東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

29 / 30
第十四話:伊吹颪(いぶきおろし)

~妖怪の山 玄武の沢~

 

――沢の霧が、堰の上でゆっくりと割れていく。

 朝の哨戒路を下ってきた椛は、岩の上で足を止めた。

 玄武の沢の中ほど、川幅が広がる所に、石と丸太を組んだ堰がある。河童たちの水路へ水を分けるための堰だ。その堰の上に、誰かが大の字になって寝転んでいた。

 腰に下げた瓢箪。傍らには、苔むした槌の頭を持つハンマーが一振り、無造作に転がっている。

 

「……あの、伊吹様」

 

 椛が呟くと、隣を歩いていたハツシモが、鼻先を堰の方へ向けた。尾は振らない。ただ、耳だけがピクリと動く。

 萃香は寝転んだまま片手を上げた。

 

「よぉ、白狼の。朝から精が出るねぇ」

「堰の上で寝ないでください。水路の番の河童が困ります」

「困らせに来たんじゃないよ。貰いに来たのさ」

 

 萃香はそう言って、瓢箪を傾けた。

 堰の向こうの岸辺で、工房の戸が勢いよく開く。

 

「い、いい伊吹様!もう来てたんですか!?」

 

 青い髪を二つに結い、緑の帽子を被った少女――にとりが慌てて駆けてくる。水色の作業着には、工具を差したポケットがいくつも縫い付けてあり、背には体よりも大きな背嚢。胸元で、鍵の形の飾りが揺れている。

 にとりの後ろから、一匹のアイルーが小さな樽を転がしてくる。茶色の毛並みに、油の染みの付いた前掛け。耳の先が少し焦げて縮れているにとりのオトモ『ネジ』はにとりの傍で樽を止めて起こす。

 

「樽一つ、確かに持ってきたニャ。にとりさん、これで今年の分は終わりニャ?」

「終わりさ。……いや、あと何年だっけ」

「あと二年だよ」

 

 萃香が寝転んだまま言う。

 

「堰を直した年から数えて、五年で五樽。そういう約束だったよな?」

「勿論、覚えてますよ。――鬼は約束を忘れない。こっちが忘れたら、何をされるか分かったもんじゃない」

 

 にとりは笑いながら、樽を堰の端に据えた。萃香はようやく身を起こし、樽の栓を指で弾いた。

 椛は、岸辺の岩に腰を下ろした。哨戒の途中だが、この沢の見回りはここで一息入れることになっている。それに――この二人が揃うと、椛にはどうしても思い出すことがあった。

 萃香の傍らのハンマーに目をやる。

 槌の頭は、骨と甲殻が固まった、大きな丸い塊だった。表面を覆う甲殻には、今も薄く緑の苔が残っている。朝露を吸って、苔は青々としている。

 

「……まだ、生きているんですね。その苔」

「生きてるよ。時々水をやってるからね」

「酒の間違いでは?」

 

 にとりが口を挟む。萃香はケラケラと笑い、槌の頭を撫でた。

 

「にとりは毎年、削らせろって言うんだよ。苔が湿気を吸って、柄の金具が錆びるからってさ」

「本当に錆びるんですって。鎖の継ぎ目だって、神社の小人に何回直させてるんですか」

「錆びたら直しゃいい。……苔は削ったら戻らない」

 

 萃香はそう言って、堰の下流に目を向けた。

 堰の少し下で、川が二つに分かれている。その間に、白い砂利の河原が一つ、水の上に顔を出していた。堰を組み直したとき、河童たちは水位を下げ、あの河原だけは水に沈めなかった。

 萃香の目は、その河原の上で止まっていた。

 

――萃鬼鎚『伊吹颪』の苔むした槌の頭は、二年前、この沢で一頭の大型モンスターが振るっていた尻尾の先だ。

 


~妖怪の山 玄武の沢(二年前の夏)~

 

――二年前の夏。『玄武の沢』の堰は、ひと月のうちに三度も壊された。

 

 最初は夜だった。河童たちが朝起きると、堰の丸太が下流まで流され、組んだ石が河原一面に散らばっていた。

 二度目は昼で、見張りの河童が逃げ帰ってきて、『山が動いた』とだけ言った。

 三度目の朝、堰の跡には、大人が三人並んで寝られるほどの丸い窪みが残っていた。

 

――守矢ギルドは、まず捕獲を試みた。

 会所の手配で、河童たちが堰の跡に罠を仕掛け、天狗の哨戒班が見張りに付いた。夜半、それは来た。罠に掛かって痺れて止まった。

 

――そして、止まったまま体を捩り、巨体ごと回った。

 罠は地面ごと抉り取られ、麻酔の煙が届く前に、尻尾の一振りで仕掛けた河童たちが纏めて川へ放り込まれた。

 幸い怪我人は出なかった。だが、捕獲の手は尽きた。

 


~妖怪の山 駒草集会所~

 

――依頼票が掲示板に貼り出されたのは、その翌日だった。

 

依頼:玄武の沢 堰を壊す大型モンスター一頭

目標:討伐

地点:玄武の沢 中流の堰の周り

備考:捕獲は失敗。罠を壊す怪力と回転攻撃あり

 

 備考の最後の三文字を見て、集会所の誰もが黙った。

――回る。それだけで、山のハンターたちは察した。罠ごと回るような相手の懐へ、好んで飛び込む者は居ない。報酬は悪くないのに、依頼票は昼を過ぎても剥がされなかった。

 

――その依頼票の前に、まだ酒の匂いの残る小さな鬼が立った。

 

「へぇ。回るのかい」

 

 萃香は依頼票を指で弾き、報酬の欄を見た。それから、隣で頭を抱えていたにとりの肩を叩いた。

 

「河童の。これ、あんたらの堰だろう?」

「……そうです。三回も組み直して、三回壊された。もう丸太が無いんです」

「報酬の他に、何か出すかい」

 

 にとりは顔を上げ、萃香の手の瓢箪を見た。少し考え、それから指を五本立てた。

「……酒樽を。一年に一つ、五年で五つ。河童の蔵の、一番いいやつを献上します」

「よーし、乗った」

 

 萃香は依頼票をペリッと剥がした。

 

「ただし、あんたも来な。堰のことは、あんたが一番よく知ってるだろ」

「わ、私も?いや、私は技術屋で――」

「試したい物があるって顔に書いてあるよ」

 

 にとりは口を閉じた。――図星だった。工房の奥には、回る相手を止めるために夜通し組んだ試作品が、まだ油の匂いをさせて転がっている。

 集会所の入口で、白い耳がぴくりと動いた。

 

「……沢の案内なら、哨戒班から出します」

 

 椛だった。足元にはハツシモが控えている。椛は二人の傍に歩み寄る。

 

「回る相手なら、回る場所を先に見ておいた方がいいはずです。沢の上の尾根からなら、堰の周りが見渡せます」

「そりゃあ助かる。白狼の目と、ガルクの鼻か」

 

 萃香はニッと笑い、瓢箪をあおった。

 その日の萃香の腰には、人里の工房で借りた鉄のハンマーが一振り提げられた。腰の鎖の先では、丸・三角・四角の分銅が、いつものようにチャリチャリと鳴っていた。

 


~妖怪の山 玄武の沢 中流~

 

――翌朝。沢には、まだ夜の冷えが残っていた。

 川霧が水面を這い、岸の木々の幹を白く包んでいる。風は上流から下流へ、ゆっくりと吹き下ろしていた。椛は尾根の上で立ち止まり、千里眼で沢を見渡した。

 霧の向こうに、堰の跡が見える。散らばった石と、流されずに残った丸太の杭。その先の河原は、何かに均されたように平らだった。

 

「……堰の跡の周りに、動くものは居ません」

 

 椛は尾根を下りながら言った。

 

「ただ、その先の森の中は見えません。木が茂りすぎています。霧も濃い」

「見えない所は、歩いて見りゃいいさ」

 

 萃香はそう言って笑う。次の瞬間――萃香の輪郭が薄くなり、体が霧の中へ溶けた。

 にとりが目を丸くする。

 

「ちょ、ちょっと伊吹様!?」

 

 返事はない。川霧に混じって、萃香の気配だけが沢の上を薄く広がっていく。しばらくして、少し離れた岩の上に霧が集まり、やがて萃香の形に戻った。萃香は「おっとっと」と軽くふらつき、岩に手をついた。

 

「……ざわついてるねぇ」

「何か分かったんですか」

「大きいのが居る。それから、森の鳥がやけに静かだ。分かるのはそれくらいさ。霧は、見るには向いてないんだよ」

 

 萃香は瓢箪を一口あおり、岩から飛び降りた。

 

「――あとは、足で探すしかないね」

 

 三人と一頭は、堰の跡へ向かった。

 にとりは背嚢から帳面を出し、壊れた堰の様子を書き留め始めた。散らばった石を一つずつ見て、どの方向へ転がったかを確かめていく。

 

「……おかしいな」

 

 にとりが呟く。

 

「石が、ぐるっと輪になって散らばってる。一方向から体当たりされたのなら、下流側へまとめて飛ぶはずなんだ。これは、真ん中から外へ、四方八方に飛んでる」

 

 椛は堰の跡の真ん中に立った。足元の河原の砂利が、浅く擂り鉢状に抉れている。輪の真ん中に、一際深い窪みが一つ。何か重いものが、そこを軸にして踏ん張った跡だ。

 

「ここで、回ったんですね」

「回ったようだねぇ。それも、一回や二回じゃないよ」

 

 萃香が、輪の縁を指差した。抉れた跡は、一本の筋ではなかった。何本もの筋が少しずつずれながら重なり、渦を巻くように外へ広がっている。

 

――三度。いや、四度か。

 

 椛は、筋の数を目で追った。巨体が軸足一本で踏ん張り、何度も回り続けた跡だ。

 ハツシモが、輪の外れで鼻を鳴らした。

 そこには、大きな丸い窪みがあった。集会所の噂で聞いた、大人が三人並んで寝られるほどの窪み。縁は崩れておらず、底の砂利は細かく砕けて、白い粉を吹いている。

 にとりがしゃがみ込み、窪みの底の砂利を一つまみ拾った。指の腹で擦ると、粉になって崩れる。

 

「……すごい重さで叩かれてる。石の硬さだけで言えば、うちの鍛冶場の金床と変わらないよ。それが、こうなるんだ」

「頭かい?」

「頭なら、もっと縦長の跡になります。これは丸い。丸い形の重い塊を、上から叩きつけた跡かと」

 

 萃香は窪みの縁にしゃがみ、窪みの形を手のひらでなぞった。それから、窪みと輪の真ん中を見比べた。

 

「――尻尾、だね」

「尻尾?」

「回る時に、一緒に振り回すのさ。こうして、鎖の先の分銅みたいにね」

 

 萃香は、自分の腰の鎖を指で摘んで揺らした。丸い分銅が、チャリと鳴る。

 

「回すから重い。重いから、より速く、力強く回るんだ」

 

 椛は窪みを見下ろした。分銅というには、あまりにも大きい。

 堰の跡から少し上流へ戻った所に、守矢ギルドの罠の残骸が残っていた。

 [シビレ罠]の金具は、真ん中から捻じ切られていた。地面に打ち込んだ杭ごと引き抜かれ、雷光虫を詰めた筒が二つに割れている。その脇には、半分埋まった落とし穴。穴の縁から土が掻き寄せられ、ほとんど平らに戻されていた。

 にとりは捻じ切れた金具を拾い上げ、しばらく黙って見ていた。

 

「……これ、私が組んだ罠です」

「よく出来てたんだろう?」

「出来てました。麻痺効果はちゃんと効いた。……効いたまま、回られたんです」

 

 にとりは、金具を背嚢に仕舞った。持ち帰って、どこが捻じ切れたのか調べるつもりらしい。

 椛は、落とし穴の縁に残った足跡を見ていた。

 三本の太い指。指の先は丸く、爪は短い。人の胴ほどもある足跡が、泥に深く沈んでいる。それだけの重さがある、ということだ。

 だが、足跡の並びが妙だった。

 

「……歩幅が狭いです」

 

 椛は足跡と足跡の間を、自分の歩幅で測った。

 

「この足の大きさなら、もっと大股で歩けるはずです。それに、右の後ろ足だけ、跡が浅い。引き摺っています」

「怪我かい?」

「古い傷か……それとも、年寄りか」

 

 ハツシモが、足跡の列に沿って鼻を這わせていく。しばらく進み、一本の木の前で立ち止まった。

 立ち枯れた大木だった。幹の半分ほどが、大きな歯で齧り取られている。木屑が根元に積もり、まだ白く、湿っていた。

 にとりが木屑を手に取る。

 

「齧りたてだね。……木を食ってるのか。肉食じゃないんだ」

「立ち枯れの木ばかり狙っています」

 

 椛は、周りの木を見回した。青々と葉を茂らせた若木には、一つも歯形がない。齧られているのは、枯れて乾いた木ばかりだった。

 

「草食で、朽ちた木を食べる。堰を壊す。罠ごと回る……」

 

 萃香が、指を折りながら呟く。

 

「なのに、人も河童も食わない。食いもしない堰を、ひと月に三度も壊す。――妙だねぇ」

 

 その時、ハツシモが低く鼻を鳴らした。

 川べりの岩陰に、大きな糞の山があった。にとりが鼻をつまみながら、木の枝で崩してみる。中から出てきたのは、噛み砕かれた木の繊維と――

 

「……砂利?」

 

 にとりが、目を丸くした。

 糞の中には、木の繊維と同じくらいの量の、小さな丸い砂利が混ざっていた。角が取れ、すべすべに磨かれている。

 

「木を食べる竜が、どうして砂利を……」

「鳥と同じさ」

 

 萃香が糞の山を覗き込んだ。

 

「歯が弱った年寄りってのは、腹の中で石を転がして、食べた物をすり潰すんだよ。山の鳥はみんなそうしてる。――若いうちは歯で噛める。でも年を取ったら、石が要る」

 

 にとりの顔色が、少し変わった。

 にとりは立ち上がり、堰の跡の方を振り返った。それから、帳面を慌ただしく捲った。去年の秋に、堰を組んだ時の図面だ。

 

「……あった」

 

 にとりは図面の一角を指で叩いた。

 

「堰を組む前、堰の少し下流に、大きな砂利の河原があったんです。中洲みたいに、川の真ん中に。堰で水を溜めたら、水位が上がって、そこが沈んだんです」

「その河原、今はどうなってる?」

「水の底です。……堰を組んでから、まだ一年も経ってない」

 

 にとりの声が、小さくなった。

 椛は、堰の跡と下流の水面を見比べた。堰が壊れて水位が下がった今、川の真ん中に、白い砂利の背がうっすらと覗いている。

 

――壊していたのは、堰ではなかった。堰の向こうに沈んだ、河原の砂利だ。あのモンスターは、それを食べに来ていた。

 

「……私が、あいつの食卓を沈めたってことか」

 

 にとりがポツリと言った。

 誰も、すぐには答えなかった。

 


~妖怪の山 玄武の沢 上流の森~

 

――足跡は、沢を離れて森の奥へ続いていた。

 

 森へ入ると、霧が薄くなり、代わりに湿った土と苔の匂いが濃くなった。風は相変わらず上流から吹き下ろしてくる。三人は風下を保ったまま、足跡を辿った。

 

――途中で、森の様子が変わった。

 木々が、ある高さで揃って薙ぎ倒されている。人の背丈ほどの高さで、幹がまとめて折れ、倒れた木が放射状に並んでいた。倒れた木はどれも枯れ木で、その幾本かは、もう半分齧られている。

 

「尻尾で木を倒して、倒れた所を食べるんだ」

 

 萃香が、倒木の折れ口に触れた。

 

「こうやって、食べやすい所に餌を並べておくのさ。年寄りの知恵だね」

 

 頭上で、鳥の声が途切れた。

 さっきまで梢で鳴き交わしていた小鳥たちが、一斉に黙っている。椛の耳が、自然と前を向いた。少し先の藪がガサリと揺れ、二頭のケルビが飛び出してくる。白い尻を見せて、三人の脇を下流の方へ駆け抜けていった。

 ハツシモが、ぴたりと足を止める。

 椛はハツシモの背に手を置き、身を低くした。萃香とにとりも、それに倣う。

 

――居る。

 

 前方の木々の隙間から、湯気のようなものが立ち昇っていた。

 三人は、倒木の陰を縫って近付いていった。

 森が開けた所に、小山が一つあった。

 

 ――否、小山ではない。茶色の甲殻に覆われた背中だ。甲殻の上には分厚い苔が生え、そこかしこに小さなキノコが傘を広げている。遠目には、苔むした岩山にしか見えない。背中の真ん中には、大きな瘤が二つ、並んで盛り上がっていた。

 その小山が――ゆっくりと動いた。

 太い首が持ち上がり、頭が見える。頭の両脇から、大きく湾曲した角が一対、前へ突き出していた。人の胴を何本も束ねたほどの太さがある。左の角の先は欠けて、断面が古びて黒ずんでいた。

 その後ろで、長い尻尾が地面を這っている。尻尾の先には、骨と甲殻が固まってできた、丸く巨大な塊が付いていた。地面に置かれただけで、塊の下の土がめり込んでいる。

 萃香が、小さく息を吐いた。

 

――『尾槌竜:ドボルベルク』

 

 ドボルベルクは、一本の立ち枯れの木の前に立っていた。

 尻尾の槌を、ゆっくりと持ち上げる。体をわずかに捻り、槌を横へ振った。ドン――と鈍い音がして、枯れ木が根元から折れ、地面に倒れる。ドボルベルクは倒れた幹に顔を寄せ、樹皮ごと齧り始めた。

 ガリ……ガリ……と、遅い音が聞こえる。

 何度も噛み直している。一口を飲み込むまでに、ずいぶん時間が掛かった。

 

「……歯が、だいぶ欠けてます」

 

 にとりが、声を潜めて言う。

 ドボルベルクは幹を半分ほど食べたところで、顔を上げた。そのまま首を巡らせ、沢の方角を見る。しばらく見つめていたが、やがて諦めたように首を戻して、また幹を齧り始めた。

 

――沢の方角には、水に沈んだ河原がある。

 

 椛は、ドボルベルクの体を一つずつ見ていった。甲殻のあちこちに古い傷がある。苔に隠れて、ひび割れた甲殻が何枚も重なっていた。右の後ろ脚の付け根には、大きな傷跡。足跡が浅かったのは、この脚だ。

 

「――あれを、狩るのか」

 

 にとりが言った。誰に向けた問いでもなかった。

 椛は少しの間、黙っていた。

 

「……会所の判断は、討伐です」

 

 零れた椛の声は、低く落ち着いていた。

 

「堰の下流には、河童の集落があります。堰が壊れるたびに、溜まった水が一度に流れて、下の水車小屋が二つ流されました。次は家かもしれません。捕獲は試して、駄目でした。追い払っても、あれは砂利を食べに戻ってきます。――生きている限り」

「堰を元に戻さなきゃいいんじゃないのかい。河原を沈めなきゃ――」

「堰がなければ、水路に水が回りません。工房も、下の畑も止まります」

 

 にとりは口を開きかけ、閉じた。それは、にとり自身が一番よく分かっていることだった。

 萃香は、倒木の陰に座り込んだまま、ドボルベルクを眺めていた。瓢箪を手の中で転がし、栓を抜かずに戻す。

 

「……年寄りなんだよ、あいつ」

 

 萃香がポツリと口を開く。

 

「歯が欠けていて、脚を引き摺って、角も折れてる。それでも、この沢で一番重く強い。罠ごと回るくらいにはね」

 

 萃香は、背の鉄のハンマーに手を掛けた。

 

「――だったら、真っ当に相手してやるのが礼儀さ。罠でも毒でもなく、正面から叩く。――鬼のやり方でね」

 

 にとりは、萃香の横顔を見た。萃香は笑っていなかった。

 

「作戦はこうだ」

 

 萃香は、地面に小石を三つ並べた。

 

「あいつは回る前に、必ず軸足を決める筈だ。回りっぱなしじゃ、あの重さは支えられないからね。軸足を叩けば、回ってる最中に崩れる。崩れたら、背中の瘤を叩く。――瘤は脂の袋だ。あそこが一番柔らかい」

「軸足は、どっちの脚でしょうか」

「それを今から見るのさ」

 

 萃香は椛を見た。

 

「白狼の。あんたは正面で、あいつの目をこっちに向けさせてくれ。盾があるだろう。危なくなったら、光る玉で目を眩ませな」

「了解です」

「にとり。あんたは離れた所から撃つ。頭を狙っておくれ。目を回してくれりゃ、こっちが楽になる」

「……分かりました」

 

 にとりは、背嚢を下ろした。

 中から引き出したのは、太い筒を何本も束ねたような、無骨なヘビィボウガンだった。銃身は鈍い鉄色で、ところどころにモンスターの甲殻を継ぎ当てて補強してある。銃床の脇には、歯車と発条が剥き出しの、見慣れない機械が一つ括り付けてあった。

――試製重弩『玄武工廠式・河童筒』。にとりが自分で組み、自分で直し続けている試作のヘビィボウガンだ。

 

「その、横に付いてるのは何だい」

「……試作品です。回るのを止めるための」

「ほぉ」

「試すのはハンターの仕事です。……今日のハンターは、自分ですが」

 

 にとりは少しだけ笑った。それから、弾帯から太い弾を一発抜き取り、銃身に込めた。弾頭がずしりと重い。

 [徹甲榴弾*1]を装填する。

 椛は剣を抜き、盾を構えた。ハツシモが椛の脇に身を寄せる。

 萃香は鉄のハンマーを肩に担ぎ、瓢箪の酒を一口だけ含んだ。それから、瓢箪を腰に戻した。

 

「――さぁ、一狩り行こうか」

 


~妖怪の山 玄武の沢 上流の森 開けた所~

 

――椛が、倒木の陰から飛び出した。

 盾の縁で剣の峰を叩く。カン、カン――と乾いた音が森に響いた。

 ドボルベルクの咀嚼が止まる。太い首が、ゆっくりとこちらへ巡った。小さな目が、椛を捉える。

 ドボルベルクは食べかけの幹から顔を離し、体ごと向き直った。苔むした背中の瘤が、大きく膨らむ。

 

〈ヴォオオォォォォ……ッ!!〉

 

 低く、腹の底を揺さぶる咆哮だった。

 椛は盾を構えたまま、耳を伏せて耐える。声が森の木々にぶつかり、梢の露がバラバラと降ってくる。

 咆哮が止むより早く、ドボルベルクが動いた。

 右の前脚を踏み出し、頭を下げる。角の先が地面を抉った。そのまま、土を跳ね上げながら突っ込んでくる。

 

――速い。

 

 あの体からは想像できない出足だった。椛は横へ跳び、地面を転がる。角が、さっきまで椛の居た所を土ごと掘り返していく。

 ドボルベルクは止まらない。突っ込んだ先の倒木を角で押し退け、勢いのまま大きく弧を描いて向きを変える。

 

「――椛、そのまま引き付けて!」

 

 にとりの声が、森の奥から飛んできた。

 ズドン――と腹に響く発砲音がした。[徹甲榴弾]が、ドボルベルクの額の甲殻に突き刺さる。一拍遅れて、弾頭がボンッと爆ぜた。ドボルベルクの頭がガクンと揺れる。

 その隙に、萃香が側面へ回り込んでいた。

 鉄のハンマーを腰に構え、力を溜める。萃香の腕の筋が張り、槌の先がわずかに沈んだ。溜めた力を、ドボルベルクの前脚の付け根へ叩き込む。

 ガツン――と鈍い音がした。

 手応えは硬い。苔の下の甲殻は、萃香の鉄の槌を跳ね返さんばかりだった。萃香は痺れた手を振り、すぐに後ろへ跳び退いた。

 

「――硬いねぇ!」

 

 萃香は笑っていた。

 ドボルベルクが低く唸った。

 

〈グルルルル……〉

 

 ドボルベルクは前脚を広げ、後ろ脚を踏み締めた。体を大きく捻る。尻尾の槌が、地面から浮き上がった。

 

「――回るよ!」

 

 萃香が叫ぶ。

 椛は盾を構えたまま、後ろへ下がった。ハツシモが椛の脇を走り抜け、倒木の陰へ飛び込む。

 

 ドボルベルクが回り始める。

 尻尾の槌が、横薙ぎに空を切る。ブォン、と風が唸り、周りの若木が根元から薙ぎ倒された。一回転。二回転。巨体が軸足一本で回り続け、槌の描く輪が、少しずつ外へ広がっていく。

 椛は地面に伏せ、頭上を通り過ぎる槌の風圧に耐えた。髪が逆立ち、耳が千切れそうなほど引っ張られる。三回転。四回転。

 萃香は、回る巨体を見ていた。

 

――軸は左の後ろ脚か。

 

 回るたびに、左の後ろ脚だけが、同じ場所で地面を抉っている。右の後ろ脚は、地面に付くたびに浅く滑り、すぐに浮く。古傷の脚では、あの重さは支えられないのだ。

 

「白狼の!軸は左の後ろだ!」

 

 四回転目が終わる。ドボルベルクの体が、回る勢いを殺さないまま――フワリと浮いた。

 

――跳んだ。

 

 あの巨体が、回った勢いのまま宙へ跳び上がった。巨体の影が、椛の頭上に覆い被さる。

 椛は咄嗟に横へ転がった。合わせてハツシモが椛の襟首を咥え、引き摺るように倒木の陰へ連れ込む。

――ズゥンッ!と、ドボルベルクの巨体が、椛の居た所に落ちてきた。地面が波打ち、倒木が跳ね上がる。舞い上がった土と苔が、雨のように降り注いだ。

 

「――っ、椛!」

「大丈夫です!でもハツシモが!」

 

 倒木の陰から、椛の声が返る。ハツシモが、尾を一度だけ振った。

 萃香は、落ちてきた巨体へ走り込んでいた。

 着地したばかりのドボルベルクは、まだ体勢を立て直していない。萃香はその左の後ろ脚の前に滑り込み、ハンマーを振りかぶった。

 

 だが――間に合わなかった。

 ドボルベルクが、尻尾を振った。回転ではない。一度きりの、鋭い横薙ぎ。萃香はハンマーの柄で受け、そのまま弾き飛ばされた。小さな体が宙を舞い、川べりの浅瀬へ落ちる。バシャン、と水柱が上がった。

 

「伊吹様!」

 

 にとりが叫ぶ。

 浅瀬で、萃香が身を起こした。ずぶ濡れの髪を払い、ペッと水を吐く。脇腹を押さえる手の下で、上衣に血が滲んでいた。

 

「……効くねぇ。鬼の身体に血を滲ませるたぁ、ね」

 

 萃香は、腰の袋から小さな瓶を出した。萃香は[回復薬]の瓶を眺め、少しだけ顔をしかめてから、一気に飲み干した。

 

「酒の方が、よっぽど効くんだけどね」

 

 そう言いながら、萃香は空き瓶を袋に戻した。不満を零したが、瓢箪には手を掛けなかった。

 ドボルベルクの背中で、瘤が大きく膨らんだ。

 瘤の付け根から、白い湯気がシュウシュウと立ち昇る。湯気は見る間に濃くなり、苔むした背中を覆っていった。口の端からも、熱い息が白く漏れる。背中の瘤に溜めた脂を、体の中で燃やし始めたのだ。――怒り状態だ。

 

「瘤から湯気が出てる……!」

 

 にとりが、銃身に次の弾を込めながら叫ぶ。

 

「脂が燃えてる間は、休まない!」

「そりゃいい。こっちも、まだ休む気はないからね」

 

 萃香は浅瀬から上がり、ハンマーを担ぎ直した。

 怒ったドボルベルクは、それまでとは別の生き物のようだった。

 尻尾の槌を高々と振り上げ、地面に叩きつける。ドォン――!と地面が揺れ、椛の足が一瞬もつれた。続けてもう一度。二度目の叩きつけの揺れが収まる前に、ドボルベルクは体を反転させ、角を下げて突っ込んでくる。

 椛は盾で受けた。

 衝撃が腕を伝い、肩まで痺れる。足が地面を滑り、踵が土を削った。だが、倒れない。盾の縁から、ドボルベルクの小さな目が見えた。

 椛は腰の袋から[閃光玉]を抜き、ドボルベルクの鼻先に放った。

 カッ――と白い光が弾ける。

 

〈グオォォ……ッ!?〉

 

 ドボルベルクの頭が、大きく仰け反った。目を眩ませ、闇雲に角を振り回す。その場で足踏みをし、尻尾をデタラメに振る。

 

「今だよ、にとり!」

 

 萃香の声に応えるように、ズドン――と発砲音が二度続いた。[徹甲榴弾]が、ドボルベルクの額と角の付け根に立て続けに突き刺さる。ボンッ、ボンッと爆ぜ、ドボルベルクの頭が左右に揺れた。

 萃香が、その頭へ跳んだ。

 溜めた力を、萃香はさらに一点へ萃めていく。自分の重さを、槌の先へ。鉄の槌の頭が、ほんのりと赤みを帯びる。萃香はそれを――欠けた左の角の付け根へ振り下ろした。

 バキィン!と、乾いた音が森に響いた。

 

〈グオオォォッ!?〉

 

 左の角が、根元近くから折れて飛んだ。ドボルベルクの巨体がぐらりと傾き、膝を折る。目を回したのだ。

 

――今だ。

 

 萃香は着地と同時に、もう一度ハンマーを振り上げた。狙いは、苔むした背中の瘤。だが、瘤は高い。萃香の背丈では届かない。

 萃香は、倒れ込んだドボルベルクの肩を蹴って駆け上がった。苔に足を取られかけながら、背中の上に立つ。湯気が足元から立ち昇り、熱い。

 

「――熱いのは、お互い様さ!」

 

 萃香は、右の瘤に槌を叩きつけた。

 ブシュッ――!と瘤の表面が裂け、熱い脂が噴き出した。辺りに、焦げた脂の匂いが広がる。

 

〈グオオォォォォォォ!?〉

 

 ドボルベルクが悲鳴のような声を上げ、体を大きく揺すった。萃香は背中から振り落とされ、地面を転がって受け身を取る。

 目を回していたドボルベルクが、ふらつきながら立ち上がった。

 裂けた瘤から、脂と湯気が流れ出している。尻尾の槌の甲殻にも、いつの間にか大きなひびが入っていた。にとりの弾と萃香の槌が、少しずつ削っていたのだ。

 ドボルベルクは萃香ではなく、沢の方角を見た。そして――ゆっくりと歩き始めた。

 

「――逃げる!」

 

 にとりが叫んだ。

 

「いや、違うね」

 

 萃香が、立ち上がりながら言った。

 

「腹が減ったんだよ。暴れて、脂を燃やしすぎた」

 

 ドボルベルクは、右の後ろ脚を引き摺りながら、森を抜けて沢へ向かっていく。三人と一頭は、その後を追った。

 


~妖怪の山 玄武の沢 堰の跡~

 

――ドボルベルクは、堰の跡の河原で足を止めた。

 堰が壊れて水位が下がり、川の真ん中に、白い砂利の背が覗いている。ドボルベルクは浅瀬へ踏み込み、その砂利に顔を寄せた。

 ジャリ……ジャリ……と、砂利を噛む音がする。

 ドボルベルクは、砂利を口いっぱいに含み、ゆっくりと飲み込んだ。それから、また顔を寄せる。何度も、何度も。

 にとりは、少し離れた岸辺で銃を下ろした。

 

「……食べてる」

「食べてるねぇ」

 

 萃香が、にとりの隣に立った。脇腹の傷を押さえていた手を離し、ハンマーを握り直す。

 

「あいつにとっちゃ、ここが一番の食卓だったんだ。――最期の飯くらい、食わせてやろうじゃないか」

 

 萃香は、ドボルベルクが砂利を飲み込むのを、黙って待った。

 やがて、ドボルベルクが顔を上げた。

 浅瀬の中で、ゆっくりとこちらを振り返る。小さな目が萃香を見た。裂けた瘤から立ち昇る湯気が、また濃くなる。

 ドボルベルクは前脚を広げ、後ろ脚を踏み締めた。

 尻尾の槌が、水面から浮き上がる。

 

――回る。

 

「――にとり、あんたの試作品とやらの出番だよ」

「……分かってます!」

 

 にとりは銃床の脇の機械に手を伸ばし、発条の留め金を外した。銃口の下に、太い鉤爪の付いた錨がガチャリとせり出す。錨の尻には、鋼の鎖が繋がっていた。

 ドボルベルクが回り始めた。

 にとりは引き金を引いた。バシュン――!と錨が飛び、回る尻尾の付け根に鉤爪が食い込む。鎖が伸び切り、にとりの銃ごと、にとりの体を引っ張った。

 

「う、わ、わわわっ……!」

 

 にとりの足が地面から浮く。鎖が軋み、銃床の機械が悲鳴を上げた。

 だが――ドボルベルクの回転が、一瞬だけ鈍った。

 錨の重さと、にとりの重さと、鎖の張り。それが、回る巨体の勢いを、ほんのわずかに削いだ。軸足に乗る重さが、その分だけ傾く。

 左の後ろ脚が、浅瀬の砂利の上で滑った。

 

――そこだ。

 

 萃香は走り出していた。

 回る尻尾の内側へ、潜り込む。頭上を、ひびの入った槌が掠めていく。萃香はハンマーを腰に構え、溜める。溜めながら、走る。走りながら、萃める。

 自分の重さを、自分の力を、自分の全部を、槌の頭の一点へ。

 鉄の槌が赤く灼けていく。

 萃香は、回る巨体の軸足――左の後ろ脚の膝へ、溜めに溜めた一撃を叩き込んだ。

 

――ドガァンッ!

〈ヴォオオォォォォッ!?〉

 

 軸足が折れるように崩れた。

 回っていた勢いのまま、ドボルベルクの巨体が横倒しに傾く。尻尾の槌が浅瀬の砂利を抉り、水柱が上がった。鎖がブチリと切れ、にとりが岸辺へ尻餅をつく。

 ドボルベルクは浅瀬に横たわった。

 萃香は水の中を歩き、倒れた背中へ上った。裂けた右の瘤の隣、まだ膨らんだままの左の瘤の前に立つ。

 ドボルベルクの目が、萃香を見ていた。

 

「――いい回りっぷりだったよ」

 

 萃香は、ハンマーを振り上げた。

 振り下ろした槌は、左の瘤を深く割った。

 湯気が、一度だけ大きく噴き上がった。それから、少しずつ細くなっていった。ドボルベルクの大きな体から、力が抜けていく。苔むした背中が、浅瀬の中で静かに沈み込んだ。

 沢の水音だけが、残った。

 

――尾槌竜は、自分の食卓の上で、最後の砂利を僅かに噛んで眠った。

 


~妖怪の山 玄武の沢 堰の跡~

 

――剥ぎ取りの前に、萃香は瓢箪の栓を抜いた。

 

 ドボルベルクの頭の前に立ち、酒を一口、浅瀬の砂利に注ぐ。それから自分も一口あおり、瓢箪を椛とにとりに差し出した。

 

「鬼流の弔いさ。飲めない奴は、口を湿らすだけでいい」

 

 椛は少し迷い、瓢箪の口に唇を付けた。にとりは、大きく一口飲んでむせた。

 萃香はドボルベルクの尻尾の槌に手を当てた。ひびの入った甲殻の下に、骨と甲殻が固まった芯がある。萃香はその塊を、尻尾の付け根から外した。

 

「これを、槌の頭にする」

「……苔、付いたままですよ」

「付いたままでいい。削るんじゃないよ、にとり」

 

 萃香は、苔の上の小さなキノコを指で弾いた。

 

「――こいつが、この沢で生きてた証拠だからね」

 

 甲殻の幾枚かは、萃香の防具に回すことになった。残りの甲殻と骨は、にとりの工房が引き取り、堰の組み直しに使う。苔を生やして水辺に暮らしていた甲殻は、水に浸けても傷みにくい。

 そして、瘤の脂。

 割れた瘤から取り出した脂は、白く、固く、甘い匂いがした。萃香はそれを両手に抱え、ニッと笑った。

 

「今夜は宴会だよ。河童も天狗も、皆呼んできな」

 

――その夜、玄武の沢の河原には、山中の者が萃まった。瘤の脂を炙ると、ジュウと音を立てて溶け、香ばしい匂いが沢中に広がった。河童たちは堰の図面を広げて頭を寄せ合い、天狗たちは酒を回し、椛はハツシモと並んで、焚き火の端で脂の乗った肉を齧った。

 にとりは、図面の一角に新しい線を引いていた。

 堰の位置を、少しだけ上流へ。水位を、少しだけ下げて。

 ――砂利の河原が、水の上に残るように。

 

「……もう、あいつは来ないのに」

 

 にとりが呟く。萃香は、にとりの杯に酒を注いだ。

 

「来ないから、残すのさ」

 


~妖怪の山 玄武の沢~

 

――堰の上に、朝の日が差し込んでいた。

 霧はすっかり晴れ、堰の下流の砂利の河原が、白く光っている。

 萃香は、樽の酒を瓢箪に移し終えたところだった。にとりは、萃香のハンマーの柄の金具を覗き込み、また顔をしかめている。ネジが樽の空いた所に潜り込み、残り香を嗅いでいた。

 

「やっぱり錆びてるじゃないですか。伊吹様、今度こそ苔を――」

「駄目だね」

「金具だけでも」

「それならいいよ」

 

 萃香は頷いてハンマーをにとりに放った。にとりは慌てて受け止め、その重さによろめく。

 

「……この槌、名前は誰が付けたんでしたっけ」

 

 椛が訊いた。萃香は瓢箪をあおってから口を開く。

 

「私さ。――『伊吹颪』。昔懐かし、伊吹の山から吹き下ろす風だよ」

「風、ですか」

「萃める鬼の得物に、散らす風の名前を付けたのさ」

 

 萃香はケラケラと笑い、堰の上に寝転んだ。

 

「あいつは、あの日、この沢で一番重かった。重いものは、萃まる。そして萃まったものは、いつか散る。――それでいいんだよ」

 

 椛は、何も言わなかった。

 ハツシモが、椛の膝に顎を乗せる。下流の河原では、一羽の白い鳥が砂利の上に降り立ち、首を傾げていた。

 山から、朝の風が吹き下ろしてくる。

 

 堰の上で、苔むした槌の頭が、その風に小さく揺れた。

 

*1:
モンスターに刺さってから、少し遅れて爆ぜる重い弾。頭に当てると、大型モンスターの目を回させることがある。




『河城にとり』
所属:守矢ギルド
役職:《妖怪山狩猟技術連》主任技師。河童の代表格
武器:試製重弩『玄武工廠式・河童筒』(ヘビィボウガン)
オトモ:『ネジ』(アイルー)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。