細かい雨が降り続いていた。庭の苔が濃い緑に濡れ、軒先から落ちる雫が、踏み石の窪みに小さな水溜まりを作っている。

 縁側の一番奥で、マヨヒガのまとめ役――橙が、膝を抱えて座っていた。帽子も服も頭から濡れそぼり、耳はぺたりと伏せられ、二本の尻尾は雑巾のように縁側の板に垂れている。

 

「……濡れた」

 

 橙は、自分の尻尾を持ち上げて、恨めしそうに眺めた。

 朝、犬舎の屋根の雨漏りを見に行こうとして、沢の橋の上で足を滑らせた。幸い落ちたのは浅瀬だったが、頭からずぶ濡れになった。水に濡れると、身に付けた式が剥がれる。今の橙は、ただの二本尻尾の猫と変わらない。

 縁側の向こう、雨に煙る訓練場から、威勢のいい掛け声が聞こえてくる。

 

「――走れ走れニャ!雨でも竜は待ってくれんニャ!」

 

 古株のアイルー『ニャンテツ』の声だった。橙が稽古を休みにした日は、いつもこの古株が勝手に稽古を回す。訓練場の走り込みの道を、小柄なアイルー達が泥を跳ね上げて駆けていくのが見えた。

 橙の頭の上で、ガタリと板が鳴った。

 縁側の屋根の上から、黒い顔が三つ、逆さに覗き込んでいた。メラルー達だった。

 

「お嬢、尻尾が二本とも、びっしょびしょニャ」

「乾かしてやろうかニャ?囲炉裏の上に吊るして」

「干物になるニャ、干物」

 

 三匹は、ケラケラと笑い転げた。

 

「うるさいなぁ!あっち行ってよ!」

 

 橙が叫んで立ち上がると、メラルー達は、ヒョイと屋根の向こうへ消えた。笑い声だけが、雨の音に混じって遠ざかっていく。

 橙は、ムスッと座り直した。

 

――いつもなら、追いかけて捕まえてやるのに。

 

 式が剥がれた足では、メラルーにも追い付けない。

 その時、母屋の奥の帳場の方から、パタパタと軽い足音が近付いてきた。

 

「お嬢、お嬢ニャ」

 

 白い毛並みに、茶色の眼鏡をかけたアイルー――橙の言うことを素直に聞く数少ない補佐役の『シルシ』だった。両手で、油紙に包んだ封書を胸に抱えている。橙と一緒に台帳をつけている、数少ない味方の一匹だ。

 

「人里の会館から、依頼ニャ。急ぎって、朱で書いてあるニャ」

「……急ぎ?」

 橙は封書を受け取った。油紙の外側だけが雨に濡れていて、中の紙は乾いている。いつの間に、誰が帳場の文箱に入れていったのかは分からない。マヨヒガへの依頼は、いつもそうやって届く。

 封を切ると、中には人里ギルドの依頼書が一枚と、ギルドマスターの添え書きが一枚、入っていた。

 

オトモ申し込み(急ぎ)

申し込み:人里ギルド所属 新人ハンター 冴月麟

武器:弓

事情:東の尾根の火竜の巣の夜番に就く。組んでいた相方が足を挫き、二人一組の番に欠員。三日後の夜番までにオトモを望む

添え書き:本人の希望は特になし。「来てくれるなら、どんな子でも」とのこと。当会館がこの先、最も頼みとすることになる新人である。良い子を頼みたい ――上白沢

 

 橙は、依頼書を二度読んだ。

 

「三日後……」

「今日のうちに迎えに行かないと、間に合わないニャ。迎えに行って、ここに連れてきて、顔合わせして、飯を食べさせて、椀を持たせて――」

 

 シルシが、指を折って数える。

 

「雨の日は、迎えは出さないことになってるニャ。お嬢が決めた決まりニャ」

 

 橙は、黙って雨の庭を見た。

 雨の日は、案内役を出さない。濡れた道は匂いが流れて、案内役でも迷いやすいからだ。迎えに行ったまま、山の中で一晩明かす羽目になったガルクもいる。

 そして何より、雨の日の橙は、オトモを選ぶ自信がない。

 匂いと癖を覚えるのは得意だ。でも今日は、鼻まで湿っている。式の抜けた体では、相手の匂いの奥まで、うまく嗅ぎ分けられる気がしなかった。

 

「……明日に回すニャ?」

 

 眼鏡のアイルーが、そっと訊いた。

 橙は、依頼書の添え書きを、もう一度見た。

 

――『来てくれるなら、どんな子でも』

 

 その下に、ギルドマスターの硬い字で、もう一行。最も頼みとすることになる新人。あの慧音さんが、そこまで書く人間は珍しい。

 

「――回さない」

 

 橙は、濡れた尻尾を一振りして立ち上がった。

 

「犬舎に行ってくる。迎えは、あの子に頼む」

 


~マヨヒガ 沢向こうの犬舎~

 

――沢の水が、いつもより嵩を増していた。

 母屋の裏手から、細い沢を越えた先に、ガルク達の犬舎がある。橙は今朝落ちた橋を、今度は欄干に掴まりながら慎重に渡った。

 犬舎の軒下では、ガルク達が雨を避けて寝そべっていた。灰色、黒、赤茶。どれも橙の背丈より大きい。橙が近付いても、殆どのガルクは片目を開けるだけで、顔も上げなかった。

 犬舎の一番奥で、一頭だけ、ノソリと立ち上がったガルクがいた。

 煤けたような灰色の毛並みが、肩から背にかけて厚く盛り上がった古株のガルクだった。鼻筋に古い傷が一本、右の耳の先が少し欠けている。首には、擦り切れて色の抜けた革の首輪。ガルクは軒下から雨の中へ出てくると、濡れた橙の頭に、鼻先を押し当てた。

 

「……濡れてるって言いたいんでしょ。知ってるよ」

 

 橙が言うと、ガルクは鼻を鳴らした。

――名は『サキガケ』。橙を背中に乗せて、里を走る事が出来るただ一頭のガルクである。稽古の時も、ほかのガルクがみんな途中で橙を振り落とす中で、この一頭だけは最後まで落とさなかった。

 

「人里まで、迎えに行ってほしいの。新人のハンターさん。名前は、『冴月麟』」

 

 橙は、依頼書をガルクの鼻先に広げる。ガルクは紙の匂いを嗅ぎ、慧音の添え書きの墨の匂いを嗅ぎ、それから、橙の顔を見た。

 

「雨の日は出さないって、私が決めたのは知ってる。でも、期限は三日後なの」

 

 ガルクは、じっと橙を見ている。

 

「……道、分かる?」

 

 ガルクは、橙の頭をもう一度鼻先で小突くと、クルリと背を向けた。雨の中を、沢沿いの道へ向かって、迷いのない足取りで駆けていく。

 その背中が雨に煙る木立の向こうへ消えるまで、橙は橋の上で見送っていた。

 


~人里 中央会館の軒下~

 

――会館の軒先から、雨垂れが簾のように落ちていた。

 その簾の内側で、細い弦の音が鳴っている。

 雨音に紛れてしまいそうなほど低く、柔らかい音だった。一音ずつ確かめるように伸びては、雨垂れの間に溶けていく。

 玄関脇の腰掛けに、少女が一人座っていた。

 

――人里ギルドの新人ハンター、『冴月麟』。

 淡い金の髪を肩の上で切り揃え、後頭部に大きな桜色のリボンを結んでいる。こめかみの髪には、さくらんぼに似た赤い髪飾りが二つ揺れていた。若草色の縁取りのある、フリルの付いた巫女装束に似た白い装い。その上から、浮空竜の素材で仕立てた防具――浮空装【六花】を着けている。襟と袖口には白くふわふわとした毛、肩当てと膝当てには桃色がかった白い甲殻。どれもまだ、狩り場の泥に汚れていない。

 膝の上に立てているのは、胴が六角に削られた二胡だった。

 小さな六角の胴に棹を立て、二本の弦の間に挟んだ弓を、ゆっくりと引く。弓の毛は、ほかの二胡のような馬の尾の毛ではない。白く、細く、ふわりと柔らかい――浮空竜の毛だ。

 受付台の向こうで、小鈴が筆を止めて聞いていた。

 

「……雨の日の麟さんの二胡、好きなんですよね、私」

 

 麟が、弓を止めて顔を上げた。

 

「湿ってるから、皮が緩んで音が丸くなるんです。晴れた日の方が、本当は澄んでるんですけど」

「丸い方が、眠くなりません?」

「あ……受付で眠くなったら、怒られますね」

 

 麟は、困ったように笑って弓を下ろした。

 朝一番に申し込みの書類を出してから、もう二刻が過ぎている。小鈴は『迎えが来るのは、早くて昼過ぎですね』と言った。それから少し声を落として、『雨の日は、迎えが来ないこともあるんです』とも言った。

 傍らの壁に、畳んだ弓が立て掛けてある。

 麟は、二胡を布の袋に仕舞いながら、その弓に目をやった。――浮空弓『風花』の白い弓幹は、浮空竜の甲殻を薄く削いで重ねたもので、両端の弭には白い綿毛の房が咲いている。弦を放つたび、握りの脇に張った喉袋の膜が、二胡の低い弦に似た音で鳴る。

 

――『構えは悪くない。だが、お前の弓は、耳で引いているな』

 

 稽古場で、付き添いの明羅にそう言われたのを覚えている。

 一か月余り前、訓練の締め括りとなる狩猟――稽古場の者達が『卒業の狩り』と呼ぶ一度きりの狩りで、麟は東の丘に棲みついた若い『浮空竜:パオウルムー*1』を狩った。

 喉袋が膨らみきる時の、空気を吸う音。その音が止む一瞬を待って、膨らんだ袋を射抜いた。落ちた竜に明羅の太刀が届いたのは、その後だった。

 付き添いが手を出す前に、新米が竜を落とした。その話は、翌日には会館中に広まっていた。

 

――霊夢さんと、魔理沙さんの次の子。

 

 会館の誰かがそう言っているのを、麟は聞いたことがある。悪い気はしない。ただ、背中が少しだけ重くなる。

 相方の古参ハンターは、昨日の夕方、尾根の見回りの帰りに岩場で足を滑らせた。骨は折れていないが、十日は歩けない。夜番は二人一組。一人で番に立つことは、慧音先生が許さない。番を外れれば、代わりの誰かが二晩続けて番に立つことになる。

 新米の自分のせいで、誰かに無理をさせるのは嫌だった。

 受付の奥から、慧音が顔を出した。

 

「麟。まだ待っていたのか」

「はい。……あの、迎えが来なかったら」

「その時は、私が番に立つ」

 

 慧音は、あっさりと言った。

 

「お前のせいではない。足を挫くのは、狩人の仕事のうちだ」

 

 麟は、何か言いかけて口を閉じた。

 慧音は、壁に立て掛けた弓を見て、それから麟を見た。

 

「――霊夢は、今朝からまた紫の用事だ」

「特任、ですか」

「あぁ。いつ戻るかは、あいつにも分からん」

 

 慧音は、溜息を一つ吐いた。

 

「会館の依頼は、あいつの都合を待ってはくれない。だから、お前には期待している。――だが、霊夢の代わりになれとは言わん。お前は、お前の弓を引け」

 

 麟は、少しの間、黙っていた。

 

「……霊夢さんの代わりは、無理ですよ。あの人、勘で躱すんですから」

「それでいい。耳で躱す者が、一人くらい居てもいいだろう」

 

 その時、雨の向こうで、何かが水を跳ね上げる音がした。

 麟が、先に顔を上げた。

――四つ足。重い。でも、速い。

 足音が真っ直ぐに、会館の方へ近付いてくる。

 大通りの向こうから、ガルクが一頭、水溜まりを蹴立てて走ってきた。煤けた灰色の毛並みが雨で黒く濡れ、肩から背が厚く盛り上がっている。鼻筋に古い傷、右の耳の先が少し欠けて、首には擦り切れた革の首輪。ガルクは会館の軒下まで真っ直ぐに駆けてくると、麟の前でピタリと止まり、ブルブルと体を振った。

 

「わっ」

 

 飛沫を浴びた麟を、ガルクはじっと見上げた。それから、麟の手に鼻先を押し付け、匂いを嗅ぐ。

 慧音が、フッと笑った。

 

「マヨヒガの案内役だ。雨の中を、よく来てくれた」

「この子が……」

「付いて行け。迷い家は、自分の足では辿り着けない。その子の背中だけを見て歩くんだ」

 

 ガルクがクルリと背を向け、雨の大通りを歩き出した。数歩行って、振り返る。麟が付いてくるのを、待っている。

 麟は弓を背に負い、二胡の袋を肩に掛けた。

 

「……行ってきます、先生」

「あぁ。行ってこい」

 


~山の中の細道~

 

――気が付くと、道が分からなくなっていた。

 人里を出て、山へ向かう道を登ったところまでは覚えている。そこから先は、霧と雨で、どちらへ歩いているのかも分からなくなった。

 杉の木立の間を、細い道が縫っている。否、道なのかどうかも分からない。苔むした石が、点々と続いているだけだ。

 前を行くガルクの背中だけが、霧の中に見えていた。

 麟は、何度か振り返りかけた。来た道を確かめたかった。だが、慧音の言葉を思い出して、その度に前を向いた。

 

――『その子の背中だけを見て歩くんだ』

 

 一度だけ、ガルクの姿が霧の中に消えた。

 麟の足が止まる。心臓が、ドクンと鳴った。右も左も、同じ杉の木立。足元の石も、どちらへ続いているのか分からない。

 背中の弓の重さが、急に気になった。

 

――弓を抜いても、道は見つからない。

 

 麟は、その場にじっと立ち、目を閉じた。

 雨が、杉の葉を叩いている。高い葉、低い葉。音は、どれも同じに聞こえて、少しずつ違う。その雨音の奥で、濡れた土を踏む音が一つだけ、規則正しく動いていた。

――右の、少し前。止まっている。

 四つ足の、息遣い。待っている者の息だ。

 麟は目を開け、音の方へ一歩だけ踏み出して、そこで止まった。

 

「……そこに、居るよね」

 

 霧の向こうから、ガルクが戻ってきた。麟の前で足を止め、濡れた鼻先で、麟の手をもう一度小突く。

 

「ごめん。待たせちゃった」

 

 ガルクは、麟の顔をじっと見てから、また背を向けて歩き出した。今度は、さっきより少しだけ、ゆっくりと。

 やがて霧が薄れ、杉の木立の切れ目に、大きな茅葺きの屋根が見えてきた。

 


~マヨヒガ 母屋の台所~

 

――土間の竈に、火が入っている。

 昼を少し過ぎた頃、母屋の表の方で、ガルク――サキガケの短い吠え声が聞こえた。

 橙が土間から顔を出すと、玄関の土間に、ずぶ濡れの人間の娘が一人、立ち尽くしていた。淡い金の髪が頬に張り付き、大きなリボンの先から雫が垂れている。

 娘は、玄関の土間に立ったまま、口を半開きにして母屋の中を見回していた。

 誰もいないのに、囲炉裏には火が燃えている。鉄瓶の湯が、シュンシュンと鳴っている。奥の座敷には、膳が整えて並べてある。

 

「……あの」

 

 麟が、緊張したか細い声を出した。

 

「ご、ごめんください。人里のギルドから来ました、冴月麟です。オトモを、その、申し込んで……」

「知ってるよ。さ、上がって」

 

 橙が言うと、麟はビクリと肩を跳ねさせた。それから、橙の姿を見て、目を丸くする。

「……ね、猫?」

「化け猫。『橙』だよ。ここのまとめ役」

 

 橙は、まだ湿っている胸を精一杯張った。

 麟の後ろで、迎えを終えたサキガケ、ブルブルと体を振って水を飛ばした。飛沫が、麟の背中と、橙の顔にまで飛んでくる。

 

「わっ」

「……もう、どうせ濡れてるからいいけどさ」

 

 橙は顔を拭い、麟を土間の奥の台所へ案内した。

 台所は、大きな土間だった。竈が三つ並び、その一つで大鍋が湯気を立てている。鍋の前では、前掛けをしたアイルー達が、踏み台の上で忙しく立ち働いていた。

 

「お客ニャ!」

「人間ニャ、人間ニャ」

 

 アイルー達が、一斉に振り返った。

 台所の板の間には、膳が一つ据えてあった。焼いた川魚、山菜のおひたし、炊きたての飯、それに湯気の立つ茸の汁物。マヨヒガに初めて来たハンターは、一度だけ、ここで食事をふるまわれる。

 

「食べて。冷えてるでしょ」

「い、いいんですか」

「いいの。ここの決まり」

 

 麟は、弓と二胡の袋を土間の隅に置くと、膳の前に正座した。手を合わせ、汁椀を両手で持ち上げる。一口啜った途端、麟の肩から、目に見えて力が抜けた。

 

「……あったかい」

 

 橙は、麟の向かいに座った。

 座りながら、そっと鼻をひくつかせる。

――花の匂い。

 雨と汗の匂いの奥に、甘い匂いがした。摘んだばかりの花ではない。水を張った桶に挿して、何日も店先に並べた花の、少し青い匂い。その上に、もう一つ、細い匂いが重なっている。木の脂を固めたような、鼻の奥がツンとする匂い。

 橙は首を傾げた。鼻が湿っていて、匂いの輪郭がぼやける。いつもなら、もっとハッキリ分かるのに。

 

「麟は、ハンターになって、どのくらい?」

「稽古場を出てから、一か月です。まだ、見回りと、ジャギィの追い払いくらいしか……」

「お家は?」

「花屋です。人里の、東の通りの」

 

 麟は、汁椀を置いて、少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 

「母が花を売ってて。私も、小さい頃から店先で花を挿してたんですけど……ある日、店に来たハンターさんの弓の弦の音が、すごく綺麗で」

「弦の音?」

「はい。矢を放った後の、ビィン、っていう音です。それをもう一回聞きたくて、稽古場に通い始めて……気付いたら、ハンターになってました」

 

――花と、もう一つ。

 

「ねぇ。その、ツンとする匂いは何?」

 

 橙が鼻を指さすと、麟は目を瞬いてから、土間の隅の細長い袋を振り返った。

 

「あ……松脂です。二胡の弓に塗るんです。弦に、毛が引っ掛かるように」

「にこ?」

「楽器です。弦が二本の。……趣味で、弾いてて」

 

 橙の中で、匂いがようやく形になった。店先の花と、弦に塗る木の脂。

 

「それで、どうしてオトモを?」

 

 麟は、膳の焼き魚を箸でほぐしながら、ポツリポツリと話した。

 会館の稽古場で、半年の型を習ったこと。卒業の狩りで、浮空竜を落としたこと。それから、皆が少しだけ自分を見る目を変えたこと。組んでいた古参のハンターが、昨日、東の尾根の見回りで足を挫いたこと。

 

「夜番は、二人一組なんです。一人じゃ駄目だって。だから、オトモを……」

 

 麟は、そこで言葉を切った。

 

「どんな子でもいいって、書きました。……本当に、どんな子でもいいんです。来てくれるなら」

 

 台所のアイルー達が、鍋を混ぜる手を止めて、ヒソヒソと囁き合っている。

 

「どんな子でも、だってニャ」

「欲がないニャ。迷い家向きニャ」

 

 橙は、黙って麟を見ていた。

 

――どんな子でも、じゃ駄目なんだよ。

 

 合わない子を送り出せば、送られた子も、送られた人も、両方が辛い思いをする。橙は、それを知っている。

 橙は立ち上がり、台所の奥へ声を掛けた。

 

「――ちょっと、二匹、出てきて」

 

 土間の奥から、二匹のアイルーが進み出た。

 一匹は、白黒の毛並みの、胸を張った大柄な子だった。腰に小さな木刀を差し、麟の前に来るなり、グッと拳を握ってみせる。

 

「大型が来たら、オイラが真っ先に飛びかかってやるニャ!怒った竜も、怖くないニャ!」

 

 麟は、思わず半歩、身を引いた。

 もう一匹は、茶トラの、よく喋る子だった。麟の周りをクルクルと回り、籠手の留め金を覗き込み、袖口の綿毛を摘まみ、二胡の袋を前脚でつつく。

 

「綿毛の防具ニャ。ふわふわニャ。弓は畳んでるのに、重そうニャ。この袋、何が入ってるニャ?叩くと鳴るニャ?」

「え、あ、あの……」

 

 麟は、目を白黒させた。

 橙は、二匹と麟を、黙って見比べていた。

 白黒の子は勇敢で、退くのが遅い。後ろから矢を射る人と組めば、矢の飛ぶ真ん前へ真っ先に飛び込んでしまう。茶トラの子は目端が利くが、口が先に立つ。黙って耳を澄ます人の隣では、きっと音の邪魔になる。

 どちらも、悪い子ではない。ただ、麟の子ではなかった。

 

「――ありがと。戻っていいよ」

 

 二匹は、少し不満そうに顔を見合わせてから、土間の奥へ引っ込んだ。

 麟が、申し訳なさそうに肩を縮めた。

 

「すみません。私、ちゃんと受け答えもできなくて……」

「麟が悪いんじゃないよ。合わないだけ」

 

 橙は、そう言いながら、自分の湿った鼻を擦った。

 

――いつもなら、会う前に分かるのに。

 

 その時、竈の脇で、ゴトン、と鈍い音がした。

 

「ニャッ!」

「また漏れたニャ!」

 アイルー達が騒ぎ出した。竈の脇に置かれた大きな水桶の底から、水がジワジワと滲み出して、土間に黒い染みを広げている。

 

「この桶、もう駄目ニャ。底板が浮いてるニャ」

「箍が緩んでるニャ。叩いても叩いても、すぐ漏れるニャ」

 

 古い水桶だった。マヨヒガの台所に、いつからあるのかは誰も知らない。前の冬から水が漏れ始め、アイルー達が木槌で箍を叩き直しては、また漏れる、を繰り返していた。

 麟が、箸を置いた。

 膳の前から立ち上がり、水桶の傍へ寄る。しゃがみ込んで、桶の側板に耳を寄せた。

 

「……ちょっと、叩いてみてもいいですか」

 

 アイルー達が、顔を見合わせた。

 麟は桶の水を汲み出してもらうと、指の関節で、側板を一枚ずつ軽く叩いていった。

――コン。コン。コン

 一枚叩くごとに、首を少しだけ傾ける。二胡の弦の調子を合わせる時と、同じ仕草だった。

――コン。……ゴッ

 麟の指が止まった。

 

「……ここ。この板だけ、鳴りが低いです」

 

 アイルー達が、麟の指の先を覗き込んだ。

 言われてみれば、その側板だけが、ほかより僅かに痩せていた。乾いて縮んだまま、隣の板との間に、髪の毛ほどの隙間ができている。

 

「箍をいくら叩いても、この板が痩せてるから、ここだけ締まりきらないんだと思います。……隙間に、薄い木を噛ませられたら」

「木っ端ならあるニャ!」

 

 アイルーの一匹が、焚き付けの束から薄い杉の木っ端を一枚抜いてきた。別の一匹が小刀で削り、楔の形に整える。

 

「ここ、ですニャ?」

「はい。箍の下に、軽く。……あ、強すぎると割れちゃうので」

 

 アイルーが楔を当て、木槌でトントンと打ち込む。それから、箍の縁を順に叩いて、少しずつ下へ送っていく。

 麟は、その度に側板を指で叩いて、音を聞いた。

――ゴッ。……コッ。……コン

 鈍かった音が、少しずつ高く、澄んでいく。

 

「……揃った」

 

 麟が、顔を上げた。

 

「水、入れてみてください」

 

 アイルー達が、恐る恐る、水瓶から水を注いだ。

 桶に水が満ちていく。土間の上の桶の底を、アイルー達が一斉に覗き込んだ。

 一滴も、漏れてこなかった。

 

「「「……漏れないニャ!」」」

 

 台所のアイルー達が、一斉に声を上げた。踏み台の上で跳ねる者、麟の膝に飛びつく者、前掛けで目元を拭う者までいる。

 

「すごいニャ、すごいニャ!」

「人間なのに、桶の声が聞こえるニャ?」

「こ、声というか……音が、一枚だけ違ったので」

 

 麟は、照れたように頭を掻いた。

 橙は、その様子を、黙って見ていた。

 側板に寄せた耳。叩くたびに傾ける首。慌てず、急がず、一つずつ確かめていく指。

 

――この子は、耳で確かめる子だ。

 

「ねぇねぇ、その袋の楽器、鳴らしてほしいニャ」

 

 さっきの茶トラの子が、懲りずに二胡の袋をつついていた。台所のアイルー達が、一斉に麟を見上げる。

 

「え……ここで、ですか?」

「桶のお礼ニャ。聴きたいニャ」

 

 麟は困ったように橙を見た。橙が肩を竦めると、麟は小さく息を吐き、袋から二胡を取り出した。

 板の間の端に浅く腰掛け、膝の上に六角の胴を据える。棹を立て、弓を弦の間に通す。

 

――一音。

 

 低い音が、台所の土間を渡った。

 雨の日の湿った皮が、音の角を丸くしている。麟の弓がゆっくりと往き来するたび、その音は梁の上まで昇り、竈の湯気に混じって勝手口の外の雨の中へ流れ出ていく。

 アイルー達は、誰も喋らなかった。

 橙も、黙って聴いていた。

 そして、橙の視線の端で、何かが動いた。

 台所の勝手口の外。雨の降る裏庭の、水溜まりの真ん中に、一匹の小さなアイルーが座っていた。

 大きな耳が二つ、ピンと勝手口の方を向いている。

 


~マヨヒガ 母屋の裏庭~

 

――水溜まりの中で、白い毛並みが濡れていた。

 他と比べても、まだ若いアイルーだった。白地に、薄い茶色の斑が花びらを散らしたように点々と浮いている。雨の中だというのに軒下にも入らず、水溜まりの真ん中にペタリと座り込んで目を細めていた。

 毛並みは、頭から尻尾の先までずぶ濡れだった。

 二胡の音が止む。それでも、そのアイルーの耳は、勝手口の方を向いたまま動かなかった。

 橙は、勝手口の敷居まで出て、その子を見た。

 

「……また雨の中に居るの?」

 

 アイルーは、ビクリと耳を立てた。それから、きまり悪そうに、水溜まりの中で座り直した。

 

「……雨の音が、好きなんだニャ」

 

 小さな声だった。

 

「葉っぱに当たる音と、石に当たる音と、水溜まりに当たる音が、全部違うニャ。軒下に入ると、一つしか聞こえなくなるニャ」

 

 このアイルーは、マヨヒガの中で少し変わり者だった。

――妖怪の山の麓の渓流から、去年の秋に迷い込んできた子である。

 水を好む者はそう多くはないアイルーだが、水を嫌がらない。雨が降ると外へ出て、水溜まりに座り込み、雨の音ばかり聞いている。耳がやたらと良く、台所で誰かが皿を落とせば、訓練場の端からでも振り返る。

 ほかのアイルー達は『濡れ鼠ニャ』『耳ばっかり大きいニャ』と笑い、メラルー達は、わざと水を掛けてからかった。

 一方で、稽古は真面目にやる。得意な技能は採取で、薬草の見分けは里で一番早い。茂みの奥の小型モンスターの足音を、誰よりも先に聞き分ける。それでも、送り出す先が見つからないまま、二度の季節が過ぎていた。

 橙は、敷居の上にしゃがみ込んだ。

 自分の濡れた尻尾が、敷居の上に垂れている。

 

「……今日の私も、濡れ鼠だよ」

 

 アイルーが、目を丸くした。

 橙は振り返って、台所の中を見た。板の間の端で、麟が二胡を膝に置いたまま、アイルー達に弓の持ち方を見せている。花の匂い。松脂の匂い。

 それから、もう一度、水溜まりの中のアイルーを見た。

 雨の匂い。濡れた毛の匂い。沢の苔の匂い。

 

――雨の音を、一つずつ聞き分ける耳。

 

 桶の板を一枚ずつ叩いて、違う一枚を聞き当てた耳。

 橙の鼻は、まだ湿っていた。匂いの輪郭は、ぼやけたままだ。

 でも、今日は、匂いで選ぶのではなかった。

 

「――ねぇ」

 

 橙は、水溜まりのアイルーに呼びかけた。

 

「中に来て。会ってほしい人がいるの」

 


~マヨヒガ 母屋の台所~

 

――濡れたアイルーが、土間に小さな足跡を付けた。

 白い斑のアイルーが勝手口から入ってくると、台所のアイルー達のざわめきが、スッと小さくなった。

 

「濡れ鼠ニャ……」

「なんで、あいつニャ……」

 

 囁き声を背中に受けながら、アイルーは麟の前まで歩いていった。土間の上に、ポタポタと雫が落ちる。

 麟は、二胡を傍らに置き、膝を付いてアイルーと目の高さを合わせた。

 

「……さっき、外で聴いててくれたの、君だよね」

「雨の中に居たんだニャ」

「寒くないの?」

「寒くないニャ。雨は、いい音がするニャ」

 

 麟は、キョトンとした。それから、フッと笑った。

 

「……私も、雨の日は好きだよ」

 

 アイルーの耳が、ピクリと動いた。

 

「雨の日は、二胡の皮が湿って、音が丸くなるの。晴れた日みたいに遠くまでは届かないけど、その代わり、近くの人にだけ、柔らかく聞こえる。……さっきのは、雨の日の音」

 

 麟は、懐から手拭いを取り出した。乾いているのは、防具の内側に挟んでいた一枚だけだ。それで、アイルーの頭をそっと拭いてやる。

 アイルーは、目を細めた。

 

「……拭いても、また濡れるニャ」

「うん。でも、拭いてあげたいから」

 

 台所のアイルー達が、静かになっていた。

 橙は、板の間の端に正座して、二人を見ていた。

 台帳の筆は、まだ握っていない。シルシがいつの間にか橙の隣に来て、台帳を膝の上に広げていた。

 

「――お嬢。この子で、いいニャ?」

 

 シルシが、小声で訊いた。

 

「匂い、ちゃんと分かったニャ?今日はお嬢の鼻、湿ってるニャ」

「……分かんない」

 

 橙は、正直に言った。

 

「鼻は、まだ湿っててよく分かんない。でも――」

 

 麟の手拭いの下で、アイルーが、喉をゴロゴロと鳴らし始めていた。

 

「あの子、雨の日に会えて、よかったと思う」

 

 橙は、眼鏡のアイルーから筆を受け取った。

 台帳の新しい頁に、一行ずつ書いていく。字は、相変わらず少し曲がっていた。

 

派遣オトモ:アマネ

種族:アイルー

毛並み:白に薄茶の斑 目:若草色 耳:大きな立ち耳

性格:平和主義

得意:コレクト

主人:人里ギルド 冴月麟(弓)

組ませた理由:雨の音。音で確かめる耳に

 

「――アマネ」

 

 橙が、台帳から顔を上げて呼んだ。

 白い斑のアイルーが、麟の手拭いの下から顔を出した。

 

「今からお前の名前だよ。雨の音の、アマネ。雨の日に、音で決めたから」

 

 アマネは、しばらく橙を見ていた。それから、麟を見上げた。

 

「……麟さん。オイラで、いいニャ?」

 

 麟は、手拭いを持ったまま、大きく頷いた。

 

「うん。アマネがいい」

 

 台所の誰かが、鼻を啜った。

 橙は立ち上がり、台所の奥の棚へ向かった。

 棚には、大小様々な飯椀が、ズラリと並んでいる。漆の剥げかけた古い椀、新しい白木の椀、縁の欠けた椀。どの椀が誰のものになるのか、決まってはいない。送り出す日に、橙が一つだけ選ぶ。

 橙は、棚の前でしばらく迷った。

 それから、一番下の段の奥に手を伸ばし、一つの椀を取り出した。

 小さな、木の椀だった。漆は塗っていない。縁が丸くなく、六つの角を持つ形に削られている。底には、小さな花の模様が一つ、焼き付けてあった。いつから棚にあったのか、橙も覚えていない。

 

「これ……」

 

 橙は、椀をアマネの前に置いた。

 アマネが、椀の角を前脚でそっと撫でた。麟が、小さく息を呑む。

 

「……六角だ。私の二胡の胴と、同じ」

「そうなの?」

「はい。角の削り方まで……ほら、ここ」

 

 麟は、傍らの二胡を引き寄せ、六角の胴を椀の隣に並べた。角の立て方、木目の向き。並べてみると、同じ手で削ったもののように見えた。

 麟は、椀を見下ろし、それから橙を見た。

 

「……これを、どこで」

「知らない」

 

 橙は、首を振った。

 

「ここのお椀は、いつの間にか増えてるの。誰が持ってくるのかも、私も、皆も知らない。――この椀で量ったご飯は減らないって、言い伝えがあるんだ」

 

 麟は、もう一度椀を見た。

 

「……この二胡も、物心ついた頃から家にあったんです。誰の物だったのか、母も知らなくて」

 

 それから、両手で椀を包み込むように持ち上げ、アマネの胸に抱かせた。

 

「大事にしようね、アマネ」

「するニャ」

 

 アマネは、椀を抱えたまま、尻尾をピンと立てた。

 麟が弓を背に負い直している間に、アマネは椀を背負い袋に詰め、母屋の縁側へ出た。

 雨は小降りになり、庭の苔の上に、薄日が差し始めている。

 縁側の屋根の上から、ガタリと板が鳴った。

 黒い顔が三つ、逆さに覗き込んでいた。朝、橙をからかったメラルー達だった。

 

「濡れ鼠が、出ていくニャ」

「人間に拾われたニャ。物好きな人間ニャ」

 

 アマネは、縁側に立ったまま、三匹を見上げた。耳が少しだけ後ろへ倒れる。

 三匹のうちの一匹が、屋根の縁から身を乗り出した。何かを、アマネの背負い袋の口へ、ポイと放り込む。

 干し魚だった。三枚。

 

「……何ニャ、これ」

「……まぁ、餞別ニャ」

 

 メラルーは、そっぽを向いたまま言った。

 

「途中で腹が減って、人間の弁当をくすねたら、マヨヒガ育ちの名折れニャ」

「くすねるのは、お前らメラルーの方ニャ」

「うるさいニャ!……さっさと行けニャ、濡れ鼠」

 

 三匹は、また屋根の向こうへ消えた。今度は、笑い声は聞こえなかった。

 アマネは、背負い袋の口から覗く干し魚を、しばらく見下ろしていた。

 縁側の柱の陰で、橙がその様子を見ていた。何も言わずに、濡れた尻尾を一度だけ振った。

 


~マヨヒガ 沢沿いの下り道~

 

――雨上がりの沢に、靄が立っていた。

 日が傾く前に、麟とアマネは、マヨヒガを発った。

 帰りの道案内は、行きと同じ焦げ茶のガルクだった。沢沿いの細い道を、ガルクが先に立って下りていく。その後ろを麟が、麟の足元をアマネが、椀を背負い袋に入れて、チョコチョコと付いていく。

 橙は、里の境の古い石の地蔵の所まで、見送りに出てきていた。

 

「ここから先は、私は行かない」

「はい。……ありがとうございました、橙さん」

 

 麟が深々と頭を下げる。アマネも、真似をして頭を下げる。背中の椀が、カタリと鳴った。

 麟は顔を上げ、少し迷ってから言った。

 

「あの……もう一度、ここに来ることは」

「できないよ」

 

 橙は、首を振った。

 

「ハンターが中まで入れるのは、最初の一度だけ。次からは、アマネの方が、季節ごとにここへ帰ってくるの。その度に私が、稽古をつけ直す」

「……そうですか」

 

 麟は、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「じゃあ、新しい曲ができたら、アマネに聴かせておきます。帰った時に、台所の皆にも聴かせてあげてって」

 

 橙は目を瞬き、それから頷く。

 

「――うん。待ってる」

 

 麟とアマネが、ガルクの後について、沢沿いの道を下りていく。

 しばらく行ったところで、アマネの大きな耳が、ピクリと動いた。

 

「――麟さん、止まるニャ」

 

 小さな声だった。麟の足が止まる。前を行くガルクも、首を低くした。

 

「右の茂みの中に、一匹居るニャ。足音が軽いニャ。……息が速いニャ。腹が減ってる息ニャ」

 

 麟も、耳を澄ました。

 

――居る。

 

 濡れた葉を踏む、細い爪の音。浅く速い息。群れの声はない。一匹だけだ。

 麟の手が、肩越しに弓へ伸びた。

 畳んだ弓が、背から抜けると同時に開く。矢筒から一本を抜き、番え、引く。そこまでが、瞬き一つの間だった。白い綿毛の房が、靄の中でフワリと揺れる。

 茂みが、ガサリと割れた。

 飛び出してきたのは、褐色が混ざる青い鱗の、小柄な鳥竜だった。『ジャギィ』が一頭、群れからはぐれたのか、雨に濡れた体を低くして麟達の方を窺っている。

 鏃の先が、ジャギィの喉元にピタリと止まった。

 

――射てる。

 

 この距離なら、外さない。

 

「――射なくていいニャ」

 

 アマネの小さな声がした。

 

「あいつ、こっちを狙ってないニャ。腹が減ってて、オイラの袋の匂いに来たニャ。メラルー達がくれた干し魚ニャ。そっちに投げれば、麟さんの方には来ないニャ」

 

 麟は、弦を引いたまま、アマネを見た。アマネは背負い袋を下ろし、中から干し魚を一枚引っ張り出すと、右手の木の根元へヒョイと放り投げた。

 ジャギィの鼻先が、ピクリと動いた。

 干し魚の方へ、鼻面を向ける。一歩、二歩。そして干し魚を咥えると、クルリと身を翻して、茂みの奥へ駆け込んでいった。

 麟は、弓を引いたまま、しばらく動けなかった。

 それから、ゆっくりと弦を戻し、大きく息を吐いた。

 

「……追い払えた」

「追い払ったニャ」

 

 アマネが、得意そうに尻尾を立てた。

 

「狩らなくても、いい時もあるニャ。橙のお嬢が、いつも言ってるニャ」

 

 麟は、矢を矢筒へ戻した。引き絞っていた右の指を、ギュッと握って開く。

 

「……私、もう少しで射るところだった」

「射るのは、麟さんの方が速いニャ。だから、オイラは聞く方をやるニャ」

 

 麟は、目を瞬いた。それから、フッと笑った。

 

「……ありがとう、アマネ」

「お礼なら、メラルー達に言うニャ。……せっかくの干し魚が一枚減ったニャ」

 

 アマネは背負い袋の口を覗き込み、残りの二枚を数えて、少しだけ得意そうに鼻を鳴らした。

 

「でも二枚あれば、夜番のおやつには足りるニャ」

 

 橙は、地蔵の陰から、その一部始終を見ていた。

 瞬き一つで引き絞られた弓。喉元にピタリと止まった鏃。そして、それを止めた、アマネの小さくて落ち着いた声。

 

――彼女に合う子だ。

 

 鼻が湿っていても、分かることはある。

 麟とアマネの背中が雨上がりの靄の向こうへ見えなくなるまで、橙は地蔵の傍に立っていた。濡れた二本の尻尾が、いつの間にか、少しだけ乾き始めていた。

 


~人里 中央会館 受付~

 

――夕暮れの受付台に、小さな椀が一つ載っていた。

 麟が会館に戻ったのは、日が落ちる少し前だった。雨はすっかり上がり、大通りの水溜まりに、茜色の空が映っている。

 受付台の向こうで、小鈴が身を乗り出した。

 

「おかえりなさい、麟さん!……あ」

 

 麟の足元から、白い斑の頭がヒョッコリ覗いた。アマネは受付台の縁に前脚を掛けて伸び上がり、背負い袋から出した椀を、台の上にそっと置いた。

 

「アマネだニャ。今日から麟さんの、オトモになったニャ」

「わぁ……」

 

 小鈴が、目を輝かせた。帳面を開き、筆を取る。

 

「承ります。オトモの登録、ですね。お名前はアマネさん、アイルーで――」

 

 小鈴が書き込んでいる間に、奥から慧音が出てきた。

 慧音は、麟の顔を見て、それから足元のアマネを見た。アマネの毛並みは、まだ少し湿っている。

 

「濡れているな」

「雨の音が好きなんだそうです」

 

 麟が答えると、慧音は少し眉を上げた。

 

「猫、アイルーなのにか」

「はい。……雨の日の二胡の音の話をしたら、喉を鳴らしてくれて」

 

 慧音は、しばらく黙っていた。

 それから、受付台の上の椀に目を落とした。縁を六つの角に削った、素朴な木の椀。

 

「良い椀だ」

「この椀で量ったご飯は、減らないそうです」

「そうか。なら、夜番の弁当には困らんな」

 

 慧音は、アマネの頭に手を置いた。

 

「三日後の夜番、頼んだぞ。麟とアマネ」

「はい」

「任せるニャ。――麟さんが射る前に、オイラが聞くニャ」

 

 慧音は、目を瞬いた。それから、麟の顔を見た。

 

「……成程な。良い耳を貰ってきたようだ」

 

 麟は、少しだけ照れたように笑った。アマネが、椀を抱え直して、尻尾をピンと立てた。

 


~マヨヒガ 母屋の帳場~

 

――夜の帳場に、灯りが一つだけ点いていた。

 雨はすっかり上がり、雲の切れ間から、細い月が覗いている。母屋のアイルー達は、それぞれの寝床で丸くなっていた。縁側の端では、昼間の疲れで橙が丸まって眠っている。二本の尻尾は、もうすっかり乾いていた。

 帳場の文机の前に、一つの影が座っていた。

 狭い帳場の中で、九本の尾を窮屈そうに畳んでいる。グランドマスターの補佐にして、境界の賢者の式神――『八雲藍』だった。

 藍は、橙の台帳を膝の上に広げていた。月に何度か、夜のうちにこうして台帳を見に来る。橙の計算違いを直し、直した跡を残さずに帰る。橙は、そのことをハッキリとは知らない。

 藍は、今日の記録の頁を開いた。

 少し曲がった字で、一行ずつ書いてある。送り出し、アマネ。種族、毛並み、性格、得意。主人、人里ギルドの冴月麟。

 藍は、組ませた理由の欄で、指を止めた。

 

――『雨の音。音で確かめる耳に』

 

 藍は、その行を、しばらく黙って見ていた。

 いつもの橙の台帳なら、組ませた理由の欄には匂いのことばかりが書いてある。煙の匂い、油の匂い、焼き芋の匂い。橙の鼻は確かで、藍が口を挟む余地はない。藍が直すのは、いつも報酬の足し算や、送り出した頭数の合計の方だ。

 今日の頁には、匂いのことが一言も書いていなかった。

 橙の字だった。鼻で嗅いだ字ではない。橙が、自分の目と耳で見て決めた字だった。

――藍は、筆を取らなかった。

 台帳を元通りに閉じ、文机の上に戻す。頁の端の折れ目も、元のとおりに揃えた。帳場の灯りを吹き消し、静かに立ち上がる。

 縁側を通りかかると、眠っている橙の耳が、ピクリと動いた。

 藍は足を止め、橙の寝顔を見下ろした。

 それから、橙の枕元に、油紙に包んだ小さな包みを一つ、そっと置いた。包みの中からは、甘辛く煮た油揚げの匂いがした。

 藍は、何も言わなかった。

 九本の尾を畳んだまま、月明かりの縁側を音もなく歩き、迷い家の闇の中へ消えていった。

 藍は、その夜の台帳を直さなかった。

 

 直す所が、なかったからである。

*1:
飛竜種。喉の袋に空気を溜めて膨らませ、風船のように宙に浮く。白くふわふわとした毛に覆われ、溜めた空気を固めて撃ち出す。




『冴月麟』
所属:人里ギルド
役職:新人ハンター(稽古場を出て一か月)
武器:浮空弓『風花』(弓)
防具:浮空装【六花】
オトモ:『アマネ』(アイルー)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。