東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~博麗神社 狩具小屋~
――棚の一段に、朝の光が細く差し込んでいる。
狩具小屋の奥の棚は、上から三段目だけが妙に片付いていた。伏せたお椀が一つ。その周りに、針山と糸巻きと、小指の先ほどの鋏が行儀よく並んでいる。
そのお椀の上で、針妙丸が胡坐をかいていた。
膝の上には、霊夢の防具の腰当てが広げてある。薄紅と淡い青の革を継いだ腰当ては、針妙丸の体よりずっと大きい。針妙丸はその縁に跨るようにして、ほつれた縫い目に針を通していた。
「……また、ここだ」
針妙丸は、糸を引き絞りながら呟いた。
ほつれているのは、腰当ての右の端。前に繕った縫い目の、すぐ隣だった。その前も、その前の前も、同じ所がほつれた。
「霊夢ー。また右の腰、ほつれてるよ」
小屋の戸口で、霊夢が欠伸をした。
「知ってるわよ。裏山で転がったもの」
「転がるのはいいけどさ。毎回同じ所なんだよね。三日前に縫ったばっかりなのに」
「三日前に転がって、昨日も転がったのよ」
「威張って言うことじゃないでしょ」
針妙丸は鋏で糸を切り、指ぬきで縫い目を押さえる。指ぬきは泡狐竜の鱗の欠片を削ったもので、霊夢の腰当てと同じ色をしている。
霊夢はこめかみを指で掻いた。裏山の岩の破片が掠めた傷は、もう瘡蓋になっている。
「それで、お代はいくら?」
「お家賃代わり。
「ならいいじゃない」
「よくないよ。帳面には付けるからね」
針妙丸は棚の端に立て掛けてあった帳面を、両腕で抱えるようにして引き寄せた。針妙丸の背丈と同じくらいの、薄い和綴じの帳面だ。表紙には、針妙丸の小さな字で『繕い帳』と書いてある。
針妙丸は帳面を開き、筆の先を舐めてから、一行書き足した。
「……霊夢、腰当て右、七針。家賃代わり」
「七針も縫ったの?」
「縫ったよ。数えてるもん」
「ただなら数えなくていいでしょう」
「ただでも数えるの。私の仕事なんだから」
針妙丸は筆を置き、帳面の頁をぱらぱらと捲った。霊夢の名前が、頁ごとにいくつも並んでいる。どの行の終わりにも、同じ文字が書いてあった。
――『家賃代わり』
霊夢は帳面から目を逸らした。
~博麗神社 参道~
――鳥居の下で、あうんが箒を握りしめていた。その表情は強張っている。
「れ、霊夢さん!」
あうんの声は、もう半分裏返っている。
「華扇さんが、石段を上がってこられます。今、三段目くらいで――」
「居ないって言っておいて」
「む、無理です!私、嘘は――」
「言えるわよ。『居ない』って三文字だけでいいんだから」
霊夢は狩具小屋の戸を閉めかけ――そこで手を止めた。
鳥居の向こうから、足音が近付いてくる。しっかりとした、迷いのない足取り。それから、柔らかいが良く通る声。
「――霊夢。居留守をするなら、小屋の戸くらい音を立てずに閉めなさい」
戸の隙間から、桃色の髪が見えた。シニョンを被せた二つのお団子。白いブラウスに、茨の文様の入った緑の上衣。右腕には包帯を巻いている。――華扇だった。
華扇の後ろで、あうんが小さく頭を下げている。
「すみません、霊夢さん……私、まだ何も言ってないんですけど……」
「言わなくても、顔に書いてあったわ」
華扇は、あうんの肩をポンと叩いた。それから、狩具小屋の戸の前に立ち、腕を組んだ。
「おはよう、霊夢」
「……おはよう」
「今日は修行の日よ。山歩きと、座禅と、それから――」
「裏山の後始末で疲れてるのよ。三日も天人に居座られて」
「聞いているわ。テツカブラを追い返したそうね」
華扇は少しだけ表情を和らげた。
「牙を一本折って、撃退。怪我人なし。……慧音さんが、会館で小鈴さんに読み上げさせていたわ。衣玖さんの報告書を、三度」
「三度も?」
「短すぎて、皆がもう一度と言ったのよ」
霊夢は溜め息を吐いた。
華扇は霊夢の脇をすり抜け、狩具小屋の中を覗き込んだ。棚の三段目で、針妙丸が腰当てを畳み終えたところだった。
「あら、針妙丸。おはよう」
「お、おはよう……」
針妙丸は、お椀の上で居住まいを正した。華扇を前にすると、なぜか背筋が伸びる。
そして華扇の目が、針妙丸の膝元に開いたままの帳面に留まった。
「それは?」
「繕い帳。……私の、仕事の帳面」
「見せてもらってもいいかしら」
針妙丸は霊夢の顔を見た。霊夢は肩を竦めた。
華扇は帳面を両手で受け取り、頁を捲り始めた。
~博麗神社 母屋 縁側~
――縁側に、帳面が三冊並んでいた。
一冊は、針妙丸の『繕い帳』。一冊は、狩具小屋の在庫を書き留めた『小屋帳』。これも針妙丸の字だ。
そしてもう一冊が、霊夢の『神社の帳面』だった。表紙の端が折れ、頁のあちこちに茶の染みが付いている。
華扇は三冊を見比べながら、黙って頁を捲っていた。
霊夢は縁側の端で、茶を啜っている。針妙丸はあうんの肩に乗せてもらい、華扇の手元を覗き込んでいた。
華扇の指が、霊夢の帳面のある頁で止まった。
「……霊夢」
「何よ」
「この『賽銭』の欄。先月の分は」
「書いてあるでしょう」
「書いてあるわね。――三行」
華扇は帳面を霊夢の方へ向けた。
賽銭 少し
賽銭 少し(ボタン一つ混ざる)
賽銭 なし(雨)
「金額が書かれていないのだけれど」
「少しは少しよ。数えるほどもないんだから」
「ボタン一つ、というのは」
「誰かが入れたのよ。ボタンを。……多分、魔理沙辺りだと思うけど」
華扇は額に手を当てた。
それから針妙丸の『繕い帳』を開き、霊夢の帳面の隣に並べた。
魔理沙 帽子の縁、十二針。一針一文
明羅 太刀の柄巻き、巻き直し。三十文
天子 前掛けの鱗、三枚縫い付け。百文(言い値)
オコゲ 防具の肩紐、五針。木の実二つ
萃香 分銅の紐。酒一杯(断る)
霊夢 腰当て右、九針。家賃代わり
霊夢 腰当て右、六針。家賃代わり
霊夢 柄巻き、巻き直し。家賃代わり
華扇は二冊を見比べ、ゆっくりと顔を上げた。
「――霊夢。神社の一番の稼ぎ手は、誰かしら」
「……さあ」
「針妙丸です。明らかにね」
華扇の声は、静かだった。静かなまま口調だけが変わった。――お説教が始まる。
「神社の主が賽銭の額も数えず、居候の繕い代で暮らしを回している。――それでいいと思っているのですか」
霊夢は湯呑みを置いた。
「居候じゃないわよ。針妙丸は神社の――」
「では、なおさらです」
華扇は『繕い帳』の頁を指で叩いた。
「ご覧なさい。霊夢の名前の行だけ、終わりに『家賃代わり』と書いてある。お代を取らないなら、書く必要はないはずでしょう。それでも針妙丸は、一針ずつ数えて書いている」
針妙丸が、あうんの肩の上でとビクリ肩を竦めた。
「べ、別に……帳面は全部付けるって決めてるだけだから」
「えぇ。立派な心掛けよ」
華扇は針妙丸に微笑み、それから霊夢に向き直った。既に微笑みは消えている。
「霊夢。この帳面の中で、霊夢の名前は先月だけで三行。その前の月は五行。その前は四行。――数えたことはある?」
「……ないわよ」
「でしょうね」
華扇は帳面を閉じた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
縁側の向こうで、雀が二羽、庭の土を突いている。あうんは困ったように霊夢と華扇を見比べ、針妙丸はあうんの肩の上で、前掛けの裾を握っていた。
華扇は今度は『繕い帳』ではなく、針妙丸の膝の上の腰当てに目を落とした。
「針妙丸。それは霊夢の腰当てよね」
「うん。今朝縫ったとこ」
「右の端ばかり、ほつれているのね」
「そうなの。いつもここ。左は一回も縫ったことない」
華扇は腰当てを手に取り、縫い目を指でなぞった。新しい縫い目の隣に古い縫い目があり、そのまた隣に、もっと古い縫い目がある。縫い目は右の端に固まって、扇のように重なっていた。
「霊夢。転がって避けるとき、いつもどちらへ転がるかしら」
「……知らないわよ。勘で転がってるんだから」
「右よ」
華扇は腰当てを霊夢の膝の上に置いた。
「右の腰から地面に落ちて、右へ転がっている。だから、いつも右の端が擦れてほつれる。――縫い目のほつれが、霊夢の癖を示しているの」
霊夢は腰当ての縫い目を見下ろした。
「相手が利口なら、いずれ覚えるわ。この巫女は、追い詰めると右へ逃げる、と」
「……そんな利口なモンスター、そうそう居ないわよ」
「大自然を侮らないで。未知多き大自然に飛び込み、そうそう居ないものに出会うのが、ハンターというお役目でしょう」
華扇は湯呑みに手を伸ばし、霊夢の茶を一口飲んだ。
「針妙丸の帳面は、神社の家計簿であると同時に、霊夢の狩りの記録でもあります。どこを何針縫ったか。どの月に何度ほつれたか。読めば、霊夢がどんな狩りをしてきたか分かる」
針妙丸が目を丸くした。
「……そんなつもりで付けてないよ」
「えぇ。だから値打ちがあるのよ」
華扇は帳面を三冊重ね、針妙丸に返した。それから立ち上がる。
「さて。説教はここまで」
「やっと終わり?」
「説教は、ね。――ここからは修行です」
霊夢は天井を仰いだ。
~博麗神社 狩具小屋~
――緊急物資の箱は、半分空だった。
華扇は箱の蓋を開け、中身を一つずつ確かめていく。[回復薬]の瓶が二本。[解毒薬]が一本。携帯食が三つ。[閃光玉]が一つ。救難符の束は、まだ厚い。
針妙丸が小屋帳を読み上げた。
「[回復薬]、残り二つ。先々月から減ってる。補充なし」
「補充しなさいよ」
「霊夢が買ってこないんだもん」
霊夢は聞こえないふりをして顔を背ける。華扇は回復薬の瓶を一本、光に透かした。
「人里で買えば、一本いくらかしら」
「……三十文くらい」
「十本で三百文。針妙丸の繕い代の、ひと月分以上ね」
「だから買ってないのよ」
「では、作りましょう」
華扇は瓶を箱に戻し、霊夢の方を振り向いた。
「[薬草]と、[アオキノコ*1]。どちらも神社の裏手から原野の縁にかけて、いくらでも生えているわ。採ってきて、ここで調合する。買わずに済めば、それは稼いだのと同じことです」
「……私が採るの?」
「霊夢が採るのよ。私は見ているだけ」
「見てるだけなら、華扇が採ればいいじゃない」
「貴女の修行ですから」
華扇は狩具小屋の壁に掛かっていた採取袋を二つ外し、一つを霊夢に押し付けた。もう一つを、自分の肩に掛ける。
「針妙丸。調合の鉢と乳棒、どこにあるか分かるかしら」
「一番下の段の奥。去年から使ってないけど」
「洗っておいてもらえる?帰るまでに」
「……一針いくら、ってわけじゃないけど、いいよ。帳面には付けるからね」
針妙丸はあうんの肩から棚へ飛び移り、一番下の段へ降りていった。
~博麗神社 狩具小屋~
――一番下の段の奥に、乳鉢が埋もれていた。
針妙丸は、木箱と木箱の隙間に体を潜り込ませ、乳鉢の縁に手を掛けた。白い陶器の乳鉢は、針妙丸が丸ごと入れるほどの大きさがある。中には、去年の薬草の緑の滓が乾いてこびり付いていた。
「……うわ、ひどい」
「針妙丸さん、引っ張りましょうか」
小屋の戸口から、あうんが覗き込んでいた。
「お願い。私じゃ持ち上がらないから」
あうんが乳鉢と乳棒を抱え上げ、洗い場まで運ぶ。針妙丸はあうんの肩に飛び乗り、一緒に付いていった。
洗い場の水は冷たかった。あうんが乳鉢に水を張り、針妙丸は鉢の縁に腰掛けて、小さな束子で内側の滓を擦り落としていく。乾いた滓は、なかなか落ちない。針妙丸は袖をまくり、鉢の底へ半分体を乗り出して擦った。
「……ねぇ、針妙丸さん」
あうんが、遠慮がちに言った。
「どうして、霊夢さんの分も帳面に付けるんですか?お代は、取らないのに」
針妙丸は、束子を動かす手を止めずに口を開く。
「数えないと、分からなくなるでしょ。どれだけ縫ったか」
「分からなくなったら、困るんですか?」
「うん、困るよ」
針妙丸は、鉢の底の一番しつこい滓を、力を込めて擦った。
「今の私、この通り小さいからさ。荷物も持てないし、狩りなんて以ての外。霊夢の役に立ってるって、自分で言っても、誰も数えてくれないじゃない。……だから、自分で数えるの」
あうんは、黙って針妙丸を見ていた。
「一針ずつ数えて、帳面に付けとけば、ちゃんと残るでしょ。――私がここに居て、仕事してるって」
滓が、ようやく剥がれた。針妙丸は束子を置き、鉢の縁に座り直して、濡れた袖を絞った。
「……べ、別に。小人族の誇りの問題だから。大したことじゃないよ」
「大したことだと思います」
あうんが真っ直ぐに言った。針妙丸は顔を背け、乳棒の方の汚れに取り掛かった。
しばらく擦ってから、針妙丸はポツリと付け加えた。
「――帳面に付けない繕いも、一つだけあるけどね」
「え?」
「何でもない。忘れて」
針妙丸は、それきり何も言わなかった。
洗い場の向こう、母屋の縁側の一番端の、日の当たる板の上。そこには、何も置かれていなかった。
~博麗原野 神社の裏手の縁~
――神社の裏の林を抜けると、原野の縁に出る。
朝露はもう乾き始めていた。なだらかな斜面に膝ほどの草が揺れ、ところどころに、崩れた石垣の跡が苔に埋もれている。斜面の下の方には、細い沢が一本、日の光を弾いて流れていた。
華扇は斜面の途中で足を止め、草の間を指差した。
「霊夢。あれは?」
霊夢は華扇の指の先を見た。
草の陰に、縁がぎざぎざした緑の葉が、何枚も重なって生えている。
「[薬草]でしょう」
「どうして分かるの?」
「……見れば分かるわよ」
「見れば、ね。では、その隣のは」
[薬草]のすぐ隣に、よく似た葉が生えていた。形も色も、ほとんど同じ。ただ、葉の裏が少しだけ白っぽい。
霊夢は、二つの葉を見比べた。
勘が、何も言わない。
「……同じじゃないの?」
「違うわ。そちらはただの雑草。煎じても苦いだけよ」
華扇はしゃがみ込み、二枚の葉を一枚ずつ摘んで、霊夢の掌に載せた。
「揉んでごらんなさい」
霊夢は言われた通り、二枚の葉を指で揉んだ。
一枚はただ青臭いだけだった。だがもう一枚は、揉んだ途端にスッと鼻に抜ける涼しい匂いが立った。
「……こっちね」
「そう。それが[薬草]。葉の裏が白いのは、匂いが立たない雑草です」
華扇は立ち上がり、斜面を見渡した。
「見るだけでは分からないものは、触って、嗅いで、確かめる。――勘で分からない時の、見立ての仕方です」
霊夢は、しばらく掌の葉を見ていた。
それから黙って、薬草を摘み始めた。
一枚ずつ揉んで、匂いを確かめ、袋に入れる。華扇は少し離れた岩に腰を下ろし、その様子を眺めていた。時々、霊夢が雑草を袋に入れかけると、華扇がそれとなく小さく咳払いをする。霊夢は舌打ちをして、葉を捨てる。
――頭の上を、大きな影が一つ横切った。
見上げると、一羽の大鷲が、原野の上をゆっくりと輪を描いて飛んでいた。華扇の大鷲、久米だ。久米は二人の真上で一度だけ羽ばたき、それから斜面の下の沢の方へ滑っていった。
「久米は、何をしてるの?」
「見張りよ。この辺りに大きなものが居ないか。……居たら、戻ってきて鳴くわ」
「便利ね」
「便利のために連れているのではありません。あの子が、空を飛びたがるから連れてきたの」
華扇はそう言って、また霊夢の手元に目を戻した。
霊夢は[薬草]を揉みながら、ふと訊いた。
「……華扇はさ。狩る時、迷わないの?」
「迷うわ。毎回ね」
華扇は、即座に答えた。
「見て、導いて、追い払って、捕まえて。それでも駄目なら、討つ。――その順番を、毎回一つずつ確かめる。確かめているうちに、迷いが減っていくの。消えはしないけれど」
「面倒ね」
「えぇ、面倒よ。でも――霊夢の勘は、その面倒を一足飛びにして越えてしまう。それが強みであり、同時に危ういところよ」
霊夢は答えず、[薬草]を袋に入れた。
華扇も、それ以上は言わなかった。
袋が半分ほど埋まった頃、霊夢は沢の方へ降りていった。
沢の縁の、湿った倒木の陰。そこに、青い傘のキノコが群れて生えている。[アオキノコ]だ。
霊夢はしゃがみ込み、一本目のキノコに手を伸ばした。
その手が、止まった。
――土が掘り返されている。
倒木の周りの土が、あちこちで捲れ上がっていた。黒い土の上に、蹄の跡がいくつも重なっている。千切れたキノコの傘が、泥に混じって散らばっていた。
霊夢は、蹄の跡の一つに指を当てた。
縁はまだ崩れていない。土は湿って柔らかい。
「華扇」
「えぇ。見えているわ」
華扇はいつの間にか、霊夢の後ろに立っていた。蹄の跡を見下ろし、それから沢の上流の藪へ目を移す。
「蹄が二つに割れているわね。大きさは、子供の掌くらい。……ブルファンゴでしょう。一頭か、二頭」
「キノコを掘りに来たのね」
「[アオキノコ]は、あの子たちの好物だもの」
華扇は藪の方へ耳を傾けた。
藪の奥で、ガサリと葉が鳴った。続けて、鼻を鳴らす音。ブヒ、ブヒ――と短く、苛立ったような鳴き声。
「……居るわね」
霊夢が、背の太刀の柄に手を掛ける。
その手首を、華扇がそっと押さえた。
「霊夢。得物を抜く前に、見なさい」
「見てる暇があったら――」
「暇はあるわ。あの子は、まだこちらを見ていないもの」
華扇の声は静かだった。
藪が割れ、一頭の小型モンスターが鼻先を突き出した。
茶色の剛毛に覆われた、猪だった。人の腰ほどの高さの体に、口の両脇から反り返った白い牙。鼻を地面に擦り付けながら、沢の縁へ出てくる。二人の方は見ていない。鼻先が向いているのは、倒木の陰に残ったアオキノコの群れだった。
出て来たブルファンゴは、一頭だけだった。
「……一頭ね」
「えぇ、若い雄よ。牙がまだ短い」
華扇は、ブルファンゴの耳を見ていた。
「耳が前を向いている。キノコしか見ていないの。苛立っているのは、お腹が空いているから。――怯えてもいないし、怒ってもいない」
「分かるの?」
「長く動物と暮らしていると、ね。言葉が通じなくても、耳や尻尾は嘘を吐かないわ」
華扇は、霊夢の手首から手を離した。
「さて、霊夢――どうする?」
霊夢は、ブルファンゴを見た。
キノコを掘っている。二人には気付いていない。気付けば、突っ込んでくる。ブルファンゴは、目の前の敵に真っ直ぐ突進する小型モンスターだ。
「……狩るほどのことじゃないわね」
「では?」
「追い払うわ。キノコは、半分残してやる」
華扇が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
霊夢は太刀を抜かず、足元の小石を一つ拾った。ブルファンゴの鼻先から少し外れた、藪の手前の地面へ投げる。
小石が草に落ち、カサリと鳴った。
ブルファンゴの耳が、ピクリと動いた。鼻先を上げ、小石の落ちた藪の方を向く。
霊夢はもう一つ小石を拾い、今度は藪の奥へ投げた。
――カサリ。
ブルファンゴは、藪の奥へ一歩踏み出した。また一歩。鼻を鳴らしながら、音のした方へ。
霊夢は三つ目の小石を、さらに奥へ投げた。
ブルファンゴは、藪の奥へ消えていった。ガサガサと葉を分ける音が、だんだん遠ざかる。やがて、何も聞こえなくなった。
霊夢は残った[アオキノコ]の半分を、袋に入れた。
華扇が岩の上から声を掛けた。
「どうして、半分残したの?」
「全部採ったら、明日もここを掘り返しに来るでしょう。キノコが無ければ、次は神社の裏の畑の方まで降りてくるかもしれない」
「……それは、勘?」
「……見てから出た勘よ」
霊夢はそっぽを向いて答えた。
華扇は、何も言わなかった。ただ、少しだけ満足げに頷いた。
~博麗神社 裏の林~
――帰り道の林は、木漏れ日がまだらに揺れていた。
霊夢は膨らんだ採取袋を肩に掛け、華扇の少し前を歩いていた。袋の中で、[薬草]と[アオキノコ]が擦れる音がする。
「霊夢」
華扇が、後ろから声を掛けた。
「針妙丸の前掛け。あれは、霊夢の防具の端切れよね」
「……そうよ。工房で余ったのを、小傘が取っておいたの」
「霊夢が渡したの?」
「渡したっていうか、置いといただけよ。小屋の棚に。……いつの間にか前掛けになってた」
華扇はしばらく黙って歩いた。
「指ぬきも、同じ竜の鱗ね」
「……よく見てるわね、本当」
「見るのが修行ですから」
霊夢は足を止めずに、肩越しに言った。
「別に、何かのつもりで置いたわけじゃないわよ。捨てるのが勿体なかっただけ」
「えぇ。分かっているわ」
華扇の声は、柔らかかった。
「針妙丸が霊夢の分を『家賃代わり』と書くのも、きっと同じよ。何かのつもりで書いているわけではない。ただ、そういう間柄なのでしょう」
霊夢は答えなかった。
林の出口に、神社の屋根が見えてきた。狩具小屋の戸が開いていて、中で小さな影が動いている。洗い終えた乳鉢を、あうんが縁側へ運んでいくところだった。
「……華扇」
「何かしら」
「今日の修行、いつ終わるの」
「空き瓶の数だけ、回復薬が出来上がったら」
「何本あるのよ」
「さぁ。今頃、針妙丸が数えてくれているわ」
霊夢は空を仰いだ。
華扇はそんな霊夢の背中を見ながら、小さく笑った。
~博麗神社 縁側~
――縁側に、乳鉢と乳棒が並んでいる。
針妙丸が洗っておいた乳鉢は、陶器の白がまだ濡れて光っていた。その隣に、霊夢の採ってきた薬草とアオキノコが、山になって積まれている。
華扇は縁側に正座する。
「では、始めましょう」
華扇は[薬草]を一掴み乳鉢に入れ、乳棒で軽く押し潰した。青い汁が滲み出し、涼しい匂いが縁側に広がる。そこへ[アオキノコ]を千切って加え、また潰す。乳棒が鉢の底を擦る音が、ゴリ、ゴリ、と一定の調子で続く。
「力を入れすぎないこと。潰しすぎると、苦みが出るわ」
「華扇がやるなら、私は見てるだけでいいでしょう」
「一鉢目は私。二鉢目からは霊夢よ」
霊夢は溜め息を吐いて、華扇の手元を覗き込んだ。
華扇の手つきは迷いがなかった。乳棒を回す速さは一定で、時々手を止めて、鉢の中の色を確かめる。青い汁が、少しずつ深い緑に変わっていく。
華扇は潰した薬草を布に包み、小さな鍋の上で絞った。緑の汁が、細く鍋に落ちる。それを火鉢にかけ、ゆっくりと温める。
針妙丸が、棚から運んできた空き瓶を縁側に並べた。瓶は針妙丸の背丈よりも大きい。一本ずつ、抱えるようにして転がしてくる。
「瓶は十本あったよ。でも、一本は目立つ罅が入ってたから除けといた」
「ありがとう。九本ね」
華扇は鍋の汁を匙で掬い、色と匂いを確かめてから、瓶に注いだ。透き通った緑の液が、瓶の半分ほどまで満ちる。
「はい、一本目。――次は霊夢よ」
華扇は二本目の瓶に栓をしながら、乳鉢を覗き込んだ。
「回復薬は、[薬草]と[アオキノコ]だけでも作れるわ。でも、ここに少しだけ[蜂蜜]を加えると、効き目が強くなる」
「[蜂蜜]なんて、神社にはないわよ」
「でしょうね。だから今日は作らない。蜂蜜を採りに行くのは、また今度の修行の時にでも」
「……また今度があるの?」
「ありますよ。蜂の巣がある木は、山にいくらでもあるもの」
霊夢は心の底から嫌そうな顔をした。
華扇は霊夢の顔を見てクスリと笑い、三本目の瓶に汁を注いだ。
「霊夢。薬を自分で作ると、一本一本の重さが変わるのよ」
「重さ?」
「買った薬は、いざという時に惜しまずに飲める。でも、自分で葉を揉んで、鉢で潰して、火にかけて作った薬は――飲む前に、少しだけ考えるようになる。本当に今、これを飲むべきか、とね」
「……飲むべき時に考えてたら、死ぬわよ」
「えぇ。だから、飲むべき時が来る前に、考えておくのです。どこまで踏み込むか。どこで退くか」
華扇は瓶を光に透かし、色を確かめる。
「――それも、勘に依らない見立ての一つよ」
霊夢は乳棒を受け取った。
薬草を入れ、押し潰す。華扇がしたのと同じように、乳棒を回す。ゴリ、ゴリ、と音がする。
「速いわ」
「……」
「もう少しゆっくり。鉢の縁まで、大きく回すの」
霊夢は黙って、乳棒を回す手を緩めた。
しばらくすると、華扇がまた口を開いた。
「霊夢は、[薬草]を潰すときも右回りね」
「……それが何よ」
「何でもないわ。ただ、癖というのはどこにでも出るものだと思って」
霊夢は乳棒を止め、華扇を睨んだ。華扇は涼しい顔で、針妙丸が運んできた瓶に栓をしていた。
霊夢は、乳棒を左回りに回し始めた。
ぎこちない。鉢の縁に乳棒が当たり、カチンと音が鳴る。汁が少し跳ねて、霊夢の袖に緑の染みが付く。
「……やりにくいわね」
「慣れていないからよ」
「狩りでも、そうってこと?」
「さぁ、どうかしら」
華扇は答えなかった。
霊夢は左回りのまま乳棒を回し続けた。
~博麗神社 軒先~
――昼過ぎ、軒先に小さな影が二つ戻ってきた。
紫苑と、オトモのアイルーのオコゲだった。紫苑は着古したパーカーの裾を泥で汚し、オコゲは背中に木の実を詰めた小さな袋を背負っている。
「……ただいま」
紫苑は軒先の定位置にペタリと座り込んだ。
「お帰り。女苑の依頼は?」
「終わったよ。三件。……女苑が、全部の報酬を持ってっちゃった」
「いつものことね」
「うん。いつものこと」
紫苑はそう言って膝を抱え、お腹がくぅと鳴る。紫苑はお腹を押さえ、困ったように笑みをこぼす。
「……お腹すいた」
「台所に、昨日の残りのご飯があるわよ」
「いいの?」
「天子が置いてった干物もあるわ。あんたが食べなさい」
紫苑の顔が、パッと明るくなる。
「天人様、来てたの?」
「三日も居たわよ。あんたが居ない間に」
「……そっか」
紫苑は少しだけ寂しそうに笑い、それから台所の方を見た。
それから、縁側に並んだ瓶に目を留めて、目を瞬かせた。
「それ、何?」
「[回復薬]よ。作ってるの」
「霊夢が?」
「……私が」
紫苑は、しばらく霊夢の顔を見ていた。それから、ふにゃりと笑った。
「珍しいね」
オコゲが、背中の袋を下ろした。袋の口を開け、中から木の実を二つ取り出す。そして、縁側の端の、針妙丸の方へ、そろそろと近付いていった。
針妙丸は縁側の端で、空き瓶に栓を詰めていた。オコゲが近付いてくると、針妙丸は手を止め、背筋を伸ばす。
オコゲは、針妙丸から猫の一歩分だけ離れた所で止まった。木の実を二つ、縁側の板の上に並べる。
「……この前の、肩紐の分ニャ」
小さな、ボソボソとした声だった。
「オコゲ、ちゃんと払うニャ。紫苑さんの分も、ちゃんと」
針妙丸は、木の実を見下ろした。
それから帳面を引き寄せ、一行に印を付けた。
――『オコゲ、肩紐、五針。木の実二つ。代金として受け取り』
「受け取り確認、ニャ」
オコゲはホッとしたように耳を寝かせた。それから紫苑の膝の上に戻り、丸くなる。
華扇がその様子を黙って見ていた。
「……あの子は、ちゃんと払うのね」
「オコゲはね、いつも払うよ。払うものは大抵木の実だけど」
針妙丸は木の実を前掛けのポケットに仕舞った。
「お金じゃなくても、お仕事の対価を払ってくれるなら、それでいいの」
華扇は霊夢を見た。
霊夢は聞いているのか聞き流したのか、乳棒を回す手を止めなかった。左回りに、ゴリ、ゴリと音が鳴る。
~博麗神社 境内~
――夕方、鳥居の下に衣玖が現れた。
「――こんにちは、霊夢さん。総領娘様より、お届け物です」
衣玖は懐から布の包みを取り出した。小さいが、ずっしりと重そうな包みだった。
「三日分のお食事代と、神社の柵の修理代の残りです。総領娘様が、必ず今日の内に届けるようにと」
「……本当に払いにきたのね」
「天人は借りを作らないそうですので」
霊夢は包みを受け取った。重い。
包みの結び目に、紙切れが一枚挟まっている。霊夢は紙を広げた。
天子の字で、一行だけ書いてあった。
――『干物の分は引かなくていいわ』
霊夢は紙を畳み、懐に仕舞った。
「……ありがとう、って言っといて」
「承知いたしました。総領娘様は、きっとお喜びになりませんが」
「喜ばないの?」
「礼を言われるのは、苦手でいらっしゃいますので」
衣玖はそれだけ言うと、一礼して、来た時と同じように音もなく去っていった。
縁側で、華扇が包みを見ていた。
「霊夢。それは」
「天子の柵代と飯代よ」
「――それは、賽銭ではありませんよ」
「分かってるわよ」
霊夢は包みを縁側に置き、しばらく黙っていた。
それから、針妙丸の方を向いた。
「針妙丸。帳面、貸して」
「……え?」
「繕い帳。今朝の分」
針妙丸は戸惑いながらも、帳面を霊夢の方へ押し出した。
霊夢は帳面を開き、今朝の行を探した。
――『霊夢、腰当て右、七針。家賃代わり』
霊夢は包みを解き、中から銭を七枚取り出した。それを、針妙丸の目の前の板の上に、一枚ずつ並べる。
「七針。一針一文でしょう」
針妙丸が、目を丸くした。
「え、でも、霊夢のは家賃代わりって――」
「今日の分はいいのよ。天子のお金だし」
霊夢は筆を取り、今朝の行の『家賃代わり』の四文字に、細く一本線を引いた。その横に、霊夢の字で書き添える。
――『七文、支払い済み』
霊夢の字は大きく、少し曲がっていた。針妙丸の細かい字の隣で、やけに目立つ。
「……べ、別に」
針妙丸は、帳面から目を逸らした。
「払ってくれなくても、ちゃんと縫うのに」
「知ってるわよ」
霊夢は帳面を閉じ、針妙丸に返した。
「だから払うのよ。――珍しく律儀な天人のお金で、だけど」
針妙丸は帳面を両腕で抱え、しばらく黙っていた。それから、前掛けのポケットに、銭を一枚ずつ仕舞い始めた。七枚。数えながら、ゆっくりと。
華扇は、湯呑みを両手で包んだまま、その様子を眺めていた。
だが、何も言わなかった。
~博麗神社 鳥居~
――日が沈む頃、華扇は帰り支度を始めた。
縁側には、緑の液を満たした瓶が九本並んでいる。そのうち二本は、少しだけ色が濁っていた。霊夢が左回りで潰した鉢の分だ。
「濁ったのは、霊夢が自分で使いなさい」
「効くの?」
「効くわ。少し苦いだけで、[回復薬]そのものの効果は変わらないわ」
霊夢は顔をしかめた。
「――待って、華扇」
縁側の端から、針妙丸が帳面を抱えて駆けてきた。あうんの肩に飛び乗り、華扇の目の高さまで運んでもらう。
「――乳鉢と乳棒の洗い。付けといたから」
針妙丸は帳面を開き、今日の頁の一番下の行を指差した。
――『華扇、乳鉢と乳棒の洗い』
行の終わりは、まだ空いている。
「お代、何にする?」
華扇は目を瞬かせ、それから、声を立てて笑った。
「そうね。……次に来る時、人里の団子を持ってくるわ。針妙丸の分と、あうんの分と」
「霊夢の分は?」
「霊夢は、修行が済んだら」
針妙丸は、空いていた行の終わりに書き込んだ。
――『団子(後払い)』
「分かった。忘れたら、承知しないからね」
「えぇ。忘れないわ」
華扇は鳥居の下で振り返り、境内を見渡した。縁側で瓶を箱に詰めている針妙丸と、それを手伝うあうん。軒先で丸くなって眠る紫苑とオコゲ。
そして、賽銭箱。
華扇は、懐から銭を一枚取り出し、賽銭箱へ投げ入れた。
チャリン、と小さな音がした。
「……何よ、急に」
「今日の茶菓子代よ」
「茶菓子、出してないけど」
「霊夢のお茶を、三杯飲んだわ」
華扇は微笑み、石段を下りていった。
霊夢は、賽銭箱の前に立った。
箱の中を覗き込む。底に、銭が一枚。それから、いつ誰が入れたのか分からないボタンが一つ。
霊夢は懐から帳面――自分の、茶の染みだらけの『神社の帳面』を取り出した。今日の頁を開き、筆を取る。
少し考えてから、書いた。
――『賽銭 一文』。
それから、その下に、もう一行。
――『繕い代 七文(払い)』
霊夢は二行を見比べ、溜め息を吐いた。
帳面を閉じると、狩具小屋の方から、針妙丸の声が聞こえた。
「霊夢ー!腰当て、乾いたよー!」
「今行くわよ」
霊夢は帳面を懐に仕舞い、狩具小屋へ歩き出した。
右の腰に手を当てる。そこには、今朝縫ったばかりの、七針の縫い目があった。
――次は、左へ転がってみるか。
夕暮れの境内に、霊夢の足音だけが響いていた。