東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~迷いの竹林の縁 涸れ沢~
――竹の切り株が、斜めに揃っている。
どれも、膝ほどの高さで断たれている。鋸で引いた跡ではない。一太刀で払ったような、つるりとした切り口だ。切り株は沢の東の岸に沿って点々と続き、その向こうの竹林は、櫛の歯が欠けたように見通しが良くなっていた。
――だが、西の岸は違う。
太い竹の幹に、四本並んだ爪痕が、人の背丈より高い所まで刻まれている。根元には、齧り取られた筍の皮と、地面に叩き落とされた蜂の巣の残骸。乾いた蜜の甘い匂いが、夕暮れの風に乗って漂ってくる。
その二つの岸の間を、水の涸れた沢が一本、細く通っていた。
沢の底は丸い石ばかりで、草もまばらにしか生えていない。切り株の岸の主も、爪痕の岸の主も、この沢を渡る時は足早に過ぎていく。どちらの匂いも、ここでは薄い。どちらのものでもない、細い帯だ。
その帯の真ん中、大きな石の陰で――少女が一人、胡坐をかいていた。
黒髪に、白と赤の一筋が混じっている。頭巾を背に落とした額の上には、小さな角が二本。胸元と腰のリボンは、どちらも上下が逆さまに結ばれている。くすんだ紫の短い外套には、車輪の溝のような深い刻みが、細かく彫り込まれていた。
――天邪鬼『鬼人正邪』
膝の上には、弦を外した弓が一張り載っている。弦の張られていない弓は、持ち主の手の中で、普通の弓とは逆の向きに大きく反り返っていた。
――毒怪弓『天壌夢弓』。骨にゴムのような皮を幾重にも貼り合わせた、手作りの弓だ。
「……また剥がれてやがる」
正邪は弓の腹を指でなぞり、舌打ちを零す。
貼り合わせた皮の端が、指一本分ほど浮いている。正邪は腰の袋から膠の小壺を出し、木の箆で浮いた所に塗り込んだ。それから石を一つ拾い、皮の上に載せて押さえる。
「工房なら、こんなもん半刻で直すんだろうが。――ふん。頼んでやるもんか」
頼みに行けば、その場で小兎姫が飛んでくる。
正邪は膠の壺に蓋をして、今度は右の手首を持ち上げた。
右腕にだけ嵌めた腕輪は、ゴムの皮で巻いた太い輪だ。表には毒怪鳥のトサカの欠片が埋め込まれ、その横に、小さな打ち金が三つ並んでいる。正邪は腕輪の留め具を外し、内側の小さな蓋を開けた。
中に収まっているのは、青白い鉱石の欠片だった。
一つだけ。それも、半分欠けている。
「……あと一回、か」
打ち金を三度鳴らせば、トサカの欠片が鉱石の光を跳ね返して、辺り一面を真っ白に焼く。だが光らせるたびに、中の鉱石は砕ける。補うには、どこかからこの光る石を手に入れなければならない。
前に補ったのは、人里の工房の裏の箱からだった。その前は、河童の荷車からだ。
「次は、どこから頂くかな」
正邪は口の端を吊り上げ、蓋を閉めた。
日が、竹林の向こうへ傾いていく。笹の葉の擦れる音に混じって、東の岸の奥から、甲高い声が聞こえた。
〈キュイッ、キュイィッ……〉
正邪は顔も上げずに、鼻を鳴らした。
「鎌鼬共が夕飯の相談か。精が出るね」
東の岸の主は、尻尾に鎌を持つ鳥竜種だ。常に二匹の手下を連れて竹を斬り倒し、見通しの良くなった所で獲物を追い詰める。西の岸の主は、蜂蜜と筍に目がない大きな熊だ。
どちらも、正邪にとっては同じだった。
どちらも、正邪の顔を見ても、何とも思わない。
――モンスターなんか、大嫌いだ。
正邪が里の掲示板の依頼書を逆さに貼り替えれば、受付の娘は青い顔をして走り回る。ギルドマスターは眉間に皺を寄せる。強い者、偉い者、正しい者が困った顔をする。それを見る事が、正邪の生き甲斐である。
――だがモンスターは、正邪が何をしても困った顔ひとつしない。
上と下をひっくり返してやろうにも、モンスターは自分が上に居るとさえ知らない。腹が減れば食い、眠くなれば眠る。強い者も弱い者も、モンスターの前では等しく餌だ。
正邪の能力は、モンスターには殆ど効果を示さない。
――等しい世界ほど、つまらないものはない。
正邪は弓を石の陰に立て掛け、背を丸めて横になった。日が落ちきる前に、一眠りしておくのが常だ。夜は、追っ手の目もモンスターの目も、昼とは違う所へ向く。
瞼を閉じかけた――その時だった。
「――おかあ、さぁん……」
――竹林の奥から細い声が聞こえて正邪は、目を開けた。
風の音ではない。鳥の声でもない。人の、それも子供の声だ。泣くのを堪えて、堪えきれずに漏れたような声。
「……おかあさん……どこぉ……」
声は、東の岸の方から聞こえてくる。
切り株の続く、鎌鼬の縄張りの方から。
〈キュイッ!キュイキュイッ!〉
さっきの甲高い声が、今度は近く、鋭く重なった。一つ、二つ、三つ。笹を掻き分ける軽い足音が、子供の声のする方へ、輪を縮めるように寄っていく。
正邪は、しばらく横になったまま、竹の葉の隙間から覗く空を見ていた。
「……知るか、迷子のガキなんざ」
小さく吐き捨てる。
「……竹林の縁で迷子になるガキが悪い。親がちゃんと見てねえのが悪い。人里の連中が、自分達で何とかすりゃいい」
子供の泣き声が、悲鳴に変わる。それを聞いた正邪は――舌打ちをして起き上がった。
~迷いの竹林の縁 切り株の斜面~
――子供が一人、竹の根元にしがみついていた。
六つか七つほどの男の子だった。着物の膝は泥で汚れ、草履は片方しか履いていない。胸に小さな巾着を抱え込み、竹の幹に背中を押し付けて、がたがたと震えている。
その周りを、三匹の小さな鳥竜が取り囲んでいた。
狐ほどの大きさの、橙色の毛並みの鳥竜だ。細長い体を低く構え、ふさふさとした尻尾を高く持ち上げている。尻尾の先は、鎌のように薄く平たく、夕日を受けて鈍く光っていた。
斜面の上から見下ろす正邪の目には、三匹の動きがよく見えた。
一匹が正面で尻尾を振り立て、子供の目を引き付ける。その隙に、残りの二匹が左右から、少しずつ間合いを詰めていく。
『イズチ*1』だ。
「群れの手下どもか。……ちっ、長は居ねえな。先触れだ」
正邪は弓を手に取り、弦を掛ける。
弓が逆向きの反りから、ぐいと引き戻される。膠はまだ乾ききっていないが、一晩くらいは持つだろう。
正邪は矢筒から一本抜き、番えた。
狙ったのは、正面のイズチではない。その足元の、子供とイズチの間の地面だった。
ヒュッ――と矢が飛ぶ。
矢は地面に突き立ち、イズチが跳び退いた。尻尾の鎌が、ばさりと逆立つ。三匹の首が、一斉に斜面の上の正邪を向いた。
「よう、鎌鼬ども」
正邪は弓を下ろし、イズチ達を見下ろして、口の端を吊り上げた。
「その餌、私が先に目を付けてたんだ。横取りすんじゃねぇよ」
イズチ達の目が、正邪を捉える。
正邪は、三匹の目を、真っ直ぐに見返した。
――ひっくり返れ。
右が左に、前が後ろに。正邪を見ている者の感覚を、ほんの数息だけ、ひっくり返す。追っ手の妖怪なら、正邪に跳びかかったつもりで、反対の藪へ突っ込んでいく。
イズチ達は、跳びかかってきた。
――真っ直ぐに。斜面を駆け上がり、正邪の喉元を目掛けて。
「――だよな!」
正邪は横へ転がった。
イズチの尻尾の鎌が、さっきまで正邪の首があった所を薙ぎ、背後の竹の幹を斜めに裂く。正邪は転がった勢いのまま膝を立て、二本目の矢を、二匹目の鼻先へ射込んだ。
矢はイズチの耳を掠めた。イズチが甲高く鳴いて飛び退く。
「効かねえのは知ってんだよ、一応試しただけだ!お前らに上も下もねえってことくらい……!」
毒づきながら、正邪は斜面を滑り降りた。
三匹目が、横から跳びかかってくる。正邪は外套の裾を翻し、ゴムの皮でその爪を受けた。皮は爪を弾いたが、正邪の体は斜面に叩き付けられた。
イズチ達が、正邪と子供を囲むように回り込む。
一匹が正面で尻尾を立て、残りの二匹が左右へ。さっき子供にしていたのと、同じ囲み方だ。
「おい、ガキ」
正邪は、竹の根元の子供を振り返らずに言った。
「目ぇ瞑ってろ。ギュッとだ。いいって言うまで開けるな」
「……え」
「瞑れ!いいからさっさと!」
子供が、ぎゅっと目を閉じたのが気配で分かった。
正邪は右の手首を胸の前に掲げ、腕輪の打ち金を、指で弾いた。
――カチン。
イズチ達の耳が、ぴくりと動く。
――カチン。
正面のイズチが、尻尾の鎌を振り上げる。
――カチン。
三度目の音と同時に、正邪は目を閉じた。
――瞼の裏まで、真っ白に焼ける光が炸裂する。
イズチ達の悲鳴が、三つ重なった。正邪が目を開けると、三匹は地面の上で頭を振り、フラフラと足をもつれさせていた。一匹は自分の尻尾に噛み付き、一匹は竹の幹に鼻先をぶつけている。
そして腕輪の中で、鉱石が砕ける小さな乾いた音が聞こえた。
――最後の一回、使っちまった。
「……ちっ」
正邪は子供の腕を掴み、引っ張り上げた。
「もういい、目ぇ開けろ。――走るぞ」
子供は目を開け、白い光の名残に目を瞬かせながら、正邪の顔を見上げた。
「……お、お姉さん、だれ」
「誰でもねぇ。死にたくなきゃ走れ」
正邪は子供の手を引いて、斜面を駆け下りた。背後で、目のくらんだイズチ達が、甲高く鳴き交わす声が遠ざかっていく。
あの声は、助けを呼ぶ声だ。
群れの長を、呼んでいる。
~中央会館 受付~
――広間の灯りが、一つずつ増えていった。
日が落ちて半刻ほど経った頃、中央会館の扉が、乱暴に押し開けられた。
飛び込んできたのは、人里の南東の畑の方から来た女だった。手拭いを頭に巻いたまま、裾には土が付いている。女は受付台に両手を突き、肩で息をしながら、帳面を片付けていた小鈴に縋り付いた。
「うちの子が――うちの子が、帰ってこないんです……!」
小鈴は、帳面を閉じる手を止めた。
「――お子さんの、お歳は」
「七つです。夕方、近所の子らと竹林の縁の沢へ行って……光る石を拾うんだって。他の子らは帰ってきたのに、うちの子だけ、もっと奥にあるって言って、一人で……」
母親の声が、そこで詰まった。
奥の部屋の戸が開き、慧音が出てきた。慧音は母親の前に立ち、受付台越しにその手を取った。
「落ち着いて、もう一度聞かせてくれ。どこの沢だ」
「畑の、一番南の端から、竹林へ入っていく沢です。今は水が無くて、子供らの遊び場で……」
「竹林の縁か」
慧音の眉が、わずかに寄った。
受付台の脇の掲示板には、竹林の縁の目撃が二枚、並んで貼られている。一枚は、竹を斬り倒す鎌尾の牙竜。もう一枚は、蜂の巣を荒らす青い熊。どちらも、慧音自身が今朝、目を通したばかりの紙だ。
「小鈴。救助の依頼として受ける。――緊急だ」
「承ります」
小鈴は白紙の依頼票を引き寄せ、筆を走らせた。依頼人の欄に母親の名を書き、目標の欄に『迷い子の捜索・救助』と書き入れる。報酬の欄は空けたまま、慧音が朱の判を押した。
「――慧音先生」
広間の奥の、監察室の戸口から声がした。
小兎姫が、片手剣の帯を締め直しながら出てくる。足元には、オトモのゴヨウが、もう耳を立てて控えていた。
「竹林なら、妹紅さんの持ち場でしょう。でも今夜は――」
「東の尾根の巣の夜番だ。理香子と二人で、交代は明け方になる」
慧音は短く答えた。
「呼び戻せば、巣の番が一人になる。決まりは、二人一組だ」
「なら、私が行くわ」
小兎姫は、受付台の上の依頼票を手に取った。
「夜の竹林の縁なら、見回りで何度も歩いているもの。それに、ゴヨウの鼻がある」
ゴヨウが、低く一声だけ鳴いた。
慧音は小兎姫の顔を見て、それから、受付台に縋ったままの母親を見た。
「……竹林の奥へは入るなよ。縁の沢筋だけだ。奥は兎達の持ち場だから、てゐに知らせを出しておく。それから、救難符を持っていけ。見つけたら、すぐ上げろ」
「了解」
小兎姫は、母親の前に膝を折った。
「お子さんの、着ていた物を何か。匂いの付いた物があると助かるの」
母親は震える手で、懐から小さな手拭いを出した。端に、下手な刺繍で魚が一匹縫い取られている。
「あの子が、汗を拭くのに……」
「お借りするわ」
小兎姫は手拭いをゴヨウの鼻先へ差し出した。ゴヨウは長いこと匂いを嗅ぎ、それから、扉の方へ鼻先を向けて、くるりと尾を振った。
「よし。――ゴヨウ、行くわよ」
扉が開き、夜風が広間に吹き込む。
小兎姫の背中を見送りながら、小鈴は、空けたままの報酬の欄に目を落とした。それから、ふと、掲示板の方を振り向いた。
竹林の縁の、二枚の目撃の紙。
その二枚の間に、ほんの少しだけ、隙間が空いていた。
~迷いの竹林の縁 涸れ沢~
――月が、竹の梢の上に昇っている。
涸れ沢の底の石が、月明かりで白く浮かんで見える。正邪は大きな石の陰に戻り、子供をその奥へ押し込んだ。
「ここに居ろ。動くな。声も出すな」
「……ここ、なに」
「寝床だ。私の」
子供は、石の陰をキョロキョロと見回した。
膠の小壺と、弦の替え、半分齧った干し芋。それから、どこかの店の暖簾が一枚、丸めて押し込んである。逆さに染め抜かれた屋号が、月明かりに透けていた。
「おうち、ないの?」
「あるかよ」
正邪は弓を膝の上に置き、子供から少し離れた石に腰を下ろした。
東の岸の方からは、まだイズチ達の鳴き声が、時々聞こえてくる。だが、こちらへ近付いてくる気配はない。西の岸の奥では、何か大きなものが笹を踏み分ける、重い足音が、時々聞こえる。
「ここなら、どっちも来ねぇ」
「……どっちも?」
「あっちの岸は、鎌鼬の長の縄張りだ。さっきの三匹の親玉だな。こっちの岸は、熊の縄張りだ。蜂蜜ばっかり舐めてる、デカい青い熊」
正邪は、東と西を、顎で順に指した。
「あいつらは、互いの匂いが嫌いなんだ。だから、この沢には長居しない。通る時も、さっさと通り過ぎる。どっちのもんでもねぇ場所ってのは、どっちにとっても居心地が悪いのさ」
「……お姉さんには、いいの?」
「……私は、どこに居たって居心地が悪いんだよ」
子供は、よく分からないという顔で正邪を見た。
正邪は、それ以上説明しなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。竹の葉が擦れる音と、遠くの虫の声だけが聞こえる。子供は膝を抱え、胸の巾着をぎゅっと握り締めていた。
「それ、何だ」
正邪が顎で巾着を指すと、子供はびくりと肩を竦めた。
「……石」
「石?」
「光る石。沢の、ずっと上の方に落ちてるって、近所の子が言ってて。拾いに来たの」
子供は巾着の口を開け、中身を掌に出して見せた。
小指の先ほどの、青白い石の粒が、五つ、六つ。月明かりの下で、ぼんやりと光っている。
正邪の目が、細くなった。
――光る鉱石だ。
沢の上流の、どこかの岩の割れ目から流れて出てきたものだろう。粒は小さいが、色はいい。腕輪の中で砕けた欠片と、同じ光り方をしている。
正邪は、子供の掌から目を逸らした。
「……そんなもんのために、竹林の縁まで来たのか。馬鹿じゃねぇのか」
「だって、綺麗だから」
「綺麗なもんは、大抵碌でもねぇ所に落ちてんだよ」
正邪は、干し芋を半分に千切り、子供の膝の上に放った。
「食え」
子供は干し芋を見て、正邪を見て、それから両手で拾い上げた。小さな口で齧り、黙って噛む。噛んでいるうちに、ポロポロと涙がこぼれ始めた。
「……泣くな。鬱陶しい」
「泣いて、ない……」
「泣いてんだろが」
子供は袖で顔を拭い、干し芋を最後まで食べた。それから、小さな声で言った。
「お姉さん……なんで、助けてくれたの」
正邪は、弓の弦を指で弾いた。ビン――と低い音が鳴る。
「助けてなんかねぇよ」
「でも――」
「あの鎌鼬どもが気に食わなかっただけだ。三匹がかりで、ガキ一匹を囲んでいい気になってやがって。あぁいうのを見ると、ひっくり返したくなる」
正邪は、子供の方を見ずに続けた。
「勘違いすんなよ。私は、お前を家に帰してやる気なんか、これっぽっちもねぇんだ」
「……そうなの?」
「そうだ。明日になったら、勝手に帰れ。テメェの帰り道なんざ私は知らねぇ」
子供は、少し考えるような顔をした。
それから、掌の上の光る石を、一粒だけ摘み上げて、正邪の方へ差し出した。
「じゃあ、これあげる」
正邪は、石を見下ろした。
「……何のつもりだ」
「さっき、腕のぴかってするの、なくなったでしょ。パキッて、音がした」
正邪は黙った。
子供は石を差し出したまま、首を傾げている。
「この石、光るから。ピカッてするのに、使えるかなって」
「――要らねぇよ」
正邪は、子供の手を押し返した。
「施しなんか受けるかよ。天邪鬼が、ガキに物恵んでもらってどうすんだ」
「あまのじゃく?」
「そういう妖怪だ。人の嫌がることが好きで、人に喜ばれるのが嫌いなんだよ」
子供は、押し返された石をまた巾着に仕舞った。
それから、膝を抱え直してポツリと零す。
「……変なの」
「うるせえ」
子供は膝に顎を載せて、しばらく正邪の頭の上を見ていた。
「……それ、つの?」
「見んな」
正邪は、背に落としていた頭巾を引っ張り上げ、角を隠した。
「さっき、鎌鼬に何かしてたでしょ。じっと見て。でも、効いてなかった」
弦を撫でていた正邪の指が、止まった。
「……人間や妖怪なら、右と左くらいはひっくり返せるんだよ。――モンスターにゃてんで効かねえ。あいつらは、右も左も、上も下も気にしちゃいねぇからな」
「ふうん」
子供は、少し考えて言った。
「じゃあ、ぼくにも効く?」
「試してやろうか。明日の朝、家と反対の方へ歩いてくぞ」
子供は慌てて首を横に振り、正邪から目を逸らした。
正邪は、鼻で笑った。
~迷いの竹林の縁 涸れ沢~
――夜半を過ぎて、竹の倒れる音がした。
メキメキと、何本も続けて。東の岸の奥から、少しずつ近付いてくる。
正邪は、浅い眠りから目を開けた。
隣で、子供が膝を抱えたまま眠っている。正邪は子供の口を掌で塞ぎ、耳元で囁いた。
「――起きろ。声出すな」
子供が目を開け、ビクリと体を強張らせる。正邪は子供を石の奥へ押し込み、自分は石の縁から、そっと東の岸を覗いた。
月明かりの下で、竹が一本、ゆっくりと傾いていく。
ザン、と乾いた音がして、また一本。斜めに断たれた竹が、隣の竹にもたれかかり、ズルズルと滑り落ちる。竹林の壁に、また一つ、見通しの良い穴が開いた。
その穴から――それは姿を現した。
先程のイズチを、そのまま大きくしたような鳥竜だった。体は大人の背丈を優に越え、細長い胴を低く構えている。全身を覆う毛並みは、月明かりの下でも分かる、燃えるような橙色。顔の周りと胸元だけが白く、首の後ろから背にかけて、硬い毛が鬣のように逆立っている。
そして――尻尾。
体と同じほどの長さのある尻尾は、根元から先へ行くほど平たく薄くなり、先端は、研ぎ澄ました大鎌そのものだった。尻尾を高く持ち上げ、月の光を刃に受けて、ゆらりと揺らしていた。
その両脇に、二匹のイズチが従っている。さっきの三匹より一回り大きく、毛並みの色も濃い。
オサイズチは、イズチの群れを束ねる長である。従えた二匹と息を合わせ、三方から獲物を囲んで尻尾の鎌で斬りかかる。自分より明らかに強い相手とは争わず、群れの狩りが崩れればあっさりと退く。
オサイズチは、涸れ沢の縁で足を止めた。
鼻先を低くして、地面の匂いを嗅ぐ。夕方、正邪と子供が駆け下りてきた跡だ。二匹のイズチも、同じように鼻を鳴らし、沢の底へ首を伸ばす。
オサイズチの首が、ゆっくりと、正邪の隠れている石の方を向いた。
――嗅ぎ付けやがった。
正邪は奥歯を噛んだ。
縄張りの境目は、竜同士の睨み合いで成り立っている。だが、獲物の匂いがはっきりしていれば、少しくらいは踏み込んでくる。夕方、手下を光で焼かれた恨みもあるのだろう。
オサイズチが、沢の底へ一歩足を下ろした。
丸い石が、爪の下でゴロリと転がる。
「……お姉さん」
子供が、正邪の袖を掴んだ。
「黙ってろ」
正邪は弓を引き寄せ、矢を番えた。
番えたところで、どうにかなる相手ではない。矢を射込んだところで、あの橙色の毛皮に刺さるのはせいぜい鏃の先だけだ。毒が回るより先に、尻尾の鎌が届く。
腕輪の中は、空っぽだ。
オサイズチが、もう一歩、沢の底へ踏み込んだ。二匹のイズチが、左右へ散る。三方から、石の陰を囲む形だ。
正邪は、西の岸を見た。
爪痕の刻まれた竹の向こう。熊の縄張りの、暗がり。
――来い。こっちに来やがれ。
正邪は、弓を空へ向けた。
狙ったのは、西の岸の、一番太い竹の梢だった。そこに、蜂の巣が一つ、ぶら下がっている。夕方、甘い匂いを漂わせていた、まだ熊に落とされていない巣だ。
ヒュッ――と矢が飛んだ。
矢は巣の付け根を射抜き、巣が、竹の梢から落ちた。地面に当たって割れ、蜂の羽音が、ぶわりと夜の中に広がる。
甘く、濃い蜜の匂いが、沢の上を流れた。
オサイズチが、足を止めた。
西の岸の暗がりで、何か大きなものが、ノソリと身を起こす気配があった。笹がバキバキと折れる。地面が、ズシリと揺れる。
竹の間から、青い巨体が転がり出てきた。
熊だった。人の倍はある体を、青い毛と、腕を覆う黄色い甲殻で包んでいる。熊は割れた蜂の巣に駆け寄り、太い前脚で巣を掻き寄せ、顔を突っ込んだ。蜂が群がるのも構わず、蜜を夢中で舐め始める。
蜂蜜に目がない、西の岸の主――アオアシラだ。
オサイズチが、低く唸った。
自分の獲物の匂いの真ん前で、別の縄張りの主が、自分の方を見もせずに蜜を舐めている。二匹のイズチが、尻尾の鎌を逆立てて、アオアシラに向き直った。
アオアシラが、蜂の巣から顔を上げた。
口の周りを蜜でべとべとにしたまま、オサイズチを見る。それから、ゆっくりと後ろ脚で立ち上がった。
立ち上がった熊の背丈は、竹の下枝に届くほどだった。黄色い甲殻に覆われた両腕を大きく広げ、胸を反らす。
竹の葉が、ザァッと震えた。
オサイズチが、尻尾を振り立てて応える。
二頭の主が、涸れ沢を挟んで睨み合った。
オサイズチは尻尾の鎌を高く掲げ、左右の手下を、じりじりと熊の方へ回り込ませる。アオアシラは立ち上がったまま、片腕を振り上げ、甲殻の爪を月にかざす。
どちらも、先に踏み込まない。
正邪は、石の陰で息を殺していた。子供の口を、掌で塞いだまま。
――そうだ。そのまま睨み合ってろ。
縄張りを持つ強い者同士が、互いの顔色を窺って動けない。その足元で、弱い者が息をしている。
正邪の口の端が、わずかに吊り上がった。
その時、子供が身じろぎをした。
巾着が、膝の上から滑り落ちる。口が開いて、中の光る石が、沢の底の石の上に、ころころと転がり出た。
青白い光が、月明かりの中で、ポツリ、とポツリ灯る。
オサイズチの首が、グルリとこちらを向いた。
「……っ、馬鹿」
オサイズチの右に従うイズチが、跳んだ。
石の上を跳ねて、真っ直ぐに正邪達の方へ。尻尾の鎌が、月の光を引いて弧を描く。
正邪は子供を突き飛ばし、自分は反対へ転がった。鎌が、二人の間の石を叩き、火花が散る。
続けて、オサイズチ本体が動いた。
前脚で沢の底の砂利を掻き、正邪の方へ、ばっと浴びせかける。礫が顔に当たり、正邪の目に砂が入った。
「ぐっ……!」
目を擦る間もなく、橙色の影が跳んだ。
オサイズチは、沢の脇の大きな岩に飛び付いた。爪を立てて、岩の壁面に一瞬だけ貼り付く。そこから、体を捻って跳び下りざまに、尻尾を振り下ろす。
正邪は、砂の入った目を細めて、横へ跳んだ。
鎌が、正邪の外套の裾を裂いた。ゴムの皮が、紙のように切れる。
――斬られるのは、駄目だ。
この外套は打たれるのには強い。爪も牙も、少しは弾く。だが、刃物には弱い。ゴム状の弾力は毒怪鳥の皮と同じだ。
オサイズチの尻尾が、勢い余って、沢の底の砂地に深々と突き刺さる。
尻尾が抜けない。オサイズチが首を捻り、苛立たしげに後ろ脚で砂を蹴る。
「今のうちだ、ガキ!」
正邪は子供の腕を掴んで、引き起こした。
子供は、砂の上を這うようにして、散らばった光る石を拾い集めていた。
「何やってんだ!」
「石……!」
「んなもん捨てろ!」
子供は、首を横に振った。
そして、拾った石の一粒を、正邪の手に押し付けた。
「――ピカッてするの、これで!」
正邪は、掌の上の石を見た。
青白い光が、正邪の指の間から漏れている。
――背後で、オサイズチが尻尾を砂から引き抜く音がした。二匹のイズチが、左右から回り込んでくる。西の岸では、アオアシラが立ち上がったまま、こちらの騒ぎを睨み付けている。
正邪は、腕輪の蓋を、親指で弾き開けた。
砕けた鉱石の欠片を払い落とし、子供の石をひったくるように掴んで押し込み、蓋を閉める。
「目ぇ瞑れ!」
子供が、ぎゅっと目を閉じた。
正邪は、腕輪を高く掲げた。
――カチン。
オサイズチが、尻尾を振り上げる。
――カチン。
アオアシラが、前脚を地面に下ろし、こちらへ駆け出そうとする。
――カチン。
正邪は目を閉じた。
――涸れ沢が、真昼のように白く染まった。
オサイズチの悲鳴と、アオアシラの吠え声が、同時に上がった。正邪が目を開けると、オサイズチは沢の底で頭を振り、尻尾の鎌を闇雲に振り回していた。その鎌の先が、同じく目をくらませて突っ込んできたアオアシラの、黄色い甲殻の腕を掠める。
ガキン、と硬い音がした。
アオアシラが怒りの声を上げ、太い前脚を、手当たり次第に薙ぎ払った。その一撃が、オサイズチの脇腹を打つ。オサイズチの体が、沢の底を転がった。
二頭の主が、目の見えないまま、互いを相手に暴れ始めた。
「……ははっ」
正邪の喉から、笑いが漏れた。
「いいぞ、やれやれ。強い奴同士で、勝手にやり合ってろ……!」
正邪は子供を背中に担ぎ上げた。
二頭の争う沢の底を避け、涸れ沢の縁を、南へ。どちらの岸にも上がらず、どちらの匂いも濃くならない、細い帯の上だけを踏んで。
背後で、竹が倒れる音と、アオアシラの吠え声と、イズチの鳴き声が、入り乱れて遠ざかっていった。
~迷いの竹林の縁 沢の出口~
――東の空が、白み始める。
涸れ沢は、竹林を抜けたところで浅い溝になり、やがて畑の畦の脇へと消えていく。溝の終わりには、古い石の祠が一つ、傾いて立っていた。
正邪は、祠の陰で足を止め、子供を背中から下ろした。
畑の向こう、人里の南東の外れの方に、提灯の灯りが、ぽつぽつと揺れている。人の呼ぶ声が、風に乗って切れ切れに聞こえてきた。
「……おかあさんだ」
子供が、畑の方へ身を乗り出した。
「ここから先は、一人で行け」
正邪は祠の石段に腰を下ろし、裂けた外套の裾を、指でつまんだ。切り口が、斜めに長く走っている。縫えば何とかなるだろうか。自分の針では、無理かもしれない。
「お姉さんは?」
「行かねぇよ。あそこに居る連中に、顔を見られたら面倒なんだ」
「どうして?」
「悪いことばっかりしてるからだよ」
子供は、少し考える顔をした。
「……でも、ぼくのこと、助けてくれた」
「だから、助けてねぇっての」
正邪は、うんざりしたように顔を顰める。
「いいか。お前は、夜の間、沢の石の陰に一人で隠れてた。運が良くて、竜に見つからなかった。夜が明けたから、自分で歩いて出てきた。――そう言え」
「お姉さんのこと、言っちゃだめなの?」
「言ったら、嫌がらせしに行くぞ。お前んちの暖簾を、毎晩逆さにしてやる」
子供は、くすりと笑った。
それから、巾着の口を開けて、中に残った光る石を、全部、掌に出した。四つ。
「じゃあ、これ」
「……だから、要らねぇって」
「ぼく、まだいっぱい拾えるもん。場所、もう覚えたし」
子供は、正邪の膝の上に、四つの石を、ころころと置いた。
正邪は、膝の上の石を見下ろした。
それから、顔を上げた時には、子供はもう祠の陰から駆け出していた。畑の畦道を、片方だけの草履で、ぱたぱたと走っていく。
「おかあさーん!」
提灯の灯りが、一斉にこちらを向いた。
正邪は、外套の頭巾を深く被り直した。膝の上の石を、ひとまとめに掴み、腰の袋へ押し込む。
それから、祠の裏の藪へ、音もなく滑り込んだ。
~人里の南東の外れ 畑の畦~
――ガルクが一匹、畦道を駆けてきた。
ゴヨウだった。ゴヨウは子供の前で足を止め、鼻先を子供の胸に押し付けて、クンクンと匂いを嗅ぐ。
〈――ワウッ!〉
――それから、尾を千切れんばかりに振って、一声吠えた。
「――見つけたわ!」
小兎姫が、ゴヨウの後ろから駆けてくる。片手剣の盾は泥に汚れ、裾は夜露でぐっしょりと濡れていた。
小兎姫は子供の前に膝を突き、肩を掴んで、頭の天辺から足の先まで目を走らせた。擦り傷はある。草履は片方無い。だが、血は出ていない。
「怪我は?痛い所は無い?」
子供は首を横に振った。
小兎姫は腰の袋から救難符を取り出し、空へ向けて上げた。赤い煙が、白み始めた空へ真っ直ぐに昇っていく。
やがて畑の向こうから、母親が転がるように走ってきた。子供が母親の胸に飛び込み、母親は子供を抱き締め、声を上げて泣く。
小兎姫は、少し離れて二人を見ていた。
ゴヨウが、小兎姫の足元を離れ、畦道の先の、古い祠の方へ鼻先を向けている。低く唸り、地面の匂いを嗅ぎ、また祠の方を見る。
「……ゴヨウ?」
小兎姫は、祠の方へ歩いていった。
祠の石段の上に、泥の足跡が二つ、残っていた。
一つは子供の、片方だけの草履の跡。もう一つは、もっと大きな、底の平たいサンダルの跡だ。足跡の縁には、細かい溝の刻みが、クッキリと残っている。
小兎姫は、足跡の横にしゃがみ込んだ。
石段の端に、何かが落ちている。
ゴムのような、くすんだ紫の皮の切れ端だった。刃物で斜めに裂いたように、端が真っ直ぐに切れている。表には、車輪の溝のような、細かい刻み。
小兎姫は、切れ端を指先で摘み上げた。
「――証拠品、ね」
背後で、子供の声がした。母親に抱き締められたまま、母親の肩越しに、祠の方を見ている。
「おねえさん、もう行っちゃった?」
母親が、子供の顔を覗き込む。
「お姉さんって?」
「逆さまのリボンの、お姉さん。夜の間、一緒に居てくれ……あっ」
子供は、慌てて口を両手で塞いだ。
「い、今の、なし。ぼく、一人で隠れてたの」
小兎姫は、手の中の皮の切れ端を見下ろした。
逆さまのリボン。溝のある、ゴムのような皮。
人里の掲示板の依頼書を、一晩で全部逆さに貼り替えた者の、手配書の文言が頭に浮かぶ。
母親が、子供を抱いたまま、祠の方へ駆け寄ってきた。
「あの――その方は、どちらに。お礼を、せめて一言でも」
小兎姫は、竹林の方を見た。
朝靄の向こうで、竹林の縁が、薄青く霞んでいる。祠の裏の藪は、もう何も鳴らない。
「……もう、行ってしまったみたいね」
小兎姫は、皮の切れ端を、懐の帳面の間に挟んだ。
「お礼は、私から伝えておくわ。――いつか、捕まえた時にね」
母親は、意味が分からないという顔で、小兎姫を見た。
小兎姫は、それ以上何も言わず、立ち上がった。
〈……ワゥ〉
ゴヨウが、祠の裏の藪へ向かってもう一度だけ、低く鳴いた。
~迷いの竹林の縁 涸れ沢~
――昼過ぎ、涸れ沢には、竹が何本も倒れていた。
沢の底の石には、熊の爪痕と、鎌で斬ったような傷が、入り乱れて残っている。オサイズチもアオアシラも、もうどこにも居ない。どちらも、自分の縄張りの奥へ帰っていったのだろう。
いつもの石の陰で、正邪は胡坐をかいていた。
膝の上には、裂けた外套。正邪は太い針に麻糸を通し、切り口を、不器用な手つきで縫い合わせていた。縫い目は曲がり、糸は途中で二度、絡まった。
「……くそ」
針を置き、腕輪の蓋を開ける。
中には、青白い石の粒が一つ、収まっていた。腰の袋の中には、あと四つ。
光る石を手に入れたのは、工房の裏の箱からでも、河童の荷車からでもない。人間のガキが、自分から、正邪の膝に置いていったものだ。
――盗んだんじゃない。
貰ったものだ。
正邪は、腕輪の蓋を、パチンと閉めた。
「……盗んだことにしとく」
誰も居ない沢の底で、正邪は呟いた。
「あのガキが寝てる間に、巾着からくすねた。そういうことにしとく。私は、ガキを助けてなんかいねぇし、ガキから物を貰ってもいねぇ」
――そうだろ、
言い聞かせるように、もう一度言ちる。
「助けたんじゃない。竜同士を喧嘩させたら、面白かっただけだ」
膝の上の外套の、曲がった縫い目を見下ろす。
しばらくそうしていて、正邪は、大きく溜息を吐いた。外套を丸めて、石の陰の奥に放り込む。それから、仰向けに寝転がって、竹の葉の隙間の空を見上げた。
「……最悪だ。三日は寝込むか」
竹林の奥で、イズチの鳴く声が聞こえた。西の岸からは、笹を踏み分ける重い足音が聞こえる。
どちらも、正邪の方へは来なかった。
――境目の帯は、今日もどちらのものでもない。
『鬼人正邪』
所属:なし(手配中)
役職:天邪鬼。ギルドには登録できない
武器:毒怪弓『天壌夢弓』(弓)
防具:毒怪装【逆様】